あまりもの令嬢は、婚約解消を言い出した残念王子を褒めちぎりたい
辛うじて短編と呼べる文字数になりました。長めですが、よろしくお願いいたします。
恋に盲目で突っ走りぎみな薬師令嬢と、後方支援担当へたれ王子の婚約解消を巡るお話です。
「了承しておりません」
私、アイリス・オースティンは、21年の壁の花人生で培ってきた渾身の当たり障りのない微笑を浮かべて、ご提案を拒否しました。
たった1メートル先、机を挟んで座っていらっしゃるメイソン殿下の形の良い褐色の目が細められると、少しばかり険のある表情になります。
癖っ気の、深いダークブロンドの髪が前傾姿勢を取ったので、ふわりと揺れる姿と相まって素敵です。
御年は22歳、私よりひとつ年上。
今すぐ褒めたい衝動にかられたのですが、流れる空気はどちらかと言えば緊張に近いもの。今は控えておきます。
「婚約は解消すると伝えたはずだ」
メイソン殿下は鋭い声で、たった数秒前に私が断ったばかりのご提案を繰り返しました。
「正確には『解消したい』、です、殿下」
「同じことだ」
「国王陛下とオースティン侯爵家との同意のもとに行われた婚約ですから殿下の一存では。たとえお互いに婚約相手が見つからなかった末の婚約だとしても」
「陛下はこちらで何とかする。
……今まで顔合わせなども、婚約前に数度しただけ。それも、義務的な。アイリス嬢の方こそ解消に不都合はない、いや望ましいはずだ」
「それもお互い様です、殿下。でなければ寡黙な方かと思っていました」
殿下は渋面を作りました。決して揶揄ではないのですが。
「ではなおさら、貴女が私と婚約を継続したい理由が分からないな」
「一度ご承諾されたものを覆す理由こそ、お伺いしたいのですが」
殿下は立ち上がりました。これ以上の会話は殿下の胸のあたりまで積み上がった書類の山が邪魔だと思われてのことでしょう。
こちらに回ってくると、丁寧に来客用の椅子をお勧めになろうとして、私の足元の荷物――大きなトランクに目を止められました。
「それは、まさか?」
「しばらくこちらにご厄介になろうと思いまして」
「は? 君は馬鹿か。侯爵令嬢がこんな北の果てで暮らすなど――」
そう仰られてから、殿下ははっと気づいたように口元に手を当てられると、深く頭を下げられます。
「……大変失礼した。とにかくかけてくれ。――バーネット、お茶を」
今まで壁際で控えていた従者の方が、呆れたような表情を残して部屋を出ていきました。
扉が開いたときに廊下から冷気が入り込みます。殿下の執務室では暖炉がぱちぱちと音を立てて部屋を暖めているのですが、ここは王国でも最北端を臨む地域。
もう秋も終わりかけていますから、つい数日前までいた王都で調達した服では肌寒いくらいです。
殿下はわざわざブランケットを取って渡してくださいました。
私はありがとうございます、とお礼を言って、次に非礼を詫びました。
「いいえ、殿下がお怒りになるのも当然です。手紙でお知らせしただけで、お返事を待たず王都から飛び出してきてしまったのですから。
……それで婚約してすぐ殿下がこちらにいらしてから、半年間。手紙のやり取りくらいしかありませんでしたが、急に解消を決意されたのはどのような心境のご変化ですか」
私が尋ねると、殿下は気難しげな顔に眉根を寄せてもっと難しい顔になりました。
王国の第八王子であられるメイソン・ウィンズベリー殿下と、いくつかある侯爵家の中でも、ぱっとしないけれど古い血筋を持つオースティン侯爵家の4番目の子である私、アイリス・オースティンの婚約が調ったのは、つい半年前のことでした。
国王陛下はお子様に大変恵まれ、第13子であるメイソン殿下の下にも二人のお子様がいらっしゃいます。
王太子殿下をはじめそのどなたもがご優秀で重要な役職に就かれていまして、そんな感じなので名だたる家のご評判のご令嬢は、メイソン殿下のお相手探しの順番が回ってくるまでにご結婚またはご婚約をされてしまいました。
いわゆる下位の爵位の貴族まで打診やお相手探しのお茶会などを開きながらも、一向にお相手が見つからないことに、国王ご夫妻は大変ご心配、苦心されたそうです。
ただしお相手探しが難航した主たる理由は他に二つあったようです。
ひとつには、メイソン殿下ご本人に結婚したいというご意思があまりなかったこと。
もうひとつには、何でも噂によると残念王子という評判が立っていたことです。
殿下も端正と言って良いお顔立ちで、所属されています騎士団のお仕事では実績を残されています。
ただ、ご兄弟がたが華やかなお顔立ちと素晴らしい経歴のせいか、目立たないそうで――更にご兄弟の奥様がたまでが負けず劣らず素晴らしい方々となれば、そこに飛び込む勇気はなかなか持てないのでしょう。
不敬な表現ですが、ご兄弟の殿下がたが王宮に飾られる絵画や金の壺であれば、メイソン殿下は考古学博物館に保管されているような……といえば良いのでしょうか。
そこで、とうとう家格がつりあいそうな我が侯爵家の、似たような状況に耐えられそうな――兄弟で一番目立たず、社交界から存在を忘れられている私に、陛下が白羽の矢を立てられたのでした。
私はむしろ、兄弟姉妹はおろか他の令嬢が次々に婚約者が決まる中、何時まで経っても婚約者が見付からず、「あまりもの令嬢」と自負しているくらいでしたから、恐れ多いとお断りを差し上げたくらいなのですが、まあ、王家からの頼みとあれば断り切れませんでした。
ちなみにあまりもの、と言っても決して家族仲が悪いのではありません。両親の美貌を受け継いだ華やかで才気あふれる兄弟の中、顔立ちも仕事も最も地味なのです。
おまけに髪は黒々として瞳は紫。美人でしたら魅惑的にも神秘的にも見えることは家族の存在で十分に理解しているのですが、地味顔には地味を引き立てる酷な暗色です。暗すぎて貴族たちの華やかな夜会ではかえって目立つと、物陰に立つことを覚えてしまいました。
陛下は一応両者の意思を尊重してくださったので、確か三回の顔合わせ――本当に黙ってお茶を飲んで顔を会わせるような――を過ごした末に、不快感などもなく、この方となら穏やかに結婚生活を送れるのではないかとお返事したところで婚約が成ったのでした。
……でしたが。
婚約からすぐ殿下はお仕事の都合で、今私がいるこの北の地に栄転されてしまったのです。
それからも手紙のやりとりはあるものの当たり障りのない挨拶だけに終始し、そして――先日、突然殿下から、婚約を解消して欲しいというお手紙が届いたのでした。
「手紙では良くも悪くも変化のないやり取りでしたので、急なことに驚いています。もしやこちらで好きな方ができたとか」
「違う。理由は手紙に書いた通りだ」
「それではますます、婚約を解消する理由がございません」
私が殿下に微笑みかければ、殿下の頬がほんのりと赤く染まりました。きっと照れていらっしゃるのでしょう。いや、怒っているのかも。
ちょうど先程のバーネットさんが戻っていらっしゃって、木製のトレイから――きっと冷えないためでしょう――白磁のポットを取り、湯気の立つ紅茶を注いでくれました。
「だから、栄転、ということは結果を出すまで――いつ王都に帰れるか分からないんだ。恥を忍んで言えば、当初の想定より難航している」
紅茶に口を付けると、暖かくて美味しくて、ほっとしました。良い茶葉のようです。
殿下も同じようにお茶を飲まれれば、口元も少し緩まれたようです。私はお茶が大好きなので大量に持ち込んできましたが、ここで浮いたりせず、むしろお出しできそうで嬉しいです。
「王都で式だけしたところで、すぐに北に戻る羽目になれば、社交の負担も親戚づきあいも何もかもアイリス嬢に任せることになる。
政略結婚だが、だからこそそのような孤立をさせる訳にはいかない。……聞いているのか」
「はい。殿下のお心遣いが身に沁みます。確かに私たちは政略結婚でしたが、いえ、『でしたら』そうでしょうが」
たとえば。
何度舞踏会で顔を会わせようが気にも留めていなかった、その場限りの退屈しのぎの話し相手。そんな異性に思いがけず愛を告げられた途端、胸が高鳴って、相手の一挙一動が気になって、恋に落ちてしまう――なんてことが世間のご令嬢の中ではままあることらしいです。
勿論その後に爵位だの財産だの両家のつり合いだのの問題が立ちふさがることもあるのですけど――ということは、その相手が、両親どころか両家の合意に基づいて結ばれた婚約者であれば問題ないのでした。
そう、まったく。
「……?」
訝しげな顔をされる殿下ですが、こうやって向き合って話を聞いてくださることこそが殿下の良いところ、だと思います。
「普段口数が少ないのに、今日はこうして話してくださって」
「いや、アイリス嬢こそ……?」
「ますます、結婚する意思が固まりました。
私が今日こちらに参りましたのも、殿下をお慕いしているからです」
そう申し上げれば、耳まで真っ赤にされて絶句される姿もとてもお可愛らしく――ええと、上から目線で失礼でしょうか。
初めて見ました。私が画家なら今すぐスケッチしたいくらいです。
「は? 君は、今まで、そんな素振りなど、一度も……」
「婚約破棄のお手紙に一目惚れいたしました。
婚約破棄のお申し出のお手紙が大変、便箋や封にも気を遣っていらして、途中で日をまたいだのかインクの色が違っていまして、大変悩まれたあとが窺えました。
そんな殿下は大変心優しい方ではないかと」
絶句する殿下に、隣のバーネットさんも絶句されていますが、まあ、確かに王都から遠く離れたここに、わざわざ侍女の一人も連れずにこんなことを話しに来たのですから、そう思うのも当然でしょう。
私だってそう思います。
当初は先にお手紙でのやり取りをして、らちが明かなければ来るつもりでした。
だからここに来たのは。
「ですが私がここに参りましたのはこのお話をするためだけではありません」
「と、いうと?」
「確か殿下はこちらの城の冬支度に困られているとか、先日職場で耳に挟みました」
職場とは殿下もご存知の、王城内で薬の生産管理等を一手に引き受ける魔術師団の部署のことです。
「注文は傷薬100箱――まさかそのトランクの他に」
「いいえ。ご希望の傷薬100箱に加えて解熱剤や解毒剤なども作れて、おまけに簡単な診断と手当ができる薬師アイリス・オースティンです、婚約者様」
メイソン殿下は今度こそ目を大きく見開きます。
私はどうやら、機先を制することには成功したようでした。
◇◇◇◇◇
メイソン殿下は、王国軍第三騎士団――盾の印から灰鷹騎士団と呼ばれる、王国中の魔物討伐を主として担当する騎士団に所属されています。
殿下はその中でも先頭を切って戦うのではなく、後方支援を担当する部署におられます。
といっても、この場合の“後方”は文字通り戦場における騎士の背後で働くということではなく、工兵――築城や橋の建設及び破壊、一部兵器の運用・保守などを行う技術職として前線に出たり、兵站――補給線や物資の確保・手配などの作業をされるそうですので、戦場に決して出ないという意味ではありません。
顔合わせの時、黙っている殿下に代わって、そちらのバーネットさんから伺いました。
確かに目立つ部署ではなく正直地味なお仕事です。地味と聞きますと、私などはここにいていいのだと、何だか心がほんわりしますが、あまり出世には結びつかない部署のようです。やっぱり出世させたいと人に思わせるような、印象が大事なのでしょう。
……それが、王子という身分に対してどうかという話があったのでしょうか。
ここ北の地では冬に特に魔物の出現が増えるのですが、対策として建てられていたこの城の老朽化が著しく、駐留するのに厳しくなっていたそうです。
そこで改修工事の指揮を執るために半年前、城の主として「栄転」するため、殿下が少数の部下と共に配属されたそうで――あ。これも今、バーネットさんから伺いました。
殿下はこの間、ずっとティーカップに視線を注いで黙っておられます。
「……もしかして、殿下はお優しいから黙っていらしただけで、私に対する不快感を我慢していらっしゃったのではないですか? 結婚願望もあまりないと伺っていました」
顔を上げられた殿下は厳しいお顔をされていますが――いえ。瞳の奥に不安げな色が見えるような気がしました。
「……そうだ。……いや、そうだというのは、結婚願望のことで、貴女に不快感を抱いたことはない。
本当に、ここが想定よりも厄介な場所で、王都に帰還できるまで何年かかるか分からず、このような状況では貴女を放置することしかできないからだ。
……話の途中だが」
殿下は時計を見上げられると、立ち上がられます。
「申し訳ないが、そろそろ仕事に戻らなければならない」
突然の面会は、やはり突然に終わりました。
