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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第2章  皐月「訓練も最盛期ですが」
9/81

第9話「レディーを前に下ネタはいけません」

「痛い?」

「痛くなんか……」

 上田次郎が覗きこむと、中村風子は恥ずかしそうに顔を背けた。

「無理するなって」

「無理なんかしてない」

 次郎は手を伸ばし、布越しに彼女の肌に触れた。

「っつ……」

 ビクッと体が反応する。

「痛い? 大丈夫なら続けるけど……」

 次郎は風子の目を見て心配そうな表情をしている。そして、慣れた手つきで彼女の履いているものを脱がし、その露になっている部分を観察した。

「そ、そんなにじろじろ見ないでよ、変態」

「ば……違う、そういうつもりじゃ」

 彼女は慌てる次郎をジト目で見上た。

 しばらくして目を背ける。そして、諦めた様なため息をついた。

 次郎は見ることができないが、明らかに彼女の表情はさっきよりも柔らかくなっていた。

「本当に、痛くない?」

「……ちょっと、痛い、かも」

 彼女は顔を背けたまま、ぼそぼそっと呟くように答える。

 顔を上気させて、遠慮がちにその白い足を伸ばした。

「痛くしないでね」

「……保証はできないけど……なるべく痛くしないから」

「なるべく?」

「けっこう痛いかもしれない……」

「え、ちょっと」

「うまくできれば、ちゃんと破れるから」

「で、でも、上田君もするの初めてなんでしょ」

「……教えてもらった通りやるから」

 緊張しているのだろう彼は生唾を飲み込んだ。

「いくよ」

「んっ……」

 彼女の顔が苦痛に歪んだ。

「ご、ごめん」

「大丈夫……一回突き通したら、楽になるんでしょ……思いっきりやっていいよ、続けて」

 痛みのせいだろうか、少し潤んだ目で彼女は見上げた。

「うん」

「……っつ」

「入った……痛くない?」

「少しひりひりするけど……大丈夫」

 次郎の緊張した表情が緩む。

 肉刺(マメ)の処置。

 糸を通した針で、中の体液を抜き、皮がすれて破けないように、絆創膏で固定する。

 ズル剥けてしまったら、歩くどころの痛みではない。一時の痛みは我慢してでもこういう処置をしたほうがいい。

 まだ、歩かなければならないのだから。

 肉刺との戦い。

 そんな行軍訓練はまだ続いていた。





 ■□■□■ 



「ま、僕はあの時のことを思い出したくないけど……」

「そ、そんなにやばいんですか?」

「二週間、たった二週間、すぐ終わるよ……終わってみれば楽勝だと思うけどさ、喉もと過ぎればアレだから」

 どっちなんだ、と次郎は言いたくなるのを堪える。

「ほんと勘弁してくださいよ……なんか襲われるとか、そんな噂、聞いたんですけど?」

 目に浮かぶのは、この駐屯地の別区画を怒号を上げながら走る筋肉集団。

 現役の兵隊というだけで、悪いイメージは広がってしまう。

 知らないことは恐怖だった。

「大丈夫、大丈夫、去年はそんな人いなかったよ」

「……そうですか」

「あくまで、去年の話だけど」

「そういう含みはやめてください」

 ははっと笑う潤。

「ほんとうにいないって、大丈夫」

 この学校の一年生は『洗礼』を受ける。

 部隊実習。

 四月からの一ヶ月は基礎体力をつけるような体育がメインの訓練だった。

 だが五月の前段二週間は独立歩兵第九大隊の現役兵達に混ざって訓練を受けることになっていた。

 午前高校生の勉強、午後訓練が原則だったが、五月のこの期間

だけは終日訓練である。

 普段の訓練も教官――将校――や助教――下士官――は現役であるが、兵士達といっしょに訓練するのは訳が違う。

 歳も体力も違う兵隊。

 それだけで緊張感が増す。

 この実習の目的は部隊の厳しさ現状を肌で感じさせ、学生達が鍛錬を自主自律的に行うよう示唆を与えるものだった。

 だが実際は部隊のおっちゃんお兄ちゃんたちのいいおもちゃにされて『ああ、きつかった』という思い出作りにしかならない。

