光る場所
最後に学校という場所に行ったのは、どのくらい前のことだったろうか。思い出すために頭の中で記憶を巻き戻そうとすると、頭がずっしりと重くなり、こめかみの辺りが熱く締め付けられるように痛みだす。僕の脳が、そんなことは思い出さなくていいと、強く警告しているようだ。
自室のベッドで、なんの感情もなく寝転がっていると、部屋の扉が開き、母さんが顔を覗かせた。
「仕事行ってくるから、今日はちゃんと学校に行きなさいよ。もう来年から高校生なんだから、いつまでも不登校のままなんてダメだからね」
母さんは無意識のうちに鋭利な刃物のような声をだす。尖っていて、僕の全てを切りつけてしまうような声。
その声を生み出す原因は全て僕にあることは分かっている。原因がなくなれば鋭利な声は一生現れることはない。だが原因を解決することができず、僕と母さんの間にいつまでも存在していた。
「今日から衣替えでしょ、玄関に上着おいておくからね」
喋り終わると同時に、母さんは顔を引っ込めた。
「じゃあ行ってくるね」
玄関から母さんの声が聞こえ、足音が徐々に小さくなった。数秒で足音が聞こえなくなり、静寂が僕を優しく包んだ。
僕は静寂に身を任せ、意識的に体の力を抜いた。静寂は僕をいつまでも優しく抱きしめてくれた。
学校には無い静寂の温もりに、僕はいつまでも甘えた。静寂と僕が交わり、喜びが湧き上がってきた。静寂は僕の心の底にまで入ってきていた。
ふと置き時計に目がいった。一秒ごとに秒針が動き、時計の表情を変えた。その表情は笑っているようでもあり、悲しんでいるようでもあった。
時計の表情は読み取れなかったが、現在の時刻だけは読み取れた。今から急いで家を出れば、遅刻をせずに学校に到着することができる時間だった。
今日なら、学校に行けるかもしれない。そんな思いが、僕の心を揺らし、激しく高揚させた。無意識に時計を見たことが、もしかすれば僕の強い意志だったのかもしれない。
気付いたら、静寂が強く固まっていた。僕は両手で拳を作り奥歯を噛み締め、静寂を力いっぱい殴りつけた。すると静寂はいとも簡単に崩れ落ちた。
急いで制服に着替え家を出ると、強い日差しが無数の針として、制服を突きぬけ全身に刺さった。全身にチクリと一瞬の痛みを感じると、体がすぐさま熱くなり、額から大量の汗が流れ始めた。すると体に刺さっていた針が頭に刺さった。今度は一瞬ではなく、痛みが永遠のように続いた。
「うわぁー」
と声を上げ、玄関の扉を開けて家の中に逃げ込んだ。すると徐々にだが、痛みが和らいでいき、汗も引いていった。
小さく息を吐き、呼吸をゆっくりと整えた。玄関に置かれた時計に目をやった。思っていたより時間が進んでおり、今から出発しても遅刻するかもしれない。秒針の進む音が、いつもよりも大きく耳に入ってきて、僕は怖かった。秒針が必死に僕を追いかけて来ている気がした。僕が想像する以上に早く、時を進んでいるのだと思った。
小さく扉を開き、ゆっくりと顔を出した。空を見上げると、先ほどまで僕に激しい日差しを向けていた朝日が、今まで見たことがないような大きい雲に隠れていた。黒みがかったその雲は、先ほどまで僕の体内にあったものだなと思った。
自転車に跨り、ペダルを力強く踏んだ。タイヤが回り、僕を乗せた自転車が想像以上の速さで進んでいく。
進む、どこまでも進む。止まらない。僕はこのまま、どんな遠くの場所までも行けてしまえそうに思えた。それは僕の知らない、まだ足を踏み入れたことのない場所でさえ行けるような気持ちだった。
誰かが後ろを押してくれているのかもしれないと思い、後ろを振り返ってみたが誰もいない。確実にこの自転車は、僕だけの力で前に進んでいた。
遠くにある学校が見えてきた。久しぶりに見る学校は、なんだか巨大で、僕を踏み潰そうとしているようにみえた。それは僕を拒絶しているのか、それとも僕が学校を拒絶しているのかもしれないが、確かなことは分からなかった。
学校からは、あまりにも輝かしく眩しい光が放たれていた。その光を直視していると、こめかみの辺りが締め付けられ、割れそうな痛みが頭に素早く走った。ゆっくりと確実に視界が霞んでいく。このまま光を見ていると、白目、黒目と溶けてしまい、涙のように頬を伝って眼球が流れ落ちていくような気がした。その眼球は、アスファルトの地面に垂れ落ち、蒸発してこの世から消えてしまう。
眼球が全て溶けて流れてしまえば、僕の目はただの窪みとなり、もう光を見て頭を痛める事が無くなるのではないかと、小さな考えが痛みをすり抜け、脳にまで伝わってきた。
僕は目を背けず、学校が放つ光を見続けてみた。それはちょっとした遊び心であり、確かな挑戦でもあった。
瞬く間に白目の部分が全て真っ赤に充血してしまい、こめかみに数本の血管が分厚く浮き出てきた。
浮き出た血管に、僕はそっと触れた。自分は生きているのだという、絶対的な事実を感じた。
このまま光を見ていては、消える。光に溶かされ、眼球どころか、僕の存在全てがきれいに溶けて消えていってしまう。そう確信した。