何しろメイソン殿下はこの城の責任者なのですから、そうそう時間が取れるはずがないのです。
「バーネット、悪いが薬箱を……薬の種類と数を確認しておいてくれるか」
「補給品の管理でしたら従者の仕事の範囲外です。婚約者様をおもてなしせよ、ということでしたらお受けしますが」
バーネットさんがしれっと言ったので、メイソン殿下は舌打ちでもしそうな顔をされて、それでいいと仰られました。
「アイリス嬢には部屋を用意するので、用意ができるまでここで待っていてくれ」
「かしこまりました」
「明日には王都へ出立するように。――失礼する」
殿下は颯爽と部屋を出て行ってしまい、私はバーネットさんと二人きりで残されてしまいます。
「念のため伺いますが、薬の方は」
「殿下がご入用とのことで、魔術師団から100箱。追加分としては、薬の材料を融通してもらい……たまっていた有給休暇を使いまして、こちらに私が」
「そうでしたか。オースティン様は魔術師団の製薬の部署におられましたね」
「そうなんです。材料はホールに置かせていただいている青い鞄がそれです。この鞄には私物と、高価な薬が入っていまして」
「……申し訳ありません。殿下は悪い方ではなく、気遣っておられるだけなのですが」
バーネットさんは黒い眉を下げられて、気の毒なものを見るような顔をされます。
貴族社会では主人がお喋りな場合、沈黙を守られる使用人が多いのですが――彼は殿下の従者だけあって、確か伯爵家のご出身だとか――この方は主人が寡黙なためなのか、話していただけるので、私としてはとても助かります。
「ええ、存じてます。……ですので、これらが必要でしたら殿下は私を置いておく必要がありますね」
「……」
バーネットさんの表情が、少しぎこちなくなりました。脅しとでも思われてしまったでしょうか。
「私、侯爵令嬢とかいう肩書きのせいで仕事は腰掛けのように思われがちですが、真面目に勤めてきたつもりです。
お持ちした薬にも少々扱い方にコツのあるものがありますので、お渡しして終わりとはいきません。こちらの気候ですとなおさら。
それに、必要なものが申請されていた薬だけでないだろうとも聞いています」
「確かにそうですが」
「殿下のお役に立てば、その間はこの城にいられると思うんです。
そうすれば婚約解消までに……お互いを理解し合う時間を、今更ですが作れるのではないかと思いまして」
「しかし、城の兵たちは少々荒っぽく、殿下も仕事場に近づけさせないかと……」
それは困ります。
薬の制作には調合用の部屋を頂ければ問題ありませんが、実際に使われるところを指導する必要もありますし……。
「では、お手紙を書きますね。手紙を書けば伝言できますし、少しでも殿下の視界に入っていられると思うのです」
物好きな、とバーネットさんの口が小さく動いたのを私は見逃しませんでした。
長年壁の花をやっていると少々の読唇術はできるものらしいのです。でもこれは実家の侍女のミアと私だけの秘密です。
……確かに、物好きではあるかもしれません。
でも、殿下が下さった最後のお手紙は王家専用の封筒の中に普段のものよりもずっと上質な便せんで、とても丁寧に綴ってくださったことが解るものでした。
残念王子などと誰が呼んだのか分かりませんが、私では――美貌も取柄もない、結婚相手など見つかりそうもない私には、もったいないような、お相手でした。
そもそも男性からお手紙を頂くことなど殆どない私が、今まで頂いた定型文に、ただの政略結婚と割り切ろうとしていた私が。
どれだけ婚約破棄の手紙を喜んで、燃やして受け取ってないことにしようなんて証拠隠滅もせず、鍵のかかる机にしまい込んだか、殿下はご存知ではないでしょう。
私自身への不快感などが理由であれば諦めるしかありませんが、そうでなければもう少し機会が欲しかったのです。
世事に長けたミアは、これはワンチャンありますよ、と言ってました。
「それで宜しければ」
「ご迷惑をお掛けしないように頑張ります。宜しくお願いいたしますね」
私は紅茶を飲み干して、お茶請けを頂いてから、とりあえず殿下が暖かいお茶を飲めるように、ティーコジーを作って手紙に同封しようと思いました。
……手紙に贈り物を付けるのは、ご令息がたの常套手段ですよね?
到着当日に書いた手紙:
『拝啓
紅葉も見ごろを過ぎ寒さが身に沁みはじめましたこの頃、メイソン・ウィンズベリー様におかれましては、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか。
本日は急な訪問を快く受け入れてくださりありがとうございました。
殿下を最後に拝見した婚約式より半年余り、心穏やかに過ごしておりましたが、頂いた手紙のことを想えば胸が高鳴ります。
今後の婚約については殿下のお考えもおありでしょうが、ただ今はなによりこの城で殿下のお姿を拝見できたことを幸いに思っております――』
◇◇◇◇◇
この城が側を流れる川の名を取ってカーヴ城として造られたのは、400年ほど前のことだといいます。
中央部分の城はこぢんまりとしていますが、特徴的なのは城を囲む一際高く立派な城壁です。壁には張り出したかたちで円塔が6つ作られており、いかなる遠方からの、どの角度からの攻撃にも先手を取れるようになってい――ました。
ました、というのは、長い年月のうちに必要な補修がされなかったからです。円塔は一部使用不能、城壁のみならず城の外壁のあちこちも崩れてしまって、ところどころ雨漏りをし、隙間風が吹いています。
数年前からは、ここに駐留してきた騎士団の方々からも耐えられないと苦情が多く上がっていたそうです。
そんな風なので、私に殿下が用意してくださった部屋は、貴重なまともな部屋――殿下のお部屋側の客用寝室でした。
ここは隙間風も入りませんし暖かいですよ、と綺麗に掃除してくださった殿下の部下の方に言われれば、城での生活の大変さが窺い知れました。
その後バーネットさんに一通り城内を案内していただいた後には、本当に頂いた部屋のありがたさを実感します。
殿下が私を怒られたのも、やはり心配されてのことだったのでしょう。ポジティブ過ぎかもしれませんが。
私は薬品の調合を自室の片隅で行うこととし、他にも自分のことは自分で何とかすることにしました。
侯爵家では大部分が使用人任せでしたが、魔法学院で薬学専攻を担当されていた先生――私にとっての薬学と魔法のお師匠様は、研究に集中している時には寝食を忘れた末に倒れてしまうような人でしたから、私含め弟子は皆、卒業までに一通りの家事と看護は出来るようになっていました。
ところで、皆さんが使う薬を保管するため、倉庫を掃除していた時のことです。
「隊長、例の書類はどこですか」「隊長、靴下が不足しています」「隊長、ちょっとこっち抑えててください」「たいちょー、エールお代わり」
「……あああ、うるさい! 順に言え!」
聞き慣れない殿下の叫びに食堂を覗いてみると、雨漏りバケツを避けながら動き回っているメイソン殿下の姿が見えました。
あっちからもこっちからも頼られる殿下は、矢継ぎ早に指示を出したり回答したり。私が無駄のない動きに惚れ惚れしていますと、ふと入口の方を見られて、私と目が合い――憮然とした表情でぴたりと止まりました。
「あれ隊長、この方が噂の婚約者ですか?」
「――アイリス嬢、もう昼ですが、まだお帰りになっていないのですか」
次々に集まってきます隊服や鎧下の姿の部下の方々を背負って、殿下は言い放ちます。
殿下の背後から注がれる好奇心に満ちた目に、私は居心地悪く身じろぎしそうになりましたが、失礼にならないよう礼をします。
以前夜会で見知らぬ男性に手を引かれた際、無作法にもグラスの中身をぶちまけ衆目に晒された経験が生きたようです。
「しばらくお世話になります、殿下。
薬を作る必要もありますし、バーネットさん経由でお伝えした通り、薬品の保管と扱いについてもお話ししなくてはなりませんし。……今、お話しできますか?」
「見ての通り私は……忙しい。文書で渡してくれ」
気まずそうに顔を逸らされたのはやはり、仮にも王子がこんな雑よ――いえ、紛うことなき雑用ですね――を部下に頼まれているからでしょうか。
バーネットさんは殿下の従者ではありますが軍属ではなく仕事には不干渉のようですから、お一人でされなくてはならないのでしょう。
今日拝見した限り、本来ならこの城の全員で、訓練の他にも食事や洗濯などの日常の用事の他、殿下の指示に従って城の改修・補修を行う……はずなのですが、正直、殿下の指示は軽視されているようです。
「殿下に何でもかんでも頼むからだ」
「何だよ突然やってきて、女と遊んでる暇があったらとっとと王都から物資と人手を引っ張ってくればいいのによ。この前だって魔物の襲撃で怪我人が出てんだぞ」
後方支援部隊らしき、黄土色っぽい制服の方が言えば、反論の声が上がります。
おそらく何日も入浴していないであろう臭いをさせた男性が、私の全身を値踏みするように見ましたので、少々背筋に寒いものが走りました。
が、殿下が彼に振り返ったはずみで視界が遮られました。そのおかげで、私はさりげなく一歩下がることができました。
王都からいらした殿下直属の方々は、既に殿下とお知り合いで支援部隊出身のためか、真面目に修理などに勤めていらっしゃいますが、現地で戦闘中心に頑張っていらした方々とは溝があるようでした。
そして私は異物である殿下より、もっと異物、異質なものなのでしょう。私は殿下にとって、女とか、遊ぶ、とかいう定義には当てはまらない気がするのですがそこは置いておいて。
「……その補給品を彼女が持参してくれた。これで怪我人の手当てもできる」
「はい。私は王都の魔術師団所属の薬師ですので」
殿下の言葉に頷けば、殿下ははっとしたようにこちらを向きました。
先程の男性が声を上げられます。
「じゃあとっとと渡してくださいよ。何だったらここで塗ってもらいましょうか」
「分かりました、でもその前に必要な方はご入浴を。清潔でなければ治るものも治りませんから。……こちらに医師や薬師の方は?」
「アイリス嬢、ここには軍医がいるし応急手当なども各自慣れたものだ。貴女がする必要はない」
メイソン殿下は険しい顔になりますが、心配からわざと作っておられるようであまり怖くはありません。
「少し見て回りましたが、おそらく間に合っていないように思います。……小さな怪我からでも感染症にかかる恐れはありますから、私が皆さんの手当てをします」
「アイリス嬢――」
「文書だけよりも、その場で使用方法もお伝えした方が効率的だと思います」
お師匠様は自分が怪我や病気にかかるたびに弟子たちに見せたがっていたことを思い出します。
眉を寄せた殿下は、少し考えてから、
「……解った、どうしてもというなら同席する」
「お忙しいのでは……?」
「同席する。仮にも婚約者の女性をこいつらの中に放り込んでおけない」
何気ない一言だったのでしょうが、そんな風に言っていただけて嬉しくなります。まだ、婚約者と認めていただけるのだと。
「仮だと言った。仮だ。まだ書類上は婚約者だからな」
「承知しています」
殿下は私の顔を見て気まずそうに釘を刺されますが、釘を刺さなくても良く分かっています。撤回していただくためにここまで来たのですから。
まあ……私のことはともかく。
ここでの生活を少し見ただけでも、あらゆる環境の改善が急務なように思えましたので、これも好機と手当をしながら城内について知ることにしました。
殿下に手伝っていただき、怪我病気その他不調を拝見します、と皆さんにお伝えしていただいたところ、食堂には十数人の方々が集まりました。
殿下は何故か私の隣に座って、どうやら手当方法を見学しつつ今後は自分でもされるつもりのようです。団員の方の様子から私の服薬指導などまで大変細かくメモを取っています。速筆ですが読みやすく几帳面な文字でした。
また直属の部下の方はともかく、元々駐留していらした方たちに鋭い目を向けていたのが大変印象的――印象が悪い、のではないでしょうか。
「軽い風邪の方が多いので、喘息ならないよう早めに休息と薬を差し上げてください。
それにひび、あかぎれからも雑菌が入り込みますので、保湿の塗り薬を作りますね。仕事の効率にも影響が出ているようですから」
一通りの診察が終わるころには、厨房から夕食の匂いがたち込めてきました。流石にそろそろ邪魔になってしまうので、私は自室へ一度戻ることにします。
ですが、その後を何故かメイソン殿下が着いて来られます。
「……殿下? 何故付いて来られるのですか?」
「気付いてないのか。久しぶりの若い女性に触られ……接触した男たちが、貴女にどんな目を向けていたのか。部屋まで送ろう」
