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一日の全工程の終了を告げるチャイムが鳴るのと同時に、教室内の空気はオンからオフに切り替わる。
午後三時半。暁は教室内の暑さにじんわりと汗を滲ませながら、帰り支度を整えていた。七月に入ったというのにまだ冷房を使わないとは。なんともけちな学校だな、と心の中で悪態をついてみる。
「だー……あーつーいー……」
そんな暁の気持ちを代弁したのは、隣でへばっているなつきだった。
「あたし暑いのは苦手なんだよぅ……」
やっぱり動物は己の体温調節が難しいのだろうか、と本気で考えてしまう暁だった。
「でもね、夏は好き! 寒くないもん!」
「どっちなんだよ」
全くわからなかった。
「ほら、いつまでもへばってないで部活行くよ。あそこだったら冷房効いてるだろ」
「…………冷房!? 涼しいの!?」
「何十年前の人間の反応だよ……たぶん幸なら、先生にうまいこと言って許可貰ってるはずだから」
「行く! 行くよ!」
なつきは途端に目を輝かせると、それまで文房具で散らかっていた机の上を、ごみ処理場よろしくそのままカバンに流し込んで支度を済ませるのだった。
「もはやごみ袋だな……」
「?」
潔癖症の人間がなつきのこれを見たら、泡を吹いて失神すること請け合いだろう。
「なんだそりゃ。敵にアジトの場所を知られた直後みたいな片づけ方だな」
どこからともなくそう言って大きく笑う声は、体の芯にびりびりと響くほどに低かった。
「――ああ弥一、準備できてるか?」
その声の主は、このクラスの学級委員長、渡辺弥一。
百七十センチばかり背のある暁よりも頭一つ大きく、服の上からでもわかるほどの鍛えられた肉体は、高校一年生とは思えない恵まれた体格。
おまけに髪の毛は軽く茶色がかっており、前髪を白いカチューシャで上げているものだから、街を歩けばまず誰にも声を掛けられることはない。
要はチンピラ。彼の外見を一言で片づけるとしたら、この言葉がうってつけである。
「おう、早く行こうぜ。暑くて敵わん」
「うわっ、出たな不良学級委員長! 一体どこに行くつもりさ! まさかあたしを人気のない教室に連れ込んであれやこれやと……!」
「……暁、だから、早く行こう」
「そうだな」
カバンを盾を構えるようにして持つなつきは無視。早々に教室を出ることにする。
「シカトかーい! ……ああ! 待ってよぅ!」
「……何か忘れてるような気がする」
暁たちの言う『部活』へ向かうルートはいつも決まっており、三人は教室を出て、まずはB棟を目指す。
B棟まで来たら今度は最奥部まで真っ直ぐ歩く。A棟は毎日生活するところということもあり、別のクラスの生徒ともそれなりの面識はあるのだが、B棟はもはや別世界。歩いて通り過ぎるだけだというのに、どうにも居心地の悪い気分になってしまう。
と言っても、B棟には一つしかクラスが設けられていないのだが。
一年一組から四組まではA棟、それからはB棟と言った具合に、光城高校のクラス編成は決められているのだ。何の神の悪戯か、運悪く五組に振り分けられてしまった生徒には同情の念を抱いてしまう。
しかし、同じ学年なのに他人のような感覚に陥ってしまうのは、B棟の人間の方が強く感じていることだろう。
「何か? 何かって、何?」
暁の呟きに、なつきが反応する。
B棟、一年生の廊下を歩いている道すがら、早く通り過ぎたい気持ちの三人は早歩きで会話をせざるを得なかった。
「それがわからないから悩んでるんだよ」
「う~ん……でも、〝気がする〟ってことは、特に忘れてないってことでもあるじゃん。そういうのは気にしないのが一番だよ」
「そうなのかなぁ。なんだか幸に頼まれていたような……」
「まあこの後会うんだし、もし暁のそれが的中してたら観念して謝るしかないだろうな」
言いつつ、弥一はネクタイを軽く緩めた。
「くそ……できればあんな奴に下手に出るようなことはしたくないけど……」
「ところで、集合は何時なの?」
「放課後、って言ってたから特に決まってないけど、四時前くらいに行けばいいと思う。でも、幸はもういると思うよ。そういう奴だから」
「ふんふん。じゃあエマちゃんももういるかもしれないよね。これじゃあたしたち遅刻してるみたいだし、早く行こっ」
「……あっ!!」
なつきが走り出す直前で、暁は素っ頓狂な声を上げた。
「びっくりするなぁ……何さ急にぃ」
「そうだ、エマだ……なつきが言って初めて思い出した……」
「エマちゃん? エマちゃんがどうしたの?」
「いや、その」
「まさかお前、志村だけに部活のこと言ってないのか?」
「……ああ」
弥一の的確な推測に、暁はがっくりと頷いた。
確かに暁は今朝、幸に放課後は部活があるから、部員全員に伝えておくようにという旨の話をされていた。
なつきと弥一にだけ集合をかけて、それで満足してしまったのか、暁の頭ではこの任務はとっくに完遂したつもりになっていた。
弥一はおもむろに自分の腕時計に目を落とすと、
「……三時五十六分か。微妙な時間だな」
「でも、まだ帰ってないかもしれないし、僕はエマを探しにA棟に戻るから、弥一たちは先に行って――」
考えている暇はない。少ない部員の一人を仲間はずれにするような行為は気持ちのいいものではない。とにかくA棟に戻って、家に帰っていないことを祈るしかなかった。
「――わぷ!?」
しかし。
たぷん?
暁は振り向きざまに全速力で走り出そうとしたのだが、できなかった。そして頭の中で〝たぷん〟というオノマトペを連想してしまった。
なぜだろう。
でも、そんなことはどうでもいいや。
今はとりあえず、この良い香りと、感触を味わっていたい。
まさに、思考停止だった。
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