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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

蝉時雨

作者: 桂花陽動

マンションから出た先の道路からは、絶えず陽炎が昇っている。七月十五日、快晴、祐介の指に胴を挟まれたミンミンゼミは、最後の抵抗手段として脚を懸命に動かす。

 海の日、夏休みの始まり。つまらない学校から解放され浮かれた小学生達は、何も無い敷地を駆け回り、スケボーを乗り回し、虫取り網と虫かごを振り回し、と、白昼堂々騒ぎ回っていた。

そんな中、悠介が木に止まっていたセミを捕まえ、喜び勇んで見せてきたのだ。

「ソイツ、どうするんだよ。友達に飼ってる人なんていないよ」

「殺す」

祐介は汗まみれの顔でにかっと笑っている。不自然さや特別感は無い。日常的な言葉だ。

「それは良くないよ」

但し、それは彼に限った話だ。隼人は止めに入った。

「はぁ? うるさいな、なんだよ」

「母さんがむやみに虫を殺しちゃいけませんって言ってたんだ」

友達や知り合いと親同士で顔を合わせた際に、親が他人の子供を引き合いに出しては自分の子供に文句を言う光景は一般的だ。

 しかし、隼人はそんな経験が無い。彼は常に比較対象だ。塾、ピアノ、サッカー、親が習い事に投資した金銭を表彰状やトロフィーに換えるのは当たり前の話、特にピアノの腕は妙妙たるものだ。若々しく鮮やかな音色と隙のない技巧力が高く評価され、二週間後の金曜日、東京でのコンクールを控えている。

 そのコンクールは、楽器の製造で世界的に有名な「ミヤナ」の名を冠し、二十年前にピアニストの育成を目的として始まった。都道府県別、地域別の審査をくぐり抜けた小学生から中学生までの若き精鋭が集い、年齢別でピアノの腕を競う。審査は多くの大会で実績を残してきた日本でトップレベルのピアニスト達によって行われる。

 今日遊ぶ理由は夏休みを祝うだけではない。しばらく会えなくなるからこの日だけでも遊んでおきたいと、隼人が親をどうにか説得してやっと決まった日が、今日しかなかったからなのだ。

 五年生の夏、コンクールが過ぎれば塾の夏期講習の中学受験対策コースが控えている。秋には三年毎に実施される国際的なピアノコンクールの一次予選があるため、今日のこの日は三人にとって、とりわけ隼人には特別な意味がある。