「どんな、って……。美形で有名な姉妹ならともかく、私ですよ。お忙しいでしょう。これ以上お手を煩わせるわけにもいきません。一人で帰れます」
「少なくとも、貴女が若い女性だからと、大したことのない症状でも見せに来たと思しき者たちがいた」
殿下は私に何かないように気を配ってくださっているのかもしれませんが、いらした方々の理由はそれだけではないような気がします。
「皆さん小さな怪我には慣れてしまっているでしょうが、大怪我をした同僚がいるのだから医師の診察を受けるまでもないと、遠慮されている方もいました。
病を招く不衛生や寒さに対する、小さな我慢を話してくださいましたが、こういったことは医師には話しにくいでしょう」
「……そうか、気付かないとは上官として失格だな。前隊長からも魔物と戦うのが任務だという声が大きく、部屋より城壁の修理を優先していた。多少の寒さは耐えられるものかと」
「いえ、殿下がいらっしゃる前のルーチンで慣れているのか、単に自室の修理を自分ごとと捉えていないようです」
殿下はまだ仕事に戻られない様子ですが、まさか魔法で吹き飛ばすわけにもいきませんからそのままエスコート? していただくことにします。
「それに……僭越ながら、殿下もご自身が頑張りすぎて小さな不満を飲み込まれているから、住環境などを他人にも耐えられると思われてしまうのでは?」
「そうか。そう見えるか。……確かにな。物資も人手も理想に遠く及ばないせいもあり、そう思いかけていた」
殿下は私の差し出がましい発言にも頷かれます。部下の方々への物言いは少々横柄なところがありますが、見ていれば割合面倒見の良い方だと思います。ただ診察の件と同じく何でも自分で抱えてしまうから追いついていないのでしょう。
「寝不足は、思索と健康に悪影響ですよ。昨日も遅くまでお仕事をされていたのではないですか?」
「……見ていたのか」
「慣れない場所で寝付きにくくて、廊下へ少し。……扉から遅くまで明かりが漏れていましたから」
それに実は診察中に近くで見て気付いたのですが、殿下の目の下には薄っすら隈ができているのです。
「私のお師匠様はよく倒れてましたが、そのたびに余計に看病の手間がかかりました。部下の方を思うなら休まれてください」
「貴女は王立の魔法学院で学んでいたんだったな」
「はい」
少し会話を交わしていれば、すぐに部屋の前に着いてしまいました。殿下のお顔は、食堂にいた時のお仕事モードからは少し緩まれているようです。
もしや、これは休んでいただくチャンスなのでは。
私は扉の前でありがとうございました、と頭を下げ――緊張で鼓動が早くなったような気がしますが、何とか無害そうな微笑を浮かべました。
「お忙しいと、思いますが……あ、あの……今日はお付き合いいただいたお礼に、お茶でも……いかがですか?」
◇◇◇◇◇
蓋を開けたティーポット。意識を集中させた指先から蛇口のような水の流れを注ぎ入れ、今度は熱を発生させてじわじわと温めれば、こぽこぽと泡の立つ音が聞こえてきます。
次いで炎を暖炉の薪に灯すと、暖かな光が広がりました。
「見事だな。火を出さずに温められるのか」
「ありがとうございます」
もしお世辞でもメイソン殿下に褒められれば、自然と私の口角は上がってしまいます。
そして殿下の目に感心したような色があった気がして、調子に乗ってしまいます。
「私の魔力は少ないので、従軍する魔術師のような魔法は使えません。ですが何かできることはないかと魔法学院に学び、お師匠様に様々な応用と魔法薬の作り方を教えていただきました」
魔力は、魔法を扱う力の最大量――肉体で言えば体力のようなもの。
人それぞれ得意なことに差があるように、魔力も魔法への適性も個人差が大きいものです。素質を実際に魔法・魔術という形で使えるよう、心得と共に指導するのが魔法学院の役目です。
私が珍しく親にねだったのがこちらへの通学でした。
結果的に仕事に繋がり、貴重な学友を得られ、自活力が付いたので本当に良い選択だったと思います。
「普通の薬の調合には勿論、魔法薬の作成にも一時的な使用が殆どなので、魔力量はたいして必要ないんです。
魔力が少ないからというのもありますが、コントロールには自信があるんですよ」
私は湯気の立つティーカップを、ソファに座る殿下の前、古いローテーブルに置きました。
「……美味いな」
少し目を丸くして。殿下が口を付けられてから出た言葉に、私はもっと嬉しくなりました。
私もお茶に口を付けます。……ちゃんと美味しくいれられていました。
「カモミールをブレンドした紅茶です。王宮のお庭で殿下とお茶を頂いたとき、とても綺麗に咲いていたのを思い出しまして」
「華やかな場所は苦手なんだ。……今考えるとあんな隅の庭などでは失礼だったか」
「いえ、あの場所がお好きなのかなと。……皆が誉めそやす華やかな薔薇園よりも、落ち着きます」
「気を遣わなくていい」
眉を寄せられてしまいました。
心からの、本心なのですが。
……そう言いたいのですが、どこか拒絶するような空気をまとっていらっしゃいます。
「……私が仕事で君を待たせてしまったとき、兄がその間、話し相手を買って出てくれたのだが……君は楽しそうに笑っていただろう。
私はやはり女性をもてなすのが苦手だ」
「そんなこともあったかもしれません……いえ、事実としては覚えているのですが」
笑っていたかは定かではないのですが、王族の方にそれを言うのもと口ごもってしまいました。
というのも、華やかな方々には気後れをしてしまって、いつも自分が変な顔になってはいないか、不自然な行動になっていないかばかり気になってしまうからです。
「……冗談がお上手なお兄様がいらっしゃるのですね」
「私が15人の中で飛び抜けて下手なだけだ。冗談も、女性どころか人への接し方も。王太子に騎士団長、司教に、新たな術式を編み出した魔術師――監督生の弟たち」
私は静かに頷きますが、殿下の淡々と語る声の中に苦みを感じ取っていました。
それはきっと、私が兄弟に感じているものと、同じものです。
「私は今では栄転とは名ばかり、現地の兵をまとめられず雑用ばかりしている」
「そんなことを言ったら、私だって侯爵家は長兄が結婚し継いでいますし、もう一人の兄は家を出て、姉も妹も、名家に嫁いでいます。小姑がいつまでも居座ってお義姉様に申し訳ないです」
「それで早く家を出たいのか?」
探るような目に凍り付く思いです。
私は口下手なのです……これでは殿下を利用して結婚して家を出たいから、ここまで来たと言ったようなものでした。
私はそこまで不敬でも自信家でも利己的でもないつもりです。
たしなみも忘れ、勢い良く首を横に振りました。
「いいえ、全く! この縁談がまとまらなくても――結婚せずとも生きていけるように仕事で居場所を作りました。腰掛けなんて揶揄もされたことがありますが、お師匠様もずっと独身で研究一筋ですから、それでいいと思いまして」
「君ならいくらでも相手がいるだろう」
「まさか。侯爵家だからといって相手がすぐに見つかるわけでは……パーティーでも逃げていましたし」
侯爵家出身ではありますが、目立たない私はそうとは思われないことも多く――思われても何かと面倒な噂話に挙げられるのは嫌で、隅っこに逃げていました。
同じような隅っこ仲間の方たちと、恋愛や駆け引きとは無関係な、のどかな交流をするくらいでした。
「私などに声を掛ける方なんていらっしゃいませんよ」
「数年前だったか、王家主催のパーティーで絡まれていたのを見かけたことがあるが。場に相応しくないと私が声を掛ける前に、兄がごく自然に割って引き離した。
そして、でも、君は……」
「な、何かしでかしたでしょうか」
残念ながら、ろくなことをしていない自信ならあるのです。
ですが殿下は眉間の皺を緩められますとなぜか戸惑われた表情で、
「兄に礼を言うと、私にも、助けてくれようとしたことに礼を言ってくれた。大抵の女性は兄に夢中になって私など目に入らないから、意外に思った」
……そんなこともあったかもしれません。王族の方々を前に恐縮して俯いていた記憶しかないのですが。
しかし、殿下が庇ってくださったなんて、忘れていたのが申し訳なくもったいないです。
今の私がその場にいたら、式典用の軍服で着飾られた殿下の凛々しいお姿を、じっくり観察できたでしょうに。
「それは私も同じです。男女関係なく、兄に取り次いでくれとか……男性に呼び出されたと思ったら手紙を姉妹に渡してくれ、などとよく頼まれました」
正直なところ、当初は殿下とのお見合いも乗り気ではありませんでした。
今まで何度か見合いめいたお茶会をしたことはありますが、両親と姉妹の美貌を期待した方々は、大抵は残念な顔をされます。
気の利いた会話などもできませんから……盛り上がるどころか低空飛行しかしない燕のごとき経験をするたびに、結果はする前から分かっているのだと思っていましたから。
今回も、経緯は違えど似たようなことになっていますし。
紅茶に浮かぶ自分の顔は、殿下の前なのに浮きません。
私が俯いていると、何故か殿下は焦ったように早口になりました。
「だからその……それが印象に残っていた。結婚願望などあまりなかったが、貴女なら一度会ってみてもいいと思っていたのは本当だ」
「そんな。私のような地味な女に失望されたのではと……」
だって、婚約までに会話が盛り上がった覚えがないどころか、会話自体殆どした覚えがないのです。
「地味ではないだろう」
え、と思って顔を上げれば、殿下が淡々と続けられます。
「あの時の男の目には君に対する欲があった。
……その、貴女のような人は……話下手で済まないが……控えめというのではないだろうか。地味というが黒髪は艶やかだし、……瞳も名のようなアイリスの花の色をしていて似合っていると思う」
「……え」
私は思わぬ言葉に、今度こそ間抜けな声を出してしまいました。褒められたのになんという失態。
というか、殿下、台詞が長いし、多分そんな意図はないのだと重々承知の上ですが、甘いです。
「……不意打ちです」
「そうか、素直な感想だが。……ああ、普段、私の感想など誰も気にしないからつい馬鹿正直に言ってしまう」
殿下、それは追い打ちというものです。
私は動揺のあまり、震える手でティーカップをソーサーに置きました。
「いえ……社交辞令でなくて、嫌われていないようで嬉しいです」
そう言えば、社交辞令は苦手だ、と呟いた殿下の目が少しだけ眇められた気がしました。
「そ、そろそろお時間でしょうから、今日のお手紙をお持ちしますね」
私は立つと、机の上に置いておいた封筒と、簡単に縫ったティーコジーを重ねて机の上に置きました。
頭頂部に輪が付いた平べったい帽子のようなキルティングは、ティーポットの上から被せて保温するためのもの。寒いだろうからと布をいくらか持参したのが幸いでした。
「手紙と、ありあわせで作りましたがティーコジーです。遅くまでお仕事に集中されていると、お茶が必要でしょうから」
「……ああ……その……貰ってもいいのか?」
戸惑われている殿下ですが、勿論というふうに私は頷きます。
「初めての贈り物がこんなもので申し訳ありません。王都に帰るのはまだ先ですが、そうなればもう少し殿下に相応しいものを」
「まだここにいるつもりなのか?」
「はい。薬の在庫も確認しましたが、皆さんの症状に合わせて幾つか作り置きをしたいです。
それから、そう。殿下のメモを今日隣で拝見していましたが、団員の方たちの名前、病状、薬の使用方法や使用量など分かりやすくまとめられていて――ついつい私たち薬師は文書だけで残しますが、私、感動しました」
「感動……?」
首を傾げられる殿下に、私はこくこくと頷きます。
「はい、人体図も描かれていてとても分かりやすかったのです。一目で分かるってすごいことです。本当に殿下の仰った通り、私がいなくてもメモがあれば大丈夫そうです。
それにお城の修繕の知識はないですけど、薬品倉庫がとても整理されていました。リストや配置も考えられていて王都の倉庫より使いやすいくらいでした」
私はぶしつけにならない程度に微笑みます。殿下のお顔はつい見とれてしまいそうなのですが、仕事の話を交えていると頭がすっきりしてくる気がしました。
それですっきりした分、覚悟が決まりました。
多分これが私にとって最初で最後の恋で、我儘です。
殿下は多分ご自覚がないだけで、地味な部署にいるだけで大変有能な方なのです。私のことも含めて、周囲を良く観察されている。
そういうことに、婚約解消を言い出されるまで気付かなかった私にはもったいないくらい。
「殿下に足りないのは自信だけな気がします。ですので私は有給が残っているだけお手伝いしますし、毎日良いところをお手紙に書いてお渡ししますね。それで、たまにはお茶を飲みに、温まりに来てください。……お仕事中、指先、冷えてましたから」
