黒コート、満月、緑の手
...悪とは何だろう?
善とは何だろう?
きっと答は出てこない。
でも、答を求めるのが人間だ。
あの瞬間は、蒸し暑い夏の夕方だった。
私は父と二人で、夕食を食べていた。父はいつになく、じめじめした表情だったが、私は気にせず鮭を箸でほぐしていた。しかし、否応無しにその表情の理由を知ることとなる。
父は、何の前触れもない天災のようにポツリと呟いた。
「父さんな、借金しているんだ。」
私はほぐす手を止めた。最初は冗談だと思った。しかし、父の表情をまじまじと見ている内に、その言葉にうそ偽りがないことを思い知った。
「...いくら、なの?」
私は思っていたより弱々しい声で問う。父は絶望の沼にはまったネズミのように力のこもってない首の振り方をした。
「わからない。わからないほど借金しているんだ。
それで、父さん、いっぱい謝ったんだ。だけど向こうは許してくれなかった。」
そんな、と思わず呟いてしまう。私もいつのまにか絶望の沼にはまっていた。それは、もがけばもがくほど、ズブズブとはまっていくような気がした。
「お父さん、私にできることはないの?」
私がそう言うと、父は一瞬顔を上げた。しかし、すぐに俯き、苦々しげにこう言った。
「.........。向こうのお偉いさんはな、お前をこっちに奉公に出せ、と言ってきたんだ。」
「奉公?」
私は少し考えた。奉公。その言葉にはずいぶんと古臭いものを感じる。しかし、何をやらされるのか考えた時、私は奈落の底に突き落とされた気分になった。
「すまない、本当にすまない。」
父はそう言って地面に頭をこすりつけた。
私はどうしたっけ。
泣いた?
怒った?
笑った?
覚えていない。けど、父の涙ぐんだ声だけは、脳裏に焼き付いている。
「...!」
目が覚めると、私は車の中だった。
ああ、そうだ。私結局、奉公に出ることになったんだ。一体何をやらされるのやら。私は微笑んだ。きっと他人には、その笑みは絶望の笑みに見えたことだろう。
車の臭いが否応無しに入り込む。ミラーから運転手の顔を見ようと思ったが、上手く見れない。見れるのは、きっちりとしたオールバックだけだった。
それからもう一眠りしたかもしれない。真偽は定かではないけど、気づいたら家の前に車は停まった。
運転手が出たので、私も車から出ると、家の外貌がよく見えるようになった。
普通。至って普通の家だ。小さいわけでも、大きいわけでもなく、この住宅街にヒタリとフィットしている。
運転手は私が車から出てきたことを確認すると、こう告げた。
「あなたには、これからこの家に住み込み、家事全般をしてもらいます。金は毎月振込みますし、何をしても構いません。
ですが、1つだけ。この家の一番奥の部屋には入らないように。」
それだけ言うと、運転手は車に乗って去って行った。
ポツン。
妙に寂しい静寂が訪れる。それを引き連れて、私は家の中に入っていった。
正直、安心した。何をやらされるのか、どうしようもなく不安だったが、一安心といったところか。しかし、油断はできない。どんでん返しがあるかもしれない。
家に入ると、中はモデルハウスのように整っていた。悪く言えば、生活感がない。
こんなキレイな家じゃあ、掃除も今はしなくていいや。そう思ってとりあえず近くにあった椅子に腰掛ける。と、その時だった。
ぷるるるるるるるる。
突然、ケータイの着信音が鳴った。はっと見ると、非通知の電話だった。
誰だろう?こんな所に来た分余計に心臓がうるさい。
そっと通話を押す。
「....もしもし。」
なるべく平静を装って言ったつもりだが、内心声が震えてないか不安だった。応えたのは、男だった。
「もしもし。染田瑞穂だね?」
その声は、まるで童話の中の王子様のような声だった。蜂蜜みたいに心を蕩かせそうな、そんな声。だけど、綺麗な薔薇には棘がある。私は警戒心をもって言った。
「なんで私の電話番号知ってるんですか。」
男はころころと心地の良い笑い声を響かせる。油断すると心を許してしまいそうだ。
