三章43話 補え
「ぐっ……!」
(ヤバい……! これは本当にまずい!)
徐々に迫ってくる歪曲したナイフはまるで死神の鎌のよう。
腰を踏ん張り腕を伸ばさんと力を込めようとも押し込まれるばかりで、刃を肌に触れさせぬようにするには、体を反らして自ら窮屈な体勢へと逃げる他に方法はなかった。
(クソ……! 危険だけど、こうなったらもう賭けに出るしかねェ!!)
窮地を逃れるための一か八かの賭け。
俺は成す術もなく殺されてしまうことも覚悟の上で腕の力を緩めた。
「……ッ!」
すると、その賭けはどうやら勝ちへと転がったようだった。
体を捻り、剣を傾けると、力任せに押し切ろうとしていたモルダは支えを失い、互いの刃はその身を削りながら滑って空を切る。
よろけたモルダは前のめりにたたらを踏み、その後ろ姿は無防備そのものだ。
しかし、俺には反撃の一閃を振るうことは叶わなかった。
それは、俺自身もモルダと同様に無防備そのものと言える状態だったからだ。
窮地から脱することで精一杯だった俺はすぐさま体勢を立て直すと、追撃を避けるために距離を取り、息も絶え絶えになりながらモルダへと視線を注ぐ。
(危なかった……死ぬかと思った)
剣を交えたのはほんの数秒。
だが、俺の額や全身からは脂汗が滝のように溢れ、体は纏わりつく不快感に犯されていた。
そんな中、体勢を崩していたモルダはゆっくりと体を起こし、殺意に満ち溢れる瞳を細めながら振り返る。
(それにしてもこいつの目、シロウさんが時折見せていたあれと同じだ。もしかしたら、俺はやっちまったのかもしれない。もう手遅れだけど、たぶんこいつは、怒らせちゃいけないやつだ……!)
「……黙って死んでくれていれば良いものを。その抵抗は私にもっと痛ぶって貰いたいっていう意思の表れと捉えても良いのかしら?」
のらりくらりと、掴み所なく左右に小さく揺れながら、憎しみのオーラを全身から迸らせるモルダはゆっくりと近付いてくる。
(でも、もう退くわけにはいかねェ……! レンさんとも少しはやりあうことが出来るこいつはリゼの数倍は強いことは明らかだ。冷静な状態になられたら、それこそ絶対に勝てなくなる!)
「そんなわけないだろ。お前に勝つために抵抗するんだよ!」
「実力を見極められていないのかしら……! 弱いくせに偉そうな口をッ!!」
そんなモルダを前にして震える心を俺は奮い立たせ、恐怖など感じていないと伝えるように声を張り上げた。
するとその瞬間、モルダは再び怒りを爆発させる。
力強く蹴り出した一歩は俺が作り出した間合いを瞬く間に詰め、ゆらりと脱力した腕に瞬発的に力を込めてモルダは横薙ぎにナイフを振り払う。
それを俺は、畳み掛けられることを防ぐためにも、間合いを取るために後ろに退きながら細剣を縦に構えてそれを受け止めた。
「なッ……!?」
しかし、力任せに振り払われたそれは、俺の力では受け止めることはおろか、受け流すことすら出来るものではなかった。
振り払われる力に押し込まれ、その勢いのまま俺は後方へと大きく弾き飛ばされる。
(これはまずい……!)
尻を着き、背中を打ち、全身に痛みを覚えながらも、危機に陥っていることを把握していた俺はそれを堪えながら後方に回転してすぐさま体勢を立て直す。
すると、起き上がってすぐに視界に飛び込んできたのは、瞳孔が開いた瞳を大きく見開いてさらに距離を詰めてくるモルダの姿だった。
俺は後ろに、側方に、迫るモルダと少しでも距離を取ろうと逃げ回りながら剣を振るう。
次は弾き飛ばされぬようにと、細心の注意と圧倒的な力の差に対抗するために強く力を込めながら。
するとその甲斐あってか、全てを完璧に弾き返すことは出来なくとも、ある程度は受け流せるほどに剣劇を繰り広げることは出来るようになっていった。
(まずいまずいまずい……! 本当にまずい! このまま防戦一方じゃ、一方的に力負けすることはなくとも、先に体力が底を着く!)
