三章30話 この世界で俺は
目の前の光景から逃げるように瞳を閉じると、俺の視界には何も映ることはなかった。
真っ暗な闇だけが視界を覆い尽くし、瞳を閉じたことに伴って、耳に響いていた声や音すらも全てがシャットダウンされていた。
水の底へと沈んでいくかのように、俺の意識は何も感じない無の世界へと引き込まれていく。
(……何も見えない……何も聞こえない。ここには、何もない……けど、この世の全ての苦しみを感じないで済む)
その暗き世界は、とても居心地がよかった。
もう奴隷になることもない。
もう死への恐怖と対面することもない。
そう考えると、何もないという事がとても安心感を得られるものなのだと感じられた。
一生このまま閉じ籠っているのも良いかもしれない。
暗闇でジッとしている内、俺は心のどこかでそう思うようになっていた。
『……め……ね』
「……!」
そんな中、何も聞こえなかったはずの俺の耳に、一つの声が響き渡ったような気がした。
誰の声だろうか、何と言ったのだろうか。
何も感じなくなった中で響いた声ということもあり、興味を惹かれた俺はそんな疑問からゆっくりと瞳を開く。
すると、光が指した俺の視界には、普段着に身を包み、俺の遺影が飾られた簡素な仏壇へと向かい合う母の姿があった。
『ごめんね、シンジ……』
とても悲しげな声で母はそう呟いた。
(何で、謝って……俺に謝罪って、何のことに対してだ? 今更ながら、罪悪感にでも襲われたのか?)
先ほど耳にした言葉が謝罪の言葉だったと知り、俺の心は困惑し始めていた。
父親に似た俺を嫌い、道具として扱っていた人である母が、俺に謝罪をする理由がどこにあるのか全く理解が及ばなかった。
『こんなダメな母親がお母さんで、ごめんね。お母さん、シンジのこと、全然幸せにしてあげられなかったよね? 欲しいものもろくに買って上げられなかったし、おいしいものもあんまり食べさせて上げられなかった。お金まで貸してもらっていたのに、家事を色々と手伝ってもらって……好きな部活動に打ち込ませて上げることも出来なかった。ずっと我慢させてきて、ごめんね……!』
(……今更謝られたところで、もう俺の人生は返ってこないんだぞ。そんな言葉貰ったところで、どうしろって言うんだよ)
母の懺悔を聞いても俺の心は晴れる気配がなかった。
母は俺を陥れ、ぞんざいに扱った。
そんな印象が心に強く残っていたからだ。
『はぁ……見返してみると、お母さんって本当にダメな母親ね。シンジがしっかりしていたことにずっと甘えて……中学に入った辺りから、あれ欲しいこれ欲しいだなん我が儘も言わなくなったから、今のシンジの好きなものすらわからない。こんなものばかりじゃ、喜んでくれるわけないよね……』
「……ッ!」
(あれって、俺が昔好きだった……)
もうこんな映像など見る価値もない。
そう思い、瞳を閉じようとした俺は、供えられていたものを目にして新たな困惑を抱き始める。
それは、母は俺を嫌っていた、ということについての疑念だ。
供えられていたものの多くはお菓子だったが、そのどれもが小学生やそれ以前に好きだったものばかりだったのだ。
母が本当に俺のことを嫌っていたのであれば、嫌いな人間の好きなものをいつまでも覚えていようか。
それを数多く用意して仏前に供えるものなのか。
疑念は新たな疑念を呼び、閉じさせはしないと言わんばかりに俺の瞼を否応なしに持ち上げる。
(あれが好きだったことなんて、俺でも忘れていたのに、母さんは覚えて……)
まだ母を信じきれていない俺にとってその光景は不思議なものだった。
それと同時に、嬉しいと感じるものでもあった。
胸で燻る多幸感にむず痒さを覚えている内、ふと気付けば、俺の表情にはいつのまにやら笑みが浮かび始めていた。
『……ねぇ、覚えてる? シンジ。このペロペロキャンディー、シンジが三歳くらいの時の旅行先で買ったものと同じものよ。今でもよく覚えているわ。あの時はシンジが小さな段差に躓いて転んで、大泣きして大変だったのよね。お父さんがどうすれば良いんだ、って慌てながらもこれを買ってきてくれて……あまりの泣きっぷりだったから、こんなことで泣き止むわけない、なんてお母さんは思ってたんだけど、驚いちゃったわ。だって飴を渡された瞬間、シンジったら一瞬で泣き止んじゃったんだもの。無事泣き止んでくれて良かったって安心はしたけど、あまりにも一瞬で泣き止んじゃったものだから、家族皆で思わず笑っちゃったのよね』
(はは……覚えてるわけないだろう、そんな昔のこと)
どこか儚げでありながらも楽しそうに昔話をする母を目にしている内、荒んでいた心はどんどんと癒えていくようだった。
(……俺は別に、母さんに愛されていなかったわけじゃないんだな)
俺以上に俺のことをよく覚えてくれている。
それを知り、母に抱いていた憎しみは砂が風に吹かれたかのようにどんどんと散り散りになっていった。
それと同時に、数々の記憶が俺の中には蘇ってくる。
忙しい中でも必ず授業参観に参列してくれていた記憶。
朝早くから起き、毎日欠かさず作ってくれていた弁当。
日々の何気ない会話の中で見せる笑顔。
どれもこれも、俺のことを嫌っていたのであれば起こり得ることのなかったものばかりだ。
脳裏を駆け巡った過去の数々は、俺の心から母への憎しみや不信感といった負の感情を全て取り払ってくれていた。
(俺の方こそ、ごめんよ母さん。感謝もろくに伝えないまま死んだりなんかして。届くかどうかはわからないけど……)
「ありがとう……俺の、母さんでいてくれて」
声など届かぬと思いながらも俺は母へと感謝を告げ、この暗き世界から抜け出そうと母に背を向ける。
すると、真っ暗な視界の先には一点の光があった。
長きトンネルの出口であるかのように、その光はジッと動くことなく俺に進むべき道を示しているようだった。
『シンジ……』
「……ッ!」
そんな光の元へと向かおうと一歩を踏み出すと、母は俺の名前を小さく呟く。
俺はすぐさま立ち止まって母へと振り返る。
『……もし、生まれ変わってどこか違う場所で暮らしているのなら、そこでは幸せになってね』
「……うん。幸せに、なってみせるよ」
気持ちが奮い立つような言葉ではなかった。
ただ、心はとても穏やかなもので満たされていた。
母が言葉を紡ぎ終えてから、俺の瞳に映っていた景色は終わりを告げるかのように徐々に霞み始める。
そんな幻覚に背を向け、俺は光が示す出口へと向かって闇の世界を駆け出した。