第一章【変わることのない】
【注意】これはフィクションです。また、この章では麻薬を取り扱います。苦手な方はすぐさまお戻りください。そして直接的でないにしても、デリケートなものを取り扱った話題が出てきます。
運命とは残酷なものだ。それを当然かのように受け入れ順応していく私たちもまた、残酷なものだ。
「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」
私はそれを受け入れることはできなかった。この世界ではみな、微細な善行でさえ行おうとしないのだから。
私は足元に転がる男を見下ろしていた。男は呻き声をあげ、既に動かなくなった足を動かそうと臀部に力をこめている。あたりは常に暗く人通りも少ない。夜となったため、周囲に立つビルの隙間風が肌を震わせた。
「………おい、いい加減吐いたらどうなんだ?」
男の顔を蹴り上げる。鼻の骨は折れているし、歯ももう何本か抜けて隙間ができている。意識は保っているようで、荒い呼吸をし、口元から涎を垂らしながら私を睨んでいた。
「い、言うわけねぇ……言ったら………」
男はそばにある短剣を拾おうと手を伸ばす。
「言ったら、どうなるんだ?」
それを見逃さず、男の手にナイフを突き立てる。男の手と共に地面に深く突き刺し、動きを封じる。男は叫び声をあげ、体を捩らす。暗い路地で誰も助けなど来るわけないのに、男は何かを願うかのように天を仰ぎ見ていた。
「………言う気は無いのか?」
男の脇腹を蹴り飛ばす。男の口からは空気が漏れ出、共に吐血する。男はもう息も絶え絶え、あと少し押せば死んでしまいそうだった。このまま男が死んでしまっては、情報を得られない。そのためここは脅すことにした。この男の大切な人を獲って。
「じゃあこうしよう。この写真の子供に見覚えはないか?」
懐から一枚の写真を取り出す。そこには縛られた未就学児ほどの少年が写っていた。男はそれを見るなり酷い慌てようで喚き出した。
「おい!おい!何をした!ふざけるなよ!殺してやる!殺してやる!」
ジタバタと暴れ出すその男の惨めな様は滑稽だった。たかが少年一人を人質とするだけでここまでの変わりぶりを見せるとは。哀れよな、予想通りこの男は要らぬものを抱えていたため、私に情報が渡ってしまうのだ。
「………どうだ?話す気になったろう。」
私が男に微笑みかけると、男は頭を地につけ涙を流し始めた。
「ああ、ああ!全部言ってやるよ!だからその子を逃がしてくれ!」
「そうだ、それで良い。さて………」
胸ポケットから手帳を取り出し、メモを読む。今回の目標はこの男からバックのスポンサーを聞き出すことだ。この男が持つ大企業は余程の影響力があるため、必ずスポンサーの手助けがある。それを聞き出せば、自ずとこの男の企業の契約内容もわかるだろう。そうすればその内容を売り、私たちは大金を入手できるのだ。
「お前の企業のスポンサーは何だ?」
「………………ロックニーユ。身体改造の技術を利用して金を稼いでいる……。俺たちの作る装飾品は、ロックニーユの能力を使わせてもらって、特別な効果を発揮している………。」
ロックニーユ。六つの中では最も力の弱いスポンサーだ。ならばそこまで価値もつかぬだろう。飛んだ無駄骨だったか、しかしスポンサー付きというだけで箔はつくか………。まあ、それは上が決めることだろう。私に関係ない。
「協力感謝する。約束通り、解放してやろう。」
男の手からナイフを抜く。男は地面にぐったりと倒れたまま、荒い息をして私を睨んでいる。
「おい、俺の息子は、っ無事なんだよな!?早く合わせてくれ!」
「………そう焦るな。直に再開するだろうさ。」
そう言い残し、男の倒れている路地から離れる。元より、あの男を生かすつもりもない。顔が割れてしまっては色々支障をきたす。情報など極力少ない方が良い。
背後から男の叫び声が聞こえる。恐らくだが、ここ一体を牛耳る裏稼業の奴らの餌食にでもなったのだろう。あそこまでボロボロになった体じゃあそこまで欲しがる奴はいないだろうが、奴らのようなウジは少額でもアリのようにたかる。まあ、御愁傷様、と言ったところだろう。
「………さて、私も早く帰らねば。奴等に巻き込まれるのは勘弁だ。」
ワイヤーを使いビルの屋上へ上がる。今日も排ガスやワタクズで夜空は灰色に濁っている。こんな景色では夜景を見るなんて発想出てきもしないだろう。