僕はゆっくりと学校から視界を外し、ペダルを踏む力も同じくゆっくりと緩めた。自転車は前進する力が落ち、僕の気持ちの強さも、前進する力に比例して落ちていくように感じた。
のろのろと進む僕を、二台の自転車が抜かしていった。楽しそうに会話を交わしながらペダルを踏む女子二人だった。
紺色の上着に、紺色のスカート。僕の通う中学校の制服だった。目的地は僕が苦しんでしまっている学校なのに、二人はなんの気負いもない。ただ楽しく日常を過ごしていた。二人の顔は見たことがない。おそらく下級生だろう。
前を走る二人を見ていると、僕のペダルを踏む力がさらに弱まってしまい、自転車の進みも落ちていく。二人の背中を見ているのも限界だった。二人も学校と同じ光を、小さくだが放っていた。
二人と距離を開けて、ゆっくりだが僕はなんとか進んでいた。学校に近付くと、より一層、学校が巨大に見えた。僕が今までに見たどんな建物よりも、学校は立派で、広大だった。
大きさもさることながら、近くで見る学校が放つ光は、今までに経験したことのない眩しさがあった。
その強い光を浴びてしまった僕は、絶叫しそうになったが、なんとか堪え、その場で立ち止まった。
特に強い光を放つ正門。そこに小さく光る女子二人が吸い込まれるように入っていく。学校が放つ光と、二人が放つ光が、美しく混ざり合った。
もともと一つの大きな光だったように、学校の光は輝き続けた。その様子を見て、僕は引き返した。
入れない。あの光の中に入ると、僕は焼き溶けてしまう。そんな気がした。
僕は光を放っていない。そして光に耐えることができない。光を放つ学校と僕は混ざり合うことは、いつまでも叶わない。
ゆっくり引き返していると、学校から流れるチャイムの音が背中から聞こえてきた。その音がひどく低く重みのある音に聞こえ、僕にのしかかってきた。
学校が放つ光によってできた影が、僕を大きく覆った。微かな冷たさが僕の肌を静かに通過した。その冷たさを心地よいと感じたが、それではいけないという葛藤が、僕の心を激しく揺らした。
気付くと僕は、肩と気を落とし、力なく下を向いてペダルを踏んでいた。ペダルが堅く、
自転車が重たい。僕は自転車を、邪魔な荷物だと思った。
ゆっくりと前進しているはずだが、そうは思えないほど、僕の気持ちはどこまでも後退していた。
「あれ、帰るの?」
突然、前方から柔らかい声が聞こえた。声に驚き、ブレーキを握り立ち止まった。前を見ると、同級生の江夏さんが黒ずんだ瞳で、僕を見ていた。
「あ……」
これ以上、声が出ない。なんと言うのが正解なのか分からない。喋ろうとしてもパクパクと口だけが動き、音がでてこない。その姿は、ひどく情けなかった。
「鈴本くんでしょ、久しぶりだね」
江夏さんは、僕がまだ学校に通えていた中学一年の頃、クラスメイトだった女の子だ。僕を抜かしていった女子二人と同じ制服を、同じように着ているが、江夏さんが着ている制服のほうが、気品があって高級なものに僕には映った。
僕と江夏さんが最後に顔を合わせたのは、一年以上前だったはずだが、十年以上も会っていないようなほど、江夏さんのことを懐かしく思えた。
生まれつきなのか、江夏さんの肩まで伸びた髪には、薄い茶色が入っていた。その髪が小さな風に乗って、大きく揺れている。銀縁の眼鏡を掛けているのも、あの頃から変わっていない。
レンズの奥にある瞳は、黒目が大きく、見つめられると吸い込まれそうになる。その瞳に吸い込まれると、江夏さんの養分になるような気がした。江夏さんはそうやって、様々な人を吸い込み、美しく成長しているのだと思った。
「鈴本くん、帰るの?」
瞳に吸い込まれそうになっている僕を引き止めるように、江夏さんが声を出した。僕はその声を必死に掴み、吸い込まれかけていた瞳から抜け出した。
「うん、帰る」
「なんで帰るの? 学校行かないの? すぐそこだよ」
「江夏さんは行きなよ。もうチャイム鳴ったよ」
「大丈夫。私、遅刻常習犯だから」
江夏さんの顔が緩み、小さな笑みを零した。僕もつられて、小さく笑った。
僕は久しぶりに笑ったが、笑みはあまりにも自然に零れた。その笑みは、なにか落とし物を拾ったような感覚を生んだ。
「そんなに遅刻してるんだ。江夏さんに遅刻のイメージなかったよ」
「えー。本当? ほぼ毎日してるよ。いつも先生に怒られてんだから」
「そうなんだ」
「鈴本くんは、なんで学校行かないの?」
「……楽しくないから」
数秒、間を空けてからの答えだった。答えを迷ったわけではない。頭に浮かんでいても、言葉に出すことに抵抗があった。言葉が喉に痞え、僕が呼吸をすることに、苦しみを与えた。
楽しくないということが僕の中の真実だとしても、平然とは口に出せなかった。当たり前の言葉として、咀嚼できなかった。
仕方なく、唾を吐き捨てるように、言葉に思いを乗せず、吐き捨てた。
「私、最近の鈴本くんのこと分かんないけどさ、苛められてんの?」
「いや、苛められてはないよ」
本当だった。強がったわけではない。厳密には強がれてさえいないのだ。それがまた、僕を惨めにさせた。
