感食
目の前の女性はもうかれこれ数時間は喋っている。その姿は苛立ちや怒りをすべて吐き出しているようだ。
「まったく、腹が立つったらないわっ」
女性はお茶うけのケーキを怒りながら口に運んだ。
そんな風に女性が不満をぶつけられても、時任留太郎には関係ないことだ。しかし彼なりに目的があって、この女性の愚痴に付き合っている。
「あーあ、もう離婚しちゃおっかなあ」
「……でもきっと、あなたは旦那さんと別れたりしませんよ」
留太郎の言葉に女性はぴくりと片方の眉を上げた。
「なにがわかんのよ、高校生のくせに」
子ども扱いされても留太郎はさほど気にせず言葉を続ける。
「だってどんな人でも本当にそうしようって思えば、だれがなんと言おうと決めたように動きますから。迷っているということは別れませんよ。少なくとも今は、ね」
にっこりと笑う留太郎とは反対に、女性は認めたくないのか難しそうな顔をしていた。しばらくうんうんと唸り、残っていた紅茶を飲み干すと腰を上げた。
「仕方ない。謝るチャンスでも作ってやるか。しょーがないよね、旦那なんだもん。
ありがとう、なんかすっきりしたわ。あたしのほうが十歳以上年上なのに、あんたってなんか不思議ね」
女性は「じゃーねー」と手を軽く振りながら去った。
にこやかは表情を浮かべていた留太郎は真顔に戻り、すっと立ち上がるとさっきまで座っていた女性の席に手をかざした。
テーブルの上に現れたのはカクテルグラスだった。通常のものより一回り大きい。その上で手を滑らせる。するとジャラジャラっと色とりどりの宝石がどこからともなく現れた。あっという間にカクテルグラスがいっぱいになる。
そのカクテルグラスを持って、留太郎は家の中に入りとある一室に向かう。赤いじゅうたんは柔らかかったが、今ではつぶれてぺったんこになっている。カーブを描いた階段を上がり、二階の一番奥の部屋へ進む。
遠慮がちにノックをすると中から「お入り」と上品な老婆の声がした。
「失礼します」
室内はぼうっとひとつだけ、ランプの柔らかいオレンジ色の光が部屋の主の顔を照らしている。黒かった髪は灰色となり、艶もなくなっている。頭と尾骨から生えている耳や尻尾もどこかハリがない。
「お加減はいかがですか?モーリー様」
「……いつも通りさ。どんどん魔力が減っている。まあ未練はないさ」
「そんなことをおっしゃらないでください。本日はこのような感情をお持ちしました」
留太郎はそう言ってカクテルグラスに入ったもの……モーリーの食糧となる、感情の宝石を渡した。モーリーはカクテルグラスを見た。白、黒、黄色。色や大きさがばらばらなその中から赤と白のマーブル柄の宝石をとり出した。
「悪いんだがね、これはどうにも好きじゃないから避けておくれ。夫婦喧嘩の感情はどうにも美味いと思えなくってね」
「申しわけありませんっ。百年も傍におりますのに……」
「なに、たった百年さ。ワタシら悪魔にとってはね」
モーリーは飴玉くらいの大きさの宝石を口に運んだ。感情の宝石を味わいながら留太郎に話しかける。
「それにしてもアンタも物好きだね。悪魔の傍にいるために人間を捨てるなんて」
「惚れた女のためなら命も投げ出せ、というのがこの家に住んでいた祖父の教えでして」
モーリーは留太郎を見つめた。絡み合った視線に留太郎は少し照れくさそうに微笑んだ。モーリーはそんな彼を見て尻尾を垂れさせた。
「何度も言っているが、ワタシがお前さんになびくことはないよ。悪魔が人間に恋をしたなんていい笑い話だ」
「もちろんわかっております。それでも僕はあなたの側にいたいのです」
もう何度目になるかわからないやりとり。モーリーはため息をついた。
「もういいよ。お行き」
モーリーが呆れ気味にそう言うと、留太郎はモーリーの左手をとり小さく口づけをした。
「それでは失礼します」
パタンとドアが閉まる。再び独りになったモーリーはさきほど留太郎の唇が触れた手の甲を見つめていた。