「っ……」
何故か顔を赤らめる殿下ですが、しかめっ面より幼い感じがしまして可愛らしいと思います。
ただ、王子のイメージとしてはそうはいかないのでしょう。難儀ですね。
私は、残念王子なんて揶揄されている方に――そうとは全く思えないのですが――もし婚約を解消されたら、もう嫁ぎ先はないでしょう。
それでも私がここでできることをして、殿下が解消を望まれるのなら、それはそれで仕方がないことなのです。その後はここでの経験を持って、お師匠様の世話をしながら薬を作って過ごすのも、それはそれでいいのかもしれません。
でも、きっとこの方には他にも良さを理解してくれる、素敵な女性が見つかるはず。次のお見合いまでに自信を付けていただければと思います。
だから受け取ってくださる関係のうちは、殿下にお手紙を書き続けたいと思うのです。
◇◇◇◇◇
到着後翌日~の手紙:
『今日も手紙を受け取ってくださりありがとうございました。
王都から持参した茶葉の中で、お好きそうなものを選んでみました。私は南方の高山のものが好きですが、殿下はいかがでしょうか』
『食堂天井の修理が終わりまして、皆さんほっとされていることと思います。殿下を仕事が丁寧だと褒めていらっしゃるのを耳にしました。
川から物資が運ばれているのを見ましたが、今後補修が進むのでしょうか』
『殿下が作業している横顔は大変精悍でいらして、』
『殿下が素敵でした』『殿下は』『殿下に』……。
何日かここで過ごして分かったことは、とにかく予算が足りていないということでした。
それは殿下が優秀な方だとしても如何ともしがたいでしょう。
第三騎士団の方々は、交代人員がいないとかで度重なる帰還延期に疲労の色が濃いようです。
更に、今までここをまとめていた隊長は殿下が来たことで、副隊長と呼ばれてしまったことも、大きな不和の原因のようです。今まで通り――つまり殿下の意向と指揮などなかったように――魔物の襲撃に対応しています。殿下が受けるのはしばしば事後報告だけなのです。
殿下の部下の方――騎士団の後方支援部隊の方々は、上意下達ができていない、士気が低いと前者を非難はしますが前線に出て自ら戦うことは任務ではないため、以前からいらしている方から見れば、汚れ仕事を押し付けているようにも、雑用係にも見えるでしょう。
つまるところ、毎日殿下は苦心して、城壁やあちこちの修理の算段を付けて進めようとしていましたが、後者の人数だけでは捗らず、指示に従うべき前者は殿下の命令は聞き流すという状況のようでした。
追加の人手を雇えればいいのですが、予算の多くは石材の購入に割り振られていたようです。不足すれば、いつの間にか殿下の仕事に雑用まで含まれていて、それで先日食堂で見たようなお姿だったわけです。
私は手紙で、遠目に見る殿下や城の様子を見てここが良かったとか、進捗を毎日褒め続けていましたが、お役に立っているかは正直分かりません。
殿下が部下の要望を叶え、不満を取り除けば慰撫になるのでしょうが、それぞれ全く課題も要望も別なので、優先順位を付ければ結局非難を受けるのは殿下ということになります。中間管理職の痛いところです。
それも予算が少ないため遅々として進まず、責任を背負い込んだ殿下のケアをしてくださるのは実質バーネットさんお一人のようです。
私はそんな中、少しでも役に立てばと不足分の薬を作り続けていました。
「お話は変わりますが、ご希望でお持ちした傷薬の軟膏が既に少し固くなり始めていました。おそらく厳冬期には凍ったり変質しますので、保管方法に工夫が必要になるかと思います」
バーネットさんは時折顔を出してくださいますので、その際、殿下へ伝言してもらいたく仕事の報告をします。
「解熱剤、咳止め、去痰剤、頭痛薬、傷薬に火傷用の湿布に、消毒薬……保湿剤、色々。可能な限り魔力で日持ちさせておきますね」
この中で早速幾つかは役に立っていました。
魔物によって怪我をした方、あかぎれなどで手から血が滲んで作業を止めていた方々が、水仕事や修繕の仕事に取り掛かることができましたし、風邪の方の調子も上向きました。
おかげで、殿下自ら雨漏りバケツや雑巾を持って歩いたりすることはなくなりました。
「帰るまでに一冬分作れるよう、頑張ります」
「ありがとうございます……っ」
ぶるりとバーネットさんが身を震わせたのは、少々薬臭い部屋を換気しようと開けた窓から、秋風が吹き込んだからです。
今年の冬は例年より寒くなりそうだ、と出立前に同僚が言っていたことを思い出します。
薬作りは、薬草や石や、人にはあまり見せたくないような材料を、焼いたり煮たり、混ぜたりすり潰したり、工程は料理に似ています。
指先に魔力を込めればぼんやりした光が雫を垂らすように落ちて行きました。
出来上がった丸薬や粉薬などにはラベルを付けて、リストを作っていきます。
「液体の魔法薬はあまり量が作れないのですが、病後の方にも飲みやすく見た目も綺麗なので人気があります。お師匠様秘伝のラズベリーチョコレート味もできますよ。こういう状況ですと甘いものが手に入りにくいので」
お師匠様は時々それを食事代わりにしていたのですが、騎士団の方は流石にそんなことをなさらないと思います。
バーネットさんにはメイソン殿下は何味がお好きですかと伺おうかと思ったのですが、突如やってきた婚約者が贔屓しては皆さんに悪印象だろうと、思いとどまりました。
「……そろそろ昼食の時間ですね。お持ちします」
「いえ、今日はその後、食堂で健康相談がありますので。そのほか、まだ使っていない薬のご説明をします」
今日のお昼は何だったでしょうか。殿下が配慮して私の分も一食余計に作ってくださるようにお願いしてくださいましたので、助かっています。
余ってなければキッチンをお借りして、切れ端か何かを適当に放り込んでスープにするから良いのですが。
私がバーネットさんと部屋を出て鍵をかけてしまうと、彼は食堂にご一緒してくれました。
彼は普段私に対しては常に微笑を浮かべていて、あまり表情を動かさないのですが、何となく異物同士という安心感があります。
食堂で当番の方から食事を受け取り、隅で暖かいシチューを頂いていると、遠方から「あまりもの令嬢」という言葉が聞こえてきました。
その呼び名を他人の口から聞くのは久々で、どきりとしてしまいます。
何せ殿下と婚約前からのあれこれで、そんなことを言いそうな人がいる夜会はご無沙汰だったからです。
困惑を浮かべているバーネットさんに微笑を浮かべて、耳をそばだてていると、姉妹で一番地味だとか、殿下に釣り合いが取れているとかいないとか、殿下にはもったいないとか勝手なことを話ししているようでした。
――確かに、殿下を慕う方から見ればあまりものなどと結婚して欲しくないに違いありません。
「噂話など気にしないことですよ」
すっと私のシチューに影が被さったと思って見上げれば、他の方たちより線の細い印象を受ける黄土色の隊服、後方支援部隊の方がいらっしゃいました。
金髪碧眼、華やかで涼やかな目鼻立ちはここより王都が似合っているように思います――要するに、相手に非はないのですが、気後れします。
「殿下があなたを放ってたらかしにしているから、いけない。お相手しましょう」
「私が殿下の代りにお相手をしております」
バーネットさんが口を挟みますが、残念ながら無視されてしまいました。
「こちらにはずっと?」
「休みを取って……ひと月ほどでしょうか。それまでに薬を作り終えて冬に備えられればいいのですが」
「ひと月もここにいては寒いでしょう。宜しければ温めて差し上げましょうか」
相手は笑顔です。嫌になるほど笑顔です。
――困りました。
正直に言えば、不快な気持ちが胸にもやもやと溜まっていきます。
この人がそうと決まった訳ではないのですが、断れば揶揄されることが容易に想像できるからです。といって受けては、軽率な女として私も殿下も貶められ、自意識過剰と言われるのです。
夜会なら、こういうどちらを選んでも損だという選択肢からは逃げるに限ります。
……ですが、今ここで退いては殿下にご迷惑が掛かります。
バーネットさんが無言で私と彼の間に入ろうとしましたが、私は立ち上がって、受けて立つことにしました。
「殿下に十分ご配慮いただきましたから、ご心配なく。もし眠れないようでしたら、睡眠薬をお渡ししますが?」
にこりと微笑みながら、内心で次の一撃をどういなそうかとびくびくしながら考えていると、腕まくりを直しながらメイソン殿下がいらっしゃいました。ラフなシャツとズボンからして、どこかで大掛かりな作業をされていたのでしょう。
華やかな方と服装だけではどちらが上官か分かりませんが、実務を担当するというのも人の上に立つために必要な資質で、経験だと思います。あと、腕の筋が色っぽいです。
「――お前、私の婚約者に何か用でも?」
殿下がぎろりと擬音がしそうな視線で部下の方を見据えました。
「いやですね隊長。婚約は解消されるおつもりなのでしょう。ミス・オースティンにも次の、いえ将来の選択が複数あるのは望ましいのでは?」
「……それは」
「王族に婚約を解消されたご令嬢へ向けられる、世間の冷たい視線をご存知ないんですか?」
殿下はすぐに渋面になられてから、私にもちらりと視線を向けました。
「……アイリス嬢も……軽率だ、油断するな」
「申し訳ありません」
「……殿下、彼女を責めるのはお門違いでしょう。婚約破棄されるのであれば名前を呼ばれるのは少々馴れ馴れし過ぎるのではないでしょうか。束縛の必要もないでしょう」
彼の華やかな笑顔の裏に喰えないものを感じて、私は胸がざわつきます。
お互い大声ではありませんが、王都から来た上司部下のぶつかり合いに、ちょっと人目を惹いていますし……。
と、そんな時ちょうど良く昼食の終わりを報せる時の鐘が鳴りましたので、私はこれ幸いと声を上げました。
「――時間ですね。二人ともお仕事にお戻りください」
正解だったようです。
ではまた、と微笑んで恭しく私に頭を下げて去る彼を見送ると、何故か殿下はため息をついてから、私に胸板が触れそうなほど近づいて見下ろされました。
普段から鋭い目つきがいっそう鋭くなった気がして、私は目を逸らして視線を殿下の胸辺りに落としました。
「あいつも貴族の出だ。貴女を迎えるのに……」
「そうですね。あまりものですので、王家にはふさわしくありません。我が侯爵家ではどなたでも歓迎でしょう」
私はなるべく冷静にお返事したつもりでした。
事実、そうなのです。両親も流石に後妻とか、相性の悪い方に無理に嫁がせたりはしないでしょうが。
「あまりものなど……そんな意味じゃない」
戸惑われる小さな声に、私は努めて明るい声を出します。困らせるつもりは毛頭ないのですから。
「ありあわせで色々作るのは慣れていますから。食事も、薬も。普段捨てられてしまうものを十分に利用することは、消して悪いものではありません。
……私も仕事がありますので、失礼いたします」
私は一歩、二歩と退き、軽い礼を取るとそれから殿下に背を向けて離れ、すぐに持参した薬品鞄を開きました。
殿下からの視線をひしひしと感じますが、暫くしてお仕事に戻られます。
その代わりバーネットさんが同席してくださいましたが。
今日も、軽い怪我や病気で悩まれている方の相談に乗ります。悩みを掬い上げて対処する方法と薬を置いておけば、殿下や皆さんに、こんなあまりものの婚約者でも役に立つと思っていただけ……るの、でしょう……か。
私は自信がなくなってきましたが、軽い相談業務と自室で今日の分の薬作りを終えると、殿下へのお手紙はいつも通り書くことにしました。
私がどんな人間であれ、殿下の今日のお姿を思い出せば褒めるところはいくらでも思い付きました。
割って入ってくださったこと、近くに寄ったのもおそらく他の方に会話が聞かれないよう気遣ってくださったのでしょう。
――ですがそれは、私が招いたトラブルなのですよね。
結局今日の私は、仕事の報告書のような文章を書いて、バーネットさんにお渡ししただけになってしまいました。
◇◇◇◇◇
昨夜、無理やり早いうちに就寝してしまった私が目を覚ました時には、まだ室内も窓の外も闇に沈んでいました。
体を起こして外をぼんやりと眺めているうちに、東の山の端あたりが少し明るみ始めて、朝が来たことを知りました。
再度ベッドに寝転がることも考えましたが、メイソン殿下の顔がちらついて寝付けそうにありません。
何を間違えてしまって、あんなお顔をさせてしまったのでしょうか。
それで何故私は、逃げるように話を打ち切ってしまったのでしょうか。
――きっと、来たことが迷惑に、部下の方との不和の原因になってしまうから。
……それだけ?
