三章31話 覚悟の剣
蝋燭の小さな明かりだけが光をもたらす薄暗き部屋のその中央。
四人の男女が静かな呼吸の音を響かせて倒れ伏す中、その傍らに立つ老婆は静かに邪悪な笑みを浮かべる。
「エッエッエッ、楽なものじゃのう。強きものは永遠に叶わぬ夢に溺れ続け、弱きものは苦から逃れるためならどんな誘惑だろうと飛び付く……ちゃんと頭を使えば、危険を犯してまで棒切れを振るう必要などありゃせんわい」
老婆は倒れ伏す四人の顔を品定めするかのように、一人一人ゆっくりと一瞥する。
「……一応、こやつから殺っておくかのう。真実の花の種が見せる幻覚には抜け道があることじゃし、万が一……いや、億が一まで考えておいた方が良さそうじゃ」
そして、奪い取る一人目の命に狙いを定めると、ローブの内から一尺にも満たないナイフを取り出した。
蝋燭の光を反射してキラリと煌めくナイフの鋭利さをまじまじと見つめた後、老婆は勝ち誇った様子で歩み始める。
「シンジじゃったか……? この婆を恨むでないぞ? お前さんたちが敵対してくるのが悪いのじゃからのう。なぁに、寂しがることはない。すぐにこやつらもそっちに送ってやるでのう。安心して眠っていると良い」
言葉が返って来ないとわかっていながら、老婆は楽しげにそう語り掛ける。
そして、手の届く距離まで詰め寄ると、手にするナイフを首元へと差し伸べ、動脈を切り裂かんと刃を皮膚へと添えた。
「……さらばじゃ」
この場には誰一人として老婆を呼び止めるものはいない。
たとえ、そんな救いの手を差し伸べてくれるような人がいたとしても、その状況は覆せるようなものではなかった。
「……! うあぁッ!!!」
「……ッ!? ひぃあぁぁあ!!?!」
ただそれは、当人を除いた第三者の視点から考えた場合のこと。
老婆の別れを告げる言葉と共に目を覚ました俺は、首元に刃の冷たさがあることに気付くや否や、それから逃れるように身を翻し、同時に手にする細剣を振り払った。
伸ばされていた腕に傷を刻み込んだ剣は血のアーチを描き、痛みに悶えた老婆は、表情を驚愕と恐怖の色に染めながら後退って床に尻を打ち付ける。
「ハァ……ハァ……」
死を間近にしていたという恐怖、体の限界を越えたと言わんばかりの瞬発力を発揮した直後ということもあり、たった一瞬の出来事だというのに体は強い疲労感に襲われていた。
(危なかった……あと一秒、二秒、起きるのが遅かったら、完全に殺されて……)
「……ッ! レンさん、クレア、シロウさん……!」
ただ、疲れたからと言って落ち着いている余裕などなかった。
現状を思い返した俺はすぐさま倒れ伏す三人の元へと駆け寄り、それぞれの容態を確認し始める。
血の海が広がっているわけではない。
三人のそれぞれの寝息も確かに聞こえる。
まだ殺されているわけではなかった。
「はぁ、良かった……」
皆が生きている。
それを確認した途端、肩の力は一気に抜けていった。
「な、なぜじゃ……!」
そんな中、動揺を露にする老婆の声が響き渡る。
俺はすぐさま声の方向へと振り返り、幽霊でも見たかのような表情を浮かべながら血の溢れる腕を抑える老婆へと視線を向ける。
「なぜ、もう目を覚ましておる……! まさか、抜け道を知っておったのか……?!」
今まで保ち続けていた冷静さはどこへやら、目を覚ますはずなどないと信じきっていた様子の老婆の声には焦りの色が溢れていた。
また何か揺さぶりを掛けようとしているのかもしれない。
そう心に疑念を抱き、俺は細心の注意を払って、警戒の糸を強く張り巡らせながらゆっくりと立ち上がる。
「抜け道なんてもんはしらねーよ。ただ、母さんが教えてくれただけだ。あの涙は演技なんかじゃないって、俺が死んだことを悲しんでいるって……お前の言っていたことの全てが、嘘なんだってことをな!」
言葉巧みに人を騙し、人の母を悪者へと仕立て上げようとした。
そのことについての怒りや憎しみは心の中に強く溢れていた。
だが、俺はそれを怒りの叫び一つで抑え、足に根を生やさせて突発的な行動を取らぬようにジッと堪えた。
そのお陰か、回りの光景は驚くほど鮮明に映っていた。
俺に対して恐怖に満ちた視線を注ぐ老婆の表情も。
ナイフを強く握り締めて、ローブの内へと腕を忍ばせる小さな挙動すらも全て。
俺は一つ深呼吸をして息を整え、覚悟を決めて老婆の元へと歩み寄る。
「……幻覚を見たこれまでのものたちは皆、目に映るものから逃れるために深い眠りに着いておったのじゃがのう。まさか、こんな結末を迎えるとは思ってもみんかったわい」
「……」
僅かな間の後、老婆の様子には明らかな変化が現れた。
どこか生を諦めたような、戦う気配を完全に取り払ったような雰囲気が、相対する老婆には漂っていた。
「……シンジや、この老いぼれの風前の灯、お前さんの手で掻き消してはくれぬか? 年も食い、これだけ血も流れ、ワシはもう生き永らえることは出来んじゃろう。じゃから、せめてこれ以上苦しまぬ内に、あの世へと送ってはくれぬか?」
「……ああ、わかったよ」
老婆の願いに対し、俺には拒否権がなかった。
放っておけば死ぬということは確かなことなのだろうが、弱っているからといって背を向ければ、そこを狙ってくる可能性があったからだ。
俺は真っ直ぐな視線を注ぎながら、儚い笑みを浮かべる老婆へと歩み寄っていく。
「……ヒャアッ!」
そうして、あと二歩、三歩と足を進めれば手が届くであろう距離まで近付いた瞬間、老婆はここだと言わんばかりに本性を露にし、隠していたナイフを放ってきた。
「……ッ!?」
「もう騙されやしねーよ!!」
冷静でなければ、俺の反射神経では避けられなかったものだろう。
そして、老婆も俺が避けるとは思っていなかったのだろう。
顔へと飛んできたナイフを体を傾けることで避けると、老婆の表情からはナイフを放った瞬間に見せた邪悪な笑みを一瞬にして掻き消え、驚愕によって瞬く間に青ざめていく。
『生きるために、誰かを救うために……』
そんな、瞳に焼き付けられる老婆の表情を振り払うかのように、俺の脳裏にはクレアの声が響き渡る。
(ああ。今、助けて見せるよ……!)
「うぉぉおぉおッ!!!」
クレアの助言がなければ、俺はまた立ち止まっていたかもしれない。
人を殺すということに対する恐怖は言葉では言い表せないほどのものがあった。
ただ、俺はクレアの言葉に背中を支えて貰いながら一歩を踏み出し、叫びで恐怖を振り払いながら老婆へと向かって剣を振り下ろす。
「ガッ……ァ…………」
老婆の声にならない断末魔と共に、肉を切り裂いていく感覚が剣からハッキリと伝わってきた。
これが人を殺すということなのだと言わんばかりに、その感覚はとても重たかった。
ただ、心が締め付けられるような自責の念に苛まれることはなかった。
自分が生きるためには仕方がなかった、皆の命を守るためにはこうする他になかったのだ。
そう考えると、心は自然と軽くなっていた。
老婆が瞳を閉じて項垂れ、完全に息を引き取ったのを見届けた後、俺は川を作るように伝う血を振り払って鞘へと剣を納めた。