「………金持ちの道楽など理解できなくて当然、だろうか………。」
今日の都心は嫌に寒い。何か悪いことでも起きるのだろうか、それともただ単に私が寒がりになっただけなのか………。ともかく今日は早く帰り寝床に着こう。明日のことは明日考えれば良い。
依頼。高い位の人物から来るものほどよい報酬が与えられる。それはごく当然なもの。種類は多岐に渡り、猫探しに暗殺、演劇の手伝い、正面戦争のコマ、情欲の吐け口など実に様々な依頼内容がある。基本的に依頼はこちら側、受ける方が承諾するかを決めるが大企業からの依頼ともあれば話は別だ。何が何でもこなさなければいけない。失敗は許されない。
私は昨日の依頼報酬を確認していた。私も周囲と同じく組織に所属しているため、報酬は上に渡され私たちには給与として一部が与えられるのが一般的だが、今回ばかしは私の単独任務だったため半々の分け前だった。なかなかに重みのあるケースを目の前に、口角が上がる。
事務所内の空気は特段悪くなく、上下関係がしっかりとしている。それぞれが得意な分野を活かすため、この組織では各課を設けていた。私は正面戦闘を得意とする二課に所属しており、依頼の成功率の高さ、顧客の満足度からそれなりにいい待遇を受けている。
今日はまた依頼の整理を行う。先ほど淹れたコーヒーを片手に固めのチェアに腰掛ける。目の前に積まれた書類の山には気が滅入る。私の得意分野は正面戦闘だというのに、何故こんなデスクワークもしなければいけないのだろうか。不承々々ながらも一枚一枚依頼内容に目を通す。きっと企業の庇護下の下請けならば良いデジタルも使えるのだろうが、あいにくこの組織は大多数の企業と敵対関係にある。あまり表には出さないが、どの企業もこの組織に依頼することはない。だからこそのこの書類の山なのだ。庶民からの書類は個々人の意思が強く出る。似通った思想を持つ者たちがグループを作らず各々で依頼するため、この書類の中には似た依頼内容のものが大多数だ。
「面倒だ………ベルナール部長、この書類の山をどうにかまとめておいてくれませんか?」
二課の事務所の最奥でどっしりと構えていた人物の視線がこちらを向く。
「いや、すまないけど私としても疲れてるんだ、連日の依頼解決でね。それこそ経済特区の成金からの依頼が私宛にじゃんじゃん届いたんだ。仕方無いだろう?」
ベルナール部長。長い黒髪を後ろに流し、赤い目が特徴的。身長は一七二センチ、体重は六〇キロ。厳しいことで有名だが、実際に会ってみて下につくと、何よりも人命を優先するという考え方に驚かされる。使命感や責任感が非常に強い。子供の頃背中に大きな傷を負っている。また、新人の時から最前線での特攻をしているため全身生傷だらけ。跳躍力、瞬発力、反応速度、判断力、どれをとっても最高クラス。入れ替わりの激しい二課で長年勤めている、かつ部長ともなればその実力は語らずとも分かるだろう。
「………仕方ありませんね。ですが夕食奢ってください。」
「それはどういう意味だねリシャール?」
「………チェッ………」
私の名前はリシャール。二課に勤めて早三年。頭頂部が青、下に行くにつれて緑となるグラデーションの髪色。はねた前髪とロングヘアのフレンチブレイド。目は混じり気のない黒色。身長一六一センチ、体重四七キロ。仕事と私情は区別する。とにかく仕事を完遂させること、失態は犯さないことを大切にしてきた。とにかくスピードだけが取り柄。二課で最も速いのは私だろう。部長も私の後を息を切らさずに走ってこれるぐらいにはおかしいが。
書類に目を戻す。一枚一枚内容と報酬を確認し、良さげなものは部長に流す。そして部長が二課に命令を出す、もしくは承認すれば仕事が始まる。依頼主のもとに行き、さらに詳しい依頼内容を確認する。そして依頼主が報酬を支払えるほどの所得があることを確認すれば、依頼を遂行するため動き出す。そうも無闇矢鱈に依頼を受けるわけではない。一つ一つの依頼が私たちの未来を左右するのだ。だからこそ、慎重に依頼を選ばなければいけない。気になるものがあっても独断で処理するのはタブーだ。依頼主は二課に依頼しているのであり、二課の職員個人に依頼しているわけではないからだ。
「………部長、この依頼怪しくないですか?」