僕という存在は、苛めの対象にさえ値しなかった。
クラスに会話をする人がいなく、僕はいつも孤独だった。小さな教室に、敷き詰められた同い年の生徒たち。生徒は仕方なく、一つの教室内で、一つの世界を作り出す。僕はその世界の人間になれなかった。異星人のように、不自然な存在として、教室という世界で孤立していた。
無視をされているわけではなく、僕から話しかければ、誰でも会話を交わしてくれたのだと思う。
だが僕は、いつまでも言葉を発せずにいた。言葉の通じない異星人として、違和感として、教室に存在した。
クラスメイトと仲良くなる過程が恐かった。その過程で傷つくことに恐れていた。僕は無傷でいたかった。
ある日の休み時間。僕はトイレの個室に駆け込んだ。腰を落ち着かせた時には、腹に痛みを感じつつも、いつものように教室で一人寂しく過ごすよりはマシだと考えていた。しかし思いのほか腹の痛みが続いてしまい、トイレの個室を出た頃には、授業が始まって十分ほど経ってしまっていた。
どうしたものかと迷いつつも、僕は教室へと向かった。トイレの個室という世界は、僕にとって非常に心地よかった。だがその世界は、いつまでも滞在できる世界ではないことを僕は知っていた。教室までの道のりを、孤独に歩いた。
僕しかいない廊下。もともと誰もいない場所での孤独は、心地が良かった。その心地よさは、トイレの個室と似ていた。孤独にも、様々な種類の孤独があった。
廊下を歩くと、当たり前だが、教室に辿り着いた。そこからの行動の答えが、僕には分からなかった。
とりあえず、教室をこっそりと窓から覗いてみた。そこには僕の知らない世界が広がっていた。
数式が書いてある黒板があり、チョークを握った先生が居て、黒板に書かれていることを必死にノートに写していたり、ダルそうに机に落書きをしていたり、小声で無駄話をしている生徒たちがいた。その全てが輝かしい光を放っていた。この時、僕は初めて光を見た。
僕は初めて、教室という世界を外から見ていた。
そこに一つだけ、光を放っていない、誰にも使われていない机と椅子があった。普段、僕が使っている机と椅子だった。
同じ教室内であっても、僕の机と椅子だけが、ひどく冷えているように見えた。教室にあってはいけない、異物のように僕には見えた。
教室に背を向け、僕は走り出した。その日以来、僕は学校に行っていない。光から逃げているのだ。
「苛められてないなら、学校行けばいいじゃん」
「だから、楽しくないんだ」
「私だって、学校は楽しくないよ。でも、私は学校行ってるよ」
江夏さんは、言葉を発するたびに笑みを零していた。零れた笑みを拾い集め、世界中にばら撒けば、世界中の人々が幸福な人生を過ごせるだろうと思った。江夏さんの笑みを直接浴びている僕にも、小さな幸福感が生まれてきていた。
「僕と江夏さんだと、楽しくない意味が違うよ」
「どう違うの?」
「僕は人間としてのレベルが低いから学校を楽しめないんだ。江夏さんはレベルが高いから学校をつまらないって感じるんだよ。だから楽しくないの意味が全然違うよ」
「私のレベルが高いって、どういうこと? よく分かんないよ。ねぇ、教えてよ」
また江夏さんが笑った。江夏さんの笑顔の種類は、無限にあるようだった。様々な笑顔を、惜しみなく溢れ出していた。
「ごめん、僕も自分で言ってて、意味が分からない」
「なにそれ」
今度は二人で笑った。どれくらい笑ったか分からない。数秒だったか、数分だったか思い出せない。ただ僕はいつまでも笑っていたような気がしたし、いつまでも二人で笑っていたいと思った。
江夏さんも僕と同じ思いだったろうか。それは僕には分からないし、分かる術がなかった。
「鈴本くんは、普段から学校行ってないんでしょ。だったら学校行かないで、いつも何してるの?」
「家でボーっとしてる」
「楽しいの、それ?」
「……僕は楽しい」
「変わってるね」
江夏さんが、今日何度目か分からない笑顔をみせた。僕も江夏さんを追いかけるように笑った。僕の笑いが江夏さんに追いつき、笑いを共有した。
「今日も、ボーっとするの?」
「どうだろう」
「分かんないの?」
「ボーっとするって、計画立ててすることじゃないから」
「確かにね……」
唐突に江夏さんの視線が宙に浮いた。考え事をしているのか、気の抜けたその姿は、魂のない人形のようにみえた。江夏さんの魂はどこにいってしまったのか。僕はきょろきょろと周囲を見渡したが、魂は見当たらなかった。
「だったらさ、今から何処か行こうよ」
「えっ」
魂はどこにもいっておらず、しっかりと江夏さんの中にいたようだ。それどころか、江夏さんの唐突な提案に驚き、僕の魂がどこかにいってしまいそうになった。
「ボーっとするのは、すごくつまんないと思うし、二人で何処か行こうよ。ほら、ついて来て」
僕の返事を待たず、江夏さんは力強くペダルを踏み進みだした。すぐさま僕は、江夏さんの背中を追った。
家でボーっとすることを江夏さんはつまらないと言ったが、僕はボーっとすることが好きだった。だから江夏さんの背中を追わず、一人で家に帰り、ボーっとすることも可能だった。
