ヒーローになれない
「——だから、ごめんなさい母さん。こんな身勝手な選択をどうか許して欲しい」
スーツが少し暑い季節になった。夜風はまだ涼しいが、道ゆく人は上着を脱いで手に持っている人がほとんどだった。
道の真ん中にできた人集りの中心にはマントを旗めかすわかりやすいコスチュームを身に纏った男性が賞賛の声を浴びていた。
ビルの屋上からその様子をただ漠然と眺めていると、無意識にため息が溢れた。
思えば何もできない人生だった。ヒーローになったのだって、そんな自分を変えたくて、誰かの役に立ちたくて、必要とされたくて、自分の生きる価値を見出したかったから。
運動神経がいいわけではなく、特別センスがあるわけでもない。ただ少し勉強を頑張っただけで、それでも人と比べたら総合的に見て普通以下。なんなら下から数えた方が早い。
向いていないのも無能なのも自覚していたのに無理して続けて、その結果、あの子を救えなかった。
目の前で手を伸ばす小さな手も、埃の匂いも、コンクリートがボロボロと崩れ落ちる鈍い音も、全部焼きついて離れない。
僕が脅迫に近い歪な使命感で工事現場の中に入らなければ、あの子は瓦礫の中に埋まることはなかったかもしれない。
呼びかけて、涙を流しながら返ってきた声に安堵したのも束の間、手を伸ばしたあの子に触れることさえできなかった。無力な自分を呪っても、あの子は帰ってこない。お前のせいだと後ろ指を差されても、謝ることしかできない自分に腹が立った。
「キミ、勤続何年? 自分が無能の自覚ある?」
「あの先輩、大した能力もないくせにヒーローヅラしてんのウケる」
「真面目に努力したって、成績あれじゃあね」
他の社員が言う通り、会社内で良い成績を残すこともできなければ、突出した能力もない。給料も上がらないまま。
後輩に馬鹿にされるのも無理はなかった。
無能が社会を脅かすヴィランと対峙する花形の部隊に配属されることはなく、普段の業務は街のゴミ拾いなどの慈善活動。
それでも、自分ができる唯一の社会貢献だと信じて疑わなかったから上司に人格を否定されようとも今まで続けてこられた。
それに、この会社をやめれば、ヒーロー事業に携われるチャンスは二度とないと思った。
なのに、とうとう自分は犯罪者だ。助けを求める声に応えられず、見殺しにしてしまった。何がヒーローだ。無能なくせに、周りに追いつくために背伸びした結果がこれだ。
こんなことなら最初から自分以外のヒーローに任せておけば良かった。自分が出張ったばかりに悲惨な結果を招いてしまった。
こうなったら、自分なんていない方が良い。
『……あのー、そんなにしんどいなら辞めちゃえば良いんじゃないでしょうか。その仕事』
「え」
『何も死ぬ必要はないと思うんですけど』
電話口から聞こえてきた声は、若い女性のものだった。耳を疑ってスマホの通話画面を見ると、母親のものではない番号が表示されていた。
「すいません間違えました!」
間違い電話に焦り、切ろうとするより先に、向こうが話し出した。
『ヒーローって華のある職業ですけど、責任とか、他人の命とか、抱えるものが多すぎて離職率も高いんですよね』
ただ事実を述べるように、淡々とした口調で伝えられた。よくある話だと言わんばかりだった。
「えっと、この電話……」
『ご家族と間違えていらっしゃるようですが、おかけいただいている番号は退職代行ユア・ヒーローでございまして』
「ユア・ヒーロー?」
『はい。ヒーロー専門の退職代行サービスです』
テレビで見たことがある。ウチの会社でまだ使った人間はいないが、会社や店舗、その他諸々組織に所属する人間が、辞める際に第三者に退職の手続きをしてもらうサービスが退職代行だ。最近では各専門に分かれた代行サービスの事業が立ち上がっているとかいないとか。
そんな企業にどうやら間違えてかけてしまったらしい。
先ほどの独白も全て聴かれていたのだとしたら恥ずかしくて、ここから飛び降りてしまいたかった。
「もともとその予定だったな」
自嘲気味に笑うと、一歩足を踏み出そうとして、できなかった。
代わりに溢れたのは涙だった。
死ぬ勇気さえない自分が情けなくて、ただ声を抑えて泣くことしかできなかった。
『……命を絶つくらいなら、その悩みの原因を排除すれば良いのでは。死んだ後も迷惑かける気ですか』
ノイズのかかった音声は、感情のこもらない冷徹なものだった。その冷めた声が、自分を嘲る社員たちと重なり不愉快だった。
何も知らないくせに。沸々と湧き上がった怒りに身を任せて哭いた。
「仕方ないじゃないか! 僕みたいな人間がヒーローになるなんて最初から無理な話だったんだ! 念願叶って就職できても、無能は淘汰されていくのが世の常なんだよ。このまま生き続けて迷惑かけるくらいなら、いっそ死んだ方が」