その日も留太郎はカクテルグラスふたつをトレイに乗せモーリーの部屋にやってきた。いじめられた過去をようやく飲みこみ幸せになった女性と、そんな彼女の幸せを壊そうとして返り討ちにあった元いじめっこの女、それぞれの感情だ。一方は多くの幸せと少しの悲しみと苦しみの混じっており、もう一方は恨みと妬みしかなく見ているだけで暗い気持ちになる。しかしモーリーはそんな感情も嬉しそうに味わう。
コンコンッとノックすると「……お入り」と絞り出したような声がした。普通なら聞き逃してしまうような小さな異変。そんなものでも一方的とはいえモーリーを思い続けた留太郎にはわかった。いつものような凛とした、知性のある落ち着いた声ではない。
「モーリー様、どうなさったのですかっ?」
いつもより乱暴に開けられたドアの内側にいたのは、いつものようにロッキングチェアに眠るように腰かけていた。
「なんだい、大きな音を立てて」
「あ、すみません……。なんだかモーリー様が消えてしまうような気がして……」
モーリーは「なにをおかしいことを言っているんだい」とも「ワタシはまだ死なんよ」とも言わなかった。いつもある一言がない。留太郎の中で不安が大きくなる。
「「そういえばお前さんとはお茶なんて飲んだことがなかったね」
「そうですね。淹れてきましょうか」
「……ああ、おねがいしようか」
留太郎は一度部屋を出た。モーリーはその隙にカクテルグラスの感情の宝石を口に運んだ。
「もうちょっとだ……。少しでも感情を食べておかないとね」
その言葉の真意を知るのはモーリーただ一人だった。
一方台所で紅茶の準備をしながら留太郎は心がもやもやとしていた。
「なんだかモーリー様、いつもと違うような気がする。感情以外のものを口にするなんて。今まで僕がどれだけ勧めても首を横に振っていたのに」
ただの気まぐれならいい。だがもし……と嫌な考えが頭に浮かぶ。
「いや、そんなわけない。食欲だってある……」
留太郎は頭をぶんぶんと振り、不吉な考えを掻き消した。
部屋に戻ってくると、モーリーはすでに感情の宝石を食べていた。目の前の食事を待ちきれないほど食欲があるのなら、まだまだ元気だろう。留太郎は密かに胸をなで下ろした。
「申しわけありません、遅くなってしまって」
「なあに、ワタシが待ちきれなかっただけさ。お座り」
どこから出したのか一客の椅子がそこにあった。留太郎は腰を下ろした。ふわりと紅茶の落ち着く香りが鼻孔をくすぐる。
先に口を開いたのはモーリーだった。
「まったく、お前さんと会ったのは想定外だったよ」
かりっと音を立ててかじったのは、アメジストに似た『嫉妬』の感情。感情は魔力に変わりモーリーの体に染みわたる。
「僕にとってモーリー様と出会えたことは、とても嬉しい誤算でした。祖父に収集癖があってよかったです」
留太郎の祖父は所謂富豪と呼ばれる存在だった。どれだけ金使いが荒くとも豊かな生活を送ることができた。新しいものや珍しいものが好きだった祖父のコレクションの中には、洋書も含まれていた。一般的なもの、専門的なもの、高値で取引されるようなもの。留太郎は異国の言葉で書かれた内容が気になり、次第に洋書の世界へ引き込まれこの祖父の屋敷に入り浸るようになった。
「祖父はなんでも見境なく読んでいましたが、まさか悪魔の図鑑だとか召喚方法なんて本も集めているとは思いませんでしたけど」
実験するような気持ちだった。西洋の悪魔という存在が本当にいるのか、日本の妖怪とどう違うのかなど気になることはたくさんあったためでもある。
「ふん、こっちは食事中だったのにたまったもんじゃなかったよ」
今度は『悲しみ』を口に放り込む。光を通さない緑色のそれは滴型をしていた。
モーリーは当時犬のふりをして、人間の感情を食べ歩く日々をしていた。多くの人間は動物には心を開くことを、モーリーは実によく理解していた。
しかし悪魔にも寿命はある。魔力も少なくなっていた。全盛期の三分の一にも満たない力ではできないことのほうが多かった。そのためモーリーにとって食事、感情を食べて魔力を補充することは最重要事項だった。
「召喚できるとは思っていませんでした。そしてその悪魔が……これほど美しいとも」
「夢魔や淫魔たちならともかく、ワタシのような年寄りにそんなこと言うやつはお前さん以外にいないねえ。見初められるなんてもっとびっくりだよ」