だが、その選択は頭に浮かばなかった。江夏さんの提案に魅力を感じていた。それ以上に、江夏さん自体に魅力を感じていたのかもしれない。
車が通れないような狭い路地裏を、江夏さんは滑らかに進んでいく。江夏さんの自転車の鍵に、小さな鈴のキーホルダーが付いており、リンリンと鈴の音が小さく聞こえてきた。
鈴の音は、江夏さんの存在を主張しているようだった。対照的に、僕は何ひとつ、存在を主張していなかった。
五分ほど江夏さんについていくと、黄色の色味が強い塗装の建物が姿を現した。この町に唯一ある古びたカラオケボックスだった。ところどころ塗装がはがれ、茶色い錆びも目に入った。
カラオケに来るのなんて、小学生の頃に家族や親戚と行って以来だった。江夏さんはよくカラオケにいくのだろうか、どんな歌を歌うのだろうか、どんな歌声なんだろうかと、頭の中に様々な疑問が浮かび、その疑問が飛び跳ねていた。
平日の午前中に制服を着た男女の客に、若い男の店員は訝しい顔をみせたが、問題なく個室に入ることができた。
薄暗い個室に入った瞬間、僕は空を飛んでいるかのような感覚を覚えた。体が軽く、心地の良い小さな風を感じる。その風はどこから生まれたのか、僕が生んだのか、誰にも分からない。
カラオケボックスの個室は、今までの僕の世界である自室や、トイレの個室などと、似た空間だった。
居心地が良く、僕を優しく包んでくれる空間に、力を抜いて眠りたくなったが、その考えを、江夏さんの声が封じた。
「なに歌う?」
リモコンを素早く操作しながら喋る江夏さんの声は、喜びに満ち、トーンが上がっていた。
江夏さんは、僕にマイクを渡してきたが、僕は受け取ると、すぐにガラス製のテーブルの上にマイクを置いた。マイクとガラスが重なる音が、個室に響いた。
「僕は、歌うのは良いよ」
「えーなんで、歌おうよ」
「僕は聞いてるだけで良いから」
江夏さんの表情に微かだが、影が差した。僕の発言は、想像以上に江夏さんの機嫌を損ねたのかもしれなかった。
のこのこと江夏さんについてきたは良いが、人前で歌うことというのは、恥部をみられるぐらい恥ずかしいと感じている僕は、まして江夏さんの前で歌うことなどできるはずがなかった。
僕はソファの隅に座り、背中を丸め、体を小さくした。その姿勢がやけに心地よく、安らぎが体内を流れた。
「じゃあ私は、思う存分に歌うからね。ボーっとしないでよ」
江夏さんは立ち上がり、マイクを両手で包み込んだ。軽く咳払いをして、喉の調子を整えた。
流れてきたのは、ザ・ブルーハーツの僕でも聞いたことのある曲だった。
ブルーハーツの曲を歌う江夏さんの歌声が、上手いかどうか僕には分からない。ただその歌声は、僕の耳に入って抜けていかない。それほど音量はないのに、いつまでも僕の鼓膜を大きく刺激した。
歌詞を覚えているのか、江夏さんは歌詞が流れている液晶画面を一切見ず、力強く目を瞑っていた。
目を瞑っている江夏さんは、どこか違う世界にいっているような気がした。それは江夏さんが作りだした、江夏さんしか存在しない世界なのだと思った。その世界には僕も入れない。
江夏さんの口から、江夏さんの声で放たれるブルーハーツの歌は、今、このカラオケボックスでしか聞けないもの。それを聞いている僕は、世界で一番の幸福者なのだと強く思った。
その後も江夏さんは、いつまでもマイクを握り、歌い続けた。どんな曲を歌っても、江夏さんの歌声は、僕の耳にすんなりと入ってきた。
その歌声に、僕はコンサートの客のように、いつまでも耳を傾けていた。それが、なによりも楽しくて、なによりも僕を興奮させていた。
だが、最初に歌ったブルーハーツの曲が、最後まで僕の耳から離れていくことはなかった。
興奮が時を早く感じさせた。カラオケボックスに何時間いたのか僕にはわからない。僕の感覚では、カラオケボックスの中で四季を過ごしたような、たっぷりとした時間を過ごした。
「歌いすぎて、喉痛いよ。結局、鈴本くん一回も歌わなかったね」
カラオケからの帰り道、少し嗄れた声を出す江夏さんは晴れやかな顔をしていた。その顔は、少し幼くみえた。
「でも江夏さんの歌を聞いてるだけで、僕は楽しかったよ」
「本当? 家でボーっとするよりも?」
「うん」
そこから僕と江夏さんは、並んで自転車を漕ぎながら、いつまでも笑顔で会話をした。どんな会話をしたのか全く記憶には残っていない。とにかくお互いの言葉を優しくぶつけ合った。その言葉は心地よく僕にぶつかり、喜びを感じさせた。
江夏さんの声が聞こえない。ただ、江夏さんの口が動けば、僕は必死に喋った。だが、僕の耳には僕の声すらも聞こえない。江夏さんは笑っていた。その事実だけが、僕を喜ばし、僕を必死にさせた。
「じゃあ私、学校行ってくるから」
今まで耳に入ってこなかった江夏さんの声が、急に僕の耳へと入ってきた。その言葉に、僕の気持ちは急激に悲しみを覚えた。
自転車を止めた江夏さんの視線の先には、学校が確実に存在していた。僕は学校に視線を向けず、学校が放つ光を感じないように意識した。