『死んだ後に大切な両親に掛かる賠償金やら心理的瑕疵やら、通行人のトラウマ、周りの人間のことまで考えられない馬鹿じゃないでしょう。あなた』
はっきりと言われて少し冷静になった。
確かに未来ある人間にとって自分の死が悪い方に影響する可能性はある。それだけは避けたかった。自分のせいで苦しむ人間が増えてしまう世の中なんて、死んだあとも耐えられそうにない。
『それに、なぜそんなに辛い仕事を続けようと思うのですか。今憧れとおっしゃいましたが、ヒーロー事業は年々増えてますし、選択肢は一つじゃないと思うのですが』
「それは、」
自分に自信がないから。仕事を辞めて他でうまくやっていける気がしない。現に今働いている会社だって良い成績を残せていない。
「——お前みたいな無能を拾う会社なんてどこにもない。せいぜい感謝するんだな」
上司の口癖だった。入社当初は自分の可能性を広げられると謳っていた気がするが、記憶違いかもしれないと思うほどハラスメントが横行していた。
そんな環境のせいか、いつしか洗脳されたように自分を無能だと卑下するようになってしまった。
「でも、辞めるなんて言い出しづらいし……転職できるかも不安で、迷惑しかかけられないと思うと、なかなか」
『その結果が自ら死を選択するという答えに辿り着いたのなら、はっきり言って間違ってます』
「でも、じゃあどうすれば、」
「まずは一回二万円ポッキリで地獄から抜け出しませんか」
「え」
それは電話越しの声ではなかった。
思わず振り返ると、華奢な身体に黒いスーツを纏った女性が仁王立ちしていた。右手にはスマホが握られていた。
「それから、あなたの人生を始めるお手伝い、させてください」
* * *
「いつもお世話になっております。退職代行ユア・ヒーローでございます。御社のヒーロー部に勤務しておられる塩尻様から依頼を受け、お電話しております。塩尻様は明日より出勤致しません。つきましては退職の手続きを取らせていただきたくご連絡致しました。これ以降は塩尻様との直接のご連絡はお控えください。では」
『なんだどういうことだ? 俺はそんなの認めないぞ! まともに顔も出さないで辞めるなんてとんだクズ野r——』
「はい。終わりました。後日また書類が届くかと思いますので対応よろしくお願いします。あ、代金の振り込みはこちらまでお願いします」
電話を切った女性は淡々と作業をこなすように口を開き、必要書類を封筒に入れた。
驚くほどにあっさりと進められた代行手続きに唖然としていると、「社員をクズ呼ばわりするような会社、辞めて正解です」と、自分の代わりに怒っているような口調で鼻を鳴らした。
「あ、ありがとうございました」
「いえ。死ななくて良かったです」
本心かどうかはその口調からはわからなかったが、それでも安堵と期待で胸が膨らんだ。
「自分に合った仕事、ちゃんと探そうと思います」
女性は、僕がどうしてヒーローに憧れたのか、人生を歩む中でどういう選択をしてきたのかを真剣に聞いてくれた。彼女は仮面をつけたように終始感情的な部分を見せなかったが、なんだか心地よかった。
そのおかげか、不安は完全には拭いきれないが、もうバカな真似はしないと思う。
「そうしてください。もう、二度と塩尻さんからかかってこないことを願っています」
キッパリと言い放つと彼女はおろした髪の毛を耳にかけた。
「それに、あなたに救われた人だっているのではないでしょうか。肩書きなんかなくても、立派じゃなくてもいいと思います。だから、自死なんか選ばないでください。ヒーロー失格です。肝に銘じておいてください」
その目力に気押され、唾を飲み込んだ。
「は、はい……」
「それと、塩尻さんが気に病むことないですよ、その女の子のこと」
「え?」
「ではこれで」
聞き返そうにも、彼女はすっくと立ち上がって踵を返してしまった。
「あ、あの、お名前は!」
「プライバシーに関わるのでお答えできかねます」
彼女は振り向くことなく階下に繋がる扉を開け、姿を消した。
僕は地べたに座り込んだまま、しばらく開くことのない扉を眺めていると、ふと、ある疑問が浮かんだ。
「……あれ、僕、助けられなかったのが女の子って言ったっけ」
帷が降りた屋上で呟いても、誰からも返事が返ってくることはなかった。
お読みいただきありがとうございます。
落水彩です。絶賛五月病です。お仕事も大変ですね。
新しい環境で頑張るあなたへ、今までのステージで戦うあなたへ、無理はしないでくださいね。
作者の気分にはなりますが、もしかしたら続くかもしれません。