知らない知識~ヴェール視点
「そうだよ。この国では考えられないだろうけど、他の国では違う。もっと自由に生きることができるんだよ」
「……本当、ですか?」
「あぁ」
とても信じられない言葉だけど、嘘を言っている様子は感じられない。
黙って見つめているとリアハが再びカップを持ち上げて紅茶を飲みながら話した。
「キミはこの国しか知らないから信じられないのは分かる。でも、事実なんだ。こうして私が仕事でこの国を訪れているのが証拠だよ」
「たしかに、そう、ですが……」
それでも疑いが残る。
そんなボクを見透かしたようにリアハが軽い口調で話題を変えた。
「そういえば、君が塗ってくれた毒消しの薬だけど、うちの治療師がぜひ作り方を教えてほしいって言っていたね」
「うちの治療師?」
首を捻るボクにリアハが説明をする。
「私が率いている貿易仲間専属の治療師だよ。貿易っていうのは商品を運ぶことが主な仕事だからね。途中で盗賊なんかに狙われて怪我をすることもある。それを治療したり、私たちのような者を定期的に診察して薬を処方したりしている」
最後の言葉にボクは目を丸くした。
「リアハさん以外にも、その、いるんですか?」
「あぁ、数人いるよ」
数人も!?
ますます信じられない状況にボクは自然と訊ねていた。
「みなさん、普通に仕事をしているのですか?」
ボクの質問に少しだけ困ったような笑みが返る。
「ほぼ普通だけど、どうしても休養が必要な日があるだろ? そこは優遇して休みにしているよ。それ以外は普通に働いている」
その内容にボクの中で希望の光が見えた気がした。
「本当に、そんなことが……」
「もちろん、他の国のすべてがこうじゃない。この国のような扱いをしている国もあるよ」
「そう、ですよね」
現実が輝きかけた光を消していく。
「けど、知っていると知らないでは大きな違いだ。現にキミはこの国以外のことを知った。なら、選べるんじゃないかな?」
その言葉にハッとする。
そんなボクに目の前に座る男前がニヤリと口の端をあげた。
「キミのように博識で優秀な薬の知識を持つ人材はぜひ欲しいからね。ところで、キミが私に塗った薬だけど、毒消しになるサジェの葉とダンテラの根が練り込まれているのは分かったんだけど、他にも入っている薬草があるんじゃないかい?」
そこまで分析をされていることに感心しつつも、ボクは種明かしをするように肩をすくめた。
「実はその薬草に加えて、石灰華の粉末も混ぜているんです」
「石灰華の粉末を? どうしてだい?」
「血流を抑えるするためです。石灰華は水に溶かして傷口に塗ると止血作用もあって……」
ボクの話にリアハが真剣に耳を傾ける。
秘密にする内容でもないし、この知識で他の人の治療に役立つなら、それに越したことはない。
ボクが調合している薬の話をしているうちに、リアハが他の国にある薬草の話を始めた。それは本にはない、実地でしか知られていない内容もあって……
「ムグワート草にそんな効用があるんですか?」
驚くボクにリアハが説明を付け加える。
「あぁ。ただし、高地に生えているもの限定でね」
「つまり、そこに生えているものだけ成分が違うということですか。土か……いや、気候が影響しているのかな」
「うちの治療師は、高地という気候が関係していると予想していたよ。土ごとムグワート草を持って帰って育てても、他のムグワート草と同じ効用しかなかったって言っていた」
「実験をしたんですか? それはボクもしたかった」
最初の警戒を忘れて、ボクは薬の話題で盛り上がっていた。
いろんな国を渡り歩いているリアハからは興味深い話が次々と出てきて、好奇心が抑えられない。しかも、ボクがどんな質問をしても分かりやすく答えてくれる。
つい話し込んでいると、ふいに甲高い声が耳に入った。
「うわ、やっぱりカッコいい」
「この辺りじゃあ見かけないよね? どこに住んでるの?」
会話の内容から女性がナンパをしている雰囲気。
なんとなく視線をそちらに向ける。すると、そこにいたのは……
「……シュバルツ?」
ボクは無意識に名前をこぼしていた。
少し離れた大通りで二人の女性に迫られるシュバルツ。
その様子をボクは呆然と眺めていた。
たしかにシュバルツはそこら辺の男より、ずっとカッコいい。