 そんな特別な日に悠介がしようとしていることが、

「お前の母ちゃんの話? はー、そんなのどうでもいいからあ! こいつおしっこかけてきた、腹立つ。殺す」

「本当にダメだって」

これだ。

「じゃあお前は蚊殺さないのかよ」

「それは……えっと」

風が吹く。暑い日は風もぬるま湯のようにじわりとしていて、涼しさは感じられなかった。

道路に落ちたチラシはパタパタ揺れはするものの、なかなか地面から離れない。意外だ、今にも飛んでいきそうだと思っていたのに。

翔大はそう思いながら、沈黙を貫いていた。

 恐らく、彼はこの会話が終わるまでこんな感じだ。

「お前も蚊殺すのやめれば」

「でも、蚊は血を吸うじゃないか。痛いし痒いし、赤くなって危ない」

「それちょっとだけだろ。赤くなるのもすぐ治る。血を吸われても死なないのに殺す必要無えじゃん」

「で、でも、痛いのは痛いよ」

「痛いだけで殺すとかさあ、酷いと思わないのかよ」

翔大は道路に近づこうとして、止めた。突然場が静かになったことの方に興味が行ったのだ。

 視線をずらすと、しかめっ面で黙っている隼人がいる。言い争いが終わったのだろうか。

「どうやって殺そうかなあ」

小さくか弱い命が太陽の御前に突き立てられ、鳥達が駆ける空の下で審判の時を待つ。

「うーん、ムズいな」

祐介は唸り、口元の汗をぺろりと舐めた。

 翔大はしばらく二人を見比べていたが、事態に変化が無さそうと見ると急速に興味が失われ、チラシに視線が移り、何が書いてあるのかと目を細めた。

 赤を基調としたカラフルな色と、紙の上の方に何か大きく、黄色いゴシック体で漢字が書いてあるのがやっと見えた。

 三人が立つマンションの敷地と道路のチラシは成人男性一人分程度離れており、視力検査でCを出した眼鏡嫌いには流石に厳しかったのだろう。翔大はこれ以上の詮索を諦めた。

 とは言っても、こんなチラシ如き、次に風が吹けば今度こそ飛んでいくはずだ。自分の方に向かってきて、中身が見えるかもしれない。監視は続いた。

「羽抜いたら飛べないよな」

監視の目はすぐに解かれた。羽の抜かれたセミの姿がどんなものか、頭の中にイメージ映像が張り巡らされ、高まる期待感が翔大の目を輝かせる。

反対に、隼人は不貞腐れ、目を逸らしている。

「意外と簡単に取れる……うわ、ちっせぇ! 羽取れるとこんなに小さいんだ、すげぇ」

「そういえば、お父さんが言ってたんだけど、セミって食べられるらしいよ」

「マジで? 翔大の父さんは食べたことある?」

「無い」

「美味いのかなあ」

二人は飛べなくなったセミをまじまじと見つめる。

「とてもそんな風には見えないな」

「おい、食べろよ」

「えっ、嫌だよ」

「食べろって」

「うおお、やめろっ気持ち悪い」

二人はボクシングの間合いみたいにセミを押しつけあった。

「ちょっと茶飲んでくる」

「おう」

隼人は自分の水筒が置いているマンションの方に歩いていった。

「あ、そうだ。こいつ踏み潰そうぜ」

「靴汚れるぞ」

「いいじゃん、いいじゃん」

「まあな」

砂利の上にぽてっ、と落ちたセミに、足が迫ってくる。

「おらっ」

その一瞬、皮が破れ、何か柔らかいものに辿り着き、潰れた。少し嫌な感触だと感じたが、悠介は足を止めなかった。

「……クソが、クソが、クソが、クソがっ……死ね、死ね、死ね、死ね! 死ねっ」

指に挟んでいた時はあれほどジタバタと動いていたセミの脚が、胴体と分れてただの棒切れと化し、、埋もれた。最初踏んだ時の嫌な感触も、だんだん感じなくなってきた。

「こんなもんか……あーあ」

片足立ちになり首を捻って靴の裏を見てみれば、真ん中がセミだったもので黒ずんでしまった。

「だから言っただろ、汚れるって。ホース持ってこようか」

「別にいいよ……なんか、思ったよりつまんねえな」

空を仰ぐと、太陽と目が合った。

「おい、つまんねえぞ」

悠介は目を細め、呟いた。

「悠介」

呼び止めたのは隼人だった。

「なんだよ」

「お前セミの幽霊に祟られるよ」

「幽霊なんているわけねえだろ、隼人は怖がりだな」

「いるよ」

隼人は吐き捨てるように呟いた。

「……なんか言った? 声小さくて聴こえなかった」

「何も言ってない」

「あっそ」


「隼人、コンクール頑張れよ」

「ありがとう、じゃあな」

「賞取ったら教えてくれよ」

「うん、わかった」

「ばいばーい」

「悠介もまたな」

「おう」

燃えるように赤い空の下、セミの残骸にはアリが集り始めていた。

 結局、チラシはまだそこにあった。

翔大は結果オーライと、意気揚々、道路へ駆けていき、落胆した。

チラシの内容は、翔大の家から二キロ離れた、国道沿いの家電量販店「ミヤザデンキ」のセールで、商品はテレビ、カメラ、パソコン、と、翔大の目を惹くものは何一つ無く、値段を見ても買えそうにないものばかりだった。

