一章13話 美しさと狂気と不気味さ
どれだけの時間をレンの肩に寄りかかっていただろうか。
一頻り泣き続け、次第に涙が収まっていくのと共に、俺は気恥ずかしさを覚え始めた。
鼻をすすり、目尻にぶら下がる涙を拭いながら、俺はレンの肩から頭を離す。
「……もう大丈夫か?」
すると、レンは悪戯な微笑を浮かべてそう尋ねてきた。
「は、はい。えっと、ありがとうございました……その、お恥ずかしい所をお見せしました」
そんなレンに、俺はどんどんと込み上げてくる恥ずかしさのあまり、目を反らしながら礼を述べる。
「涙は心に残る痛みを洗い流してくれる。辛くて涙を流すことは恥ずかしがることではないさ」
すると、レンは一切気にしていないとばかりに優し気な笑みを浮かべていた。
その言葉を耳にし、その表情を目にし、俺は心の内にあった気恥ずかしさも忘れ、改めて礼を述べるように笑みを返した。
「……さて、そろそろやつらを連れていきたいところだが、その前に……シンジ」
「……! は、はい……!」
互いに笑みを交えてから僅かな時を置き、レンは仕事に戻ると言った様子で先程までの笑顔から一瞬で真剣なものへと表情を変化させる。
そして、唐突に名を呼ばれたことと凛と響くその声に、俺は背筋を正して返事をする。
「ここには君以外にも人身売買にかけられていたものたちがいるのではないか?」
「……! はい、います。確か、オークションを終えた人たちがそこの檻に何人か閉じ込められていたはずです……」
レンから投げ掛けられる問いに、俺はオークションの壇上へと連れていかれる際に視界の端に映った光景を思い出しながら、ステージ裏へと指を指す。
「そうか。なら、まずは彼らを自由にしてやらねばな……やつらを連行するのはその後ででも十分だ」
すると、レンはすぐさまその解放に向かおうとして僅かに腰を浮かせる。
「「……ッ!」」
しかしその瞬間、俺の耳には一つの足音が反響する小さな音を耳にしていた。
そしてそれはレンも同じようで、レンは俺と同じように音の響き渡った方向、自らが姿を現した階段の先へと視線を注いでいた。
一歩、また一歩と、着実に距離を縮めながら足音は響き渡り続ける。
「……レンさん。国防兵、って人が、降りてきてるんでしょうか?」
「……いや、それはない。このオークションの参加者が逃げ出しても捕らえられるよう、連絡をするまでは通路を封鎖したまま警戒しておけと命じておいたのだ。仮に、急を要する事態があったとしても、向こうから連絡してくれば良いだけのこと。わざわざ降りてくる必要はない……!」
質問の最中、チラリと一瞥したレンの表情は、先程の戦いの中ですら見せなかったほどの鬼気迫るものへとなっていた。
その表情を目にして俺はこれが異常事態だと察し、心に恐怖の念が生まれてくるのを感じながら音の方向へと改めて視線を注ぐ。
響き渡る音はもう目前。
薄暗闇の中にはうっすらとした人の影が現れ始める。
「……おやおや、これはまた随分な有り様ですね」
階段を降り切り、手を後ろで組みながら会場へと現れた人物は、辺りを見渡した後、糸のように目を細めて笑いながらそう言った。
(誰だ……あの美人……レンさんのさっきの様子からして、味方ではないような感じだったけど)
現れた人物は惚れ惚れとするほど、見事なまでに整った顔立ちをしていた。
ただ、その美しさは顔立ちだけで作り出されているわけではない。
スラッとした細身の体を白の衣装で包み、絹のような純白の長い髪を紐で一つに結んで背後に垂らしたその全体像が、あまりある美しさを完璧と称せるまでに引き立たせていた。
「フェイ・ウィンリー……! ただの露店商のあなたがどうしてこの場所にいる……?!」
レンは立ち上がりながら瞳を鋭く尖らせ、静かな声色の中にも語気を僅かに強めて問い質す。
「ふふっ、簡単なことですよ……このオークションの責任者が私だからです」
「……!」
(それってつまり、この人が俺たちの誘拐事件の黒幕……!)
すると、フェイと呼ばれた人物は糸のように細めた目を、その表情に浮かべた笑顔を崩すことなく、あっさりとそう言ってのけた。
俺はその言葉の意味をすぐさま理解し、その美しき笑顔の中に狂気が孕んでいることを感じ取って寒気を覚える。
「……上には国防兵が数人いたはずだが?」
「ふふっ……もういませんよ」
「……ッ!」
(何となくだけど、わかる……! この人、ヤバい……!!)
そして、そのすぐ後に行われたやり取りによって、俺は感じていた美しさが全て不気味さへと変わっていく感覚を覚えた。
フェイの返答を受け、レンから放たれる雰囲気には気迫と闘気が溢れ始める。
「さ、お集まりの皆様、今回のオークションはこれにて中止とさせて頂きます。どうかお引き取りください。邪魔なものはどけておきましたが、床は少々滑りやすくなっていますので、どうかお気をつけを」
「感謝いたしますわ、フェイさん!」
「この恩は後日必ず!」
「ええ、楽しみにしておりますよ」
すると、フェイはそんなレンの様子を気にも留めないと言った様子で死んだように消沈していた貴族たちへと帰宅を促す。
すると、貴族たちはの表情は皆フェイの言葉で生き返り、我先にと脱兎の勢いで階段へと向かって行った。
全ての貴族が会場から姿を消し、階段から響く足音がどんどんと遠ざかっていく中、フェイは倒れ伏すモルダたちを見渡す。
「あなたたち、そろそろ起きなさい」
そして優しく、朝の目覚めを迎えさせるようにフェイは彼女らへと声をかけた。
すると、そんな短い呼び掛けで、倒れていた七人は体に残る痛みに震えながらも起き上がり始める。
「モルダ、もうここには留まっていられません。皆を連れてここを離れる準備を整えておきなさい」
「は、はい……! フェイさん、お気をつけて」
「ふふっ、心配ありがとう」
そして、フェイからの命を授かるとモルダたちは次々と上階へと向かって階段を駆け上がっていった。
瞬く間に人がいなくなっていき、静かだった辺りは一層静けさを増す。
「後は……」
そんな中、フェイはポツリと呟くと同時に背後で組んでいた腕を解き、片方の腕を振るう。
すると、空を切る音が小さく響き渡り、その次の瞬間、金属が床に落ちる音が響き渡った。
その音へと振り返ると、視界にはナイフが転がっている光景が広がり、そのすぐ近く、ナイフの柄を投げ当てられたのであろうリゼが気絶から覚めて小さく声を漏らしながら体を動かし始める。
「リゼ、いつまで寝ているのかしら? 起きなさい」
「……! フェイさん……!」
そこへフェイが声をかけるとリゼは瞬く間に元気を取り戻し、希望の光が現れたとばかりに明るい声を響かせる。
「皆この国を出る準備を始めているわ。あなたも手伝ってきなさい」
「はい……! せいぜい痛い目に会うと良いわ!!」
そして、モルダたちと同じように命を受け、リゼは捨て台詞を残して瞬く間にその場から去って行った。
「……さて、これで心おきなくやれますね」
リゼの足音がどんどんと遠ざかっていく中、フェイは笑顔を浮かべてそう言い、レンは極限まで集中した表情で静かに剣を抜いた。