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……ん。
……うう……んん。
強烈なベルの音で、目が覚めた。
「あうう……」
頭上で鳴り響く目覚まし時計を、なんとか手探りで停止させる。
「止まった……」
ようやく訪れる静寂。
大きく息を吐くと、覚醒しきらない頭で、なんとなしに天井を眺めた。
意識を外に向けてみる。窓の向こうでは小鳥のさえずりが。小学生だろうか、この朝早くから元気に登校する声も聞こえたりする。昨晩の天気予報では本日は晴天。見事に的中したらしい。
……この朝早くから?
「…………はっ!」
目覚まし時計を止めて安堵してしまったせいか、しばらくの間動けずにいたようだ。
羽田暁は慌ててベッドから飛び起きる。現在の時刻は何時だ。
「七時半!? 三十分もぼーっとしていたなんて!」
時計を見て愕然とした次の瞬間、暁は既に部屋を飛び出していた。
七月六日、月曜日。暁の一週間の始まりは、いつものように忙しなかった。
暁がここまで慌てるのには理由がある。毎朝これくらいの時間に、お迎えがあるからだ。
台所にあった菓子パンを一口、二口かじり、すぐに洗面所へ。
顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直す。
そしてもう一度自室に戻り、制服に着替える。この際、ベッドの誘惑に何度屈しそうになったかは覚えていない。
この一連の動作を、〝彼女〟がやってくる七時五十分までには済ませておかなければならなかった。本当は七時に起きて、ゆっくりと朝食を取りながらテレビを見て、マイペースに支度を済ませた後、迎えの来るその時間まで砂糖とミルクのたっぷり入ったカフェオレを飲みながら、優雅に待機するのが彼の理想なのだが。
残念ながら、その理想が実現できたのは、高校に入学してからの三カ月において、始めの二日だけしかなかった。
朝には滅法弱い。数多くある暁の弱点の一つである。
「――ふう、間に合った」
なんとか支度を済ませた時には、時刻は既に七時四十七分。雀の涙ほどの時間の余裕が生まれ、暁は食べかけの菓子パンをもう一度かじっていた。
それも束の間、すぐに玄関のインターフォンが家に鳴り響く。
七時五十分。今日も約束通りの時間に彼女はやってきた。
「暁ー、起きてるー?」
言いながら、彼女は暁の返事を待たずに玄関に入り、「おーい」ともう一度声を張った。普通だったら嫌悪感を抱くはずの所なのだが、暁には特に思うところはなかった。かれこれ九年ほど続いているルーチンワークだからである。
「うるさいなあ、起きてるよ」
「はいはい。おはよう、暁」
「……うん」
「うん、じゃなくて、おはよう! ほら、もう一回!」
「いいじゃんか別に。幸はそういうとこ細かいよなあ」
「よくないっ! 朝の挨拶は一日の始まり! それじゃいつまで経っても暁の一日は始まらないよ!」
「わかったわかった。もう行こうよ」
「ストーップ!」
幸は脇をすり抜けようとする暁の行く手を、大きく両手を広げて阻んだ。
「なんだよもう」
「じゃあさ、私が今朝の暁の朝ごはんを当てたら言ってくれる?」
「なんでそうなるのさ……」
「はい決まりねっ。暁の朝ごはん、チョココロネだったでしょ?」
「えっ!?」
暁はぎょっとした。
自分が先ほどまで食べていた菓子パンが、まさにチョココロネだったからである。
「ど、どうせ当てずっぽうでしょ。そんなのじゃ認められない――」
「いや、ほっぺにチョコついてるし」
「!」
暁は言われて、恐る恐る自分の頬に手を近づける。すると。
「あーいいかららいいから! そんなことしたら汚れちゃうでしょ!」
幸は暁をそうやって制すと、今度は彼女がおもむろに暁の頬に手を添えて、
「これでよしっと」
指でチョコレートを拭き取ったのだった。
「ほらね、チョココロネでしょ?」
にんまりとチョコレートの付いた人差し指をくるくると回す幸。
「そ、そんなのフェアじゃないでしょ! 初めから知ってたなんてずるい……って、え?」
なんとか反論をする暁をよそに、幸は予想外の行動に出ていた。
チョコレートのついた人差し指を、自らの口元に運んだのだ。
まさか、まさか。
幸が何をしようとしているのかを察し、暁の鼓動はにわかに速くなった。
「わああああああああ! 降参降参! おはようございます! ほら言った! 一日の始まりの挨拶言ったから!!」
時既に遅しとはこのことである。
「あ……」
幸はチョコレートの付いた自分の人差し指を第二関節辺りまで咥え、舐めた。
この瞬間だけ、時間が永遠のように感じた。
ただ単に指に付いたチョコレートを舐めているだけなのに、どうしてこんなにも艶めかしく感じてしまうのだろうか。
幸はひとしきり自分の指をしゃぶると、
「……ん、おいしかった」
ちゅぴ、と水音を立てながら微笑んでいた。
「あれ、暁? 暁ー?」
「あ……ははは……」
おはようございます。朝の挨拶とは大切なのだなと暁は痛感するのだった。
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次話は夕方投稿予定です。
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