絹糸のように輝く漆黒の髪に端正な顔立ち。涼やかな目に黒曜石のような瞳が輝く。年の割に低く落ち着いた声は耳が気持ちよくなるし、近づけばミントのような爽やかな香りが鼻をくすぐる。
体はしっかりと鍛えられているだけでなく、動きも素早い。ボクが足をくじいた時でも、軽々と持ち上げて運んでくれたほど。
だから、こうして声をかけられるのも分かる。
ボクの存在に気づいていないシュバルツが黒い眉尻をさげて困ったように口を開く。
「いや、オレは……」
言葉が終わる前に女性の一人がシュバルツの逞しい腕に絡みつき、確認するようにベタベタと触れる。
その光景に心の奥底でドロリとした感情が流れた。次に腹立たしいような、悲しいような、悔しいような、変な気持ちが溢れていく。
見たくないのに、目が離せない。
そんなボクの前で女性たちが楽しそうにシュバルツに話しかける。
「うわ、すごい筋肉。鍛えてるの?」
「ちょっと、そこのカフェでお茶しない? いろいろ聞かせてよ」
呆然と眺めているボクにリアハが声をかけた。
「知り合いかい?」
その問いに顔を動かす。
すると、灰色の瞳が驚いたように丸くなり、それから困ったように眉尻をさげた。
「どうしたんだい? そんな泣きそうな顔をして」
「泣き、そう?」
ぼんやりと返した声に対して、リアハが椅子から腰をあげる。それから、ボクの隣に来ると右手でボクの頬に柔らかく触れ、そのまま太い指の腹が目元を拭うように撫でた。
「今にも泣きだしそうな顔をしているよ」
柔らかく慰めるような声音。
「キミにそんな顔をさせる原因は、彼かな?」
ボクの頬に手を当てたまま、灰色の瞳が大通りへと移動する。
その動きにつられるようにボクも視線を動かすと、困ったように女性たちを見ていたシュバルツが話しながらこちらを向いた。
「そんな時間はな……」
言葉の途中で黒い瞳と目が合い、そのまま丸くなる。
「……ヴェール?」
ボクの名を呼んだ後、一拍置いてブワリとシュバルツの足元から黒い風が巻き上がった。
周囲の空気がパチパチと弾け、女性たちが顔を青くしてさがる。
その光景に驚いているボクに対して、シュバルツが大股で近づいてきた。
「おまえは、誰だ? ヴェールから離れろ」
怒気を孕んだ低い声がリアハに迫る。
だけど、当の本人は気にする様子なく軽く首を傾げた。
「そういうキミこそ誰かな? 彼の保護者かい?」
「オレはっ……」
そう言いかけてシュバルツが黙る。
誰とも知れない相手に自分の身分は明かせない。それは当然のこと。
ボクは二人の間に入るように体を滑り込ませた。
「シュバルツ、この人はリアハ・モナルクさんっていって、その……ほら、この前、話した……」
とにかくシュバルツを落ち着かせないと。
そう考えて必死に状況を説明しようとしたけれど、苛立ち混じりの低い声が遮った。
「……薬を買いに行ったんじゃないのか? それとも、それは嘘だったのか?」
「嘘じゃないよ。薬を買いに行ったら、たまたま会って……」
そこでリアハがボクの説明を引き継ぐように言った。
「私の怪我を治してくれた礼にお茶を奢ると誘ったんだ。そうしたら、思ったより話が弾んでね。そうだろう?」
話を振られて頷く。
「そうなんだ。リアハさんの薬の話が面白くて」
「私もキミの知識の深さには感心しているよ。若いのに博識だね」
「そんなことありません。ボクなんて、まだまだで」
そんな会話をしていると、リアハがシュバルツの方を向いた。
「キミも彼もいい年齢だ。どこで何をしていても問題ないと思うが? それとも、咎めることができる関係なのかい?」
その問いに黒い眉尻があがり、眉間に深いシワが刻まれる。
バン!
シュバルツが話を遮るように大木を殴った。幹が揺れ、青い葉がハラハラと落ちる。
俯いているため表情は黒い髪で隠れて見えない。
「……シュバルツ?」
顔を見ようと覗き込む。
すると、シュバルツはグッと手を握り、小さく震えながら絞り出すような声で言った。
「そうだな。ヴェールがどこで何をしていようが、オレには関係ないことだ」
クルッと踵を返して歩き出す。
「シュバルツ!?」
名前を呼んだけど振り返らない。
追いかけようとしたところでリアハに止められた。