「そんな怖がらないで。僕はただ君と話したいだけ。ゲームをしてもいいよ?」
話がしたい?警戒心を解こうとしたのだろうが、私はますます警戒していく。
私が黙りこくると、男はため息を吐いて「仕方のない子」と言って黙った。しばらく居心地の悪い静寂が降りた。私は我慢できなくなり、ついに口を開いた。
「あなた、誰?なぜ私の名前を知っているの?」
男はしばらく間を置いて答えた。
「僕の名前はピカレスク。ピカレスク=ロマン。」
ぷつっ、つーつー。
ピカレスク、男はそう名乗った。外国人?それにしては訛りとかが無かった。全く完璧な日本語。私はとりあえず、名前をケータイで検索した。案外有名人かも知れないし、外国人の名前であるかも知れない。
....少し調べてみたが、どうやらピカレスクというのは、「悪漢小説」という意味らしい。つまり、ピカレスク=ロマンとは偽名なのだ。
偽名を使って、知るはずもない女子高生の電話番号を知っている。これは悪人だ。悪人なら、誰かが裁かなければ....。
そうだ。
私が裁こう。
私は思いついたやにわに、家から飛び出した。まずは聞き込みから始めよう。ピカレスクを裁いてやる。
聞き込みをしている最中、ふと思った。
なぜ、私はこんなことを思いついたのだろう。
しかし、答は既に知っていた。
私は、昔から正義感が人一倍強かった。小学生の頃、クラスに色盲の子がいた。クラスの皆はその子をいじめたが、私は普通に接していた。もちろん、悪の心が芽生えた皆は、私をターゲットにしはじめた。私は皆を悪人と判断し、それぞれの靴に毛虫やムカデを入れた。それを知った先生は、「やり過ぎ」と言ったが、私はそうは思わない。悪人は裁かれるべきだから。
聞き込みをしていると、二通りの人に出会った。
1つに、全く知っている素振りがない人。
2つに、知っていそうだが、あえて知らないフリをしている人。
2つ目の人は、誰もが恐怖に強張った顔をしたのでわかった。どうやらピカレスクは、ある程度悪い意味で有名な人らしい。どれだけ頼んでも、皆そそくさと去っていく。
茜色に遍く世を照らす夕焼けが綺麗だ。やる気も大分失せて、最後にこの人で終わろうと、スーツ姿の男の人に声をかけた。
「すいません、ちょっとお尋ねしたいことが。」
男の人が振り返った時、私は内心ぎょっとした。その人は、目が虚ろで、そう、まるで、危ない薬でもやっているようだった。
しかし、ここで「何でもありませんでした」と言うのは失礼だと思い、至って普通の調子で尋ねた。
「あの、『ピカレスク』という名前、ご存知ないですか?」
男の人はあからさまな態度を見せた。私は、あまり気乗りしなかったが、ハッタリをかけた。
「知っているんですね?私、あなたを探していたんです。」
男の人は可哀相に、さらに狼狽した。内心謝りつつ、ハッタリを続けた。
「ピカレスクさんが、あなたがどのくらいご自身のことを知っているのか気に掛けていました。名前を覚えておられなかったので、苦労しました。」
男の人は、冷や汗を垂らしながら、どもりつつ言った。
「お、俺、は、ピカレスクさんに、会ったことがあ、あります。」
「詳しいお話、伺っても?」
手でぐいと汗を拭うと、男の人は話しはじめる。
「お、俺は、薬やって、て。でも、それが払えなくなって、そ、それで、死のうとしたんだ。だけど、その、ピカレスクさん、が、やってきて。自分のために、働く、な、なら、許すって。で、でも、俺、半狂乱に、なってて....。ピカレスクさん、包丁で刺そう、と、して。そしたら、そしたら、...。」
男の人はその後の言葉を渋った。仕方なく背を押してやる。
「そしたら?」
「そしたら、ピカレスクさん、が、包丁を、て、手で受け止めて、しかも、包丁を、に、に、握り潰したんだ!粉々に!その時、俺、見たんだ、ピカレスクさんの、う、腕。」
......ピカレスクは、本当に人なのか?包丁を握り潰すなんて。
とにかく、これ以上聞き込むのは可哀相だろう。私はもういいと言った。
「ありがとうございました。私の名前は、染田瑞穂です。」
