おはよう~眠り姫との約束~
水瀬陽は自身が教授をしている静光医科大学の研究室でお昼のチャイムを聞いた。
「……昼休憩をとるか」
独り言を呟きながら、鞄からお弁当を取り出していると、研究室のドアがノックされた。
「どうぞ」
ドアから入ってきたのは、研究室の学生である高橋俊介、松尾達也、内田真紀の三人だった。駿介が笑顔でコンビニ袋を掲げた。
「教授、一緒に飯食いましょう」
陽はそれに苦笑する。
「またか。ここは食堂じゃないぞ」
真紀は長い黒髪を揺らしながら笑みを向けた。
「食堂は混んでいるし、研究室は静かだから落ち着くんですよ」
三人は研究室の机にそれぞれ買ってきた食事を並べはじめた。
陽は短い黒髪を掻きながら、それでも一緒の机についてお弁当を広げた。達也がそれを見て冷やかした。
「教授はいつも手作り弁当ですよね。奥さんの愛妻弁当ですか?」
「いいや。俺が作った」
達也は陽の結婚指輪に目を向ける。
「結婚していましたよね? 奥さんは作ってくれないんですか?」
それを聞いた真紀は、呆れた顔をした。
「たっちゃん、デリカシーないよ」
「え、ごめんなさい……」
陽はしゅんとしている達也に笑いかけた。
「気にしてないよ。大丈夫」
真紀は机に肘を置き、身を乗り出した。
「教授と奥さんのなれそめ、聞いてみたいな」
陽はそれに少し戸惑ったような表情をした。
「恥ずかしいな」
駿介も真紀の提案に乗り気でうなずいた。
「オレも聞いてみたいっす。思う存分、のろけてください」
陽は頭を掻いて、苦笑を浮かべる。
「少し長いかも……」
それに達也が後押しするかのように言った。
「大丈夫です。オレたち、次の時間は空き時間ですから」
観念した陽は椅子を回転させて、窓から外を見た。
「彼女と出会った日もこんないい天気の日だったな……」
そう切り出した。
水瀬陽、静光医科大学三年生の春――。
授業終了のチャイムが鳴り、友達の佐藤実と昼食を取りにいこうとしたときだった。スマートフォンが鳴り、隣にいる実に視線を向けた。
「悪い、電話だ」
着信を見ると、画面には『木下教授』と表示されていた。木下秀紀は陽の所属する研究室の担当教授である。嫌な予感がしながら、陽は電話に出た。
「はい。水瀬です」
「あ、水瀬君? 悪いんだけど、病院棟のわたしの部屋まで来てくれる?」
「わかりました。すぐに伺います」
陽は了承して電話を切って、実を見ると、状況を察したのか苦笑いしている。
「ごめん、実。俺、一緒に昼飯いけないや」
「木下教授の用事じゃ、しょうがねぇな。毎度大変だね。気に入られちゃって」
陽は鞄を肩にかけながら、苦笑いする。
「雑用係だよ。――じゃ、また明日」
陽は手を振り、実と別れた。大学を出て、隣接する病院棟へと向かう。一番近い東口から入った。慣れた道で、病室棟の脇をいく。
すると、目の前に白いハンカチがひらひらと風に揺られながら落ちてきた。陽はそれを拾い、上を見上げた。そこには二階の窓から顔を出していた十五、六歳くらいの女の子がいた。長い髪は春の風になびいている。
陽はハンカチを掲げながら尋ねた。
「これ、君の?」
女の子がうなずいたのを見て、陽はさらに尋ねる。
「用事を済ませたら届けにいくよ。何号室?」
「東棟の二〇三号室」
陽は笑みを浮かべて、ハンカチを持った手を振った。
秀紀の診察室のドアをノックすると、返事が聞こえたのでドアを開けた。
「失礼します。水瀬です」
秀紀は椅子ごとこちらを向いた。
「水瀬君、悪いね。昼時に呼び出して」
陽は首を横に振りながら、秀紀の前に立った。秀紀は机の上に置いてあったクリアファイルを陽に渡す。
「今日、研究室に行くのが少し遅れそうだから、先にはじめていて。それと、これ配っておいて」
陽は「はい」と短く返事をして、受け取ったクリアファイルをかばんにしまった。そのとき、ハンカチが目に入り、陽は尋ねた。
