三章26話 “変わらなければいけない”
死を迎えて横たわるリゼからは血が溢れ、床には小さな赤い水溜まりが少しずつその面積を広げつつあった。
辺りにはクレアの僅かに乱れた息遣いだけが響き渡る。
無表情のクレアは何か言葉を発することはなく、何か行動を起こすわけでもなく、自分のやったことを見つめ直しているかのように数瞬の間ジッと床を見つめ続けていた。
「クレア……」
そんなクレアへと俺は、どのような言葉を掛けるべきかと思案しながら声を掛ける。
「シンジくん……!」
「ぅわぁっ……!?」
すると、クレアは唐突に駆け出し、その勢いを衰えさせることなく尻を着いたままの俺の元へと飛び込んできた。
予想もしていなかった行動に、俺は受け止めきれずに背中を打ち付ける。
「良かった……! 無事で……本当に良かった!」
「……!」
クレアの声は震えていた。
声だけではない。
よく見れば体にも僅かに震えがあり、顔を埋められた俺の胸には、徐々に湿り気が帯びていく感覚まであった。
俺の無事を確認したクレアは安堵から涙を流していたのだ。
「本当は、もっと早く助けに行きたかったんです……! でも、待ち伏せていた人の数が予想以上に多くて、自分の身を守るので精一杯で……助けてくれたのにすぐに助けに行けなくてごめんなさい……!」
クレアはすぐに駆け付けられなかったことを悔やみ、涙声で謝罪を口にする。
ただ、俺にとっては謝られるようなことなど何もなく、むしろ、リゼから状況を聞いていたからこそ、迷うことなく戦いを終わらせ、すぐにでもレンとクレアの元へと駆け付けなければならなかった立場だと感じるものがあった。
言うなれば、謝るべきなのは俺の方なのだ。
しばらくの間、クレアは俺の胸に顔を埋めたまま肩を震わせ続ける。
それを俺はジッと受け入れ、クレアが落ち着きを取り戻すのを静かに待ち続けた。
「……ごめんなさい、取り乱してしまって。迷惑、でしたよね……?」
そうして数瞬の時を経た後、クレアはゆっくりと胸から顔を上げて体を起こし、同じように体を起こした俺は、二人で共に座して向かい合う。
涙を流したことからか、クレアは気恥ずかしそうに笑みを浮かべ、そして申し訳なさそうに問い掛けて俺の様子を伺う。
そんなクレアへと安心感をもたらせんと、俺はクレアの持つ懸念に首を横に振って笑顔を返した。
「いや、別にそんなことないよ……むしろ、迷惑を掛けたというのであれば、それは俺の方だ。ごめんよ、クレア」
「ぇ……?」
そして笑顔から真顔へと、表情の明るさを取り払い、俺は意を決してクレアへと謝罪の言葉を口にする。
すると、俺の謝罪の訳を露知らぬクレアは唐突なその言葉に疑問符を浮かべた。
「……何で、シンジくんが謝るんですか? 私たちは仲間じゃないですか。誰かがピンチになっていたら助ける。当然のことですよ?」
「違うんだ、そうじゃない。本当は、クレアがリゼを殺す必要なんてなかったんだよ。本当は、俺があいつを殺せていたはずなんだ……」
空気の変化をすぐに感じ取り、クレアは俺が話しやすい環境を作り出すかのように沈黙を保つ。
「クレアが駆け付けてくれる前、俺は、俺が殺されそうになっていた状況と同じような状況にあいつを追い込んでいたんだ。腕を突き出していたら確実に勝負を終わらせられていたんだ……けど、迷っちゃったんだ。シロウさんに言われていたにも関わらず、俺は、躊躇っちゃったんだよ。恐怖に怯えた姿を見たら、手が止まっていたんだ。そのせいで、あんな風に追い込まれて……だから、本当はクレアが手を汚す必要なんてなかったんだよ。俺の不甲斐なさで汚す必要のない手を汚させた。ごめん……! 本当に、ごめん……!」
そんな中、俺は発言の意図を全て打ち明け、誠心誠意の謝罪を以て頭を下げた。
叱責を受ける覚悟は出来ていた。
俺は頭を下げ続け、沈黙を守るクレアの反応をただただ待ち続ける。
「……シンジくん、顔を上げてください」
そんな間の後に返ってきたのは、とても優しげなクレアの声だった。
俺はその言葉に従い、ゆっくりと顔を上げる。
「……ッ!」
すると、顔を上げた俺の身に襲い掛かってきた感覚は、とても柔らかな暖かさだった。
最初は何が起きているのかわからなかった。
ただ、背中に回された両腕をギュッと締められた瞬間、俺はクレアに抱き締められているのだとハッキリと理解し、それと同時に、予想していなかった行動に俺の頭は困惑し始める。
「そんなこと、気にしないでください。私の手はお母さんをこの手にかけた時から既に汚れています。だから、何も気にする必要なんてありませんよ。それに、シンジくんのためなら私はいくらでも手を汚す覚悟があります。だから、出来ることなら私はシンジくんにはそのままでいて欲しいです……倒すべき相手であろうと命を奪うことを迷える、そんな優しいシンジくんのままでいて欲しいです。私は、そんなシンジくんが好きですから」
しかし、俺の動揺はクレアの言葉の一つ一つを耳にする度、少しずつ消え去っていき、最後の言葉を耳にする頃には、俺の心は先程までの困惑が嘘であったかのような静けさが訪れていた。
言葉を語り尽くすまで抱き締め続けていたクレアはようやく腕を離し、俺と見つめ合うとにっこりとした笑顔を浮かべる。
「……でも、このまま何も変わらなければ、シンジくんはいつか死んでしまうかもしれない。だから、そうならないためにも、シンジくんには一つだけ覚えていて欲しいことがあるんです」
そして僅かな間の後、クレアは真剣な表情となって再び言葉を紡ぎ始める。
「……覚えていて、欲しいこと?」
「はい。至って難しいことじゃありません。どうしても戦わなければいけない時は、自分の身を守るために、大切な仲間を守るために戦うんだ、そういう意識を心の中に留めていて欲しいんです……殺すために誰かと戦うのではなく、生きるために、誰かを救うために、戦って欲しいんです」
これほどまでに真剣な眼差しをしたクレアを見るのは初めてだった。
そこから感じられたのは、“迷わないでほしい”というクレアの切なる願い。
言葉に表さなくとも、クレアのその強い意思は、その眼差しを以て俺の心に強く訴え掛けてきていた。
「……わかった。もう、迷わないよ」
“変わらなければいけない”
そう理解した俺は、クレアと同じような真剣な眼差しへと表情を変え、力強く首を縦に振って決意を改めた。