数ある積み重なった書類の山から、ある依頼を取り出す。内容は「夜の相手」。こんなもの、すぐさま切り捨ててしまってもよい。戦闘を主目的とする二課にこんな依頼など、相応しくないからだ。だがしかし、この依頼人の名前には見覚えがあった。
「ふむ………ドンペルト………。昔倒産させた企業の社長ではなかったかな?何故そのような人物が倒産させた主原因の二課にこのような依頼をしたのだ?」
ドンペルト・ガウダー。5年ほど前ルーニーソの能力を使用し麻薬を大量生産、それをばら撒き多額の利益を得ていた大企業の社長。当時の二課で麻薬の製造の核となるルーニーソの体液をすべて燃やし、製造ラインを爆破して跡形もなくしたと言われているその倒産した大企業の社長が、恨みを持つであろう二課の職員とまぐわいたいなど、何か怪しい。
「………必ず何か企てているな。よし、この依頼を受けよう。そして………。」
ベルナール部長の赤い目がギョロリとこちらを向く。
「リシャール。先ほど目上の人物に対して無礼な口を聞いた罰だ。行ってこい。」
私がドンペルトの相手をすることに決められた。確かドンペルト・ガウダーは白髪でベリーショート、麻薬で痩せ細った骨の浮き出るような四肢、不健康な肉体をしていた筈だ。ならば依頼通り相手をしてやるつもりはない。情報収集に長けた三課にすぐさま裏を暴いてもらい、そしてそのままそれを理由にして首を折ってしまえばいい。
「………なんだかんだすぐ終わりそうだな。さて、一応その気にさせるような格好をしていかなければな………。」
ドンペルトの好みなど露ほども知らぬが、だいたい露出を多くすれば引っ掛かるだろう。私服に当然そんなものはない。ならば誰かに貸してもらうのが良い。しかし心当たりのある友人がいない。そもそも私に友人などいない。ならば買うしかない。一回しか着ぬ服のため金を出すのも惜しいが、あとで経費として部長から服代をいただこう。
私は依頼に指定された場所に来ていた。路地五七線、かつてドンペルトの大企業が支配していた地区の中心地。いまだに麻薬中毒者が多く、ここを拠点とする裏稼業の奴らも麻薬を使って稼いでいる。路地の壁にもたれかかるものは皆、肌にデキモノを持ち、生きているとは思わせないほどの腐臭を漂わせ、餓鬼のように悍ましく不摂生な体型をしている。
「流石は麻薬売買の中心地………。ドンペルトの与えた影響は計り知れないな………。」
肩、腹、太ももが露出し、ひどく寒さを感じる。老朽化した建物の間を通り抜ける風は嫌に冷たく、また死の匂いを漂わせていた。まだ昼だというのにら外は薄暗い。ドンペルトの工場は設備を破壊されても機能を一部停止したのみで───実はその破壊した機能が最も重要な製剤工程なのだが───麻薬効果のある排煙を出し続けていた。
依頼の時間まで後三分となったところで、奴は現れた。金の刺繍が入った黒いコートに身を包み、仕立てられた革靴の音をリズムよく鳴らしながら。
「おや、君が二課の………。」
路地の壁に寄りかかり、待ち人顔をする私を見て、奴は明るくやけに上機嫌に話しかけてきた。
「………リシャールと言います。今日は依頼を受けて相手をさせていただきます。」
ドンペルトは上から下まで舐め回すかのように見た後、軽快に笑った。
「はははっ、あくまで仕事か。素っ気ないね。でもいいや、着いてきて。」
ドンペルトの案内のままに、迷路のような路地を抜けていく。薄暗く圧迫感のある路地を歩いてくうちに段々と腐臭が薄まっていき、そしてドンペルトが歩くのを辞めたと思ったときにはもうなくなっていた。そして、それとまた同時に路地から抜け出し、私は巨大な建物を見ていた。
「どう、驚いた?ここが僕の家。大きいでしょう?」
一つの工場、それも大企業の所有するものかと思うほどの巨大な建物がそこにはあった。外壁は傷んではいるが、まだ崩れていない南トンカ式の重厚で遊び心のある意匠が元の荘厳さを覚えさせていた。ドンペルトは壁に仕込まれたパスワード式ロックに手を伸ばす。ピポパ、と旧式の電子音が数回なった後、耳障りな音を立てて蝶番のきしんだ三メートル程度の鉄扉が開いた。
「さあ、早く入って。なるべく早く済ませたいから。」
ドンペルトは手招きをする。落ち着いた雰囲気を出しながらも、その目には明らかに何か他の感情が滲み出ていた。そして、喋り方、話しぶりにもどこか焦燥感が見られる。やはり、主目的がある。それも、───これは私の推測にはなるが───恐らく二課に対しての復讐のための目的が。