「教授は東棟の二〇三号室の女の子をご存じですか?」
秀紀は少し考えてから言った。
「ああ、茜ちゃんか。どうかしたのかい?」
「実は彼女が病室からハンカチを落としてしまったようで、これから届けにいくところなんです。失礼がないようにしたいのですが……」
「そうか。時間があるなら、少し話し相手になってあげてよ。彼女、病院生活が長いんだ」
陽は少し聞きづらそうに尋ねた。
「どのような病気なのでしょうか? 配慮事項などあれば……」
秀紀は首の後ろを掻きながら言った。
「本当は個人情報だから言っちゃいけないんだろうけど、彼女の場合は特殊だからね。――シェナ病、聞いたことある?」
陽は首を横に傾げた。医大生である陽でも聞いたことはない。
「原因不明の病気で、突然長い眠りについてしまうんだ。彼女は今まで最長で一年間、眠り続けたことがある。過去五十件ほどしか報告のない希少病だよ」
「そんな病気があるんですね……」
「そのハンカチを届けている間に彼女が眠ったら、ナースコール押してね。睡眠時間を測っているから」
「わかりました」
そう言って、陽は診察室を出た。
それから、約束通り、東棟の二〇三号室にきた陽はドアの前で深呼吸してからノックした。返事が聞こえ、横開きの扉を開ける。ひとり部屋だった。茜はベッドに座り、こちらを見ていた。
「ありがとう。来てくれて」
そう言って、にっこりと笑った。
陽は茜にハンカチを渡すと、茜はサイドテーブルの上に置いた。
「よかったらお礼にプリンを食べていきませんか? たしか冷蔵庫に二個入っていたはず……」
ベッドから降りようとする茜を手で制止した。
「じゃあ、お言葉に甘えて。冷蔵庫、開けていい?」
茜がうなずくのを見てから冷蔵庫を開けた。そこにはお茶や食べかけのチョコレートのお菓子など入っていて、長い入院生活が見て取れた。陽はプリンを二つ手に取った。
「冷蔵庫の上にスプーンがあるの」
陽は冷蔵庫の上にコップに立てかけられたスプーンを見つけ、一緒に持ってベッドに備え付けられているテーブルに持っていく。陽は簡易椅子に座った。二人はプリンを食べはじめ、茜は陽に尋ねた。
「お兄さんは、静光医大の学生さん?」
「あ、ごめん。名乗ってなかったね。俺、静光医大の三年、水瀬陽」
「私は堀江茜。大学三年生ってことは、二十一歳?」
茜は指折り数えながらそう尋ねた。陽はうなずく。
「じゃあ、私より二つ年上だ」
陽は驚いた顔で茜を見た。茜は小柄で細いせいか年齢より幼く見えた。その様子に茜は笑った。両手を広げてみせた。
「何歳くらいだと思っていた?」
「十五、六くらいかと……」
茜はわずかに頬を膨らませた。
「中学を卒業したくらいじゃない。そんなに幼いかな……」
「可愛らしいってことだよ」
陽の必死のフォローに茜は微笑んだ。
「いいよ。そういうことにしておく」
陽はほっとして、プリンを一口食べた。
「茜ちゃんはいつから入院しているの?」
「八歳で発症して、病院を転々としていたの。ここに来たのは十歳くらい」
――十年くらい入院生活を送っているのか。
陽はそう考えて、うなずいた。
「私、病気で突然眠ってしまうことがあるけど、気にしないでね。今は眠気ないし、陽君がいる間は寝ちゃわないと思う」
そう言って、茜は笑顔を見せた。その姿は普通の女の子と変わらない。
食べ終えた陽は、茜の分も片して、挨拶をして部屋を出ようとしたときだった。茜が寂しげな表情で陽に言った。
「よかったらまた来てくれる……?」
茜との時間が心地よかった陽はうなずいた。
「うん。またね、茜ちゃん」
陽は手を振って、病室を出た。
それから、陽は時間を見つけては、茜のもとに通うようになった。
病室で陽と茜が話していると、ノックの音がして茜の母親である堀江裕子が顔を覗かせた。ショートヘアで、目元は茜にそっくりだった。
「あら、陽君。また来てくれていたのね」
