三章56話 俺は弱い
ぴちゃり、ぴちゃりと、床へと水溜まりを作る、血の滴る音が鳴り響く。
長く響き渡り続けていた戦いの音は鳴り止み、それにとって替わるように、辺りには質の違う二つの荒い息遣いが響き渡っていた。
「な、なぜ……」
そんな状況を打ち破り、これまでにない弱々しい声を響かせてフェイは問いの一言を呟く。
その声を契機とするかのごとく、ガチャリと金属音の伴う僅かな重みのある音が鳴り響く。
その音はシロウの足元で鳴り響いたものだった。
音に釣られて視線を動かし、俺は目を凝らしてそこに視線を注ぐと、瞳に映ったのはシロウの妹ミアとの再会の時に一度だけ目にした一丁の拳銃の姿だった。
「なぜあなたが、銃なんてものを……?」
そんな横たわった銃へとは目もくれず、フェイは虚ろな表情でシロウへと問い掛ける。
「……これは、ミアから託されたものだ」
「ミア……? 確か、あなたの妹さん、でしたか?」
「ああ、そうだ」
すると、問いの言葉が紡がれる間に呼吸を落ち着かせたシロウは、一度落とした銃を見下ろし、フェイへと視線を戻してありのままの事実を口にする。
そんな回答に、顔を歪ませながらフェイは記憶を探り当てる。
「この銃はミアがお前たちの元から逃げ出す時に、護身用にと持ち出してきたものだ」
「ふふっ……そういう、ことですか。なんともまあ……邪魔物を消すための行動が、こんな裏目になってしまうとは……ツイていませんねぇ」
そして、銃を手にした経緯を耳にし、虚ろな様子のまま儚げな笑みを浮かべた。
「……本当は、こんなものを使う気はなかった」
フェイの笑みから数瞬の間を置き、シロウはおもむろにそう呟く。
すると、フェイはどういう意味だと問い掛けるように目を細め、眉を寄せ、訝しげにシロウを見つめる。
「こんな卑怯なものを使う気などなかったんだ……だが、声が聞こえた。お守りと言ってこれを託してくれた、ミアの声が聞こえたんだ。生きて帰ってきて欲しいという、強い願いが……その声が聞こえた瞬間、気付いたらこれを手に取って引き金を引いていた。真剣勝負に無粋なものを持ち出したこと、赦せ」
「ふふっ……無粋も何も、戦いに卑怯の二文字はありませんよ。この結果は、私の甘さです。センドウさんの話だけで、あなたを計り……銃を持っている可能性を捨てた、私の甘さが招いた結果ですよ」
しかし、フェイのその表情は言葉の意味を理解した瞬間、笑顔へと変わった。
先ほどまでの苦しげに絞り出すようなものではない、これまで通りの感情の読み取れぬ、目を糸のように細めた笑顔だった。
「それと……一つ、私も謝らなければなりません」
笑顔を僅かに崩し、真剣な表情を垣間見せながらフェイは弱々しくそう呟く。
「この勝負……私の勝ち逃げで終わってしまい、申し訳、あり……ま…………」
そして、絞り出すように笑みを浮かべたフェイは最後まで言葉を紡ぐことなく、笑顔を保ったまま倒れ付し、それ以降、指先すらピクリとも動くことはなかった。
最大の敵が息絶え、辺りには緊迫感など介在しない安らかな静けさが訪れる。
「くっ……!」
ただそんな中、シロウだけは充足感に身を委ねることも、達成感に満ちた吐息を吐くこともなかった。
シロウは悔しげに歯を食い縛り、血が滲み出るのではないかというほど強く拳を握り締める。
「俺は、弱い……!」
誰に問い掛けるでも、同情を求めるでもなく、自らを侮蔑するようにシロウは呟く。
そして、振り返って自らの刀を拾い上げると、何も言うことなく俺たちの横を通り過ぎてその場から去っていった。
(本当に、終わったん……だよな?)
俺の心の中には実感がなかった。
短くも長い濃い因縁を、ようやく断ち切ることが出来た。
その事実が目の前に映し出されていながら、どこかふわふわと浮わついているような、ハッキリとしない感覚が体を支配しているようだった。
「……ッ!」
すると、そんな俺の状態を知ってか知らずか、意識を引き戻すように肩にポンと、ふわりと優しく手が置かれる。
「……帰ろう」
「……はい」
触れた手の方向へと首を振り向かせると、そこにはとても柔らかい穏やかな笑みがあった。
その笑みを見た瞬間、俺の表情は自然と同じように緩み始めた。
実感などどうでもいい、時が経てば自ずと追い付いてくる。
そう心に言い聞かせ、俺はレンの体を支えながらシロウの背中を追い掛けて来た道を戻り始めた。