B/1
羽田暁の一日は夜に始まり、朝に終わる。
深夜一時を少々回った頃、今日も彼の姿は光城市のメインストリート、片側四車線の大通りにあった。
荒廃したこの都市において車を所持している人間は一部の上流階級の者のみ。昼間でも一台見るか見ないかのこの世界で、真夜中に車を見かけることなど、まずあり得ないことだった。
故に暁はこの車道のど真ん中を、何の心配もなく歩いている。何かを待ちわびているかのように、もったいぶってゆっくりと。
『零時の方向』
無線が入ったのはそんな時だった。音の無い空間に突如として入るノイズの混じった女性の声は、生気が感じられない程に機械的。
来た。
しかし暁には、それがいつも一種のトリガーのようなものになっていた。
――今晩も稼ぐ。稼げばそれだけ寿命が延びるのだと。
『繰り返す。零時の方向、対象は旧五菱ビルの影から姿を現す。A4級だ。他の連中に狩られる前に、確実に仕留めろよ』
言われて暁は正面に目を向ける。五十階はあろうかという高層ビルは月明かりを背に浴びて、漆黒の直方体と化していた。
そして歩みを止めた。右から左に、少しばかりか風を感じる。何とも言えぬ生暖かだった。
「……A4か。おままごとにもなりやしない」
小さく鼻を鳴らして、悪態をついた。
その直後――。
すう、すう……すう、すう……。
動物の寝息のような音と共に、大地が揺れる。両側の朽ちたビル群からはコンクリートの破片が降り注いだ。辺りはたちまち砂埃で視界が悪くなっていく。
すでに終焉を迎えた世界。希望という言葉など、とうに辞書から消えてしまった世界。
そんな状況にも暁は、一ミリたりとも前方から視線を外さなかった。
あのビルの向こうに、奴がいる。
――果たして、それは姿を現した。
「対象、確認」
言い終える前に、暁は地面を大きく蹴り出した。にわかに霧散する砂埃が、彼の身の軽さを物語っていた。
〝対象〟と呼ぶそれとの距離は、前方約二百メートル。
その二百メートルの距離を置いてしても、〝対象〟は尋常ではない巨大さだった。
旧五菱ビル――五十階建ての高層ビルが分裂でもしたのではないかと錯覚してしまうような。それはまさに、この状況のために『途方に暮れる』という言葉が存在するのではないかというほどの、異様な大きさ。
大きさもさることながら、その外見も異形そのものだった。真っ黒な油性絵の具を頭から被ったような、純粋な黒。四肢を持ち、背中にはどの生物にも該当しない六枚の羽のようなものが、ゆっくりと周囲の空気を捉え、上昇していく。
これに似たものを、空想上の生物も含めて例えてよしとするならば――。
それは〝悪魔〟以外に他ならなかった。
しかし暁はひるまない。ひるむどころか、走る速度が増していた。
『暁! 三つ数えたら跳んで!』
またしても無線が入る。今度は先ほどの機械的な女性ではない。人間味のある、熱のこもった女の子の声だった。
「了解」
一つ、そう返すと暁はカウントアップを始める。走る速度は一切緩める気配を見せない。
一、二――。
すると、暁の視界に一つの人影がビル群の隙間から飛び込んできた。
そう思ったのも束の間、人影は走り幅跳びのように跳ねてみせた。だがその距離が普通ではない。横、縦、どれをとっても人間業とは思えない飛距離なのだ。
三。
カウントアップが終わる。暁は躊躇いもせず、同様に大きく跳ね上がった。
体中に生暖かい風を感じながら、暁は宙を舞った。遥か眼下に茂るビル群が、彼の身体能力も人間のものではないということを証明している。
しかし、それでも〝対象〟には届かない。先ほどまで二百メートルの距離があった旧五菱ビルとは、すでに五十メートルにまでその間隔を詰めている。
このままではビルに衝突してしまう。あともう一押しが足りないのだ。
……そんなこと、彼には百も承知だったのだが。
「せりゃあああああああああああああ!!」
瞬間、前方やや右方向から甲高い雄叫びが暁の耳に入った。
「うるせえなあ」
「暁、行くよ! ふんばって!」
前方に向かって跳ねた暁と、暁から見て右から左に跳ねたあの人影。
両者は、奇跡のような確率で交差したのだ。走る速度、距離、跳ねるタイミング、筋肉の使い方……どれか一つでも狂ってしまえば二人は交わることなく、暁はビルに衝突、もう一人は無意味に落下する。
一日そこらでできるような芸当ではない。しかし、この二人はやってみせた。それはもう、いとも簡単に。
すると、暁に指図をした少女は時計回りに回転を始める。それを合図に暁は膝を曲げ、何かに備えた。
やがて、彼女の両手に暁の足裏が乗る。回転により勢いのついた両手はそのまま力を失うことなく……。
「いってらっしゃーーーーーーい!!」
それはさながら夜闇に浮かぶ、元気満点の発射台。
暁は誰よりも高く、高く跳んだ。
月に照らされる姿は、どこかの本で読んだ、フェアリーテイルの大泥棒のよう。
こんな世界には似つかわしくない、酷く美しいものだった。
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