しかし、その対処の仕方は後先を考えずに取った力業の対応だ。
その策を続ければ続けるほどに、徐々に窮地へと追い込まれていくのは明らかなことだった。
時を経る毎にナイフは服を掠め、薄皮を切り裂き、俺の体の至るところに赤い筋を刻んでいく。
(クソッ……! 何か……何か方法は……!)
肌に刻まれた傷には痛みなどなかった。
それは、戦いの最中であったということもあるが、現状を覆すための策を講じるので精一杯だったというのもあった。
目まぐるしく頭を回転させる俺の脳裏には走馬灯のようにこれまでの記憶が駆け巡っていく。
『力で敵わぬ相手には……』
「……ッ!」
荒ぶる呼吸、息着く暇もない剣劇。
もう間合いを管理する余裕すらなくなったその時、俺の脳裏には終に一つ、救いとなる言葉が闇の中に小さな光をもたらす。
(そうだ……! 俺は弱いんだ。剣“だけ”で勝てるわけがねェ!)
すると、そんな俺の瞳には横薙ぎの構えを取るモルダの姿が映る。
レンからの教えを体現するにはまずこの一振りを凌がねばならない。
俺は瞳を大きく見開き、振り払われる軌道を読み取って下からすくい上げるようにして刃を合わせた。
刃を合わせる角度、押し上げる力加減、それらいくつもの条件を的確に調節したその一合は、振り払ったモルダの刃をするりと滑らせ、僅かに頭を下げた俺の頭上の空を切り裂く。
すると、今までまともに受けることすら出来ていなかった俺の行動の変化を前にモルダは僅かに驚きを見せる。
だが、それも一瞬のこと。
二刀を操るモルダは振り払う勢いそのままに体を回転させると、もう片方の刃でさらなる横薙ぎの一振りを振り払った。
「……ッ!」
受け流そうとばかり考えていた数瞬前であれば、初めて見せられたその行動は致命的な一振りになっていたかもしれない。
しかし、その時偶然にも取っていた俺の行動は、不意を狙ったその一振りに幸運なことにも絶妙な噛み合い方を引き起こしていた。
モルダのナイフはさらに身を屈めていた俺の頭上を通り過ぎ、立て続けに虚しく空を切り裂いていく。
そしてその瞬間、モルダの懐は無防備さを晒し、身を屈めていた俺にとっては絶好の機会が目の前に現れていた。
「ぅぐッ……!?」
俺は迷いなくそこへ飛び込み、隙だらけの腹部へと力一杯に突進を仕掛けた。
痛みに悶え、勢いにはね飛ばされ、モルダは表情を歪めながら床を転がり間合いを取る。
「やって、くれるわね……!」
痛みで歪みながらも、その表情には怒りの感情が込もっているのが伺える。
しかし、その言葉に対応している余裕など、今の俺は全く持ち合わせてはいなかった。
僅かな休息の時間を得て、足りない酸素を必死に求めるように肩で呼吸を繰り返す。
(剣だけで渡り合っていたら絶対に押し切られる。手でも足でも頭でも、使えるものは全部使え……! 実力が足りないなら全身を武器にしてでも補うんだ!)
レンから教わったものは剣劇の中にも組み込めるいくつもの体術。
技量が互角の相手にも打ち勝つための、戦略に幅を持たせるための術だ。
目の前の強大な敵から勝利をもぎ取るために、記憶の引き出しを全て抉じ開けながら俺は呼吸を整えんとして、一つ大きな深呼吸をフゥと吐き出した。