翔大はチラシを蹴った。

「飛んでけ、クソッ」

そろそろ夕飯の時間だ。空腹に気づいた翔大は砂利道を急いで走り、階段を駆け上がり、ドアの前に立った。

「ただいまあ」

「おかえり。まだご飯出来てないから、手を洗って、着替えて待つのよ」

「はあい」


悠介は汗を流しながら、暑さへの苛立ちを抑えるため、何度も首を振った。

「……クソッ」

電柱を力いっぱい蹴った。

「暑いんだよ」


「ありがとうございましたー」

コンビニの自動ドアが閉まった。

空は藍色に変わっている。信号を待つ時間は本当に退屈だ。ずっと赤のままだった方が、まだ面白い。

 青になった。悠介は走る。横断歩道も、アパートの階段も無駄に長い。

ドアの隣の明かりには、大量の虫が群がっている。

「……」

悠介は中に入り、大量のゴミ袋とペットボトルをかき分け、歩く。

「おい、片付けろ」

「わかってるよ」

七本の缶ビールを大量の缶ビールが入ったゴミ袋に乗せる。

「何やその態度! 誰のおかげで食わしてもろとると思っとんのやコラ! 調子乗んのもほどほどにせえ、このクソガキが」

作業が終わると、床に叩きつけられ、頭を踏まれる。

起き上がり、何も言わず、ゴミ袋をゴミ袋の上に積んだ。

いつものことだ、いつものこと……。

「お金、無い」

悠介が呟くと、三枚の百円玉が床に捨てられた。悠介はそれを拾い、ポケットにねじ込んだ。

それから、レジ袋を開き、塩むすび一個を頬張った。

美味しくなんてなかった。

「隼人くんは本当に偉い子ねえ。……翔大、アンタもちょっとは勉強頑張りなさいよ」

「わかってるけど」

「ほら、ピーマン避けない」

「やだよう」

「好き嫌いすると風邪ひくわよ」

「うえぇ」

翔大は仕方なく、皿に盛り付けられたピーマンを頬張った。美味しくなんてなかった。

悪戦苦闘してようやく飲みこむと、ドアが開く音が聴こえた。

「やっと帰ってきたわ」

「ただいまあ」

「おかえり、芽香」

母は玄関の方に早足で歩いていく。しめた。

「今日も遅かったわねえ」

「うん、大会近いからさ」

「頑張ってるわね。ご飯もう出来てるから、ちゃんと手洗って、着替えてから来るのよ」

「はあい」

ガチャ、と音がする。

「……あ、翔大コラっ」

「うわぁ、ばれたあ」

憎きピーマンは無事に母の皿に落ちたが……、タイミングが悪かったようだ。

「いけませんっ」

翔大はゲンコツを一発、頭に食らってしまった。

「ちぇっ」


悠介は、ふとゲーム機の時刻に目をやった。二時だった。電源を切った。父親は夜に仕事をしているから、いない。

脇の汗をタオルで拭き、布団を被る。目を瞑る。眠くなる、眠くなる、眠くなる、眠く……。

 目を瞑ると、一層強まる臭い。生ゴミが腐る臭い、酒の臭い、自分の汗の臭い。

 痒みで目を開けると、腕に大きめの蚊がいたので、潰す。

 今年の夏も、暑くてジメジメする。

「……クソ」

悠介は窓を開け放った。

「クソがああああああああああああああああっ」

ひとしきり吠えると、窓枠を握りしめ、下を向いた。

 道路をバイクが通り過ぎていく。

しばらくして、遠くの方から、ドンドンドン、と、激しい音がした。悠介は手を止め、後ろを向く。

誰もいない。

「なんだよ、驚かせんなよ」

少し安堵した瞬間、ドアの方から声が聴こえてくる。

「夜くらい静かに出来へんのかボケェ! ええ加減にせえ! あんたんとこいっつもいっつもうるさいねん、次やったら大家さんに言ってあんたもガキも追い出さしてもらうで……オイ聞いとんのかコラ、出てきて手ついて謝るのが礼儀っちゅうもんやろが、オイ、オイ!」

悠介の緊張はすっかり解け、大きな欠伸で返してやった。いつものオッサンだ。別にどうってことない。

「ったく、返事くらいせんかい。頭おかしいんとちゃうか」

足音が遠のいていく。

「うるせぇのはどっちだよ」

悠介はボソリと呟き、今度こそ布団を被った。


八月三日、快晴、翔大は、外と同じくらい暑く、大量の虫が湧く部屋に立った。持っていた菓子折りが、手から溢れた。

「うっ……な、なんだ、これ」

「知らない」

「ゲホッゲホッ……なんだよ、これ、悠介、何が」

「知らねえって言ってんだろ」

悠介はベランダの窓を全開にし、風を浴びていた。

「こ、これ、これ、何、誰」

翔大が指差した先には、周りの床には黒ずんだ体液が染みこみ、体中を蛆虫が這う、人だったものがある。

「そいつ、何回踏みつけても全然動かなかった。多分死んだんだろ」

「う、うおぇっ」

翔大はあまりの臭いに耐え切れず、後退りながら倒れ、嘔吐した。

「その包み、何だよ」

「隼人が……東京のお土産にって」

「いらねえよそんなの」

「そんな、こと」

「お前にはわからねえだろ! そんなの持ってこられたら怒られんのは俺なんだよ! 物乞いでもしてんじゃねえかってな、何度も何度も殴られて……わからねえなら言わなくてもいいか」