陽は立ち上がり、裕子に会釈した。
「お邪魔しています」
裕子は持ってきた荷物を棚にしまいながら、陽に言った。
「いつもありがとうね。陽君が来た日は、茜、上機嫌なんだから」
茜は顔を赤く染め、恨めしそうに裕子を見た。
「お母さん、変なこと言うのはやめてよ」
裕子はくすくすと笑った。陽もどこか嬉しそうな笑みを浮かべている。
「じゃあ、俺はそろそろ……」
茜が陽の袖をつかんだ。
「え、もう行っちゃうの? 来たばかりじゃない」
「でも……」
――家族水らずの時間を邪魔しちゃ悪いよな。
陽がそう思いながら裕子を見ると、裕子は笑みを返してきた。
「遠慮しないでちょうだい。陽君はこのあと学校に戻るの?」
「いいえ。今日は終わったので帰ります」
「じゃあ、よかったらこれ食べてかない?」
裕子が袋から出したのは、ケーキの箱だった。
茜は嬉しそうに両手を合わせた。
「やった! ケーキだ」
陽はさすがに遠慮しようとしたが、茜が陽に言った。
「陽君も一緒に食べようよ」
「でも、お母さんの分は?」
裕子は棚からお皿を取り出しながら言った。
「帰りにパパの分も買って帰るつもりだったから気にしないで」
そう言って、裕子はショートケーキをテーブルに並べた。
茜は手を合わせて、
「いただきます」
と、言って食べはじめた。幸せそうな顔をしている。
「ケーキは久しぶりだから嬉しい」
陽もケーキを口に入れて、味わって食べる。
「俺もケーキは久しぶり。さすがに一人暮らしでは買わないな」
茜が陽を見た。
「陽君は一人暮らしなんだ」
陽はうなずいた。裕子が尋ねる。
「出身はどこ?」
「広島です」
茜が羨ましそうに言った。
「一人暮らしかぁ。憧れるなぁ」
陽がそれに笑った。
「そんなにいいものじゃないよ」
「寂しくなることない?」
「あるよ。そういうときは、友達を誘って飲みにいく」
「いいなぁ。私も子供の頃は寂しくて、よく泣いて看護師さんを困らせたな。あ、今はさすがに泣かないよ」
陽は幼いころの茜の様子を思い浮かべて微笑んだ。
それから、三人はしばらく談笑していた。
別の日は天気が良かったので、車いすに乗せた茜を連れて、病院の中庭を散歩した。茜は気持ちよさそうに目を細めた。
「ちょっと暑くなってきたね。これから梅雨だっていうのに」
陽は車いすを押しながら同意した。
茜の車いすをベンチの隣に止め、陽はベンチに座った。
「茜ちゃん、前に大学にいってみたいって言っていたでしょう?」
茜は突然振られた話に不思議そうにうなずいた。
「木下教授から大学に掛け合ってもらって、明後日、一日だけ大学生になれます」
それを聞いた茜は満面の笑みを浮かべた。
「え~! 本当に? 嬉しい!」
その姿を陽も嬉しそうに眺めていた。
当日の朝。
いつもより早く家を出た陽は、茜の病室に向かった。
ナースステーションの前を通ったときだった。看護師の山内美穂が陽に声をかけた。
「陽君、残念だけど茜ちゃん、今朝から起きないの」
それを聞いた陽は、少し残念そうにしたが、一番残念なのは茜だろうと思い直して、美穂に言った。
「……じゃあ、顔だけ見て、学校にいきます」
陽は茜の病室のドアを開けた。いつもなら嬉しそうな笑顔で出迎えてくれる茜はいない。ベッドで瞳を閉じて、すやすやと眠っている茜の顔を、陽は覗いた。
「大学はまた今度ね。おやすみ、茜ちゃん」
そう言って、陽は病室を出ていった。
それからも陽は茜の病室をたびたび訪れては、眠る茜の隣で一方的に話しかけ続けた。
大学の図書館でシェナ病についても調べていた。文献は少なく、研究が進んでいないのは明らかだった。
季節は過ぎ、茜が眠りはじめた五月から半年が経過した。
いつものように眠っている茜に会いに来た陽は、ノックもせずに病室のドアを開けた。そこには少し驚いた顔をした茜がいたが、すぐに笑顔を陽に向けた。
「おはよう、陽君」