「はい、お邪魔します。」
中は暗く、ひどく空気が冷たい。そして、思わず鼻をつまんでしまいたくなるような異臭が立ちこめていた。例えるなら、あまり管理されていない牧場の匂い。無闇矢鱈に甘い、添加物の匂い。プラスチックを溶かしたような、薬品臭。それらが混じり合って、このような形容しがたい悪臭を生んでいる。
「どう、広いでしょう?自慢の家なんだよ。」
ドンペルトはこの悪臭を全く気にしていない様子で、ニコニコとしながら私を見つめている。しかし、奴の拳は固く握られていた。人は心から笑うとき、手のひらから自然と力が抜ける。ドンペルトのしていることは猿真似だ。ただ目を細め、口角を上げているだけに過ぎない、作られた表情だ。工業団地や経済特区住み───金持ちどもが悠々自適に暮らし大企業の保護を受けながら路地住みの浮浪者どもを見下す場所───でもなければ、相手の表情から内情を見抜くなど簡単なことだ。
「ええ、かなり広いですね。私の家なんか比べものにならないぐらい………。」
「そうだよね。だってこの家は、かつての秘匿された工場を改造したものなんだから。」
ドンペルトの手のひらが緩む。喉奥から、風の通り抜けるようなかすれた笑い声が発せられる。肩は震え、目は明らかに嘲笑と蔑みを含んでいた。ドンペルトがコートのポケットからリモコンのようなものを取り出し、浮かされた親指が、タンッとスイッチを押した。
「いやぁ、まさか引っかかるなんて思ってなかったよ!さては、初めから分かっててわざと僕についてきたのかな!?だとしたら残念だったね?どう頑張ってもここから無傷で逃げ出す方法はないし、多分僕を探っている諜報員、三課かな?は今頃麻薬漬けさ!そして………」
プシュー、と空気の漏れ出る音があちらこちらから鳴る。先程の悪臭がより一層強くなる。肺に匂いが詰まり、咳き込んでしまう。
「………君もそうなる。」
呼吸が荒くなり、心拍数が上昇する。体温の上昇と手足のしびれも感じる。やられた、そう考えつつ戦闘態勢に入ろうとする。長いブーツに仕込んでおいた小剣を取ろうと屈んだところで………片膝をつく。足が思うように動かない。重い倦怠感と目眩が思考を鈍くし、体を鉛にする。
「何を…した!」
悪臭とともに目に刺激までくるようになり、涙があふれ前がよく見えなくなる。ドンペルトの履いている革靴の音が段々と近づいてくる。
「ルーニーソの体液、今も燃え続けてるよね。しかも麻薬効果のある煙を出しながら。僕はその煙を集めて、今ここに放出したんだ。勿論、僕にも当たっちゃったら意味ないから………。」
バサッ、と布が風を切る音が鳴った後、ボタボタと半液状の固形物が垂れる気味の悪い音が前方で聞こえた。この建物の中では感じなかった腐臭が蔓延する。
「ルーニーソ様の恩寵で、僕は永遠なる者へと進化したんだ!全身を麻薬と覚醒剤で構成した、人間薬物にね!」
骨と骨がぶつかり合う乾いた音が笑い声のようにこだまする。全く動かせない身体が次第に力なく緩み、地面に倒れる。革靴の音がすぐ傍までになったとき、私の体は宙に浮いた。左腕をつかまれている感触。無理やり引き上げられる肩の痛み。露出した脇腹にドンペルトの手のひらが触れると、ビリビリとした痛みが襲ってきた。持ち上げられ、抵抗もできないまま何処かへ運ばれていく。なんとか目を開けて周囲の状況を確認しようとするが、強い刺激のある麻薬の蒸気に目をやられ、まともに開けていることすらできない。
そして乱雑に放り投げられたと思うと、ドブンという液体につかる感覚と音が耳に入ってきた。そしてその液体は肌から浸透し、触れているところが熱くなる。痛みとは違った、痒みにも似たムズムズするような感覚。気分が高揚し、何でも受け入れたくなるような興奮。
「………麻薬プールの湯加減はどうだい?とっても気持ちいいだろう?」
ザブザブと水をかき分ける足音が近づいてくる。そしてドンペルトは動けないまま倒れている私を蹴り上げた。臀部に走る強い痛みに顔がゆがむ。バシャリと液体が跳びはね、より体を覆っていく。
「あまり………調子に乗るなよ、ドンペルト…!」
精一杯の気力でドンペルトに罵声を浴びせる。それが気に食わなかったのか、ドンペルトは何も言わず私の顔めがけて拳を振り下ろした。顎骨がきしみ、嫌な音を立てる。痛みに声も出せなくなる。