「今から行けば、給食には間に合うと思うんだよね」
僕の体が微かに重くなった。今まで同じ場所にいた江夏さんが、手の届かない場所に行ってしまうことに、悲しみに加え、苦しみが同時に僕を襲った。
「やっぱり、学校行くの?」
無意識に発した言葉だった。その言葉は非常に情けなく、自分の価値を下げているように感じた。
「うん、行かないと怒られちゃうから。鈴本くんは行かない?」
地面を見つめる僕の顔を、江夏さんが覗きこんだ。突然近くに現れた江夏さんの顔に、僕は驚き、胸が高鳴った。香水でもシャンプーやボディーソープでもない、江夏さんから自然に漂う甘い香りが、僕の鼻を刺激し、舌にまで甘味を感じた。
「ねぇ、行かない?」
胸の高鳴りは治まらないが、学校から放たれる光を感じてしまうと、僕の気持ちは弱くなっていった。
「今日は……、行かない」
「そっか、分かった。じゃあ私行くね。バイバイ」
手を振りながら、江夏さんが離れていく。僕と江夏さんの間に大きく深い溝が現れた。その溝を飛び越えることは、今の僕には不可能だった。
その溝に一度落下してしまえば、僕はどこまでも落ちていく。辿り着く先などなく、永遠に恐怖に震えながら、体を固め落下し続ける。僕が手を伸ばしても、誰もその手を掴んでくれず、僕の手がいつまでも宙を舞っていた。
江夏さんと別れ、僕は真っ直ぐ家へと帰った。家に一人となり、静寂が現れたが、僕は静寂を酷く冷たいものだと感じた。
今日の朝までは、あれほど温かみを感じた静寂だったが、今の僕には、寂しいものにしかみえなかった。
自室のベッドに寝転がり、僕は強く目を瞑った。目を瞑った先には、真っ暗な、僕だけの世界があった。
真っ暗な世界に、色を与え、草原を作った。広大な草原に、ポツンと一人、江夏さんが立っていた。僕の世界で、僕が作り出した江夏さんだ。
顔、動作、声、匂い、先ほどまで一緒にいた江夏さんが、今、僕の頭の中に存在していた。実在する江夏さんと、僕の頭の中に存在する江夏さんの違いをみつけることは、僕にもできなかった。
江夏さんはゆっくりと、静かに歩き始めた。どこに行くのかはわからない。僕は歩いて行く江夏さんのことを、どこまでも眺めていた。
ときには音を出し、走り出す江夏さん。僕は見失わないように必死に追いかけた。
追いかける僕を、江夏さんは振り返って笑顔で見た。その笑顔に僕は吸い込まれ、江夏さんの養分となった。
僕はゆっくりと目を開けた。真っ暗な部屋に、カーテンの隙間から眩しい光が差し込んでいた。僕は目をかすめながら、カーテンを勢いよく閉めた。
汗などの、様々な水分が僕の体内から放出していた。
体が重く、疲労が体内を激しく包み込んだ。光はないのに、目がかすんでいく。なにも頭を働かせる気が起きてこない。音が消える。感覚が消える。溜め息を一つ吐き、僕は静かに目を閉じた。そして眠りについた。
僕は夢をみた。光を放つ学校が天に届きそうなほど、大きくそびえ立っている。
そこに数え切れないほどの、光を放つ生徒が吸い込まれて、学校と混ざり合った。混ざり合った光は、一つの大きな光となり、輝きを増していく。僕はその様子を離れた場所から、目を細めて眺めていた。
学校の横に江夏さんが一人で立っていた。江夏さんは僕を見つめて、大きく手を振った。僕が手を振り返そうと右手を上げると、江夏さんは学校に吸い込まれた。しかし、江夏さんが学校と混ざり合うことはなかった。光っている学校の中に一人、江夏さんがいる。光を放つ生徒が吸い込まれるほど、学校の光は大きくなっていく。どれだけ光が大きくなっても、江夏さんは変化する事なく、光の中に江夏さんとして存在し続けていた。それは異物として僕には映り、江夏さんのいるべき場所ではないと思った。
僕は目を覚ました。背中にじっとりとした汗が、冷たく流れていた。僕は江夏さんのことを思い出していた。現実の江夏さん、僕が頭の中で作り出した江夏さん、僕の夢の中にでてきた江夏さん。どの江夏さんも、光を全く放っていなかった。
居間で夕飯のカレーを口に運んでいると、仕事先から母さんが帰宅してきた。朝よりも、白髪が混じった髪が大きく乱れている。仕事帰りの母さんのいつもの姿だ。疲れが溜まれば溜まるほど、髪の乱れが大きくなっていく。
「香坂先生から電話あったわよ。今日も学校行かなかったのね」
母さんの表情に影が入り、少し老けてみえた。僕は黙々とカレーを食べ続けた。舌にはなんの味も広がらず、なにを食べているのか忘れてしまいそうになる。
「香坂先生心配してたわよ。」
香坂先生は僕の担任の先生であり、今年配属されたばかりの新米先生でもあった。週に二、三回は僕の家へとやってきて、僕に様々なことを話していく。最後は必ず、優しい声で「学校に来ない?」「待ってるよ」と語りかけてくる。その声は、僕の耳には残らなかった。
「香坂先生まだ二十四歳なんだって、声だけ聞いたら女子高校生と話してるみたいだったわ。母さんからしたら、あなたと同じ子供よ。なんか心配になっちゃう」