「お……はよう。ごめん。起きていること知らなかった」
陽はドアを閉めながら言った。それに茜は首を横に振った。
「お母さんや美穂さんから陽君がお見舞いに来てくれていたこと聞いたよ。あーあ、起きたら秋なんだもん。大学にいけると思って楽しみにしていたのに……」
陽はいつもの茜にほっとしながら簡易椅子に座る。
「また木下教授に頼んでもらおう。体調はどう?」
「たくさん寝たから、元気、元気」
茜は笑顔で両手を上げ下げした。その様子に、陽は提案する。
「外の空気を吸いにいく?」
茜はうなずき、ベッドから降りようとするとふらついた。陽は慌ててそれを支える。
「大丈夫?」
「うん。ずっと寝ていたから筋力が落ちちゃって……」
陽は茜を支えながら車いすに乗せ、壁にかかっていたコートを着せた。そこへドアをノックする音がして、美穂が入ってきた。
「ああ、陽君。ちょうどよかった。茜ちゃんの散歩に付き合ってあげてって言いに来たの。木下先生のご指名よ」
陽は茜の車いすを押しながら苦笑した。
「教授は人使い荒いな。まぁ、そのつもりだったからいいけど」
それを茜と美穂は笑った。
病院の中庭の木々が色づき、秋めいている。時折、落ち葉が風に揺られて飛んでいた。それを見つめながら、茜はぽつりと言った。
「今回は半年か。短く済んだな」
――以前、一年間寝ていたことがあると、教授は言っていたっけ。
陽がそんなことを考えていると、茜はまた呟いた。
「私だけ、置いていかれているみたい……」
陽は慰める言葉が見つからなくて、茜の頭を撫でた。すると、茜は陽を見上げた。その笑顔はどこか寂しげで陽は抱きしめたい衝動にかられたが、それはできなかった。
陽が茜の病室を開けると、いつものパジャマ姿ではなく、茶色のニットに白黒のチェックのスカート姿の茜がベッドに座って待っていた。陽はいつもと雰囲気の違う茜に思わず言った。
「今日の茜ちゃんは、お姉さんっぽいね」
茜はふふんと笑った。
「そうだよ。大学生だからね」
今日は念願だった一日大学生の日だった。
車いすに乗った茜を連れてナースステーションの前を通ると、美穂が手を振った。
「いってらっしゃい、茜ちゃん」
「いってきまーす!」
二人は病院を出て、大学へと向かう。授業が間もなくはじまるので、多くの学生が大学に向かっていた。その中に二人も紛れ込んだ。
教室につくと、最前列の端の席に座る実が陽に手を振った。
「ここ、とっといたぞ」
「ありがとう、実」
窓際に茜の車いすを止めて、陽はその隣に座った。瞳を輝かせて教室を眺めている茜に陽は連れてきて正解だったと思った。
実は陽の隣の席から茜に声をかけた。
「オレ、実。よろしく、茜ちゃん」
茜は少し照れたようにはにかみながらうなずいた。
「くぅ、はかなげでうちの女子とは大違い」
「一言多いんだよ、実は」
陽の後ろの席に荷物を置きながらそう言ったのは、新井沙織だった。肩くらいまでの長さの髪を綺麗に整えた、陽の同級生だ。
「茜ちゃん、あたし、沙織。男どもに言えないことがあったら、遠慮なくあたしに言いなね」
沙織が気を利かせて後ろに座ってくれたことを察した陽は、
「沙織、助かるよ」
と言うと、沙織は軽く手を上げて答えた。
チャイムが鳴ると、秀紀が教室に入ってきた。茜に気がつくと、笑みを向けてから教壇についた。
午前の授業が終わり、茜が病室に帰る時間がやってきた。
実と沙織に別れを告げて、茜は陽に車いすを押されながら満足そうに笑っている。
「楽しかった。授業は全くわからなかったけど。医大生ってやっぱり頭いいんだね」
陽は茜の顔を覗き込んだ。
「楽しかったならよかった」
「連れてきてくれてありがとう」
病室について茜はベッドに座った。
「私も病気じゃなかったら、大学生やっていたのかな……」
陽は茜のコートをハンガーにかけながらそのつぶやきを聞いた。
ぽつりぽつりと茜は言った。