私は胸にかかる髪を緩く結い、軽く身繕いを済ませると厚い外套を羽織り、革鞄と共に城壁の上へ散歩に行くことにしました。
まだ薄暗いですが、あちこちにかがり火がたかれ、松明がかかり、見回りや見張りの方たちもランタンを持っているので安心です。
私もほんのり足元を照らすばかりの灯りを、自身の、携帯用の短い魔法の杖の先に灯して歩きました。
城壁はあちこち壊れて崩れてはいるものの、歩くのにおおむね支障はありません。落下しないようにきちんと仮の柵が立てられています。殿下の気遣いは完璧なのです。
人目を避けて歩けば、補修中の円塔と壁の間に、ちょうど死角になりそうな場所を見付けました。いい感じに積み上げてあった石材に腰を下ろします。なかなか滑らかで座り心地の良い石肌です。
しばらくは使われずにここにあるのでしょう――というのも、昨日バーネットさんから伺ったところによれば、城壁の修理よりも居住性向上を優先することにして、作業従事者となる臨時の人手も何とか雇ったそうです。
冬のための薪と石炭も着々と貯蓄されていました。
ただ、余計なお世話かもしれませんが、私が王都に帰ったら現状を報告し、王家の方々に配慮を求めてもいいのかもしれません――まだ婚約者でいられるなら。
……婚約者でなくなったら、王都から援助とか、薬を送ったり、できなくなってしまうでしょうか。
殿下がもし凍死でもしたら……なんて考えてしまいます。
そう考えると、これを「栄転」なんて言ったどなたかにもふつふつと怒りがわいてきました。
あんまり考えるとイライラしそうなので、マグカップに白湯を沸かして茶葉を入れ、実家から持って来たジンジャークッキーをぽりぽり齧ります。
自分の機嫌を取れる手段を複数持っておくものだとは、お師匠様の教えでした。
人目がないのをいいことに遠慮なくクッキーを齧っていると、角から急に殿下のお姿が現れて、私は慌てて口元を拭いました。
殿下も目を丸くしています。やはり元々は少し童顔なのでしょうか、飾らない表情は可愛らしく見えました。……というよりもしかして、幼く見えることを気にされていつも目つきを鋭くされているのでしょうか。
「……し、失礼いたしました」
「あ……ああ、気にするな。邪魔したのは私だ」
殿下は見回りなのでしょうか、軍服の上に外套を羽織っていましたが、立ち止まって見下ろされます。
……やっぱりお邪魔でしょうか。これからここで秘密の会議があるとか。
そう思って腰を浮かせかけますと、やんわりと手で制されました。
「いや、いい。ところで……なぜ昨日は手紙が報告書になったんだ。昨晩部屋を訪ねたが返事もなかった」
「……済みません、昨日は早くに寝てしまって」
いつでもお茶を飲みに来てください、なんて言っておきながら、起きていれば直接お断りをしなくてはいけなくて。私は無理やり寝てしまったのでした。
「いや、慣れない場所で疲れもするだろう。……座ってもいいか?」
「……はい」
殿下は側に積み上げて合った別の石材に腰掛けられました。
相手が王族じゃ断りにくいか、と殿下は聞こえないほど小さく笑い……ましたが、それが自嘲であろうことは解りました。
それきり黙ってしまわれたので、私は鞄の中からクッキーを取り出します。
「殿下もジンジャークッキーを召しあがりますか? 温まりますよ」
「……では、せっかくだから頂こうか」
「我が家のコック自慢のレシピなんです。子供の頃から好きで」
緊張しながら見守っていますと、殿下も一口食べられて目を少し見開かれました。
甘さ控えめ、ショウガがピリリと効いた味。温まるし、風邪に良いのです。
「美味いな、王家のとも違う」
「ふふ、でしょう?」
私は褒められて嬉しく、つい笑ってしまいました。
「何で貴女が自慢げなんだ」
「コックは家族みたいなものですから――侯爵家主催の会食やパーティーも、苦手なのを知ってせめて食事は楽しめるようにと気遣ってくれました。
子どもの私にとって、彼らの手にかかれば苦手な野菜が、綺麗で美味しい食事に変わっていくのも魔法のようでした」
初めて見た魔法は兄か姉の使った光を出す魔法だったと思いますが、同じかそれ以上にすごい魔法に見えたのです。
「可愛いお菓子だけじゃなくて、野菜の切れ端からできる信じられないほど滋味深いスープも。
だから私の薬師を目指すうえでの原風景、のようなものなんです。あまりものにもあまりものなりの使い道と価値があるのです」
「……」
あまりもの、という言葉に殿下は視線を膝に落とされてから、私に褐色の目を向けられました。眉間に皺は寄っていません。
「時々邪魔しに行って――おやつも貰いました。毎回甘いものという訳にいきませんから、多分これは両親との相談した上の、愛の塊ですね」
だからこそ、食べると元気が出るのです。
「そんな大事なものを私なんかにあげて良かったのか」
「お互い様では。……殿下はこの場所がお好きなんでしょう?」
「良く分かったな」
「ここを見付けられたこともですし、この石、不自然なくらい座りやすかったんです」
殿下は息を呑むと困ったように俯かれました。
「貴女はきっと、私と違って誰にでも優しいのだろうな。
だから……はっきり言って欲しいのだが、いつも通りの手紙ではなかったのは、あいつが、ヘイデンというのだが――あの男が声を掛けたからだろうか」
私が一瞬意味が解らず目を瞬くと、殿下はもう一度言い直されました――まるで自分を傷つけるように。
「もう私には興味がなくなったのか、と聞いている」
私が横に必死に首を振りますと、疑いを含んだ顔をされます。
「……そうなのか?」
「何故です。むしろ私はメイソン殿下にお勧めされたのかと思いました」
「済まない。昨日は……その方が良いと」
昨日は。
その言葉に、私はちょっとだけ希望を抱いて聞き直します。
「今日もですか」
「いや……」
「それなら良かったです。……そもそも、私、正直に言いますと、お勧めされてもあのような方は華やかな気後れしてしまって……」
ああ、でもこれでは殿下が華やかでないので気後れしない、と言っているのと同じで大変失礼に当たります。
殿下はふうと息を吐いて眉根を寄せられました。
「気にするな、その通りだからな」
「ああいえ、華やかというのは、ああいう言葉遊びもです。
仕事の方がはっきりしていて気楽です。あれとこれを適当に混ぜておいて、なんてあいまいな指示も出されませんし、薬のレシピも、投薬の相手も処方もはっきりしているので」
貴女にあげるつもりではなかった、なんて顔をされることがないのですから。
……私は昔の、遠い過去をつい思い出してしまいました。
まだ幼い頃にほのかな憧れを抱いていた方が、私からお姉様に渡してくれと頼もうとしたプレゼント。つい私が貰えるものと勘違いして受け取ってしまったときの、あの何とも言えない気まずさ。
あれから勘違いしないように心がけてきたのでした。
「……仕事は面白いのか?」
殿下は少し困った顔をされてから尋ねられました。私のことを聞かれるなど意外でしたが、嬉しくて頷きます。
「はい。作る薬は様々ですが、魔法の適性のない人物でも扱えるものが多いところとか」
「……誰にでも使えることが? いや、利用者がそう思うのは解るが、魔術師がとは少々意外で……大抵は自分の力を誇示するものだが」
「私たち薬師は、勿論、新薬の開発者が自分だったら嬉しいというのはありますよ。
ですけど、自分がその場にいなくても、誰かが必要な時にその場で役に立ててくれる。誰かを支えることができるのが嬉しいんです。
まあ、あるのが当たり前になると感謝もされませんけど――ええと、お城の快適性と似てますね。なくなったら初めて存在に気付き、文句を言われるとか」
そうだな、と殿下はしみじみと呟かれます。城壁から見える景色は側を流れるカーヴ川、のどかな麦や野菜の畑、森が視界の殆どを占めています。
村はありますが、王都のように煌びやかな店が軒を連ねていたりはしません。
何より暖かで安全な部屋とふかふかのお布団も。
「……この城はそもそも居住性に欠けるがな。400年前には砦として造られた、あの城の塔ひとつだけだったという」
殿下の指先が、城を構成する一番大きい円形の場所を指しました。
「かつて魔物の大侵攻に対応する必要性から建て増しされ、今の城と六つの円塔、中庭、外郭ができた。あちこち壊れているが、魔物の対処には十分使えるから放棄されていない。私の見立てでは、補修さえすればあと数百年は保つと思ってる」
「そうなんですか」
「……知っているか、この立派な城壁を造る石にも限りがある。
城壁に相応しい石材には限りがあり、切り出す手間があり、職人が要り、運ぶ手間もかかる。
だが切り出した石同士の間を、一つでは取るに足りない小石やモルタルで埋めることで、早く、労力を減らし、少ない予算で皆を守ることができる。貴女の言うあまりものだな」
殿下の指は、ここから見える城の上から精緻な図面を描くように動きます。まるでお師匠様が使う魔法のように。
「叶うなら浮いた金で上下水道の整備と、伝声管と……あの辺りに土塁も欲しいな。せっかくの小型投石器が生かせない」
つい指先に見とれていますと、ふいに殿下が私を見て、不思議そうな顔をされます。
「……面白いか?」
「はい。失礼ながら、お師匠様やうちのコックのような……魔法みたいです。ものを創られる方たちの美しい手ですね」
「……そうか」
殿下は少しだけ、照れたように笑われました。ほんの少しだけ。
……良かった、嫌われたりは、していないでしょうか。
「殿下は図面など引かれるのですか?」
「……まあ、色々な。砦とか、家、武器だとか作るし修理もする。
地図も読むし、土塁も補給線も地図で引いて、手配して、つくる。地味な裏方仕事だが、俺はこの仕事が嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ。……評価はされにくいが」
話し過ぎたな、と殿下は残りのクッキーを口に入れました。
今までで一番、素の殿下に近いような気がして、私は残っていたお茶をお勧めしました。
「……口、付けてしまいましたが。宜しければ」
「ああ、済まない。ありがとう」
「……やっぱり手紙もいいですが、直接お伝えした方がニュアンスが伝わるような気がします」
「そうだな。こんなに話すなんて久しぶりだ」
殿下は笑まれてから、はっとしたように顔を抑えられました。……もったいない。屈託のない笑顔はとても、素敵だったのに。
「そうですか? 殿下でしたら、その、立場以外にだって話を聞きたがる女性など……」
「そんなことはない。仮にも王子だから、今まで婚約者候補として集められた女性たちもいた。今まで何度か、好感を抱きそうになった女性もいた。
……しかしそこに兄弟が姿を現すだろう? おかしなことじゃない。挨拶に来る、通りがかる、仕事で、用事で。
だが皆が皆、彼らに視線を向け気はそぞろになり、人によっては私などいなかったもののように扱われる」
「……それは……分かるような気がします」
「前回もそうだった。お互いに好感を持っているものだと思っていたが、結局は」
殿下は笑顔を嘘のように消し去ってしまって、遠い目をされます。
殿下の、好感を持った方とは……どなたなのでしょう。噂でお相手として何人か名前の挙がった方は聞いたことがありますが。
胸がちくりと痛みました。
「貴女と会った時にもあえて目立たない庭を選んだのに、都合が悪く遅刻してしまって、貴女の相手をしに兄が来た。
兄は王族として当然のことをしたが――あの時は貴女は私の方を見てくれたが、ただの偶然かもしれないと不安だった」
そんなことはないと言いたいのですが、強く否定もできません。
殿下のお兄様に見とれこそしませんでしたが、婚約解消の手紙が来るまで、どうしても結婚したいほどではなかったのですから。
「だが無事に婚約もなされたし、栄転だと言われて不安はあるが発起しようとした。兄弟より優れた部分が欲しかった。そうすれば少しでも自分を見てくれる人がいるのではないかと。
……だが結局、人に認められなければ予算はつかない。思ったよりも時間がかかりそうだった」
やっぱりこの地を勧めた人は意地悪だったんじゃないか、と私は思います。殿下の能力を買ってのこととしても、タイミングが悪いです。私にとっては最悪です。