食事を続ける僕の対面の席に座り、母さんは言葉を出し続けた。母さんの言葉は、ジャンプをするための助走をしているように感じた。そしてたっぷりと助走をつけた母さんは、力強く地面を蹴り、ジャンプした。
「ねぇ……、あのね……、どうして学校行かないの?」
母さんの唇が微かに震え、同時に発せられた言葉も震えていた。それでも、その言葉ははっきりと僕の耳に入ってきた。僕は動きを止め、食べかけのカレーをじっと見つめた。
カレーからは微かな湯気が浮かび上がり、僕の視界を曇らせた。曇りの先には確かに母さんがいて、僕の答えを待っていた。だけど僕には、母さんが求める答えを出すことはできなかった。時間が進み、カレーが冷めていく。僕は冷めたカレーを一口だけ頬張り、咀嚼し飲み込んで、言葉を発した。
「学校に行かない理由はない。それと同じで、学校に行く理由も僕にはみつからない。だから行かない」
「そっか……そうなんだ……早くお風呂入っちゃいなさい」
母さんは席を立ち、洗濯物にアイロンを掛け始めた。深く皺の付いたTシャツを、きれいに伸ばしていく。僕は母さんの心に数え切れない程の皺を刻み込んでしまっていた。その皺をアイロンのように、綺麗に伸ばすことが僕にはできなかった。
思い返せば、家にやってくる香坂先生や、今日江夏さんと会話したことを除けば、僕は母さん以外とほぼ会話をしていない。家の中だけが僕の現実の世界で、住人は僕と母さんだけだった。
僕の父さんはどんな人だったろうか。別れはどんなものだったろうか。遠い昔の記憶として頭の片隅にはあるが、鮮明に思い出そうとすると、濃い膜がその記憶を覆ってしまう。父さんは母さんと別れてしまったのか、それとも死んでしまったのか。最初から僕に父さんという存在など、この世に無かったのではないかと思った。
僕は、もう永遠に父さんのことを考えることはないだろうなとも思った。
風呂に入ろうと洗面所にいき服を脱いだ。ふと、鏡に目がいった。僕は鏡に映る自分の姿に目を疑い、何度も瞬きを繰り返し、強く目を擦った。どれだけ目に刺激を与えても、鏡に映る真実が変わることはなかった。
僕の左胸辺りから光が放たれていた。小さく弱い光だが、確かな光が惜しみなく輝いている。光をみつめても、一つの痛みも生まれず、直視することに苦を感じない。すんなりと僕の瞳に入り込み、僕の体内を光が隙間なく走り抜けた。
今まで影だった僕から、なぜ光が生まれたのか。答えは目の前まできているような気がした。僕は答えを掴むことができるのかもしれない。光に生まれ変わり、いつまでも光を放って生きていけるのかもしれない。
一つみつけた答えがある。それは、一人ぼっちで光は放てないということだ。
翌朝、母さんは仕事に行き、僕は眠りの世界に片足を入れた状態が続いていた。すると突然、僕を現実の世界に引っ張り戻された。玄関のチャイムの音が、家中に鳴り響いていた。
「すいませーん、香坂です」
玄関先から香坂先生の声が聞こえてきた。僕は玄関を開ける前に、鏡の前に立った。鏡に映る僕の左胸は、昨日まで放っていた光がきれいに消えていた。
玄関の扉を開けると、香坂先生が笑みを零した。軽そうな真っ白いTシャツに、目がチカチカと痛むオレンジ色のジャージを履いていた。香坂先生はいつもラフな格好をしている。香坂先生の顔を見るのは二日ぶりだった。その時の場所も、この玄関先だった。
「おはよう、ちゃんと起きてるね」
香坂先生の全身から溢れんばかりの光が放たれていた。昨日まで僕の左胸から放たれていた光とは、輝きが比べものにならない。
なんでもないような話しを、香坂先生は一方的に喋り続けた。そして最後には、いつもと同じ着地点だった。その着地点は、僕の辿り着きたくない地点だった。
「今日は、学校行かない?」
話すたびに、香坂先生は何度も瞬きを繰り返す。長い睫毛が大袈裟に動き、その動きを目で追ってしまう。
香坂先生が放つ光は、学校が放つそれと似ていた。僕は目を細め、香坂先生をみつめた。
「学校楽しいじゃない。青春じゃん、楽しもうよ」
香坂先生の顔は整っていた。おそらく中学のころは非常にモテたことだろう。彼氏の一人でもいたのかもしれない。同じ様に高校でもみんなから愛され、教師になる夢をもつ。夢を叶えるため大学に進学する。見事に夢を叶え、教師となり、大好きな学校という場所で働き始める。僕と違い、香坂先生はずっと光を放ち続けている。学校に行ったほうが正しいという考えは同じでも、学校という場所が自分にとって、どのような場所なのか。その考えが、教師という仕事を選んだ香坂先生と僕では正反対の場所に位置していた。
「来週、クラス対抗の合唱コンクールがあるのよ。昨日から練習が始まったの。やるからには優勝を狙うから、鈴本くんも早く練習に参加してね」
香坂先生が放つ光が、ますます強くなり、僕の頭に痛みを生みはじめていた。
「今日は行きません、帰ってください」
小さく呟き、僕は玄関の扉を閉めた。扉を挟んでも、香坂先生の放つ光が隙間から漏れ、僕まで届いてくる。
「また、来るからね」