「そろそろ長い眠りが来そうな気がするの。毎回、眠る前は不安になる。目が覚めて、お母さんもお父さんもいなくなっていたらどうしようって。十年、二十年経っていたらどうしようって」
茜の瞳から涙が流れ落ちた。最近の茜は情緒が不安定なところがあって陽は心配していた。今日の大学体験で気晴らしになればと思っていたが、逆に茜自身の生活とのギャップを浮き彫りにしてしまったのかもしれない。
陽は茜の隣に座り、茜の手を撫でた。
「大丈夫。俺がそばにいるよ」
茜は陽を見つめた。
「だめだよ。陽君の未来を縛りたくない」
陽は茜を安心させるように微笑んだ。
「縛るだなんて思わないで。俺が茜のそばにいたいんだよ」
茜は陽の胸に顔を埋めた。陽はそんな茜を抱きしめる。
「大丈夫。茜が目覚めたときに、ひとりにしないと誓うよ」
茜は涙を流しながら微笑んだ。
「ふふ。プロポーズみたい」
「……そのつもりだったんだけど」
茜は驚いたように目を見開いて、言葉にならない声を上げた。
「う、……え?」
陽は茜の涙を手で拭い、微笑んだ。
「結婚しよう。茜」
茜は陽に抱きつき、うなずいた。
それから数日後、茜の嫌な予感は当たり、長い、長い眠りについた。
陽は大学を卒業し、春から静光医科大学附属病院の研修医になることが決まっていた。
茜の眠る病室に春の風が吹き、陽の頬を撫でた。茜の左手を取り、薬指にシルバーの婚約指輪をそっとはめた。
話を聞き終えた達也がしんみりと言った。
「それで教授はシェナ病を研究しているんですね……」
「まぁね。きっかけは茜だけど、研究しているうちにのめり込んでしまった」
陽は自分のデスクに置かれた山積みの資料に目を向けた。
真紀は陽に尋ねた。
「じゃあ、教授は学生結婚だったんだ?」
陽はそれに首を横に振った。
「いや。結婚の約束はそうだけど、籍を入れたのは医者になって二年目のときだよ」
駿介は少し聞きづらそうに尋ねた。
「それで茜さんは目覚めたんですか?」
陽は微笑を浮かべて、
「それがね……」
そう言ったときだった。研究室のドアがノックされた。陽はドアに目を向け答えた。
「どうぞ」
ドアを開けたのは茜の母親である裕子で、その後ろに車いすに乗った茜がいた。
「診察が昼前に終わったから、陽君に会いに来ちゃった」
裕子が茜の車いすを押して室内に入ってくる。茜が学生に気がついて、
「あ、ごめんなさい。学生さんがいたのね」
と、申し訳なさそうにしたが、達也と駿介と真紀は嬉しそうな顔で茜を迎えた。達也が抱きつかんばかりに、茜に駆け寄る。
「茜さん、目覚めたんですね!」
茜が驚いた顔で陽を見たので、陽は笑いながら言った。
「卒業して数か月したころに目覚めたよ。それから定期的に眠りにはついているけど」
真紀が不思議そうにしている茜に言った。
「今、教授から茜さんとのなれそめを聞いていたんですよ」
それを聞いた茜は少し照れた顔をした。
「いやだ、陽君ったら。恥ずかしいじゃない」
駿介はそんな茜に言った。
「茜さんがハンカチを落としてなかったら、二人は出会ってなかったかもしれませんね」
茜は当時を思い出したように少し笑った。
「あれね、わざとなの」
陽がそれに驚いて、聞き返した。
「え? どういうこと?」
茜は陽の驚いた顔を見て、くすくすと笑った。
「たまに病室の下を通る陽君を見ていて、話してみたいと思ったの」
それに真紀は小さく叫び声を上げて、達也も駿介も笑みを浮かべて間抜けな顔で茜を見ている陽を見た。達也はにやにやとしながら言った。
「いいな~! オレも結婚したい!」
それを真紀は笑い、
「じゃあ、まずは彼女を見つけないとね」
と言うと、研究室は笑いであふれた。
春の暖かな木漏れ日が風に揺れる午後のことだった――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回作もどうぞよろしくお願いいたします。