「染田?染田。ラタトスクに、しゃ、借金してる男の、娘、か?」
私は頭にクエスチョンマークを浮かべて、首を傾げた。男の人が放った次の言葉は、私の行動に大きな影響を及ぼした。
「あれ、だよ。ピカレスクさんの、は、はは、犯罪、組織...。」
私は会釈をして、その場を足早に去った。
父。ラタトスクに借金をしている。
ラタトスク。ピカレスクの犯罪組織。
ピカレスク。私に話かけた謎の男。
私。謎の家で、家事をすることになった。
私の中で、ある仮説が浮かんだ。
そして家に帰り、一番奥の部屋に向かった。その部屋は、「まるでその中だけで生活できそう」なくらい大きかった。
部屋にこん、こん、こんとノックし、話しかける。
「....ピカレスク?」
何も返事がない。
ドアノブを回してみると、開いた。大きなフード付きの黒コート、黒手袋、長いブーツ。まるで、誰にも姿を見られてはいけないかのようだ。
中には一人の大柄な男が立っていた。
「ピカレスク、なの?」
男はくつくつと笑うと、「そうだよ」と言った。
そしてフードを取る。
そこには.........。
結局、私はそれ以降ピカレスクと同棲生活を送っている。もちろん、私はこの生活に不満をもっている。当然だ。ピカレスクは大悪党だった。ラタトスクという犯罪組織を使って、薬物や人身販売に手を出しているらしい。
それで、今私は何をしていくかと言うと........、ピカレスクの膝の上にいる。
まるで黒猫のように膝に乗り、私は何をしているんだろう。自分から進んで乗っているわけではないが、自分が嫌になる。ピカレスクに逆らえない無力な自分が。
目の前を見ると、あの私をここまで乗せてきた運転手(名前を渡辺というらしい)がいた。ピッシリと立って、売上がどうのこうの言っている。私はあまり耳を貸したくなかった。
気を紛らわそうとして部屋を見回しても、何も慰めにはならない。最後にピカレスクに視線が行き着いた。フードの下から、かすかに「緑」の肌が見えている。
なんとはなしに、ピカレスクの情報についてまとめてみる。
ピカレスクは地球人ではない。俗に言う宇宙人、という奴だ。
筋肉隆々な体は緑色。目は赤い複眼。額には、前に突き出した短い角があり、口は上下左右に剥き出しの牙がついている。
ピカレスクは、宇宙人の中でも「アカイリシュリ星人」というらしい。さらに分類すると、「ムドナス人」という人種だ。
ちなみに、普段はフードコートですっぽりと体を隠しているが、私とピカレスクしかいない時は、コートを脱いでアカイリシュリ星人の民族衣装を着ている。と言っても、アフリカとか南米の民族衣装みたいなイメージなのだが、腰に木の板と布の合体したものを着けているだけだ。
「駄目です!」
その一声で私ははっとした。どうやらまとめている内に、話の内容が変わっていたらしい。
「どうして駄目なの?いいじゃん、殺しても。」
ピカレスクはまるで子どものようにしゃべる。渡辺はため息を吐くと、説明しはじめた。
「いいです?あのカラーギャングどもは、貴重な拡散源です。失えば、我々の収入にも影響が出るでしょう。」
ピカレスクはしばらく黙って、肘をつき直してこう呟いた。
「あいつらは信用できない。」
「もし裏切るようであれば、あればですよ?殺してくださって構いません。ですが、何のこともないのに、殺そうとするのは止めてください。では私はこれで。」
渡辺は、最後に釘を刺すかのように振り返り、部屋から出た。
しばらく間があってから、「もういいよ」と、ピカレスクから降りろと命令された。私は命令通りに降りる。するとピカレスクは、今日の昼食の命令もしてきた。
「今日はハンバーグが食べたい。」
私はささやかな反抗のつもりで、ぶっきらぼうに言った。
「肉は今、切らしてる。」
「じゃあ買ってきて。」
そう即答され、私は大袈裟に怒りを露にした態度で部屋を出る。しかし一旦出れば、既に思考は買い出しのことでいっぱいになった。部屋はクーラーついてたけど、外は暑いだろうから、水分と帽子も持っていこう。
ああ、今からならタイムセールスに間に合うかな?
