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―――6
クマが誇らしげに立ち上がった。
胸を張り、二本足で立つ。鵺がほつれを繕ったのだ。
「クマちゃん、カッコイー」
パチパチと拍手をする眞子に鵺が呆れる。
「眞子、お前は裁縫も出来んのか。駄目駄目だな」
「鵺さんが出来すぎるんだよ。私、裁縫出来る男の人と結婚しようっと」
「眞子……」
眉間に皺を刻む鵺に眞子は屈託のない笑みを浮かべた。怒ろうにも一回りも年下の少女に怒るのは気が引けた。眞子は所謂中学生だ。二次元の人物に夢見るお年頃。
「えへへ。そういえば鵺さんは結婚してるの?」
「何故そんなことを聞く。聞いても意味ないだろう」
「でも聞いてみたいなー。今まで付き合った人とか、どんなタイプが好みとか、ねえねえ」
鵺の世界で彼の見てくれは良くもないが悪くもない。言ってしまえば平凡だ。取り立てて期待されるようなことはなかった。どういって切り抜けようかと考えていると、クマが鵺の足をトントンと叩いた。
「ん? もう時間か」
「えー! 仕方ないなあ。次は聞かせてよね」
敢えてそれには返事をせず、鵺はクマをひょいと抱きかかえた。そして眞子に手渡す。
「じゃ、誰かが呼んでるみたいだから、先に行く」
「うん。またね」
「ああ」
鵺の体を誰かが呼び起こしているのを彼は感じた。所詮ここは夢の中で、ずっといることは出来ない。彼と眞子はこうして現実へ戻る時をクマに教えられる。そして鵺は、霧の向こうへ去っていった。
―――7
この場所に時計はない。いつも鵺は眞子より先に現れ、眞子より先に帰っていく。目覚めた眞子は夢のことを覚えているわけではない。だがこの場所に来ると、ちゃんと覚えているのだ。
「クマちゃん、石鹸の匂いがするよ。鵺さんに洗ってもらえてよかったね」
クマは首を傾けて眞子の膝の上の乗った。伸ばした足の上のクマが乗っている姿はなんだか可愛くて、眞子は笑顔になる。
「クマちゃん。夢みたいにずっと楽しいことが現実でもあればいいのにね」
クマが振り向いて、瞬きをした――ように見えた。
「私、夢の外でも鵺さんに会いたいな」
クマは眞子の手にタシッと手を重ね、もう一度タシッと眞子の手を打った。
「慰めてくれてるの? えへへ、ありがと。大丈夫だよ、やっちーがいるから。二人なら頑張れるから。クマちゃん、ありがとう」
眞子はクマをそっと抱きしめる。その手触りは夢の中なのにリアルに感じた。そしてクマは躊躇いがちに眞子の手をトントンと叩いた。
眞子の夢が終わりを告げていた。
―――8
オレンジ色のクマはぬいぐるみだった。眠ることも食べることも出来ない。クマはぬいぐるみだからだ。そして喋ることも出来なかった。
「お前が喋れたら喧嘩でも出来たんだろうな」
溜息を吐いてやってきた鵺はどこか憔悴しているようにクマの目に映った。
「クマちゃんと喋れたら、うわあ。夢みたい」
うっとりとする眞子に鵺が呆れる。だが突っ込む気力はないらしく、その場にどかっと座り込んだ。やはり疲れているらしいとクマは珍しく気を利かせた。どこぞからお茶を取り出して彼の傍に置いた。
「ん。ありがとう」
クマは笑うかのようにその返答に目を細めた。
「クマちゃん、やさしい。鵺さんなんだか疲れてるね。何かあったの?」
「まあな。雇い主が馬鹿で大変なんだ」
「雇い主? どんな人なの」
「金持ちで気前はいいけど、気分屋で変態で偏屈な奴だよ」
「気分屋で変態で偏屈? 想像つかないよー」
眞子の叫びに鵺は深い溜息を零す。鵺の疲れの原因はどうやらその雇い主らしい。眞子とクマは顔を互いに見合わせた。
―――9
「魔女がいるんだ」
ぐったりとした鵺の背中をクマと眞子がさする。
「俺の家が魔女にとりつかれて困ってるんだ」
背中を丸めて所謂体操座りになった鵺にクマが圧し掛かる。重さはないので鵺が潰される心配はない。
「魔女は尊い存在なんでしょ。名誉じゃないの」
「ああ。……そんなこともあったな。確かに魔女は誇らしい。だがそれ以上に厄介な存在だとようくわかった」
項垂れてもはや動こうとすらしない鵺の肩をクマが叩く。二度三度、四度と叩いて鵺が顔を上げると、ぷすっと可愛らしい音がした。クマの手が鵺の頬に刺さった音だ。
「あー……」
なんともいえない声を眞子が零した。暫しの沈黙。
鵺がクマの腕を無言で掴んだ。
「クマ! 何をしやがる!」
いきり立った鵺がクマを一回転させると、そのぬいぐるみは高く宙へ跳んだ。そしてぺしゃんと落ちた。だが鵺の手にはまだ何かが握られている。
「鵺さん、クマちゃんの手」
「あ」
鵺の手の中には千切れたクマの腕が握られたままだ。鵺は眉を顰め、眞子は蒼白になる。
「わああ、クマちゃーん!」
その日、鵺は刻限までひたすらクマの腕を繕っていたという。
―――10
クマは霧の中にある場所しか動けないらしい。
鵺はじっとクマを見る。眞子とじゃれている姿は愛らしいが、それだけの存在ではない。鵺を呼んだのも、眞子を呼んだのも、それはクマのはずなのだ。
鵺は夢でしか来れない特殊なこの場所を疑問に思う。望んだのは鵺自身か、クマの方なのか判別はつきがたい。しかし夢でここに来ることに安堵している自分がいるのも事実であった。目を覚ましてしまえば、また戦いの中に身を投じるのだ。夢の中ではせめてそこから離れていたい。そう思うとこの状況を喜んでいいのかとも思った。
クマの存在も疑問だが、眞子の存在も不思議だ。確実に鵺とは異なる世界の住人と会うことがあるなど現実であろうはずがない。それとも眞子にも何か身の内にどす黒い何かを抱えているのだろうか。そうは見えない。だが、と鵺は考える。少なくとも鵺は自身が霧の夢の中にある理由があるように思えてならなかった。
「鵺さーん!」
眞子が駆けてくる。一回りほど異なる歳の少女。あどけない、その純真無垢な笑顔に癒されていることを鵺は感じていた。
「クマちゃんがー」
「クマがどうし……」
立ち上がろうとすると、クマが背後から鵺の肩に飛び乗った。しかもそのまま背後から鵺の顔をむにゅっと潰す。鵺とクマの目があった。
「クマ!」
鵺がクマを背中から引きずり出す。腹立たしいことに鵺にはこういう瞬間がとても楽しいものになっていた。