第五話 勉強はお預け
「あの人誰だったの?」
謎の訪問者を違う場所へ飛ばした後、部屋で少し遅めの朝食を始めたエヴェリーテは訊ねた。薄くスライスしたバケットにチーズとハムを乗せて食べる男に。
「腐れ縁だ。奴がちょこまか動き回るようになった歳からの付き合いだから……三十年は経ってるな」
「長いのね」
向こうにしたら、だが。遥か昔から生きるウェルギリウスにとって、三十年はとても短い時間だろう。息をするのと同じ感覚だ。エヴェリーテはコーンスープを飲み終えるとデザートのオレンジゼリーに手を伸ばした。デザートスプーンで一口分掬い、口の中に入れた。オレンジの甘酸っぱい風味が口内を満たし、頬が蕩けた。美味しそうにオレンジゼリーを食べるエヴェリーテが可愛い、可愛いから抱き締めたい衝動に駆られるも今は食事中だと、理性を押さえ付けたウェルギリウスはずずっと紅茶を啜った。
遅めの朝食を終えるとエヴェリーテを抱き寄せたウェルギリウスが朝と同じ触れるだけの口付けをした。終わったのだから我慢しなくて良いのと魔力供給。昨日のような舌を入れる濃厚な口付けじゃないだけマシだとエヴェリーテは自分に言い聞かせる。
ウェルギリウスの膝の上に座ったまま、彼を見上げた。
「妖精さんが来るのは明日だけど準備とかはしないの?」
「準備?」
「うん。妖精さんを迎える準備」
「いらん。来たらどんな仕事があるのかを説明するだけだ」
「そうなんだ……」
だとしたら、この後の時間潰しを考えなくてはいけない。本を読むのもいいが、一つやってみたい事がある。相手が――ウェルギリウスが――了承してくれるかが、だ。
「私にも、ウェルギリウスのように魔術や錬金術って使える?」
「勉強をすれば使えるだろうな。何だ、魔術や錬金術を覚えたいのか?」
「うん!」
折角、魔術や錬金術のある異世界に転生したのなら、是非使いたい。エヴェリーテが転生したのは、最後には破滅しかない悪役令嬢だとしても。世界に滅びを齎す魔王の転生者だとしても。きっと、これからに役立つ筈。何より、エヴェリーテの保護者は北の大陸最高峰の魔術師。これ以上ない教え役だ。
期待を込めた眼差しでウェルギリウスを見上げれば、やれやれと溜め息を吐かれた。
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場所は変わってウェルギリウスの私室――。
書庫から初心者専用の魔術本と錬金術本を取りに行き、今日は魔術の基礎を教えると本を開いた。
「魔術を扱うのに必要な要素は幾つかある。一つは、魔力の有無だ」
この世界の人間が皆魔力持ちだとは限らない。抑々、魔力を持って生まれるのは、王族や貴族が大半だ。平民から魔力持ちが生まれるのは滅多にない。主人公のプリムローズが平民でありながら高魔力保持者であるのは大変珍しい。
「次は属性だ。地水火風の基本四属性の他に特殊な属性があるのは知っているか?」
「光属性と闇属性。あと、氷属性もだよね」
「良い子だ。主な攻撃呪文では、基本四属性と特殊三属性を使用する。次に、防御や回復、果ては精神を操る白魔術の説明をする」
白魔術と呼ばれるだけあって、戦闘等で負傷した者を癒したり毒に侵された人を治す治癒術が存在する。一人用のもあれば、複数で組み上げて立ち上げる結界術。相手の精神に干渉し、扱い方次第で外傷を負わさずに相手を死に追いやれる精神操作術もある。
「魔術を扱うのには、術者のセンスも問われる。才能のない者が無理に上級魔術を使用しようとすれば当然暴走する。エヴェリーテ。お前は幸いにも、魔力容量と魔力濃度にはかなり恵まれている」
「貴方の作った器だから?」
「いいや。それも一理あるのだろうが、大部分はお前の持って生まれた才能だ」
ということは、頑張ればそこそこの魔術を扱えるということなのか? 是が非でも魔術を修得したくなったエヴェリーテは、今日はどんな魔術を教わるのかと構えた。――が、期待は見事に裏切られた。ウェルギリウスが本を閉じた。不思議そうに自分を見つめるエヴェリーテの頭を撫でると「眠くなったから寝る」とだけ言って、天蓋付きの大きなベッドの上に寝転んだ。
「…………え」
早くも寝息を立て始めたウェルギリウス。状況を読むのに数秒掛かり……把握すると馬鹿らしいと溜め息を吐いた。教えてくれないのなら独学あるのみとページを開き――……静かに閉じた。文字が読めない。
「魔術や錬金術を習う以前の問題じゃない……っ」
一人頭を抱えるエヴェリーテは、気持ちよさげに眠る男に微かな殺意を抱いた。
綺麗な顔に落書きしてやるとペンを手にした。寝台に乗り、ゆっくりとウェルギリウスの顔の方まで近付く。ペン先をそおーっと近付かせ……。
ガシッと手首を捕まれ引き寄せられた。隣に倒され、意地悪な色をする青い瞳が悪戯に失敗した少女を見下ろす。
「やるなら気配を隠せ。バレバレなんだよ」
「むう……!」
「お前も寝るか? どうせ、時間は有り余ってるんだ」
「私は勉強したいの!」
「心配しなくても、何れは嫌でもしなくちゃならん。魔力持ちの子供は、一定の年齢までいくとある魔術学院へ通わなければならない。お前にも、その内入学の招待状が届く」
「……」
それはつまり、物語の始まりを示す――。
その前に少しでも多くの知識と技術が欲しい。また、入学の招待状が届く前に、魔術省で魔力検査と属性検査がある。そこで、どの程度の魔力容量と魔力濃度、属性の判定を行う。ふと、自分の年齢は幾つなのかとウェルギリウスに訊ねた。返ってきた答えは「十歳」だった。魔術学院に入学出来るのは十五才から。時間はまだある。
今日の所は大人しく寝て、次からは勉強を教えてもらう。子守唄の代わりのように頭を撫でられる心地好い感覚に浸り、睡魔を呼び寄せられたエヴェリーテは優しい温もりに包まれ眠った。
読んでいただきありがとうございました!