三章50話 光を奪う笑顔
企みが含んでいるなどとは微塵も感じられない、曇り空すら晴らしてしまうのではないかと思えるような屈託のない笑顔。
好印象しか抱き様のないその笑顔を前にした瞬間、俺の心は一瞬にして恐怖に支配されてしまっていた。
(こいつ、いつから……! 足音も何も、聞こえなかったぞ!)
フェイ・ウィンリーはいつの間にか、そこに立っていた。
シロウとの再会を喜び、気が緩んでいたというのは確かにあった。
だが、人が近付いていることに気付かないほど、気が抜けていたわけではない。
常軌を逸したこの状況に対する恐怖、そしてありのままの現実に対する驚愕で、俺の体は氷付けにされたかのごとくピクリとも動かなかった。
「……それと、もう一人見覚えのある顔がありますね」
「……!」
するとそんな俺へと、敵意が一切感じられない声音で、フェイの意識は傾けられる。
まるで、蛇に睨まれたカエルのような気分だった。
声音からは襲い掛かってくるような気配は感じられない。
だが、フェイの視線を一身に受けた俺の体には、呼吸すらままならないほどの緊張が瞬く間に駆け巡る。
「あなたは確か、私たちの商品だった少年ですね? ふふっ、お元気でしたか?」
これほどまでの美人に、平凡な顔付きである俺が、たった一瞬だけ顔を合わせただけで覚えていてもらえた。
何気ない状況であれば、嬉しさに心が踊っていたことだろう。
だが、今の俺にとってそれは、心に漂う恐怖が増大する言葉にしかならなかった。
そんな俺の心情など露知らず、フェイの意識は俺とレンの前に立つシロウへと傾けられる。
「……そして、あなたがシロウさんですね? 噂はかねがねお聞きしていますよ。なんでも、路傍での喧嘩から剣術道場での試合に至るまで、数年間もの間、無敗を保ち続けている化け物だとか」
「俺が化け物か……なら、貴様はいったい何になるのだろうな。いつからそこにいた?」
初めに焦りを露にしていたシロウは既に落ち着きを取り戻し、冷静沈着な声音でフェイへと問い掛ける。
「つい先ほどからですよ。今しがた、すばしっこい輩たちを駆除していたところでしてね。丁度その気配も全て消え去ったので、先刻から感じていたただならぬ気配を確かめようと思い、ここに赴いたのですよ」
とても敵を前にしているとは思えない、まるで我が家で親しき友と談笑しているかのような落ち着きようでフェイはそう語る。
そうして質問に答えてから僅かな間を挟み、フェイは保ち続けていた笑顔を崩し、真顔となって鋭い視線を俺たち三人へと向け始める。
「……ここまで来ているのですから聞く必要はないとは思うのですが、ここに来るまでにいた私の仲間はどうしたのですか? 五十人ほどはいたと思うのですが?」
先ほどまでの優しげで朗らかな声から一転。
僅かに低く発せられたフェイの言葉には、そこに重力でも含まれているかのような威圧感が溢れ、俺の足は無意識の内に一歩後ろへと退る。
「貴様を殺す良い準備運動になってくれたよ」
だが、シロウは俺とは正反対に、フェイの心情を逆撫でるようにして彼らの死を暗示した。
それを耳にし、フェイは憂うように、怒りを募らせるように、瞳を細めて小さく溜め息を溢す。
「そうですか。まったく……困ったことをしてくれますね。人を集めるということは思いのほか苦労することなのですよ?」
「知ったことか。最初に引き金を引いたのはお前たちだろう。恨むのなら、俺たちの平穏を邪魔した自らの過ちを恨め」
だが、そんな惹き込まれるような表情すらも演技でしかないということがすぐさまわかった。
表情はとても悲しげなものに満ち、スクリーンの中に映し出されたものであれば感動すら覚えたであろう。
ただ、声にはその表情に見合う悲しみの感情が微塵も感じられなかったのだ。
「……まあ、過ぎたことをいつまでも気にしていても仕方がありませんからね、もう忘れましょう」
そして、そう感じ取ったものは正しく、僅かな間の後、パチンッとスイッチを切り替えたかのごとく、フェイはパッと元の笑顔を繕ってそう語った。
まるで機械を前に対話しているようだった。
これまで出会ってきた人々は皆、怒りも恐怖も悲しみも、どんな感情であっても必ず、何かしらは伝わってくるものがあった。
だが、フェイという人物にはそれが全く感じられず、ゆえにそれが恐怖を増大させることにも繋がっていた。
「さて、私を殺すというからには戦わねばなりませんし、少し場所を移しましょうか?」
そんな人の感情など露知らず、フェイはマイペースに、そして無防備に背中を向けて、こちらの意志を確認することなく廊下を歩み始める。
(隙だらけだ……いくら場所を移すとは言っても、この距離でなんの躊躇いもなく背中を向けるなんて無防備過ぎる)
一歩、力強く床を蹴れば、刃を届かせることが出来るほどの距離。
素人目に見れば、逃す必要などない好機に見えた。
(……けど、そうじゃないんだろうな)
だが、フェイへの厳しい視線は保っているものの、刀を鞘へと納め、仕掛ける気配を感じさせないシロウの姿を横目にして、自分が感じ取ったものは間違いなのだと俺は悟った。
交わす言葉なく、足音だけを響かせて、俺たちはフェイの後ろを歩み続ける。
そうして数瞬の時を経てようやく足を止めたフェイは、目の前の襖を左右に開き、悠然と中へと足を踏み入れていく。
「ンーッ! ンンーッ!!」
フェイの後を追い、部屋の前へと辿り着いた瞬間、俺たちの視界に飛び込んできたのは縛られた状態で助けを求めて叫ぶ、恰幅の良い男の姿だった。
見るからに裕福そうな衣服に身を包み、彼がこの城の城主であり、この国の長であるということがすぐさま感じ取れた。
そんな男の惨めな姿にフェイは小さく溜め息を吐く。
「まったく……うるさいですね。国を納めるものならば、もう少しどっしりと構えたらどうなんですか? みっともない……」
肩を落とし、呆れ、常に笑顔のその表情をどことなく困らせながら、フェイは唐突に男へと向かって腕を振るう。
すると次の瞬間、俺の視界には小さな音が響くと同時に床に突き立った幾つかのナイフが現れ、それらが縄を断ち切ったのだろう。
男を縛り付けていた縄はハラハラと力なく解け、僅かに涙すら浮かべていた男は唐突に訪れた解放の時に、理解が追い付いていない表情を浮かべる。
「もう用済みです。ここで騒ぎ立てられても気が散るだけですし……逃げるなり何なり、どうぞお好きなようになさって下さい」
「……よ、余に刃を突き立ててタダで済むと思うでないぞ?! 必ず後悔させてくれる!」
「ええ、楽しみに待っておりますよ」
フェイの言葉を聞き、我を取り戻し、そして吐き捨てるように吠えて男は逃げ出していく。
そんな背中へとフェイは笑顔で手を振り、静寂が訪れた後に俺たちへと向き直ると、掛かってこいと言わんばかりに両腕を広げる。
「さあ、始めましょうか」
たった一言、戦いの時を告げる言葉を発した瞬間、空気が変わった。
笑顔に変わりはなかったが、そこから滲み出るオーラの色が白から闇のような黒へと変わっていた。
まるで光がその明るさを奪われていくかのように、俺の視界はみるみる内に時と晴れ渡る空には釣り合わない暗さに包まれ始めた。