三章1話 くん・さん・様
クレアが共に行くこととなってから一夜を開けて迎えた翌る日の朝。
出発の準備が整ったようで、屋敷の玄関前に並ぶ馬車の列を俺たちは前にしていた。
「こんな直前になって報せてすまないなレヴィ」
「いえ、たった一人程度ならどうとでもなりますのでご安心ください」
共に行くことが決まったこと、出発の準備が整ったこと、その二つの偶然が重なったことは、準備に奔走していたレヴィに情報を伝達する隙を俺たちに与えてはくれなかった。
申し訳なさそうに謝罪を口にするレンに、レヴィはまったく気にしていない様子で微笑を浮かべる。
そして、不安気に眉を潜めていたクレアへと視線を移す。
「あなたは確か……地下闘技を強制させられていたクレア様ですね。私はレヴィと申します。しばらくご一緒させていただくので、どうかお見知り置きを」
「よ、よろしくお願いします……!」
すると、レヴィは微笑を浮かべながら丁寧な自己紹介と共に頭を下げる。
僅かに堅苦しさは感じるものの、レヴィの物腰柔らかな態度を前にし、クレアは不安げな表情を晴れやかにする。
「皆様、積み荷の方が整いました。出発いたしますので御乗車ください」
「あっ、はい」
「了解した」
そうして和やかな空気に包まれていると御者を担うメイドから出発の時を知らされる。
「……それじゃ皆、道中気を付けて」
すると、見送りに出向いてくれていたアリアからは気遣いの言葉が掛けられる。
しかし、その言葉を向けられた一人であるレヴィは、安全な屋敷に留まるはずのアリアへと不安気な視線を注ぐ。
「お気遣いありがとうございますお嬢様。ですが、お嬢様もこれからしばらくの間は色々とお気を付けを。目線や仕草だけで指示をしたり、“あれ”や“これ”だけでは伝わりませんからね?」
「……わかってる……じゃあ、行ってらっしゃい」
「はい。行って参ります、お嬢様」
主従関係にあることを忘れるようないつも通りの光景を前にしながら、俺たちは皆馬車へと乗り込んでいく。
そして、アリアと屋敷に残ったメイドたちの見送りを受けながら、俺たちは数日振りに東洋の国への前進を再開し始めた。
屋敷の敷地内を抜け、街を抜け、両脇に自然が広がる街道へと軌道を乗せる。
カタカタと小気味良い音を響かせながら、馬車は一定の速度を保って俺たちを揺らし続けていた。
「シンジさん、レンさん、今って私たちはどこに向かっているのでしょうか?」
すると、街を抜けてからほどなくしてクレアからは問いが投げ掛けられる。
前日に共に行くことは決めたものの、その際に全てを話していたわけではなかった。
クレアはどこに向かっているのだろうかと、外の景色を眺めながら瞳を輝かせる。
「今向かっているのは東洋の国だよ」
「東洋の国ですか……?!」
そんな問いに俺が回答を示すと、クレアは興味津々といった様子で外の景色から俺の顔へと視線を移す。
「ああ、クレアは訪れたことはあるか?」
「いえ、初めてです……! 東洋の国ということは船にも乗るんですよね……?! はぁ……初めて尽くしで、何だか楽しみです」
「……」
そして、これから先で待っているであろう景色に対する期待に胸を膨らませていた。
すると、そんなクレアへと同乗するレヴィは静かに視線を注いでおり、その視線に気付いたクレアは疑問符を浮かべる。
「あの、レヴィさん……どうかしたんですか? 私の顔に何か付いてますか……?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、クレア様のレン様とシンジ様に対する話し方と言いますか、名前の呼び方に少し距離を感じるなと思いまして」
「呼び方……?」
クレアにそういった意識は一切なかったのであろう、レヴィから訳を聞かせれて尚、クレアには疑問符が浮かび続ける。