「王都から離れた北方の地に一人で、ましてや何年先に帰れるか分からないなど……。
先日話した社交の負担は嘘ではない。だが、私にとっても、でもある。
婚約を解消すればもうこんな思いをしなくて済む」
殿下の声はいつしか淡々として、乾いていました。
それは、つまり、他人と自分に期待をしなくなってしまいかけているのでしょう。
声を掛けられると思えば人々が素通りしていくことに、隣に声を掛けることに、それだけでなくその間側で微笑んでいることを期待される私のような平凡な傍観者には殿下の痛みが、理解できる気がしました。
……でも。
「――でもそれはもしかして、殿下が私と婚約を続けても良いということですよね」
私が言えば、殿下ははっと顔上げて、呆れたように。
「どうしてそうなる?」
「……殿下は今のままで十分素敵だと思いますし、お話を聞いてますます素敵だなと思いました。私が殿下をお慕いし続けていれば問題ない気がしてきました」
「話を聞いていたのか? 栄転しようとして躓くような、あいつが言ったように貴女を捨てるような、結局自分と仕事のことしか考えてない男だ」
「いいえ。私が殿下をお慕いしていれば問題ありません。手紙の量、明日から倍に増やして殿下の素敵なところを褒めまくりますね。
――そろそろ戻りますね。お話を聞かせてくださってありがとうございました」
私は立ち上がって殿下に礼をします――すると、殿下の目が大きく見開かれました。
どう考えても私に対するものではなく、私の背後を見るような……。
「……あれ?」
私と殿下の頭上に、足元に、突然影が覆い被さったような気がして……。
「伏せろ!」
殿下の声で私は首を伸ばし、見上げ。
そこに大きな鷲の翼と上半身を持つ獅子の魔獣がいるのを見つけてしまいました。
ただその嘴は赤く燃え盛っていて、くちばしが開いて……。
そして私は咄嗟に、殿下に飛びついたのでした。
若いときは突っ走ることも大事だとお師匠様に激励されて来ましたが、これは暴走だとしても「いい暴走」です、たぶん。
◇◇◇◇◇
フードを咄嗟にかぶった私は、メイソン殿下に覆い被さりました。
背中から後頭部まで炙られたようにかあっと熱くなりますが、幸いグリフォンの口から放たれた炎の一撃はマントを焦がすにとどまります。
とはいえ、半分近く炭化してしまいました。薬師用とはいえ、一応魔術師団仕様の高級品なのですが。
……そもそも普通のグリフォンは炎を吐いたりしないと思うのですが、変異種か固有種でしょうか。
「無茶をするな!」
私に半ば組み敷かれながら、眼下で殿下が叱責、いえ焦られたようで心配してくださいました。
「非礼はご容赦ください」
私が自身の体を起こすより早く、殿下は私を下から抱えるようにして立ち上がり、私の手を取りました。
「逃げるぞ」
旋回して急降下してくるグリフォンの、風圧を背中に感じます。あの鉤爪で背中を裂かれたら、なんて考えたくもありません。
城壁を走り出される背中に、私は慌てて付いていきます。
「見張りは何をやってる……そうか、昨日梯子が――くそ」
殿下は先ほどグリフォンがやってきた方の監視塔に首を向けられてから、悪態をつかれます。
別の塔からは見張り兵がラッパを吹き鳴らす音が聞こえました。
とはいえ、増援が来る前にすぐに追いつかれそうです。
殿下はちらりと周囲に目をやると、一度立ち止まられました。周囲には資材が積んであるだけですが……。
「殿下?」
「先に行け、吸い込むなよ」
私は促されて少し走ったものの、気になって振り向きます。
グリフォンが殿下に向けて急降下し――外套を投げ捨てた殿下が横に飛んで避けられます。グリフォンの鉤爪が積み上げてあった袋を引き裂き、白色の粉が舞い散ってグリフォンの姿を煙らせました。
「水はあまり得意じゃないんだがな」
殿下はこちらに走って来ますと、くるりとグリフォンに向かって振り返り、手のひらから出現させた水の塊をぶつけまして――そして、グリフォンのけたたましい声が響きました。
「モルタルの原料の石灰だ。走るぞ」
殿下は再び私の手を取ると、逃走を再開します。
全身を熱で炙られ、皮膚を溶かされ、速度を落として。それでもなおグリフォンは追ってきました。
城壁の上、柵のように連なる凸凹の胸壁と、凸部分に設けられた細いスリット――矢狭間の間から、こちらに並走してくるグリフォンの姿がちらちらと見え隠れします。
体長は、5、6メートルほどでしょうか。広げた翼のせいで余計に大きく見えます。
途中、城壁の一部に屋根のように組まれた櫓をくぐろうとして、木造であることに気付きます。これはまずいのでは、と殿下に掴まれた手をくいと引くと、走りながら振り返られました。
「水の魔法に適性はあるな。上から遠慮なくかけてくれ」
「はい」
殿下の冷静な声に私は急ぎ、魔力を手のひらに集め、櫓の下をくぐる直前に土砂降りの雨さながらの水をかけました。
間を置かずにグリフォンの炎が吹きかかりますが、濡れた木組みと革を張った屋根はむわっとした蒸気と焦げ臭さを立ち上らせただけで済みました。
あと、殿下の髪に水しぶきがかかってキラキラと光り、平時だったら見とれてしまいそうです。きっと変な顔でしたから、殿下がもう前を向かれていて助かりました。
「そこの塔に入りませんか?」
「あの下は火薬庫だ。右へ行く」
殿下はすぐ側の円塔を通り過ぎ次の岐路を右に進まれ、私は小石を蹴飛ばしながら必死で付いていきます。
踵が低いブーツを履いてきて、良かったと心底思いました。
「入るぞ」
手から温度が離れたと思いましたら、殿下は木に鉄を打った扉を手前に開けて、私の背を押されました。
初めて背に触れられ――押し込まれるようにして入った私の背後で、バタンとドアが閉まり閂がかけられます。
すぐにグリフォンの怒りに満ちた声のような甲高い叫びが響き、ガツン、ガツンとドアが叩かれて、衝撃で木片が飛び散り始めました。
「この扉じゃたいして持たない。下まで降りる」
円筒内部には、外壁に巻き付くように階段が造られていました。上に行けば屋上の見張り部分、下に行けば……倉庫でしょうか。一番下にまで降りれば中庭に出られるはずです。
「殿下、……でも、庭には馬が」
「逃げるのが先だ。下で迎え撃たせる」
「グリフォンって馬、大好きですよね? もし何かあれば他の魔物の襲撃にも、運搬にも影響が……」
それに城の大部分は石ですから燃えにくいのですが、作業用の足場が塔にかかっていたり、板や藁葺きで補修してあるところもありました。
降りるまでの間グリフォンが暴れ回って、これ以上城に損害を、馬の被害を、殿下の負担を増やしたいと思えません。
殿下のために私にも何か――。
何かないかと周囲を見回すと、ここは様々な備品を集めている倉庫のようでした。予備的に使われているのか、物はまばらで空間は広々としています。
「あの――殿下、ここで仕留められませんか。あのグリフォンの炎への耐性はどれくらいあるでしょう」
「火矢をちょっと射かけたくらいではものともしないが、燃えないわけじゃない」
「それ以上の火力ならいけるわけですね。……では、ここをかまどにしてはどうでしょう」
私が咄嗟に思いついたことを殿下に話しますと、力強く頷かれました。
「やる価値はある」
その間にも嘴がドアを突き破り、獅子の腕がドアを遂に押し破りました。
グリフォンは扉から鷲の顔を突っ込みましたが、ドアに打ち付けてあった鉄枠が首に引っかかり、また巨躯が邪魔をして最後まで押し入ることはできません――予想通りです。
私は手元の薬瓶を開けると、部屋半ばまで伸びたグリフォンの頭部めがけて投げつけました。きつい悪臭が立ち上って苦悶の声が聞こえます。
殿下はすぐに私の手を取って、階段を駆け降ります。
苛立ったのか、グリフォンに背後から吐かれた炎が私の外套をあぶり、炭化して遂にぼろぼろと崩れていきました。
ひとつ階下の扉を開け、低い城壁から殿下は叫ばれました。
「大弩弓で縫い留めろ!」
別の城壁の上で、移動式の台に載っている大きな巻き上げ式の弩弓が二台、こちらを向いたのを見て、殿下は扉を閉められます。
上ではまだグリフォンの苦悶の声が聞こえました。
あの薬、一応傷薬なのですが、苦くて、ついでに目に入るととっても染みると評判なのです。
たぶんいっぱいいっぱいでしょうし、私たちが外に行ったと思っても目が使えなければ咄嗟に戻れないでしょう。
――ドン、と塔の外壁に衝撃が響きました。
もう一度。更に、もう一度。
思ったより強い音が私の身体にも響いてきます。
「その、殿下……」
「大丈夫だ、こんなことで崩れやしない」
殿下は安心させるように私の手をぎゅっと握ってくださいます、が。
私は鞄を漁ると、手を振り切って階段を登りました。持ち歩いていた治療用の植物油をありったけ、ぶつけます。
瓶が割れ、中の液体が降りかかります。
目が見えないながらグリフォンはこちらを向き、口を開け……。
「馬鹿、俺に向かって飛べ!」
「はい!」
私が階段の中ほどから跳躍すれば、頭上を熱と炎の塊が通り過ぎ――階下で殿下がしっかりと抱き止めてくださいました。
ええと……見た目よりずっと引き締まってたくましいのですが。こんなことがあっていいのでしょうか。
「聞いてない、何を考えてる、外へ出るぞ」
殿下は私を放すと側にかかっていた長弓と矢を掴み、階下の扉から出ました。
外から見れば、塔内部に上半身を突っ込んでいるグリフォンの両翼が扉の左右、塔の壁に大きな太い矢で縫い留められていました。
獅子の後ろ足がうねり、尾が怒りに振り回されています。
「続けて撃て!」
殿下が塔に向かって声を上げれば、巻き上げ終えた二台の大弩弓が順に、格好の的になったグリフォンの後背に太い矢を撃ち込みました。
殿下もまた弓をつがえて矢を放ち続ければ、鋭い軌跡を描いて次々と背に突き立ちます。
私も手のひらほどの火を飛ばせば、油に引火した火が、身体を覆う矢を薪の代わりにして燃え上がっていきました。
更に殿下が魔法で起こした風が更に塔内の一部屋をかまどのようにして、火が窓から吹きあがります。
「アイリス嬢……見るのが辛ければ背後に」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
円塔の熱から徐々に遠ざかりながら、渋面でもなく本気で私を心配してくださるような瞳に、やはりこの方はいいひとなのだなぁと心が温まります。好き。
……なので私はこの案の仕上げにまいります。
「それでは殿下――お肉の焼き加減はどれくらいがお好きですか?」
***
その夜の夕食には大広間で、殿下たちが仕留められたグリフォンの肉が供されました。
珍しい魔獣ということで、騎士の古い慣例に従いまして殿下が切り分けを行います。
殿下は見事に指揮を執られた上にこんがり焼けた肉を手に入れた、ということで一気に人心とまで言わずとも少し尊敬が集まったようです。
騎士たちが全員ホールに集まると壮観でした。
質の良いエールやパンなども倉庫から少し振舞われて、ちょっとした宴会のようになっていました。
グリフォン襲撃を潜り抜けたり、その後の後始末で追加のひと仕事を終えた皆さんの顔は久々に明るく、所属関係なく会話も弾んでいるようでした。
私は騎士ではありませんので部外者感はありますが、薬用にいい感じに煎じられた爪などの素材も手に入ったので嬉しいです。
……ただ、たった一人、殿下は何故か難しい顔をされていますが。こういった場が苦手だからでしょうか。
「殿下、皆さんがひとつにまとまる機会ですよ。笑顔です笑顔」
「できるか」
私も殿下にグリフォンの肉を少しお皿に取り分けてもらいます。
こんがり焼けたお肉は殿下のお好みの焼き加減。焦げ過ぎないように水で消火したのが良かったようです。外はこんがり、中までじっくり火が通っています。
やっぱり鷲部分と獅子部分ではお肉も大分違うなあとお皿を眺めていると、殿下がぽつりと呟かれました。
「貴女は……恐ろしい女性だな」
「――え」
――それは。あれでは。
グリフォンを焼いて饗すれば殿下の評価アップ、なんて令嬢らしくないことを思い付いてしまったからでは。
それとも殿下を庇ったり、薬を投げ込んだりしたから?