しかし、その裏側の心では自分への嫌悪感でいっぱいになっていた。
外に出ると、空は曇天だった。まるで私の心、と思いつつ、財布を確認して出かけた。
帰り道、つい買いすぎてしまい重たくなった買い物袋を腕に提げて、歩いていた。けど、疲れたので休憩しようとして、見知った公園に立ち寄った。
この公園は、普段からよく人の集まる公園だ。子どももいれば、ご老人もいる。
だけど、今日は違った。
何?あいつら。
私が公園にやってくると、明らかに今時の不良がたむろしていた。しかし、屈するのは嫌なので、あえて公園にずかずかと入っていく。
「荷物が重そうだな、持ってやろうか?染田瑞穂。」
目の前に立ちはだかった男がそう言った。青いパーカーに仮面をつけている。奇妙な格好だ。いや、それよりも、なぜ私の名前を?私は心臓がバクバク鳴るのを必死に押さえ付けて、なんとはない風を装って言った。
「人違いかと。」
「いいや、合っている。隠しても無駄だ。
俺と一緒に来てもらおうか、染田瑞穂。」
私はじりじりと後退していった。公園から何とか抜け出して、逃げなければ。しかし、すぐにその望みは断たれる。
突然、後ろから手が伸びてきて、私の口を押さえた。手と口の間には湿った布が挟まれていた。
薬物?そう思った瞬間、私の意識は闇に落ちていった......。
目覚めると、四角い空間にいた。濃い白亜色のコンクリートで囲まれている。ドアは一つ、私の数メートル前にあった。
キィ。
金属のこすれるような音と共に、ドアが開く。現れたのは、さっきの青い仮面の男と、対になるような黒い仮面の男だった。青い仮面の男は、背中にライフルをしょっている。
「目覚めたか。」
黒い仮面の男がそう言うと、青い方はため息混じりに黒い方を侮蔑した。
「それぐらい、誰だってわかる。馬鹿か?アレッダス。」
「馬鹿って言う方が馬鹿だと言うらしいぞ、マルム。」
黒い方がアレッダス、青い方がマルムというらしい。否、今はそんなことどうだっていい。二人はほぼ零距離で睨み合っているようだ。
逃げられる?
そう思って、ドアの方へ一気に駆け寄ったが、腕をマルムに掴まれる。
「....っ!離して!」
「大人しくしていろ。さもなければ足をへし折る。」
ぐいっと腕を放られ、体ごと壁にぶつかってしまう。二人は睨み合いを止めて、私をじっと見つめている。
「あ、あなたたち、何者?なんで私を....。」
マルムはそれを聞くと、写真を一枚取り出した。そこには、フードをすっぽり被った...ピカレスクがいた。
「チゴチモウ゛ォルウ゛ォロム、いや、ピカレスク=ロマンと呼んだ方がいいか?
とにかく、こいつを殺すためにお前を連れて来たんだ。」
ピカレスクを殺す?こいつらは良い奴らなの?一瞬私の中にそういった考えが浮かんだが、その考えはすぐさま否定された。
「俺達アカイリシュリ星ゲゲザ人は、地球を侵略して、俺達のものにしようと思っている。しかし、ピカレスクはなぜかそれに反対していてな。多くの同胞が殺された。だからピカレスクを、今、この日に、殺すのだ。」
私の中で怒りが底から沸々と沸き上がる。私はその感情を抑えずに怒鳴った。
「侵略?