「………まだそんな口を利く余裕があったんだね。まあ、すぐ言葉なんて話せなくなるだろうから調教はいいか。」
金属が擦れ合う音がした後、ツウと冷えた鋭利な刃物が肌の上を滑った。冷えた液体が直に肌に纏わりつき、また肌に触れた金属によりできた傷口に液体が染み、より酷い陶酔感を覚える。
「麻薬は粘膜接種が一番効くんだよね。特にルーニーソ様から取れるラックループは即効性だから、君はもうボロボロだよ。でもまだこれじゃ足りない。」
ドンペルトが頭を掴み、無理やり口を空けさせる。そして、その口腔内に冷たい液体を流し込んだ。喉元を通り過ぎていく液体は酷く苦く、また舌を痺れさせた。何の抵抗もできず、ただ受け入れるしかない。このままでは間違いなく廃人となってしまうだろう。
「う………ぁ………」
もうこのまま肉体も精神もボロ布のようになって、短く人生を終えてしまうのだろうか。こんな結末は望んてはいなかった。………昨日私が殺したあの男も、こんな気分だったのかもしれないな。脳に高揚感と快楽が満ちあふれ、意識が遠のいていく。
目を覚ました。ひどい倦怠感と無気力感が体を支配している。が、しかし最も驚いたのは私が生きているということだ。しかもこのようにはっきりと意思を持って。脱力感に襲われる脳を何とか活動させながら思考を巡らしていると、仰向けに横たわっている私の左耳の方から慣れ親しんだ声が聞こえてきた。
「ようやく目を覚ましたか、リシャール。もう何日も起きていなかったから、心配したのだぞ?」
まだ目は完全に使えるようになってはいないが、そのシルエットから誰か分かる。女性にしては低い、落ち着いた声から誰か分かる。
「部長………!」
恐らくそう言い切る前に咳き込み、また喉もズタボロとなっていたため、ベルナール部長にはかすれ声を発した後咳き込んだようにしか聞こえなかっただろう。部長は私の頭を撫で、
「………何も言うな。喉がやられている。それに、あれ程の違法薬物を摂取させられたんだ。体も弱っているだろう。仕事は休め。」
優しい、落ち着くような口調でそう言ってくれた。
「………部長。」
ベルナール部長が私の顔をのぞき込む。
「何だ?」
「………治ったら、退院したら、ご飯奢ってくださいね。」
部長は軽く笑って、
「………………いいだろう。身体が治ったら、二課で祝おうか。」
現実は無情だ。何もかも、心の隅で願っていた小さな願い事さえ叶わない。
「………………」
僕は目の前に転がる、幸せそうな顔で死んでいる女の死体を見下ろしていた。生きていて、何が楽しい。僕が昔に望んだことは、今も叶っていないじゃないか。どうせなら、この女の様に幸せに死にたい。
「何がルーニーソ様だ………何が麻薬だ………!」
こんなもの、一時の快楽にしかならない。そんなもののために僕は家族も友人も全てルーニーソに捧げてしまった。………結局、今僕がこんなふうに考えていることも、ただの自己弁護でしかない。いや、それの条件も満たさない、醜い言い訳でしかない。
扉が打ち破られる。そこから昔と変わらぬ戦闘服を纏った二課の奴らがなだれ込んできた。先頭にはあのとき僕を捕らえたベルナールがいる。そして、今度は僕を殺そうと腰に携えた長剣を抜き放っている。
「………今更来ても、遅いんだよ………?」
最後の最後に、高笑いをする。僕の人生は幸福だったって、楽しかったんだって。そう、神様に伝えるために。目の前に血飛沫が上がる。僕の身体に痛みはない。とっくの昔に人間の体を捨て去ってしまった。ただ、流れ落ちる赤い液体が、僕を人間だよと慰めてくれていた。ゴトリと首を落とされ、そして目を閉じれば永遠になる気がした。
一つの微細な罪悪は百の善行に償われるなんて、僕には無理だったんだ。僕は罪を犯しすぎた。善行を知らなかった。嗚呼、神様よ。存在するなら、せめて僕は底なしの深淵に一人で沈めてください。今さらどうこうを言っても遅いのです。もう、僕は突き進むしかなかった。償うことなど考えていなかった。
この世界は変わることがない。どこかで誰かを殺して、どこかで誰かに殺される。ループなんだ。永遠に終わることのない、ループなんだ。華は地に落ちぬ。美しいものは不滅だと思う。だからこそ、僕はこの世界を………。
「美しいって、思ったんだ。」
この世界のループに加われた事に、最大限の感謝と喜びを。