悠介はげらげら笑った。そして、続けた。

「近づけねえだろ。こんなくっせえ部屋、こんな汚ねえ部屋、お前らはそうなんだ。毎日毎日台所に座って家族みんなで笑いながら飯食ってるような、お前ら……お前らなんて嫌いだ。嫌いだ、大嫌いだ、クソ野郎!」

翔大は言いたいことが沢山あった。

 しかし、生き物が腐る臭いは、時に人間の思考だけでなく、行動にまで作用する。目から涙が溢れるほどの強い臭いに晒され、翔大はただ、鼻と口を押さえ、目を瞑って蹲るだけだった。

「隼人な、実はみんなに嫌われてんだよ。なんか大人にばっかいい顔して、俺らのこと避けてるのバレバレなんだよな。セミの時もそうだし、給食の時も、あっただろ。しかもアイツ、陰で女子に俺らの悪口言ってるんだぜ。女子にだぞ? 引くよな。アイツの友達が『女みたいでキモい。アイツと関わりたくないけど、先生にも媚びてるから面倒くさい』って、教えてくれたよ」

翔大は、誰にでも優しい隼人がそんなことをするはずがない、と思った。

 しかし、言葉は出ない。

「夏休み終わったらアイツ、ボコボコにして黙らせてやろうって思ってたんだ」

悠介はそう言うと、しばらくの沈黙を経て、また話し出した。

「俺の友達にタイヨウって、いただろ。キリクリ、コンビニで、ネットで一緒にやった奴」

「キリングクリーチャー」という名前の、アクションゲームだ。去年はよく遊んでいたが、翔大の方は、とっくの前に飽きてしまっていた。

「アイツ、本当は優輝って名前なんだよ。虐められてて、学校行けなくなったんだって。何度も死のうとしたけどダメで、今はキリクリやめられないから生きてるって、アホだよな。だからアイツ強かったんだよ。でな、そいつが、俺に教えてくれたんだよ。『僕は飛び降りて死のうとしたけど、二階からで高さが足りなかったから、骨が折れただけだった』って」

翔大は話をただ聞いていた。何も考えず、ただ、臭いに耐えていた。

「俺の家、四階だからさ」

悠介は黙った。

 やけに長い沈黙が続くので、翔大はなんとか目を開けて、ベランダを見た。

 誰もいない。


「……祟りって、本当にあったんだな」

散らばった残骸と、弾けた頭を笑顔で見つめる者がいた。

「隼人、ごめん。渡せなかった。それより、悠介が……ゆう、すけ……」

「しーっ……。聞こえる? 風向きの変わる音……」

セミの大合唱が響き渡る。死体を打ちつけるように、責め立てるように、止むことなく叫び続けている。

「悠介、そんな、どうしてだよお」

地面に手をついて泣き喚く翔大を尻目に、隼人は、これが因果応報か、と笑った。

「ここだけの話、悠介はみんなに嫌われてたんだよ。体が臭いしすぐに殴るから、まあ当たり前だけどな」

「隼人っ、なんで今、そんなこと言うんだよ!」

翔大は隼人の胸ぐらを掴む。

「感情的にならないでくれよ。俺だって、頑張って耐えてたんだ。翔やん、お前のためだよ」

「俺のためって……何だよ」

「友達の友達だから、直接は言えなかったんだ」

「お前なんか、友達じゃない」

隼人はその言葉を聞いて、ショックを受けるでもなく、嬉しそうにげらげら笑った。

「そうかあ、ありがとな、これで絶交できるよ。母さんの言う通りだ。友達は選ばないといけないな。こんな野蛮な奴らと関わってたら、俺まで」

隼人の頬に、握りしめた拳が勢いよくぶつかった。

「痛いじゃないか」

「大っ嫌いだ。もう俺、お前と二度と遊ばないから」

「……なあ、こんなことやってる暇あるか? 警察に電話しようよ」

翔大は嘲る隼人を睨みつけ、拳を解いた。

 全てが一日で壊れた。まるで、何度も踏みつけられたかのように、楽しい毎日も、友情も、散らばった破片を集めたところで二度と治せはしないと思った。

 セミ達は二人を囲み、延々と鳴き続けた。

隼人の「聞こえる?風向きの変わる音」はとあるキャラクターのセリフをそのまま引用しました。検索してみてください。今回、心理描写が少なかった隼人の内面に何があるのか、ヒントを得ることが出来ると思います。

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