そんなことして、何になるというの!?」
「俺達が得するに決まっている。俺にもわかることが、なぜお前にわからない?」
今まで黙っていたアレッダスがしゃべった。それは、まるで普通のことが理解できていない子どもに、素直に疑問をぶつけるようだった。
追い打ちをかけるように、マルムが補足をする。
「俺達アカイリシュリ星人は、今飢餓の危機に瀕している。だから他の星を侵略し、食料を確保するのだ。お前達地球人も、必要に迫られればそうするはずだ。」
違う!
そう言いたかった。
だけど、言えなかった。
私達も、必要に迫られれば、本当にするかもしれない。いや、そうするしかない。誰も飢え死にしたくなどない。地球人が、私が、悪に、なるの....?
はらり。涙がこぼれ落ちる。それが地面に触れた瞬間のことだった。
刹那。耳をつんざく爆音と共に、ドアが壊された。
私は顔をばっと上げる。入ってきたのは、黒いフード付きコートの男。フードを取ると、そこには。
「ピカレスク!」
安堵感と、緊張が入り混じった、気持ちの悪いものが心を満たす。
マルムとアレッダスは、ピカレスクを見るや否や、仮面を取り、私達に素顔をさらす。昆虫のような口をもった、青と黒の肌をもった、まさしく宇宙人だった。
「マルム、アレッダス。君達、何のつもり?」
マルムはフンと鼻を鳴らすと、私に密着し、額にライフルを突きつけた。アレッダスは静かに臨戦体勢をとる。
「アレッダスと戦え。もしお前が勝ったら、染田瑞穂は解放しよう。」
「...随分と偉ぶったね。僕と君では格が違うはずだけど。」
アレッダスは、部屋の外に出て、ピカレスクを見た。ピカレスクはそれにのって、アレッダスにパンチを食らわせようとした。
マルムは私を引きずるようにして、部屋の外へ出させた。アレッダスとマルムは反対の方向に進んだ。
私には、アレッダスがピカレスクを「誘導」しているように見えた。
マルムと私は、制御室のような部屋に来た。機械のジーという音が空間を支配する。
「...本当にピカレスクに勝つつもりなの?
さっきも見たと思うけど、ピカレスクは強い。それとも、あなたたちもそれほど強いの?」
マルムは、ふむ。と言って、説明しはじめた。
「確かに、ムドナス人は強い。俺達ゲゲザ人よりも遥かに、な。しかし、弱点がないわけではない。奴らも曲がりなりに生き物だ。エネルギーの供給源が断たれれば、死ぬ。
だから、この建物を改造して、わざわざここにおびき寄せたんだ。」
私はしばらく考えた。まさか。そう思ってカメラの画面からピカレスクを探そうとする。
「ここは、前は犬猫の屠殺する場所だったようだ。お前達はドリームボックスと呼んでいるのだったか?俺達も地球人と同じく、酸素をエネルギーとしている。だから、それを断てばいいのだ。」
見つけた。
ピカレスクは、とある部屋で膝をついていた。アレッダスの姿は見当たらない。きっと、ここがドリームボックスなのだ。
「俺の勝ちだな。やはりこの時代、俺のように美しく賢いもののみが生き残るのだ。」
からからと笑う。その笑い声に比例して、私の苛立ちは募っていった。ついにそれが最高潮に達すると、私はマルムに向かってぶつけた。
「あんたのどこが美しいのよ...。」
マルムは「え。」と呟いた。私はマルムを睨みつけてさらに続けた。
「あんたのどこが美しいのよ!虫みたいな口とか、青い肌、気持ち悪いんだけど!」
私は、報復が来ると思って、目をつむった。しかし、一向に来ない。恐る恐る目を開けると、マルムは固まっていた。
....どうやら、キモいと言われると、駄目らしい。