女らしくないとかで……嫌われてしまった?
私が不意に固まっていると、背後から大柄な壮年の男性の声が聞こえました。
「今日一日で殿下は株を上げられましたな。グリフォンの被害も最小限で何よりでした。あれが馬に与える被害と言ったら。それに立派に婚約者も守られて――」
視線を向ければ、男性は大弩弓を撃たれた前隊長でした。
殿下はそれ以上私に注意を向けることもなく、お二人の間でぽつぽつと、やがて会話が弾んでいくのを見て、私はそっと離れます。
皆さんお知り合いばかりなので、空いていた隅っこに座ることにしました。
それがいけなかったのでしょうか。
「……どうかされましたか? お顔の色が優れませんよ」
隣に、以前食堂で誘いを掛けて来た部下の華やかな人――ヘイデンさんが、お皿とエールのジョッキを持ってきて座られました。
私はつい殿下を目で探してしまいますが、殿下はまだ歓談中です。せっかく打ち解けられるチャンスなのに助けを求めるなんてできるはずがありません。
「少し走りすぎたようです」
曖昧な笑顔を向けますと、ではお部屋までお送りしましょうか、と返ってきました。
――これはまずい気がします。
殿下の評価が上がっているときに、助けられた当日、私が疑われるようなことをしでかしましたら――もしこの方が殿下の失脚を狙うような方だったら、取り返しがつきません。
それに。
いくら恐ろしい女だと思われていても、これ以上殿下に嫌われるようなことは……。
「……」
駄目です。
お師匠様はこんな時、人の話を聞くなと言ってました。自分が不安定な時は相手の話を聞いてもろくなことがない、と。
それで、話を聞かないようにするには、逃げるか、耳をふさぐか、それとも……。
「私、今日殿下に惚れ直しました。殿下の不利益になるようなことはできません」
思い切って言ってしまえば、彼は手を口で押さえて面白そうに笑いました。
「……惚れ直した、ですか。あの殿下に。……それはそれは」
「どこか可笑しいでしょうか。確かに私の言いようは、少しばかりたしなみに欠けるとは思いますが」
「いえいえ、……それは私の上司も安心しますね」
「……上司?」
上司、と言えば殿下のことだと思うのですが。
私が疑問を顔に浮かべてしまったからでしょうか、ヘイデンさんは笑いを納めますと、
「メイソン殿下の兄君ですよ。王都からあまりに遠いために目が届かないと、代理で私がこの部隊に加わることになったんです」
「代理、ですか」
「今までメイソン殿下の縁談をことごとく潰してきてしまった負い目――ですね。それから殿下に近づく女性が、殿下をずっと見てくださる方かどうか、見極めるために」
「……それは、私や、他のご令嬢も試されていたということですか」
ヘイデンさんは鼻を鳴らすように小さく笑われました。
「故意ではなく結果的にですよ。兄君がた、特に王太子殿下は年の離れたメイソン殿下に対して過保護ですからね。
もし結婚されてその後親族で集まった後に心変わり……とでもなれば、殿下には大きな傷が残るでしょうし、王家にもダメージがあります」
種明かしをされてしまって毒気を抜かれた私でしたが、次に怒りが頬に昇ってくるのを感じました。
「殿下のことを想われて……だとしてもいただけませんね。私がもし誘いに乗ったらどうされたのですか?」
「それはそれで殿下は婚約解消に踏ん切りをつけるでしょうし、アイリス嬢は薬師を続けるのに不都合のない家に嫁ぐことができますし、侯爵家の娘さんを頂けて私が役得ですね。貴女を見てると退屈しないので」
「……そうですか。私、華やかな方は気後れするので苦手です」
「華やかな方、というカテゴリより一歩踏み込んでいただければ、違うものも見えると思いますよ。
それに殿下と結婚すれば、結局その華やかな場から逃れられないのではないですか。
私と結婚すれば私の顔と態度だけで済みます」
そう語られるこの方は伯爵家の次男なので、親から爵位を継がず、ご自身で騎士爵を受爵されたそうです。
確かに条件だけなら悪くないのかも。
でも……別に、条件なんていいんです。
結婚してもフラれても、殿下は私に恋というものを初めて教えてくださったんですから。
お師匠様が言ってました。恋するなんて正気ではできない、って。多分ずっと昔に何か、大切な思い出があってのことなのでしょう。
「自分でどうにかできる感情なら、こんな北の地まで来ませんよ」
「……それはそうですね。では、ミス・オースティンに幸運を」
手に持っていたエールを飲み終え、彼は私に笑みを一つ残して同僚たちの元へ戻られました。
私は場を持たせようとちまちま食べていたお肉を最後にしっかり味わってから、お酒よりお茶がいいなあと自室に戻ります。
それにもし殿下に嫌われてしまったかもしれないなら、手紙はお約束通り倍。いえ今日は5倍くらい書いてお渡ししたいなと思ったのです。
ちょっと顔を会わせづらくなってしまった、ので。
***
手紙をしたためている途中、軽く扉がノックされました。
殿下だったらどうしよう、先程のヘイデンさんとの会話を疑われていないだろうか、その前に恐ろしい女ってどういう意味だろうか。
そんな思いが頭を渦巻いていると、やっぱり扉越しに殿下の声が聞こえました。
「……私だ」
「どなたですか。一応、安全のために、詐欺師みたいな名乗りはやめてちゃんと名乗ってください」
殿下の声を聞き間違えるはずがないので、意地悪みたいですが。
「第三騎士団所属後方支援科メイソン・ウィンズベリー、まだ貴女の婚約者だ」
私が薄くドアを開けると、真顔の殿下が立っていらっしゃいました。
広間からそのままいらっしゃったのか、上着は脱がれていましたが、軍服のままでした。
「お茶に来ていいと言っただろう」
◇◇◇◇◇
「ええと、はい。あの……お茶は何を?」
「アイリス嬢の好きなものを」
「では今日は、濃いめのミルクティーをお淹れしますね」
私は鍋にお湯を沸かし、ぬるめの温度でゆっくり抽出した紅茶にミルクとお砂糖をたっぷり入れました。
デザート代わりです。
すぐ飲めるようにとミルクで温度を下げた紅茶を、私がそんな必要もないのに時間をかけて飲む間、メイソン殿下は特に口を開かれることもありませんでした。
殿下はティーカップに一度口を付けたきりで、私が二杯目の紅茶を自分のカップに注いでも、視線を彷徨わせていました。
「殿下、あの、お話があったのでは? お茶、温め直しましょうか。それとも……」
言いかけた時、殿下はごくりと喉を鳴らして伺うように目を合わせ、呟かれるように話されます。
「ヘイデンと何を話していたんだ」
「ご覧になっていたのですね。それは、そのですね……」
どう答えても殿下を困らせる気がしました。
声を掛けられたのも軽率かもしれませんが、殿下はすぐに動けなかったことを後悔されてしまいそうです。
特に、お兄様の話は、今してはいけない気がします。
「……まだ申し上げられません。王都へ帰られたら、お話しします。ただ、誓ってやましいことはしていません」
「貴女がそう言うなら、それが最善なのだろう。だが……」
殿下は膝に乗せたこぶしを固く握り締められました。
「俺は知りたい。……もしまたあいつが君を妻に迎えたいと言って、君が了承したのなら俺に止める権利はないと思う。婚約解消の手紙を送り付けた以上、ボールは君にあるから」
そういえば殿下の素の一人称は俺だったのだな、と、昼間のことを思い出します。
「……確かに、お誘いは受けましたけれど、本気とも思えませんでした」
「本気だったらどうする? あいつは元々兄の部下で、ここには多分お目付け役か何かで来たはずだ。俺よりも出世の目はある」
……殿下もあの方がお兄様の部下であることは把握済みだった、ということなのでしょうか。
どうすれば殿下を傷つけずに済むのか考えながら、私はいつもよりゆっくり言葉を選びます。
「まず私は、殿下がここで成果を挙げられると……つまり、立派にお城を修理なさると信じています。
出世がいいかどうかも、人それぞれです。私は殿下が殿下の好きなお仕事を、好きな距離感でされているのが、一番だと思います。
たとえば私は薬を作るのが好きですが、薬品会社を経営したいとか思ったことはありません」
私は殿下と視線を合わせたくて少し体を前のめりにします。
「それにどんどん出世して、それ目当ての他のご令嬢が殿下に近づいたら、私にとっては会話のチャンスすらなくなってしまうかもしれません。ずるいですけど」
「……アイリス嬢は存外ものをあけすけに言う人のようだ」
殿下の頬が少し赤くなりかけましたが、すぐに後悔されたように目を伏せられました。
「やはり、恐ろしい女性だな。
俺は君がこの城まで追いかけてきてくれたと知って、好意を抱いてくれたと知って嬉しかった。と同時に途方もなく怖くなってしまった」
「やっぱりここまで追いかけて来たの、怖いでしょうか。引かれても仕方ないとは思ってたのですが……」
「そうじゃない。
……もし婚約を続け君が王都で長い間一人になるとする。そうなればきっと俺の優しい兄弟が何度も君に構いに来るだろう。
お茶をし、王宮や俺の近況を持ってきたり、退屈させないように観劇に誘ったり――俺には到底できそうにないことも。
そうなれば、ずっと放っている俺よりも兄弟の方を、好きになると思った。
俺が君を好きになってしまえば、それに耐えられる気がしなかった」
殿下はそれから、絞り出されるように小さな声で。
「……人を好きになるたびにあんな姿を見せられるのはもう嫌だ」
メイソン殿下には、とても勇気の必要な告白だったのでしょう。
私が一度立ち上がると、殿下の拳が少し震えるのが見えました。私はそのまま机から書きかけの便せんを取り上げると、差し出します。
「今日殿下へお渡しするつもりだった手紙です。……書きかけですけど」
以前は一度逃げてしまったので、今度はちゃんと書きました。
受け取られて目を通される殿下を私は見つめます。目の前で手紙を読まれるのは、想定外で、恥ずかしいですけども。
便箋にはこう書いてありました。
『殿下は怖ろしいとお思いかもしれませんが、グリフォンに追われる私を足手まといにもかかわらず連れて逃げていただいたこと、一生の思い出にいたします。
殿下があのような事態にあっても冷静に対応し指示するお姿に――』
「――そう、ならないと思いますよ」
殿下のご兄弟を好きになるなんてことはないです。
「君は俺を美化している。俺は自分で勇気があるとか、前線で指揮を執れる能力があると思ったことはない。
どちらかといえば、ちっぽけなプライドで損害を出すより、能力がある奴を信用して任せられるのが俺の能力だと思ってる。地味だろ」
「ちゃんと指揮を執られてましたよ」
「……あの時はただ……必死だったし、君の目に見えてる俺ならきっとそうするんだろうと思ったから。残念王子でも期待されるのも悪くないって」
私は珍しく、怒った顔を作ります。
「そう思ってくださるのは、嬉しいです。でも誰が言っても、ご自身で残念王子だなんて、そんなこと仰らないでください。私、私は――」
「解ってるよ。他の奴らに残念って言われようが、君には失望されたくないって思ってしまった」
――あれ?
