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男がか弱きこの世界で  作者: 水無月涼
三章 東洋の国
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三章29話 涙

 全身が痛みで悲鳴を上げているわけではない。

 意識を失っているわけでもない。

 ただ、視界は渦を巻くように歪み、体は全くと言っていい程に動かなかった。



 「……」



 口を動かそうと思えば僅かに動かすことは出来る。

 ただ、一切声は出てこなかった。



 「老いぼれなど若さの前には何も出来ぬ憐れな生き物じゃ。ゆえに、常に策を講じて若さに対抗しようとする……それを踏まえれば、自ら痺れを切らしては命取りになるということなど、少し考えればわかろうものじゃがのう」



 音はしっかりと聞き取れる。

 通常通りの聴覚をしているとはいえないものの、何を言っているかはハッキリと聞き取れていた。

 老婆は完全なる勝利を確信したような様子で声を響かせる。



 (クソ……力が、入らない。俺がどうにかしなきゃ、いけないのに……!)



 時が経つに連れ、俺の体からは感覚というものがどんどんと抜け落ちていた。

 全身に力を込めてはいるものの、動いているかどうかを察知することは出来ず、ただただ闇に染まりつつある視界の行く末を見守っているような状態だった。



 「エッエッエッ、随分と必死じゃのう。死ぬのが怖いかえ? それなら安心せい。全員仲良くあの世に送り届けてやるでのう。寂しくなることなどないぞ」



 そんな俺の様子を滑稽だと言わんばかりに老婆は笑う。



 「そうじゃ、冥土の土産に教えてやろう。お前さんが今しがた浴びた粉、あれは真実の花という花の種をすり潰したものじゃよ。花の蜜は真実薬を作り出すための材料となるが、種には一時的に体を痺れさせ、幻覚を引き起こす毒としての効用があるんじゃ」



 老婆の言葉を聞いている内、俺の体に訪れていた異変はとうとう耳にも及び始めていた。

 まるで洞窟内で声を響かせているかのように言葉は何度も反響し、脳内へと直接声を届けているかのように声の出所は定かではなくなってきていた。

 そして、視界の歪みは闇へと変わっていき、俺の目に映る全ては黒く塗り潰されていく。



 「……とうとう全身が毒に侵されてきたようじゃのう。ゆっくりと眠りに着くが良い」



 老婆が何かを喋ったような気がした。

 ただ、もうどういう言葉を発していたのか俺にはわからなかった。

 暗く深い水の中へと水没していくかのように視覚や聴覚、触覚、それら全ての感覚が失った俺は、思考を停止し、襲い掛かる闇に身を委ねた。



 『シンジッ!!』


 「……ッ!」



 しかし、目の前が真っ暗となった瞬間、目を覚ませと言わんばかりの叫び声が響き渡る。

 それは聞き覚えのある女性の叫び声だった。

 レンのものともクレアのものとも違う、どこか懐かしさのある声が、俺の脳内に焼き付くように強く響き渡る。

 そしてその声を契機に、闇に染まっていた俺の視界には光が溢れ始め、長きトンネルを抜けるかのようにその光は闇を押し退けていく。



 「ぇ……?」



 そうして瞳に映った景色を目の当たりにして、俺の口からは間の抜けた声が意図せずして溢れ落ちた。

 宙から見下ろす景色が不思議だった、ということは確かにある。

 その景色が病室とは少し趣の違う、陰鬱とした空気が漂っている場所であったから、というのも否定はしない。

 ただそれ以上に、目の前で眠っているのが自分自身だということと、そんな眠る俺の傍らにいるのが実の母親と姉だったということに理解が追い付いていなかったからだ。

 この幻覚は、“元いた世界で俺が死んだ後の景色”だということに気が付くまで、俺は数秒ほど声を失ったままその光景を見下ろし続けていた。



 『なんで……なんで、シンジがこんな目に……』


 「……ぁっ」


 (母さんが、泣き崩れてる……離婚してから全くと言っていいほど涙なんて見せてこなかった、あの母さんが……)



 事故に遭ったとは思えないほどに綺麗な状態を保つ俺の遺体に、母がすがり付く姿を前にし、俺の心は居たたまれなさから締め付けられるような苦しみに襲われていた。

 小さな怒りに囚われていたせいで親より先に死ぬなどという親不孝を犯す。

 大バカものだとしか言いようがない。

 俺の心は今すぐにでも額を地面に擦り付け、不孝を詫びたい気持ちで一杯となっていた。



 「随分と演技が上手じゃのう、この娘は」


 「……ッ!」



 すると唐突に、水を指すような形でどこからともなく老婆の声が響き渡る。

 目の前の光景のせいで、自分が戦いの場にいるのだということを完全に失念していた。

 俺は身構えながら声の出所を探して辺りを見渡す。

 しかしどこを見渡しても、俺の瞳には目の前に映し出されている光景以外のものは何も映らず、老婆の声の在りかを掴むことなど出来なかった。



 「どこにいる!? 姿を見せろ! 見えない場所から勝手なことばかり言ってんじゃねぇぞ! あれは俺の母さんだぞ! 親が息子の死んだ姿を前にして、泣く演技なんてするわけがないだろ!!」



 俺は辺りを見渡しながら見えない老婆へと向かって軽薄な言葉に対する怒りをぶつける。

 すると、老婆は俺の怒りを嘲笑うように笑い声を響かせる。



 「エッエッエッ、本当にそう言えるのかえ? あたしゃ知ってるんだよ、お前さんには頼れるような父親がいないことも、そのせいで家庭が貧乏だということもね」


 「……!?」


 「お前さんの母親はこう思ってるはずさね、“口減らしが減って助かった”ってねぇ。お前さん、ろくに愛されてなかったんじゃないかえ? 幾度となく我慢させられたことはなかったかえ?」


 「……」



 脳内に直接語り掛けるように響く老婆の声に、俺は反論することが出来なかった。

 老婆の指摘に合致するような過去が確かにあったからだ。



 「そ、それがあったとしても、これとは関係……」


 「若造には分からぬかもしれぬから教えておくが……」



 俺はどうにかして否定の意を突き付けようと試みるが、響き渡る老婆の声に俺の言葉は遮られる。



 「涙というものは人を欺くための大いなる武器なのじゃよ。思い当たる節がないかえ? 人に使われた過去も、自分自身が使った過去もあるはずさね……貧乏という状況、人の目がある状況、喜びを隠すのに涙は持ってこいさね」


 (……そういえば、あの時も泣いていたな)



 老婆の言葉によって、俺の脳裏には金を貸してくれと泣き付かれた日の光景が鮮明に思い出される。

 反論する気力は瞬く間に崩れていった。

 もう何も見たくない、思い出したくもない。

 今の俺の心にある感情はそれだけだった。



 「可哀想にねぇ。お前さん、辛かったろう? だが大丈夫じゃよ。そういう時は目を背ければ良い。辛いものなんて好き好んで見るものじゃないからねぇ、目を瞑って全てに蓋をするが良い。そうすれば楽になる」



 老婆の言葉はまるで救いの手を差し伸べてくれているかのようだった。

 瞳を閉じれば涙なんかを流す母の姿を見なくて済む。

 暗い世界でジッとしていれば、辛かった過去を思い出さずに済む。

 俺は辛いもの全てから逃避するように、瞳を固く閉じて闇の世界へと閉じ籠った。

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