香坂先生が初めて強い声を出した。声を出した瞬間、隙間から漏れた光が、より一層輝いた。その一瞬輝いた光が、僕の瞳に入ってきた。僕はその光を、抵抗なく受け入れていた。
香坂先生が帰って行った数分後、香坂先生が立っていた玄関先に今度は江夏さんが立っていた。
初めてみる玄関先の江夏さんに、僕は新鮮さを覚えた。だが、その新鮮さを感じる余裕もないほどの変化が、江夏さんにあった。
江夏さんから光が放たれていた。その光は、昨日まで僕が放っていた光よりも、学校や香坂先生が放っている光に似ていた。
「鈴本くん、学校行かない?」
学校という単語がでた瞬間、江夏さんが放つ光が一層強くなったような気がした。
「学校はやめとくよ、それよりカラオケ行かない? また江夏さんの歌が聞きたいなぁと思って」
「カラオケはいいや。私、今日は学校に行く」
そう言って、江夏さんはペダルを強く踏んで、学校へと向かった。僕は江夏さんの背中をいつまでも、眺めていた。
江夏さんとカラオケに行けると一瞬でも思ってしまうと、今から一人で部屋に篭ることが、ひどく寂しいことだと思った。
僕は素足にサンダルを履き、散歩に出掛けた。僕は昔から散歩が好きだった。目的地を作らず、意味のない歩みが僕の心を躍らせた。気付いた時には知らない場所に自分が立っている。その瞬間に、たまらなく喜びを感じた。
少し肌寒いので、体を温めるために速めに歩いてみた。歩みを速めたという小さな変化だけで、僕の胸は躍った。
体が温もり、一粒の汗が頬を伝った。その汗は顎まで流れ、最後にはアスファルトに垂れた。汗が垂れた部分だけ、アスファルトの色が変わった。僕はそれを見ると、色が違う部分が、学校での僕のように感じた。
散歩を続けていると、通っていた小学校が見えてきた。赤白帽子を被った子供たちが、サッカーボールを追いかけていた。
なんの作戦もない、キーパー以外が転がるボールを無我夢中に追いかけていた。フォワードやディフェンスなどのポジションもなく、子供たちは純粋にサッカーというスポーツを楽しんでいた。
思い返すと、僕が小学生だったころは楽しく学校に通えていた。あの頃、小学校が光ってみえることは一度もなかった。それなのに今は、小学校が強く光ってみえた。
学校はなにも変わっていない。僕が変わってしまったのだろうか。
少し光を見すぎてしまって、頭が痛む。小学校に背を向け、家へと向かった。
翌日の朝も、江夏さんは僕の家へとやってきた。僕が学校に行くのを断ると、その日も江夏さん一人で学校へ行った。それから江夏さんが、僕の家へやってくることはなかった。もう江夏さんとカラオケには行けないのか、江夏さんの歌声は聞けないのかと、少し悲しみを覚えた。
江夏さんが来なくなっても、香坂先生は何度も僕の家へとやってきた。香坂先生は合唱コンクールのことをよく喋った。「鈴本くんも練習に参加しなよ」、「もうすぐ本番だから聞きにおいでよ」と、笑顔で僕に喋った。
毎日クラスのみんなが、合唱コンクールで優勝するという思いを固めて練習している場所へ、僕はどんな顔をして参加すれば良いのか。僕を見て、みんなはどんな顔をするのか、その顔を見ることが怖かった。
そして、ぼくが想像するよりも速く、時間は進んだ。
朝、目を覚ますと、光が目に入った。電気を点けたままで寝てしまったようだ。光をみつめると、視界が真っ白くなった。
置き時計に目を向けた。視界が白く、時間が確認し辛い。時計の針を凝視すると、母さんは仕事に行っている時間だった。今から家を出れば、遅刻をせずに学校に到着することができる時間でもあった。
時計をよく見てみると、時計の表情に見覚えがあった。それは、江夏さんとカラオケに行った日、僕が学校に向けて家を出た時間と同じだった。
これが偶然なのか、必然なのか分からなかった。
僕はなんとなく香坂先生が言っていたことを思い出していた。今日は、合唱コンクール本番の日だった。
突然、玄関のチャイムが高らかに鳴った。また香坂先生かと思い扉を開けると、江夏さんが息を切らして立っていた。
「鈴本くん……、学校行こうよ」
息を切らしながら喋る江夏さんの眼鏡のレンズが、少し曇っていた。久しぶりに見る江夏さんからは、輝かしい光を放っていた。その光が、僕はあまり嫌ではなかった。
「どうしたの急に」
「学校行かないとダメだよ。鈴本くんは逃げてるだけだよ」
「そんな、急に逃げてるって言われても……」
江夏さんの全身から激しい光が放たれていた。僕は狼狽し、言葉を発せずにいた。
「私も逃げてたの。私、半年前に親友とケンカしたの。それから親友にも、仲良かった友達にも無視されるようになったの。それで学校が嫌いになった。学校でなにをしても楽しくなかった。だからよくサボって一人でカラオケばかり行ってたの。歌ってると、なんでも忘れて楽になれる。でもサボってばかりいると親に怒られちゃうから、たまに学校に行ってたの」
江夏さんは一切笑顔をみせずに喋っているが、その顔は悲しいようにも怒っているようにもみえない、初めてみる顔だった。