私はその隙に、制御する機械に向かった。それらしいボタンを片っ端から押す。すると、画面のピカレスクが前を向いて、よろけながらも外へ出るのが見えた。
ほっ。
私は安堵したけど、次の瞬間に、なんでピカレスクを助けたのか考え出した。
別に、悪人なんだから、死んでもいいのに。
「貴様っ....!」
後ろから、マルムの怒りがこもった声と、ライフルを構える気配がした。
私は、無我夢中で逃げ出した。
走りつづけるが、マルムももちろん走り追う。次第に距離が縮んでいくのを感じて、焦り、足がもつれる。
「あっ!」
ついには転んでしまった。起き上がろうとしても、恐怖で上手く動けない。
マルムがライフルを構え、私に狙いを定める。
もう、駄目だ。
そう思った瞬間、マルムはこちらに倒れた。見ると、アレッダスが背中に乗っている。しかし、アレッダス自身は全く動く気配はない。当然のように思えた。アレッダスはあちこちの関節があらぬ方向に曲がり、腕が一本無かった。
アレッダスをマルムに投げつけた張本人は、数メートル先にいた。ピカレスクだ。今ではすっかり呼吸が整っている。
マルムはうっとしそうにアレッダスを脇に投げ、ピカレスクに向かった。
「そういえば、君達に言ってなかったことがあったよ。....ありがとう。」
はあ?とマルムは、焦りを隠しきれていない声で言った。
「渡辺に言われてたんだ。理由がない限り、君達を殺しちゃ駄目ってね。
だから、ありがとうって言ったのさ。自分からわざわざ理由を作って僕に殺させてくれるなんて、殊勝だね。」
マルムは何事か声を荒げ、ライフルを一発、ピカレスクに撃った。
銃声が響いく。ピカレスクは気づいたら、拳を前に突き出していた。その拳を開けると、そこからはライフルの弾が一個、カランと落ちた。
マルムは激しく動揺した。その隙を見逃さず、ピカレスクは前に走りマルムにパンチを一発食らわした。そして痛みにのたうつ暇も与えず、首を掴んだ。ごきっ、っと嫌な音がした後、マルムは動かなくなった。
「瑞穂、助けてくれてありがとう。」
ピカレスクは私にそう言った。
しかし、私は動かなかった。ピカレスクを見上げるこの視界。
どこかで、見たこと、あるよう、な。
思い出した。
ピカレスクが私を助けたのは、何も今回が初めてではなかったのだ。
昔、私は孤児院にも入っていない孤児だった。飢え死にしそうになっていた時、黒いコートの男がやってきた。男は満月を背にしていたので、私にはそれが後光のように見えた。男が食べ物を差し出すと、私はそれを貪り食った。そして、緑の手に連れていかれた。その先は、普通の一軒家。
そう、これが父の家。
私は、ピカレスクを介して父に育ててもらうことになったのだ。
ピカレスクは、私の命の恩人だったのだ。
「どうしたの、瑞穂。」
ピカレスクに尋ねられて、私は逆に問う。
「ピカレスク。この世の善と悪ってどんな仕組みなのかな?」
ピカレスクは悪党。大悪党だ。しかし、同時に私の命の恩人でもある。命の恩人は善人のはずだ。しかし、ピカレスクは悪人なのだ。
しばらく、考えた後、こう言った。
「...地下、という概念がなければ地上という概念もない。悪がなければ善はないんだ。つまり、悪ってのは正義を生み出す邪神なんじゃないのかな。」
ほら、立って。ピカレスクはそう言って手を差し伸べる。私はその手をとった。
外に出ると、夜明け時だった。
山の向こうが光りはじめている。私が深呼吸をすると、夏の暑さが少し残る空気が肺に入り込む。
ピカレスクを見ると、先にさっさと行ってしまいそうだった。
「待ってよ、ピカレスク。」
私はピカレスクの後を追って、小走りをした。