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―――1
クマのぬいぐるみが立ち上がる。トテトテと歩き、人にぶつかった。そして尻餅をつく。女の子なら可愛いと嬌声を上げるようなクマに鵺は眉尻を上げた。
「クマ!」
クマのぬいぐるみをひょいと持ち上げて前後に揺らす。重さは大してない。ぬいぐるみだからだ。しかしぬいぐるみなのに、クマの口元は何故かハチミツでべとべとになっている。
「また、貴様は食えもしないのに蜂蜜の壺に顔を突っ込んだな。誰が洗うと思ってるんだ」
叫びながら鵺はどこからともなく盥を取り出す。その中にはお湯が入っている。クマを頭から湯に突っ込んで、鵺はごしごしと擦り始めた。クマが嫌がるように腕をバタバタさせたが、鵺は気にしない。そのうち楽しくなってきたのか、鼻歌を歌い始めた。
―――2
異国の歌が聴こえた。
眞子はそこで夢の中にいるのだとわかった。その歌の主は夢でしか会えない人だからだ。歌と同時にジャブジャブと何かを洗う音も聴こえて、クマもいるのだと気付いた。
「鵺さん、クマちゃん」
ジャブジャブと音が止まる。
「お、眞子も来たか。クマがまた蜂蜜まみれだったぞ」
「クマちゃんも食べれればいいのにね」
「ぬいぐるみが物を食えるなんて聞いたことないぞ」
「それなら動くクマちゃんだって見たことなかったよ」
ニコニコと無邪気に笑う眞子は盥から飛び出ているクマの腕をやさしく握った。オレンジ色のクマからは仄かに甘い匂いがした。
「眞子。お前の年に俺はもう一人で生活してた。何でそんなにお前は幼稚なんだ」
心底不思議そうに鵺の柳眉が動く。
「そうなの? すごいねえ。鵺さんカッコイイね」
がっくりと肩を落とす鵺の腕が弱まったので、クマがその腕から抜け出した。
「あ!」
「クマちゃん」
ぶるぶると首を揺らしたクマは、怒る鵺から逃げるように眞子の足にしがみついた。鵺の怒声は、夢の霧に吸い込まれた。
―――3
クマが項垂れる。物干し竿に洗濯ばさみで動きを拘束されたクマはまるでただのぬいぐるみが干されているようだ。
「また魔女の話か。好きだな、眞子は」
「うん。だって私魔女になりたいんだもん」
クマが恨めしそうに二人を眺めるが、気付いてはくれない。クマはがっくりと肩を落とした。
「でも魔女は眞子の世界にはいないんだろう」
「いるよ。ただ皆が知らないだけで、どこかにいるよ」
「それをいないと言うんだ。俺たちの世界でも魔女になるのは難しい。だが彼女たちほど誇らしい者はいない」
鵺が誇らしげに胸を張る。それをクマは無表情で見ていた。元よりクマに表情の変化などありようがない。
―――4
黒髪黒眼の佐久眞子は夢の中でクマに会った。数ヶ月前のことである。
夢で霧の中を歩いていた。ずっとずっと歩いていた。何かに誘われるように歩いて、霧が晴れた先にはクマがいた。顔を壺に突っ込んだぬいぐるみのクマがいた。そのクマに近付いた眞子は、すぐ傍に大の字になって眠る青年に気がつくのだった。
「そういえば、鵺さん」
「ん?」
「鵺のね、画集が出たんだよ。凄く格好いいんだ。今度友達と買いに行くの」
鵺は眉を寄せた。それも当然、眞子の言う鵺とは彼のことではない。そもそも彼の名は鵺ではないのだ。
「その、まんが、とかいうのの話か」
「うん、そう。前にも言ったでしょ。鵺は格好いいの。義賊なの。国のお姫様と恋仲なの。きゃー」
眞子は頬に両手を当てて赤くなる。
大の字に転がった男が目覚めた時、眞子は名前を聞いたのだが覚えきれずに好きな漫画の登場人物の名で呼ぶことにしたのだ。
「でも俺とは似ていないんだろう?」
「目の色と格好は似てるよ」
にっこりと眞子は微笑む。ファンタジーに出てくるような格好をした鵺は漫画の鵺と同じ黒い服装をしていた。だから咄嗟に鵺だと思ったのだ。
「そうか?」
藤色の瞳を訝しげに歪めて、鵺は眞子を見た。
―――5
疲れていた。その時の彼は疲れ果てていた。そして遂に眠ってしまった。夢の中で霧に包まれた場所を歩いていた。目に見えない水滴が彼の茶色の髪を濡らした。夢の中でも彼は眠りを欲し、その場に体を横たえた。やがて寝息が響いた彼の傍にはちみつをつけたクマと見慣れぬ格好をした少女が現れたのはその少し後だった。
「鵺さんの名前って長いよね。覚えられないよ」
「俺たちの世界じゃ普通なんだよ。ていうか、もう一回言ってやるから覚えろ。俺の名前は――あ?」
鵺が自身の肩を叩くものに気がついた。
「あ、クマちゃん」
振り返ってクマを確認しようとすると、ぷにっと頬にクマの手が沈む。底冷えのする目つきにもクマは怯まない。しかし一拍後には逃げようとして、鵺にとっ捕まった。クマの右腕を掴んで揺らす。
「まだ生乾きじゃないか。しかも無理矢理外したな! ほつれてる」
針と糸、針と糸、と探していると鵺の手がそれを見つけ出す。夢の中だけあって、探したいものは思い描くだけですぐに表れた。クマの腕のほつれを器用に繕いながら、鵺は改めて思う。
何故いつも同じ夢をみるのだろう、と。