私は目を瞬きました。
「話が繋がってましたっけ? 殿下、それは気の迷いですよ……今日はお仕事にグリフォンに宴会に、お疲れでしょう。できれば早く、お休みいただけた、ら……?」
背中に温かい感触が触れて、私の身体がローテーブル越しに傾ぎます。
抱き寄せられて殿下の胸に顔が押し付けられたので、自然と言葉が途切れてしまいます。
……暖かくて、鼓動が早くて、……嗅いだことのない男性の匂いがしました。そう思うと耳まで熱くなってしまいます。
いえ、そうではなくて、何が起きて――。
「さっきから俺のことばかりだ。……傷ついた目をしてるくせに、何でもない顔をするな」
「それは気付きませんでした」
平静を装えてたつもりだったのですが。
「何があったか、話してもらえないか」
「いえ、その、あえて言うなら……ただ、殿下が、私のことを恐ろしいと……嫌われるようなことをしたかと思いまして」
押し付けられているせいでもごもごと言えば、殿下の胸元で自分の吐息が暖かくこもっていました。
「……済まない、あれは恐怖という意味で言ったんじゃない。……俺には自分一人では、人に後ろ指を差される可能性があるのに、あんな風に駐留の騎士たちの前でグリフォンを仕留めて焼くような提案をする、そんな覚悟がなかったことに気付いてしまっただけだ。
それだけの覚悟ができる女性だったんだな、と」
「……そんなこと。だって皆さんここでの生活が、役割が、人目があります。……私はここで異物だからできたことです。王宮でできたかどうか」
近く耳元で聞く声は嬉しいのですが、流石に急激な供給過多で、私の気力は限界に達しようとしていました。
離れようと胸を押しましたが、びくともしません。
「本当にそれだけか」
「え」
「……ほんの少しでも俺のためだと思ってくれたのなら――申し訳ない、が、嬉しいと思ってしまった」
「殿下……ええと、殿下がここでお仕事しやすくなればとは思いました」
そう答えれば少し体が離れて、目が合いました。決して派手ではないですが、褐色の瞳はとても落ち着きます。
やっと解放されるかと思えば殿下は私の髪を少し掬い上げて、
「少し焦げている」
「……切ればいいだけですよ」
「ここではろくな手入れもできないだろう」
「また生えてくる髪なんかよりも、殿下が……メイソン様がご無事なことの方が大事です」
メイソン殿下が思っているよりも、ご自身には価値があるのに。王族とか立場とかじゃなく、仕事が好きであるとか、雑用も厭わず引き受けるとか、こんな私に優しくしてくれるとか。
そう思って、微笑めば。
殿下の瞳の色が変わったような気がしました。
「……まだ、間に合うか」
「え?」
「……婚約は解消しない」
「えっ?」
「驚くな、解消の撤回を求めて来たんだろ」
「それは、そうなんですけど」
殿下は婚約解消するつもりだと仰ってましたし、大広間での一件のせいで心の準備が全くできていなかったのです。
「まだ、少しは好きでいてもらえるだろうか。……ああいや、俺は人に好かれるとか、嫌われるとかどうこうの前に――ちゃんと好意を伝えることもできていなかったんだな」
殿下は私の肩を支えて立たせると、ご自身は私の座っていたソファの横に立たれます。何か、空気がピリピリとしてしかもどこか甘いのですが。
そして殿下は跪き、私の手を恭しく取って、甲に口づけました。
「改めて申し込みます。ミス・アイリス・オースティン、貴女に私の忠誠と愛を捧げます。どうか妻になっていだたけませんか」
まるで乞われるように上目遣いをされる殿下。
もう正真正銘の王子様です。
沈黙は駄目だと思いますが、咄嗟に声など出せません。婚約解消の撤回は望みでしたが、これは全くの想定外です。
真摯な瞳が私だけを見ているのかと思うと、何だかふわふわしてきました。
そもそも、こんなことがあっていいのかなんてぼんやりした頭で考えますが、言葉がうまく出てきません。
でも、このまま黙っていて撤回されては困るなという気持ちの方が大きくて、唇を必死に動かしました。
そう、たった一言。二文字だけでいいのです。
「……はい」
力いっぱい答えたはずなのに、か細い声しか出ず――そして私は力が抜けてソファに座り込んでしまいます。
熱に浮かされたように熱い頬を抑えていると、殿下はふと微笑まれると、何故か余裕の表情で隣にお座りになられました。肩が触れて……近いです。
「良かった。では次の策だ。君がまかり間違って他の男に取られないように、式の準備を進めよう。休みももぎ取る。結婚式と蜜月くらい留守にしたって誰も文句は言わないだろう――いや、言わせない。
こういう時のために、嗜好品で王都の各部署に恩を売っておいたんだ」
「……はい。ええと、待ってますから。王都に帰られるまで何年だって、お手紙を書きます」
つたない言葉でしか伝えられない自分がもどかしく、せめてと瞳を見つめれば、そこには初めて見た殿下の決意の片鱗のような、熱っぽさが揺蕩っていました。
「……結局のところ、俺は王都に、近くにいたって君の自由な心は縛れないだろう。
でもそれでも、……飽きるまででいい。側にいてくれないか」
物理的な距離ではないことは解っていましたが、殿下の美しい手が私の手を取られましたので。
私はきゅっと握り返しながら、小さく頷きます。
……それしか、できませんでした。手に力を込めた瞬間、また抱きすくめられてしまったので。
◇◇◇◇◇
私の休暇は、結局、期限ぎりぎりまで使われました。
必要な薬を作り終えた後に、軍医の方やメイソン殿下のお手伝い的なことをしつつ過ごせば、あっという間に感じました。
懸案であった冬支度については、殿下が王都へ予算や物資の不足分を申請――殿下曰く「もぎ取る」だとか――されるそうですので、無事に超えられそうでした。
王都に帰ってからは、薬師の仕事とお師匠様のお世話に追われる日常に戻りましたが、休暇以前と違うのは、毎日、殿下への手紙を書いていることでしょう。
今後の生活の相談もありますが、直接お話ししたりお仕事中のお姿を拝見できない代わりに、周囲の方々から殿下の子供や学生時代のお話や、今まで造られた建築物についてお伺いできましたので、話題には困りませんでした。
それから何より違うのは、殿下からも毎日のように手紙が届くようになったことです。
式の打ち合わせなどの連絡事項が主なものですが、最後に必ず私の良いところとか、どんな服が似合いそうとか、声が聴きたいとか付け加えられていました。殿下に言わせれば私も鈍いそうなので、その分褒めなければいけないそうです。
普段の殿下のしかめっ面からは想像できないようなものばかりで、世間の婚約者の間柄というものは、こんな正視できないような恥ずかしい手紙を送り合うものなのかと侍女のミアに尋ねてみれば、ミアは、まあまあとかあらあらとか、ものすごく喜んでいました。
私だって嬉しいとは思いますが、あんな短い滞在で急に話が進んだので、まだ戸惑いはあります。
もしかして殿下はミアが昔言っていた「チョロい男性」というものなのでしょうか。そうなれば自信が付いた殿下が王都に戻られた時、万が一他の方に目移りされたら――そんな不安をミアに話しますと。
彼女が言うには、婚約解消の手紙一通で北の古城に押しかけ、婚約を受けて来て、手紙を抱えて毎夜うろうろしている私はもっと「チョロい」ので大丈夫なんだそうです。
他に変わったことと言えば、お姉様も妹も久々に家に帰ってきて、お母様やお義姉様と一緒になって私に構い始めたことです。これから社交が増えるからとか、式の前に慣れなさいとか、ドレスのデザインを見せられたり仕立て屋を呼んだり、宝飾品がどうとか、あちこち連れ回されました。
そのおかげで仕事に若干の支障が出てしまい、お師匠様の新作、いえ新味の魔法薬の試飲役をさせられる羽目になったりしました。
***
そんな風に慌ただしく日々が過ぎた穏やかな晴れの日、私はメイソン様と王都で(王族としてはという但し書き付きですが)ささやかな挙式を行いました。
そしてひと月の休暇後に北の地に戻られたメイソン様はその2年後、無事に王都へ再度の「栄転」を果たされました。
一度は王宮で暮らしていたメイソン様と私ですが、これを機に王都に家を構えることにしました。
メイソン様が私に意見を聞いてくださって、建築士と一緒に設計された屋敷はとても暮らしやすくて居心地が良く暖かく、調合室まで備えられていました。
時が流れて子どもが生まれると、私は魔術師団には非常勤として籍を置くことになりましたので、調合依頼などを受けて家で少しでも仕事が続けられることはありがたく思いました。それに時折任務に赴かれるメイソン様に私ができるのは、無事を祈ることと個人的にも薬を渡すことくらいでしたから。
そのうち、家の庭にはメイソン様が自ら積み上げた本格的な城壁ができ、秘密基地も作り、室内の壁には羽目板と漆喰で作ったお絵かきスペースができました。
やがて庭で遊び回っていた長男は騎士見習いになり、秘密基地の増築をしていた次男は建築家を、メイソン様から私の“武勇伝”を聞いて壁にグリフォンばかり描いていた長女は画家を目指すようになり……。
「今日は久々のお出かけですからね。髪は普段より少しアップにして、うなじも出しましょうか」
ある日のこと、実家からついてきました侍女のミアは、今日は夫婦だけの外出だからと、張り切って私をどこかの奥様のように整えてしまいました。
見た目だけなら、多少他の方に追いついてきた気がしますが、まだ慣れません。
「……あら、旦那様がいらっしゃいましたね。楽しんでらしてください」
ミアが私と、それから戸口に立っていらっしゃったメイソン様に軽い一礼を残して立ち去ってしまいますと、私は涼しくなった後頭部が気になって手をやりました。
「め、目立たないようにしたのですが……変じゃないですか」
「変じゃない。綺麗だ、と、思う。ただ、髪を上げ過ぎると他の男の目を惹く。かといって見えないのも寂しい」
「どっちですか」
メイソン様は近づかれると褐色の瞳で私の顔をわざと見つめられました。年々貫禄が付いてきまして精悍さが増していますので、目に毒だと言っているのですが、一向にやめてくれません。
「だが一番見せたくないのは、君の恥じらう顔だな」
「メイソン様も黒いコートとジャケット姿が大変お似合いです。……あの、もう少し距離を取ってください。化粧が落ちて……出かける前ですから」
抱きしめられそうな距離でしたのでそう苦情を言えば、メイソン様は不服そうに眉をひそめ、頰にひとつ口づけを落として離れられました。
仕方ないので、その、嫌じゃないしそんなお姿も素敵ですと、と頭の中のメモに書き留めておきます。
それから。
「……最後の点には同意です」
昔のように私の手を取られたメイソン様の手を握り返し、私は呟きます。
結婚して何年たっても、私は時折仕事で遠方へ行かれてしまうメイソン様に、いえ、家にいらしても、毎日手紙を書いています。もう長い間の習慣になっていましたから。
でも、読まれるのはお一人の時にしてくださいとお願いしているのです。
だって、メイソン様が私の書いた手紙を読んでいる時だけは、いつもと違う顔をなさることを――何とも言えない恥じらいをお顔に浮かべていらっしゃることを知っているのは、欲深い私だけの秘密なのです。
アイリスの花言葉は、希望、良き便り、恋文、などらしいです。
9/11、14 若干、誤字と描写を修正しました。
9/18 少々修正しました。最後のシーンに仕事に関する文章を付け加えました。