一章19話 怒りの煽動
今にも消えそうな弱々しいかがり火が揺れる地下牢を、シオンは冷めた視線を以てゆっくりと見て回る。
どの牢屋の中にも人はいない。
その事実があるかどうかを確かめていた。
シオンは地下牢を見て回りながら誰もいないその牢へと何かを投げ込み、そして一頻り見て回ったところで一度足を止める。
「……全く、腐っているよ。こんなものはこの世にあっちゃいけないんだ」
その表情はオークション会場で見せていた笑顔とは対照的なものだった。
爪が食い込むのではないかというほどに拳を握り締め、憎悪と嫌悪、侮蔑に満ちた視線を人のいない牢屋へと注いでいた。
「……ふぅ、よしっ!」
そうして数瞬、滾る怒りを静かにぶつけていたシオンは瞳を閉じることで感情をリセットすると、閉じた瞳を開くと同時に表情を明るくして駆け出し始めた。
走る勢いでかがり火の明かりはどんどんと消えていく。
だが、駆け出したシオンはそんなことを気にすることはない。
来た道を戻り、地下牢から地上へと伸びる階段を見つけると、走る勢いをそのままに一段ずつ飛ばしながら階段を駆け上がっていった。
全ての階段を駆け上がっていくと、そこにはランプの僅かな明かりだけが視界を保つ小さな部屋が待っていた。
右に左に首を回し、辺りを確かめてわかったことは、そこは物置のような場所である、ということだった。
ただ、その部屋には何らかのものが置かれていることはなく、地下牢へと繋がるただ一つの道として存在していることが何となく察せられた。
シオンはそれがわかると、すぐさま目の前にあるドアへと手を掛け、一切警戒することもなく押し開く。
しかし、そこに人の姿は一人として目に飛び込んでは来なかった。
シオンの視界に広がったのはソファーとテーブル、そのテーブルの上にある飲みかけの酒のボトルと空となったグラス、そして、遊びっぱなしで散らばった数多のカードだけだった。
生活感の欠片もない、ただ集まり、時間を紛らわすためだけの空間がそこには広がっていた。
シオンはそんな部屋の細部には目もくれず、家の外を目指し、人波が垣間見える窓へと向かって駆け出した。
シオンが丸くなりながら窓へと飛び込むと、薄いガラスは薄氷のように軽々と割れ、平和そのものの街の中に不協和音を響かせる。
普段耳にすることのない音の発生に、辺りの人々の視線は一斉にシオンへと注がれた。
「やぁやぁ皆さん、今からビッグなショーが始まるよ! ぜひとも! 五感全てを使って楽しんでいってね!」
「「「……ッ!」」」
その場にいる全員の注目を集めながら、シオンは無邪気な笑顔で人の興味を誘うような言葉を口にする。
しかし、人々の表情にはシオンとは正反対の、恐怖と絶望に満ちたものが浮かんでいた。
「シオンだーッ!!! シオンが現れたぞォーッ!!!!」
「皆ーッ!! 今すぐここから逃げるんだ!!! 爆発するぞーッ!!!!」
人々はシオンが現れたという現状から次に何が起こるのかを一瞬で理解し、近隣住民へと危険を知らせながらその場から離れ始めた。
それを見て、シオンは満足気に小さく笑う。
「……よし、これで準備は整った。後は……」
そして、腰に下げる引き金が二つ付いた掌サイズの銃を取り出すと、石造りの家の壁へと向かって一方の引き金を引く。
すると、辺りには火薬の音とは違う発射音が響き渡り、その音と共に、ワイヤーの先に花弁のように金属の爪が束ねられたアンカーが飛び出した。
アンカーは真っ直ぐに石壁へと突き立ち、その爪は硬い石壁をものともせずに深くへと潜り込む。
シオンはアンカーを強く引っ張って抜けないことを確認すると、今度はもう一方の引き金を引き、その瞬間、伸びたワイヤーは巻き取り音と共にシオンを引き上げ始めた。
そして、ふわりと浮くような軽やかな身のこなしでシオンは屋根の上へと飛び乗ると、銃を腰に戻しながら街の一点へと強い視線を注ぐ。
「事実を知らしめるだけだね……!」
そうしてニヤリと笑みを浮かべながら、シオンは屋根を伝って視線を注ぐ方向へと駆け出し始めた。
屋根の上を駆けるシオンはまるで遊具で遊ぶかのように、飛び跳ねながら疾走する。
眼下に広がる通り歩む人々は、彼ら自身の熱気と騒音で駆け抜けるシオンには気づいてはいなかった。
騒ぎがさらなる騒ぎを呼ぶ前に目的の場所、人が多く集まる噴水の広場へと辿り着いたシオンは、家屋の屋根上に立ちながら、未だ誰一人として自分という存在に気付かない現状に小さく笑みを浮かべ、懐から小さな機械を取り出してそのスイッチを起動させる。
するとその瞬間、広場の中央にある噴水の上には唐突に映像と音声が流れ始め、広場にいる人々は皆、驚きつつも次々とそれに視線を注ぎ始めた。
しかし、それは広場だけで起きているわけではなかった。
街中ありとあらゆる人が集まる場所で同じ現象が同時に起きていた。
そして、人の目を集める映し出されていた映像というのが、街の地下深く、人知れず行われていた忌むべきオークションの様子だった。
貴族の仮面を被った化け物たちの醜悪な姿が街中の目を、言葉を、呼吸を奪い去っていく。
その映像を見る人々の心に浮かんできたのは、総じて侮蔑の感情だろう。
平和そのものだった街の空気はどんどんと濁り始めていた。
『カエサリオン王国に住む市民の皆様、ご覧頂けているでしょうか?』
そんな中、街の放送設備からは唐突に声が響き渡る。
その声に人々は皆ざわつきながらも誰のものの声なのかすぐさま気がつき、辺りを見渡して声の主を探し始めた。
「……! いた! あそこだ!」
すると僅かな時をかけ、辺りには一点を指差す青年の声が響き渡る。
声に反応して人々の視線はどんどんと一点へと集まり、数多くの視線を一身に受け、シオンはまるでファンサービスかのごとくニコリと笑顔を返した。
そして、目の前に集まる人々だけでなく、街中へと声を届けるために小さな機械を口許へとかざす。
『この映像は本日未明、この街の地下深くで執り行われていた人身売買の証拠映像であります! 有名な顔が何人も見られますね? レザルス家に、グランボーク家、アイリーン家の当主まで売買に積極的に関わっている……』
醜い争いが流れ続ける中、街中に響き渡るシオンの言葉によって、その映像へと注がれる視線はさらに憎悪と嫌悪に満ちたものへと変わっていく。
『この度、ボクが皆さんに問いたいのはただ一つです! 皆さんは、貴族たちのこの悪行を許すことができますでしょうか?!!』
そんな人々の心へと訴え掛けるように、シオンは怒りを露にして街中へと問いを叫んだ。