三章32話 俺にとっての幸せ
その場に立っているものが自分一人となり、仲間の身の脅威となるものが去った今、俺は張り詰めていた緊張の糸を緩め、安堵の吐息を静かに吐く。
そして、一呼吸置いた後に倒れ伏すレンたちへと振り返り、三人を目覚めさせるべく、小走りで駆け寄ってその傍らで膝を折った。
「レンさん、起きてください」
俺は眠るレンの体を優しく揺すり、声を掛けて目覚めを促す。
しかし、しばしの間、目覚めを待てど、レンの寝息に変化が現れはしなかった。
「レンさん……!」
俺は僅かに語気を強め、揺する力も強めて再びレンに目覚めを促す。
だが、レンは先ほどと同じように寝息を立てるばかりで、目を覚ます気配は微塵も感じられなかった。
(何で起きないんだよ……! あいつはもう、倒したんだぞ!)
「レンさん! 起きてください、レンさん!!」
声を荒らげ、激しく体を揺すり、クレアやシロウにも視線を向けながら、俺は三度起床を促すが、やはり変化は一向に訪れなかった。
そして、それは他の二人も同様に、うるさいと感じるほどの声を響かせているにも関わらず、安らかな寝息を立て続けていた。
「どうすれば、良いんだよ……」
俺は呆然とするしかなかった。
敵を仕留めて尚、未だ仲間を救い出せていない現状に無力さすら感じていた。
「……いや、まだだ。諦めるな……! 考えろ! 皆が目を覚まさない理由がどこかに必ずあるはずだ!」
だが、それを理由に諦めるなどという選択肢は俺の中にはなかった。
俺は倒れ伏す三人へと視線を注ぎながら、目を覚まさぬ原因を求めて記憶を探り始める。
覚悟を決めて命を奪った戦いの光景、幻覚から目を背けるために目の前の景色から逃避していた光景、老婆と会話を交わした光景。
一つ一つ時間を遡り、手掛かりとなるものがないか記憶を見返していった。
「……ッ!」
(この匂いは……!)
記憶を見返している内に冷静さを取り戻し、ふと俺は覚えのある匂いが辺りに漂っていることに気が付く。
(確かこれって、ゲコクジョウの花ってやつの……)
「そうか、これが原因か……!」
そして、花を頼りに記憶を見返して、俺はようやくレンたちが目覚めぬ原因を理解する。
原因を突き止めた俺はすぐさま立ち上がり、壁際に駆け寄るや否や、闇を作るカーテンを勢いよく開く。
「……! あった、これだ!」
するとそこにあったのは、窓から差し込む月明かりに照らされる、青紫色の美しい花だった。
俺はすぐさま窓を開け、花瓶に植えられたその花を外へと放り投げる。
(花の匂いが強い人を夢へと引き込むってあの婆さんは言っていた……! つまり、あの花の匂いがこの部屋に漂っている限り、レンさんたちが目を覚ますことはない! だったら、俺のやることはただ一つ!)
目に見える全てのカーテンを開き、窓を開け、隠されている花を次々と放り投げていく。
やるべきことを見定めた俺は、一心不乱に同じ行動を繰り返し続けた。
部屋から花の姿が完全に消え去るには、数分と時間が掛かることはなかった。
僅かに呼吸を乱しながら、俺は辺りの様子を見渡す。
「あとは、皆が目を覚ましてくれるのを願うだけだな……」
自分に出来る最善は全て尽くした。
もう、何もやるべきことは見当たらなかった。
風に揺られて木々がざわめくのを耳にしながら、俺は三人の元へと歩み寄り、腰を下ろして花の匂いが消え去るのを静かに待った。
「幸せになって、か……」
レンたちの目覚めを待つために、何もしない静かな時間に身を置いていると、ふと脳裏には別れ際に呟かれた母の言葉が蘇る。
(この世界で、俺にとっての幸せって何なんだろうな……偉大な功績を残すことが幸せなのか、可もなく不可もない、平凡な暮らしを送ることが幸せなのか……全然、考えたこともなかったな。どう生きるのが、俺にとっての正解なんだろう……)
予期せず訪れた、このたった一人で過ごす時間は自分自身を見つめ直すのには丁度良い時間だった。
俺は過去を振り返り、この世で感じた幸せな時間を思い返す。
「はは……改めて思い返してみると、この世界での俺の人生って随分と酷い人生だな」
奴隷から始まり、人殺しの光景を目の当たりにし、生きるために人を殺した。
幸せという幸せを未だ感じた覚えがない。
そう今までを振り返った瞬間、俺はもう笑うしかなかった。
(……幸せをまともに味わっていない今の俺には、この世界での幸せが何であるかはまだわからない。だから、どんな道に進んでいくべきかなんてまだ決められない。でも……)
ただ、記憶を見返して印象に残った光景はそれだけではなかった。
奴隷となっていた少年の涙や人生に悲嘆したクレアの涙。
それら、悲しみに満ちた表情が脳裏に過った瞬間、俺の心は締め付けられるような痛みに襲われていた。
(人が悲しんでいる姿は見たくない、これだけはハッキリしている。もう、大切な人たちのあんな姿を見るのだけはごめんだ……!)
あの日、涙が頬を伝ったのは助けを求めてきた少年を救い出せなかった悔しさから。
あの日、弱かった俺を突き動かしたのは、理不尽に涙を流したクレアの姿にいてもたってもいられなくなったから。
思い返してみれば俺の行動の原理は、悲しむ人を救いたいということに基づいていた。
『泣いている姿なんて見たくない。母さんには、笑っていて欲しいんだ……!』
「……!」
すると、自らの感情を理解したばかりの俺の脳裏に、唐突に、過去の記憶が鮮明に蘇る。
それは、俺の中にわだかまりが生まれる原因ともなった、母に泣き付かれた日のものだった。
「……そうか。俺にとっての幸せは、人の笑顔を見ることだったんだな」
“これで、母さんが笑ってくれるのなら”
あの日、抱いた感情を思い出し、俺は死ぬ前に幸せを感じていた瞬間をいくつも思い出した。
どれもこれも、家族が笑顔を浮かべている光景ばかりだった。
それがゆえに、父と母が怒鳴り合っていた日々が怖くて仕方なかったのだろう。
幸せだった日々が壊れていく。
それが堪えられなかったのだ。
「……決めた。俺にとっての幸せは、皆の笑顔だ。これから先ずっと、レンさんやクレアが悲しまないような、笑顔になれるような道を進んでいこう」
自分自身を今ハッキリと理解し、俺のやり遂げる目標は一つだった。
未だ静かな寝息が響き渡る中、俺は誰に告げるでもなく、心に固めた決意を小さく呟いた。