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男がか弱きこの世界で  作者: 水無月涼
三章 東洋の国
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三章48話 苦い経験

 どれくらいの間、床に横たわっていたことだろうか。

 意識が完全に途切れることはなかったが、視界は常に明瞭さに欠け、その間の記憶も曖昧なものとなっていた。

 どれだけの時間が経ったかもわからぬほどの休息を経て、ようやく動けるだけの体力を取り戻した俺は疲労を訴える腕で体を支え、震えながらもゆっくりと立ち上がる。



 「……」



 立ち上がり、ふと見下ろした先に映るのは血を溢れさせて眠るモルダの姿。

 言葉なく見つめていると、沸々といくつもの記憶が蘇ってくる。

 何もわからぬまま意識を失い、目覚めた先で捕らえられたことを知り、乱暴をされそうになり、逃げ出した先で絶望を味わい、そして、数々の下卑た視線の的として晒される。

 どれも思い出したくもなかったものだ。



 「……お前たちに出会ってなかったら、俺はずっと弱いままだった。過去からも、今からも逃げ続けて、一人じゃ何も出来ない大人になっていたかもしれない」



 しかし、今となってはその記憶のどれもが、不快感を得るほどのものではなくなっていた。

 それは、忌まわしき過去があったからこそ、今の自分があると気付いたからだ。

 身も心も強くなったことにより、常に誰かに助けを求めていなければ生きていけない、などという今までの自分から変わることが出来たからだった。

 トラウマとして刻まれていた過去は、今となっては苦い経験として人生の糧へと昇華されていた。



 「……だから、感謝するよ」



 恨みという感情など心のどこにも残っていなかった俺は、反応を返さぬモルダへと礼を述べ、胸へと突き立てた剣を引き抜く。

 そして、それを鞘へと納めると、重たい体をゆっくりと動かして、もと来た道を戻り始めた。


 とても静かな廊下を壁に手を着きながら一歩ずつ、俺はゆっくりと歩みを進めていく。

 場所を移すと言われてモルダの後を付いていた時には短く感じていた廊下は、今ではとても長く、果てしないもののようにも感じられた。



 「くっ……!」


 (体が、痛ぇ。今さらになって、傷が痛み始めてきやがった……!)



 僅かに身を掠めた数々の切り傷は、落ち着きを取り戻した俺に次々と痛みを与え始めていた。

 傷は全て固まった血で塞がれている。

 止めどなく血が溢れ、傷口が猛烈な熱を帯びているというわけではなかった。

 だが、前へと進もうと体を動かす度、筋肉は膨張と弛緩を繰り返して傷に刺激を与え続けていた。

 ピリピリと、チクチクと、電気が流れるような、針に刺されるような痛みを絶えず貰いながら、俺は痛みを堪えて足を動かし続ける。

 そうして幾分かの時を経て、シロウと道を別れた場所へと戻ってきた俺は目の前の光景に思わず立ち尽くした。



 「これ、まさか……シロウさんが一人で?」



 歩みを進めるほどに、血生臭さが強さを増しているのはわかっていた。

 だが、これほどまでの惨状が待ち受けているとは思いもしなかった。



 (これ、たぶん……十や二十じゃ収まらないよな?)



 そこには文字通りの血の海が広がっていた。

 男女の性別を問わず、無惨に切り捨てられた人々は一様に床に横たわり、壁に背中を預け、傷口から大量の血を流して死に絶えていた。

 死体に対してはもう目が慣れていた。

 大量のそれを目にしたからといって、吐き気を催すというほどのものではなかった。

 ただ、それらが放つ異臭に対する耐性はまだ十分とはいえなかった。

 俺は鼻を抑え、喉元まで上がってきた吐瀉物を吐き出すのを堪えると、それを飲み込んで胃へと押し戻す。



 「……シンジ」


 「……!」



 すると、すぐ背後から唐突に聞き覚えのある優しげな女性の声が鳴り響く。

 不意を突く呼び掛けに僅かにヒヤリとしたが、誰の声かはすぐにわかった。

 俺はほんの一瞬前まで感じていた不快感も体の痛みも忘れ、声の方向へと振り返る。



 「ぇっ……?」


 「……無事で良かった」



 俺は自分の身に襲い掛かった状況にすぐさま理解が及ばなかった。

 血生臭さと共に鼻腔をくすぐる甘く優しい女性の香り、そんな香り放つ人の顔は見れず、視界に映るのは煌びやかに輝く金糸の長髪だけ。

 全身には人の温もりが覆い被さり、自分が抱き締められていると気付いた時には、既に数瞬の時が経過した後だった。



 「鼻を衝くこの異臭を感じ取った時、もしかしたらと不安が過った。仕方がなかったとはいえ、目を離したせいで取り返しが付かないことになってしまったのではないかと、怖かった……良かった。本当に、無事で良かった」



 レンの優しさが溢れる言葉を耳にし、心を穏やかなもので満たされ、俺の表情は自然と緩み、背中に回していた腕には僅かに力が込もる。

 すると、僅かな時を置いてレンは俺から離れ、真っ直ぐに顔を見合わせる。



 「怪我は……ボロボロだな。傷は、痛むか?」



 困ったような笑みを浮かべた後、レンは体中に血の跡を残す俺の姿を見て不安げに眉を寄せる。



 「少し痛みますが、大丈夫です。それよりも……レンさんの方こそ、大丈夫ですか?」



 嘘偽りなく問いに答え、俺は即座に同じような言葉を投げ返す。

 抱き締められた時から違和感には気付いていた。

 ただ、ハッキリとその光景を瞳に映し、俺は自分の体のことなどどうでも良くなっていた。

 布を巻いて応急処置を施したその腕は真っ赤に染まり、腕を上げられないのだと感じ取れるほど、力なくダラリと垂れ下がっていたのだ。



 「なに、大したことはない。戦うには使い物にならんが、剣を取るなら腕一本あれば問題ないからな。心配はいらん」


 「いや、でも……」


 「本当に大丈夫だ。それに、怪我をしているのはシンジも同じだからな。私だけが弱音を吐いているわけにはいかんよ。心配してくれてありがとう」



 その笑顔がやせ我慢のものだということはすぐに察することが出来た。

 しかし、これ以上食い下がっても無駄だということも同時に察することが出来た。

 俺は案じる気持ちをグッと抑え、安静にしていてもらいたいという意志を飲み込んでレンの言葉を受け入れた。



 「……今の私たちでは足手まといにしかならないかもしれんが、何か出来ることがあるかもしれない。シロウの元に急ごう」


 「はい……!」



 そうして僅かな間の後、俺とレンは一様に血の海へと視線を傾けて意向を固める。

 そして、互いにゆっくりとした足取りを以て、シロウの元へと向かって血の跡を辿り始めた。

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