「はい。クレア様はどなたに対しても一律でさん付けですよね?」
「は、はい……」
「差別や贔屓がない、という風に見れば良いことかもしれませんが、クレア様はこれから先、レン様たちと行動を共にして行くのでしょう? 私のように用件を遂行するために行動を共にしているわけではないのでしょうから、もう少し親しみのある呼び方をしてみてはいかがでしょうか?」
「なるほど……」
しかし、クレアの疑問符はすぐさま取り払われる。
レヴィの言い分に納得したクレアは僅かに俯き、親しみのある呼び方に関して思案し始める。
「ぇ、えっと、じゃあ……シンジ、くん……?」
「お、おう……」
(なんか、回りに見られてる中で呼び方を変えられるのは、何というか……ちょっと気恥ずかしいな)
注目があつまるようなことではない状況下で集まる視線に、俺は苦笑いを浮かべる。
「えっと……レン、ちゃん……?」
「……」
そうして次に出番が回ってきたレンは、クレアに呼ばれても言葉を返しはしなかった。
馬車内は唐突に凍りついたかのように静けさに包まれる。
「……えっと、クレア……私は、さんのままで良い。ちゃんは少し、いや……すごくむず痒い感じがして落ち着かん」
「そうですか? わ、わかりました」
表情に大きな変化はないが、レンの頬は僅かながらだが朱色に染まっていた。
そんな変化には気付いていない様子で、クレアはレンの言葉を受け入れる。
「……じゃあ、レヴィさんはどうしますか?」
「……! 私、ですか?」
そして僅かな間を置いて、クレアは発起人であるレヴィへと視線を移す。
「はい。この際ですから、レヴィさんの呼び方も変えてみようかと。どんな呼ばれ方が良いですか?」
レヴィは少し驚いた様子だったがクレアの笑顔を前に拒否を突き付けたりはしなかった。
小さく俯き、思案を始めるレヴィに俺たちの視線は集まる。
すると程なくして、レヴィは考えのまとまった様子で顔を上げる。
「では、レヴィ様と呼んで頂けますか?」
「えっ……?」
「「は……?」」
(それ……親しみどころか、より明確な境界線が敷かれてないか?)
そして、冗談を口にしているとは思えない雰囲気で紡がれた言葉に、馬車内はレンの時とは違う沈黙に包まれる。
「メイドという職業柄、人を呼ぶ時は必ず敬称を付けなければなりません。ですが、逆に様を付けて呼ばれることはまずありません。なので、逆の立場を一度味わってみたいのです。よろしいですか?」
「は、はい。もちろんです」
レヴィの魂胆を耳にして頷いたクレアは一度大きく深呼吸をする。
そして、気持ちを整えると真剣な眼差しを以て、
「レヴィ様……!」
「……!」
一言、そう名を口にした。
普段、大きく表情を変化させることのないレヴィは衝撃に打たれたように目を見開く。
「……何だか、昂りますね」
「何で興奮してんだよ……」
しかし、変化した表情はすぐさまクールな表情へと元通りになる。
「クレア様の声や人となり、身に纏う雰囲気は、もしかしたらメイドに適しているのかもしれません。どうですか? クレア様。私と同じようにメイドになってみては? お嬢様のメイドになるのであればすぐに雇ってもらえますし、屋敷に住み込みで働くことになると思うので生活に困ることもありませんよ?」
すると、先程の興奮はどこへやら、レヴィは真剣な眼差しでクレアへとスカウトの話を持ち掛け始める。
おそらく、クレアにとって悪い話ではない。
むしろ、衣食住の保証があるのであれば良い話と断定できるものだ。
「うーん、考えておきますね」
ただ、クレアはそれにすぐさま良い返事を出すことはなく、笑顔を返しながら軽くあしらった。
そうして他愛ない話に花を咲かせながら、東洋の国へと向かう一日目の旅路はゆったりと時間が流れていった。