「たまに行く学校も楽しくなかった。毎日サボりたかった。それであの日、鈴本くんと会って、鈴本くんが私に似てたからカラオケに誘ったの。私は楽しかったけど、鈴本くん一曲も歌わないんだもん。びっくりしちゃった」
江夏さんが久しぶりに笑みを零した。その顔が、江夏さんには一番似合っていた。
「カラオケに行ったあと、私学校に行ったでしょ。思いっきり歌った後だったから、気持ちが楽になったの。そこで香坂先生に話しかけられたの」
突然でてきた香坂先生の名前に、僕は驚き、
江夏さんを見た。江夏さんは変わらず光を放っていた。
「私、もともと香坂先生のこと苦手だったの。無駄に明るい先生で、元気を押し付けられてる感じがしたの。でも話してみたら意外に盛り上がっちゃって。カラオケが好きって言ったら、今度一緒に行こうって。私、口だけだと思ったの。でも私がその日の放課後、一人でカラオケに行って歌ってたら、急に香坂先生が入ってきたの。一緒に歌おうって。それで、一緒に歌ったの、楽しかった。一人で歌うより、何倍も楽しかった」
僕は江夏さんとカラオケボックスにいた時のことを思い出していた。あの場所に、江夏さんと香坂先生がいるのを想像したが、うまく頭に浮かんでこなかった。
「今度はクラスのみんなで歌おうって言ってきたの。今日、合唱コンクールでしょ。私のクラスが歌う曲知ってる? ブルーハーツの終わらない歌。私の一番好きな曲なの」
僕は江夏さんと行った、カラオケボックスのことを思い出していた。江夏さんが最初に歌っていた曲、それがブルーハーツの終わらない歌だった。
「だから合唱コンクールの練習は楽しかった。後で私の担任の先生に聞いたら、私のクラスの曲は、香坂先生が無理やり選んだんだって。私、嬉しかった」
江夏さんが精一杯に笑みを零した。その笑みは、香坂先生に似ていた。
「香坂先生はね、鈴本くんのことも心配してたよ」
心が大きく揺れた。
「上っ面じゃなくて、本気で心配してた。楽しくなくても学校には来てほしい。楽しくなくても、楽しくないっていう思い出を残して欲しいって。思い出がないのは悲しすぎるって」
心の揺れが収まらない。
「香坂先生の話しを聞いてたら、私まで、鈴本くんのこと心配になっちゃって。図々しいよね。でも心配はしても、私は合唱コンクールの練習に夢中だったの。まだ自分のことで精一杯だったんだと思う。でも今なら、なんの迷いもなく言える。鈴本くん、学校に行こう」
心の揺れが弱まっていく。
「鈴本くん、前までの私と一緒なんだよ。傷つくのが恐くて逃げてるだけ。傷ついても良いんだよ、その傷が思い出になるじゃん。逃げてたら、なにも残らないよ」
心の揺れが収まった。
「江夏さん!」
「えっ」
思っていた以上に大きな声を出してしまい、驚いた江夏さんの目が大きく開かれていた。
「好きです、付き合ってください」
「えっ、えっ」
江夏さんの目が、先ほど以上に開かれた。目玉が飛び出そうで、僕は少し心配してしまった。
「あの……えっと……ごめん、そういうつもりはなくって……私はただ鈴本くんのことが心配で……」
「分かった、ありがとう」
「えっ」
「江夏さん、学校行こう」
「えっ、えっ」
僕は振られて傷ついた。その傷を誇りに思う。今まで無傷だった僕が、挑戦をして傷を負う。なにも恥じることはなかった。
「そういえば江夏さん、自転車は?」
「昨日、パンクしちゃって。だからここまで、走ってきたの」
熱い息を吐きながら、江夏さんは笑った。その顔もやはり、香坂先生に似ていた。
「じゃあ僕が漕ぐから、後ろに乗って」
自転車の荷台に被っている埃を拭き取りながら、僕は言った。
「えー、二人乗りはダメでしょ」
江夏さんは笑いながら、いたずらっ子のような表情を浮かべた。
「良いから、間に合わないよ」
二人乗りを注意されても良い、怒られても良い。江夏さんと二人乗りをして怒られた、という一つの思い出が残るだけだ。
江夏さんを荷台に乗せ、自転車を力強く漕いでいくと、学校が見えてきた。あんなに巨大だった学校が、僕と同じくらいの大きさに見えた。
だが、学校から放たれる光に僕の足が止まってしまった。すると、江夏さんが僕の背中を優しく押してくれた。江夏さんの光が僕にも伝わってくる。正門では、両手で大きく手を振る香坂先生の姿がみえた。香坂先生の全身から輝いた光が放たれていた。
香坂先生や江夏さんと同じ光を、僕も放っていた。
体育館から合唱コンクールの歌声が聞こえてきた。声の高さから一年生だなと、僕は思った。
江夏さんのクラスはブルーハーツの終わらない歌を歌うが、僕のクラスは何を歌うのだろうか。分からないが、僕も歌ってみようと思った。
歌うことは、恥部をみせるぐらい恥ずかしい。僕のその考えは変わらない。みんなに思う存分、恥部を見せてやる。僕の気持ちは、どこまでも前を向いていた。
僕は強くペダルを漕ぎ、勢いよく正門の中に入った。僕の光と学校の光が混ざり合った。なんの不自然さもなく、もともと一つの大きな光だったようだ。
香坂先生が言う。これで今日は欠席者がいない。学校がさらに大きな光を放ち、町全体を光で包んだ。学校から放たれる光が、地上にある太陽のように、全てに光を与えた。