一章8話 偶然の重なり
俺の顔を真っ直ぐに見つめるモルダは笑みを保ちながら思案気に首を傾げる。
「確かに鍵は掛けたはずだわ。あなたを最初に牢に納めた仲間から、ピッキングに使えるような道具は持ち合わせていなかったという情報も聞いている。鉄格子にだって不備はない……人間の力だけではとてもじゃないけど逃げ出すことは不可能なはずよ」
モルダは一つ一つ記憶を確認しながら、なぜ今自分の目の前に捕らえていたはずの人物がいるのかという状況に疑問符を浮かべる。
ただ、そんなモルダの言葉は俺の耳には一つとして届いてはいなかった。
(……もう、後戻りはできない。やるしかない……! どんな手を使ってでもここを突破して外に出るんだ! やってやる……あの子のためにも、俺自身のためにも!!)
「つまり、あなたが抜け出す切っ掛けを作った人物がいるはず……ねえ、教えてくれるかしら? 誰があなたにその切っ掛けを……!」
俺は涙ながらに訴え掛けた少年の表情を思い出し、心に現れた諦念を振り払ってモルダへと向かって駆け出す。
やるべきことはたった一つ。
リゼにやったのと同じように、突き飛ばして怯んだ隙に全力で逃げ切る。
武術も腕力も持ち合わせてない俺に出来ることはそれしかなかった。
「おっと……!」
「いッ……!?」
距離は走れば一秒もかからない僅かなもの。
多少なりとも身構えられる可能性はあれど少なからず押し飛ばせられるはず、俺はそう思っていた。
しかし、不意打ちであったはずのその行動は意図も簡単に受け止められ、体捌きと腕捌きによって一瞬の内に腕を背後で固められた俺は、無理に動かせば悲鳴を上げる腕の苦しさに顔を歪める。
「ふふっ……それはもう見たわよ? 最初に逃げ出そうとした時も同じことをしたのに、私にそれが通じると思ったの?」
「……ッ!」
(言われてみれば、この状況は確かにあの時とかなり近い……! これ以上の方法が思い浮かばなかったとはいえ、リゼってやつとは違って用意周到そうなこいつにはさすがに安直過ぎたか……!)
モルダは背後から覗き込むように俺の表情を伺いながら行動を咎め、妖艶な笑みを浮かべる。
「……それにしても、リゼに簡単に取り押さえられていた時から思っていたけど、あなたって本当に力が弱いのね。東洋人は男の方が力が強いって聞いていたから、少し警戒していたんだけど……あなた、まさか女ってことはないわよね?」
しかし僅かな間の後、モルダの表情からは笑みが消え、今度は疑いの視線が注がれ始める。
背後から覗き込むように注がれるその視線は一秒、二秒、三秒と注がれ続け、永遠にも感じるほどの短くも長い声の響かぬ沈黙の時間が数瞬と流れる。
「……まあ、そんなことは別にどうでも良いわね」
しかしその僅かな間を置いて、モルダは唐突にその疑惑を取り払う。
「たとえあなたが労働力にならないほどの非力な女だったとしても、あなたを男として高く売り捌いた後に私たちはここを離れる。買い取った方がその事実に気づいて、騙されたことに対して私たちを問い詰めようとした所で、その時には私たちはもうこの国にはいないんだし、信用問題なんて気にすることなく東洋人という珍しさだけで売り出せば良いものね」
モルダの内にあった考えは卑劣と呼ぶに相応しいものだった。
罪悪感などないと言うように微笑を浮かべるモルダの表情に、俺は恐れを抱き、言葉が出なかった。
「「……!」」
すると、モルダの微笑から僅かに遅れ、耳には駆ける足音が反響し始める。
俺はすぐにそれが誰の足音かを察し、そんな俺とは対照的に、急ぐ足音に疑問符を浮かべるモルダは俺が逃げ出さぬよう腕を強く固めたまま、地下牢へと繋がる通路の扉へと視線を注ぐ。
そうして徐々に音が大きくなっていき、音が間近へと迫った瞬間、扉はけたたましい音を響かせながら勢いよく開かれる。
「東洋人ッ!! 出てきな……いぃッ!? モルダ!?」
「……なるほどね、そういうこと」
飛び出してきたのは鬼のような形相を浮かべていたリゼと、荒い息遣いを響かせる二人の女だった。
顔を見た瞬間に表情を一変させたリゼの姿に、モルダは状況を全て察して目を細めた。
「……良かったわね、リゼ。モルダが捕まえておいてくれたわよ」
「ちょっと!? それを言ったらバレるじゃない……!」
「この状況でモルダがわからないわけないでしょ」
距離と暗さがあるからか、そんなモルダの表情の変化には気づかず、焦るリゼは二人が余計な言葉を口走るのを防ごうと、口を閉ざすように促す。
(この力の差で四対一は、もう、どうにもならない…………クソッ……! 何でなんだよ……! 何でこんな時に限って、この女がこんな場所に……)
「え、えぇっと……! も、モルダ! て、手錠の確認とかはもう終わったのかしら……?!」
そして、明らかにその場を誤魔化そうという意志が垣間見える様子で、リゼはモルダへと問い掛ける。
「ええ、もちろんよ。次のオークションで使う個数も確認したし、その予備も確認した。破損も一つとしてなかったわ」
「そ、そう……! ひ、暇だったから手伝おうと思ってたんだけど、無駄足だったみたいねー!」
「……ッ!」
(ちょっと待て……確認に、来た? つまり、それって……今日の、このタイミングだったから、このモルダって女は偶然にもここにいたってことなのか? ふざけるなよ……! どんだけツイてないんだ俺は……!)
涼し気な顔と数多の汗を額に浮かべる顔、相対する様相の二人のやり取りを前にしながら、俺は無慈悲な運命の悪戯に歯を噛み締めた。
「……リゼ」
「な、何……?」
するとそんな中、モルダの静かな声が響き渡る。
その声には先程までの妖艶さはなく、冷徹さが垣間見えるような冷たさがあった。
モルダの声の変化にリゼは怯えた様子で震えた声を響かせる。
「商品に手は出すなといったわよね? 万が一にもこういうことが起こらないとは限らないからって」
「そ、そんなこと、言ってたような……言ってなかったような……ははっ…………」
「……後で私の部屋に来なさい。良いわね?」
「は、はい……」
そんなリゼへ、あなたの行動はお見通しよと言わんばかりにモルダはリゼに問いかけ、拒否権はないと悟った様子のリゼは小さく頷く。
そして、俺は逃げる隙間なく四人に囲まれ、捕らえられていた牢の元へと引き摺られるように連れていかれた。