「あのときのことは今でも昨日のことのように覚えています」
魔法陣の中に佇む犬のような体、気だるそうも理性的な眼差し、漂う人間にはない気品の良さ。人ならざる者を召喚できた達成感とは別に、胸が高まり世界が鮮やかになった瞬間だった。
「あの瞬間、僕の心はモーリー様に射抜かれたんですよ」
「まったく気障なことを言うね」
「そうでもしないとモーリー様は相手にしてくださいませんからね。ありったけの愛を囁いて、喜びそうなことして、たまに見られる笑顔に心をときめかせて。モーリー様の中をすべて埋め尽くしたいんですよ」
「だからあんなに簡単に人間をやめたのかい」
永遠に熱のこもった目で「永遠に側にいたい」と言ってきた留太郎に、モーリーは脅すつもりで「だったら人間をやめな」と言い放った。モーリーはこれで引くと思ったのだが、予想を裏切って留太郎はこう言ったのだ。
『そんなことでいいんですか?わかりました!あなたの側にいられるなら、人間なんて枷はすぐに外せますっ』
モーリーがあれほどにも純粋無垢な笑顔を見たのは最初で最後だった。
「若気の至りですぐに後悔すると思ったんだかねえ」
カクテルグラスの感情の宝石は残り少なくなってきた。ひとつは空になっている。いつもは何日にも分けて味わうが、ずいぶんとペースが速い。まるで急いでいるようにも見える。
ひとつのことに違和感を覚えると、すべてがおかしいと気がついた。モーリーと面と向き合って会話をすることも、感情以外のものを口にすること。お茶をしながらの会話。それではまるで……。
(普段僕が感情を宝石化するときと同じじゃないか)
感情を宝石化するためには条件がある。それは感情の持ち主が自らの意志で語ることだ。催眠術や尋問で語らせても意味がない。そのためモーリーと留太郎には、言葉を交わせば交わすほど話を聞いてほしくなるように術がかけられている。
「あの、モーリー様。こうやってお話ができるのは大変嬉しいのですが……なぜこんなことを?」
モーリーは「やっぱり気づいちまったかい」と種明かしを始めた。
「結論から言おう。ワタシはもう死ぬ」
驚いて言葉が出ない留太郎の目の前で右手を横に滑らせる。するとカクテルグラスが現れた。その中には拳半分くらいの大きさの宝石が現れた。ピンクと白、ほんの少しの赤が混じっている。
「お前さん、まるで化け物だね。
感情はひとつじゃない。多くの人間はいろんな感情の宝石がグラスの中に現れる。ところがお前さんは大きなこの一粒……恋慕しかない」
「それだけモーリー様のことを想っていますから」
モーリーは「そうかい」ととくに照れることもなく説明を続けた。
「ワタシはあんたの感情を食べたい。もちろんこれまで恋慕の宝石も食べたことがある。だがね、ワタシに対して恋をしたやつの感情は食べたことがなくてねえ」
モーリーは恋慕の宝石を手にとって口元まで運ぶ。
「でしたら言ってくださればよかったのに。モーリー様のためならなんだって差し出しますよ」
留太郎がそう言うとモーリーは心が痛むように笑った。そしてひと口宝石をかじった。まるで熟した果実のような甘みは、これまで食べたどの感情よりも美味で魔力を満たした。
「これでいけそうだね」
モーリーは真正面から留太郎を見つめた。これほどまっすぐ見てもらったのは初めてかもしれない。
「ワタシが使える術の中には、持ち主の感情を忘れさせるものがある。さっきも言ったがワタシはもう死ぬ。だから……お前さんの中からワタシを消そう。そうすればそれなりにまっとうな道が歩めるだろう。人間にも戻れる。さあ、次のひと口を食べればお前さんは人間をやめてからのことをすべて忘れるんだよ」
まさかの言葉に留太郎は思考がとまった。そして言葉の意味を理解して恐怖した。モーリーの側にいられないこと、愛おしい存在のことを忘れて生きることを。
「お、おやめくださいモーリー様!あなたが死ぬのなら僕も共に……!」
すべての言葉を言い終わらない内に、モーリーは恋慕の宝石をもう一口食べた。留太郎はとっさに腕を伸ばす。しかし強烈な眠気に襲われるように、体の力が抜けて意識を失った。留太郎の腕はモーリーには届かなかった。
薄れていく意識の中でモーリーがなにか言ったような気がした。
モーリーは倒れている留太郎を見ながら、自分の体が少しずつ砂のように崩していくのを感じていた。
「ああ……こんなに甘くて満たされる感情は初めてだ。……もっと別の形で味わえばよかったかねえ」
モーリーは苦笑を浮かべて留太郎に腕を伸ばす。
「まったく悪魔がたった百年ほどしか側にいなかった人間に恋をするなんて、とんでもない笑い話だねえ」
そう呟いた直後、モーリーの体は完全に消えた。砂の中には食べきれずに残った恋慕の宝石が下半分埋まっていた。
その後の留太郎は少々変わっていながらも人間としての生き方をした。
記憶を失った留太郎は自身の名前と十七歳という年齢以外なにも覚えていなかった。目が覚めて最初に見たのは宝石だった。ピックと白それに少しの赤がマーブル状になった、親指の先ほどの大きさだ。留太郎はこの宝石が記憶の手がかりになると思い、ペンダントにして肌身離さず持つことを決めた。
そんな彼に手を差しのべたのは一人の男性だった。彼は屋敷の近くで古本屋を営んでいる。時折留太郎を見かけていたことと、生涯独身で身寄りがなかったこともありともに古本屋を営むようになる。
留太郎は、あっという間に古本屋に馴染んだ。店主の男性だけでなく常連客にも人気があったのは、感情の宝石を回収するために身に付けた人当たりの良さと整った容姿のためだった。
いつしか留太郎の元には変わった宝石がやってくるようになった。老い先短い常連客からは『持っているとねがいが叶うエメラルド』を、見ず知らずの女性に押しつけられたのは『望んだ人を呪うことができるダイヤモンド』だった。
古本屋の店主が出会って一年ほどで急死すると、未成年だった留太郎は彼と縁のあった宝石専門の質屋に引き取られた。彼の奇妙な宝石を引き寄せる体質は一層強くなった。宝石の目利きもかなりのものだった彼は、次第に店を任されることも増えてきた。
十九歳になったある日、宝石質屋の店主がとあるものを持ってきたことで止まっていた歯車が動きだす。
「留太郎くん、少し休憩にしなさい」
「ありがとうございます」
宝石質屋の店主は紙袋を渡した。開けてみるとそこには色とりどりな石が入っていた。宝石というより道端に落ちているようなものだ。
「先日孫からもらってね、実はこれチョコレートなんだよ」
店主は年齢の割に頑丈な歯で石チョコレートをかじった。「ほら」と断面を見せる。
「へえ、おもしろいで……」
突然目眩がした。
(こんな光景を……僕は何度も見たことがあるような気がする)
一体いつ、どこで。頭がちりっとする中、宝石質屋の店主の食べる様子が女性とだぶって見える。灰色の髪、年老いた皮膚の皺、知的な眼差し。
(僕は知っている、さっきの女性を……。だれだ?なんだかとっても……懐かしくて胸が苦しくなるような……)
瞼の裏に浮かんだのは宝石を摘む指、食す口元と噛み音、そして黒い犬の耳。女性の声が聞こえた気がした。
『ああ、今日の感情も美味しそうだね』
どくんっと胸が脈打つ。頭に流れてくるのは年老いた女性とのやりとり、感情を食べたあとのとろりとした満足そうな表情、椅子に座っている姿。留太郎はこの女性を、愛おしい存在を知っている。
「モーリー様……!」
すべてを思い出した瞬間、身に着けていた宝石……恋慕の宝石はパンッと派手な音を立てて割れた。
「うわっ!だ、大丈夫ですか留太郎くんっ。……留太郎くん?」
返事がない留太郎を宝石質屋の店主は不思議そうに見ていた。留太郎はそれに気がつかないまま、恋慕のかけらをひとつ拾い上げた。
「ああ……また会えましたね、モーリー様。……愛していました」
静かに恋慕のかけらを唇にあてた。まるで口づけをするように。するとそのかけらさえも砕けてしまった。
「僕は自ら踏ん切りをつけるまで待っていてくださったんですね。もう大丈夫です、モーリー様。でももう少しだけ……あなたほどの女性にめぐり合うまでは、ときどき思い出させてください」
どこからか『まったくしょうがないねえ』と困ったように笑ったモーリーの声が聞こえたような気がした。
終わり