 だから、歓迎行事と言われるイベント満載の日々が待っているのだ。

 思い出のために。

 潤ではないが、喉元すぎれば、あの厳しい訓練もいい思い出になる。もちろん、まだ喉元にもいっていない次郎にとっては恐怖でしかなかった。

 潤は楽しそうに続ける。

「やっぱり、一番きついのはハイポートかな、訓練終わるたびに走って、終わりが見えないんだよなー」

 ハイポートとは銃を持ってひたすら走る訓練。

「格闘訓練とかもやばい、けっこう手加減してくれないんだよ、あの兄貴達」

「軽歩の時間が癒しかも、あんまり体使わないし」

 軽歩兵補助服――主要部分は七.六二㎜の小銃弾に耐えうる装甲があり、人間よりも一回り大きい二足歩行の兵器――は重心移動による独特の操作要領のため、人によっては乗りこなすのに相当苦労してしまったり、たいして訓練しなくても感覚で乗れてしまうなど、人を選ぶ装備であった。

 潤は、軽歩の操縦はセンスがあったため、苦労せずに乗りこなせたらしいが。

「次郎ちゃん、もう諦めて早く寝たほうがいいよ、うん」

「ほんとジュンさん、他人事(ヒトゴト)なんですから……」

「そんなことないよ、次郎ちゃん……だって、こんなに心配しているんだから、ちゃんと、耐えれるかな、大丈夫かなって、夜も眠れないよ」

 笑顔の潤。

「なんか、気が重たくなってきました……」

「諦めが肝心」

「ちくせう……」

 潤はびびる次郎を見て、心から楽しんでいた。

 彼にとって次郎は、いじり甲斐があり、面倒を見たくなるような可愛い後輩であった。



 部隊実習初日の夕方、次郎達はマッチョな兵達に囲まれながら走っていた。

 汗臭い。

 周りの空気が汗臭い。

 彼が斜め前を見ると顎を上げ、口を大きく開けて肩で息をしている松岡大吉が走っていた。

 だいぶ体力的に参っているようだ。

 他の同期たちも荒い息で必死に集団から遅れまいとついていっている。

 男だらけ。

 女子は別。

 彼女たちは部隊の女性兵士達とトレーニングをしている。

 なぜ分けたのか、学生は疑問に思っていたが、ここに来てその理由がわかった。 

 下品なのだ。

 とにかく飛び交う言葉が下品なのだ。

 掛け声も励ましも罵声も下品な言葉。

 そういう世界で走っている。

 しかも彼らはただ走っているわけではない。

 馬鹿みたいな大声て叫びながらリズミカルに走っていた。

 よく、学校の部活動でみんなで走る時にやっている掛け声の軍隊バージョン。

 ――○○ー、ファイト、ファイト、ファイト、オールファイトー!

 みたいな。

 だがそんな綺麗なものじゃない。

 軍隊バージョンの掛け声。

 その内容は親などにはけっして聞かせられないような代物であった。

 ――内容はともかくとして、不思議とハイになる掛け声だよな。

 次郎は走りながらそれを実感していた。

 戦闘服のズボンにTシャツ姿。

 列を組んで走る一団。

 走るリズムに合わせて一人が叫ぶ。

 そうするとそれにならって他の者が雄たけびを上げるのだ。

「イチ! イチ! イチ! ニッ! 我ら!」

「「我ら!」」

「精強!」

「「精強!」」

「精鋭!」

「「精鋭!」」

独歩(ドクホ)!」

「「独歩」!」

「今日もっ!」

「「今日もっ!」」

「楽しい!」

「「楽しい!」」

「駆け足!」

「「駆け足!」」

「だったら!」

「「だったら!」」

「もっとー!」

「「もっとー!」」

「大きな!」

「「大きな!」」

「声を!」

「「声を!」」

「出して!」

「「出して!」」

「うらあ!」

「「うらあ!」」

「うらあ!!」

「「うらああ!!!」

「せいや!!」

「「せいや!!!」」

「まーだまだ」

「「まーだまだ」」

「声が」

「「声が」」

「小さい」

「「大きい!」」

「小せえ! てめえらのナニと変わらねえ! 小せえってんだよ! 小指だ小指!」

 さっきまで掛け声をかけていた者とは違う別の助教が叫ぶ。

「「大きい!」」

 走っている方も負けじと大声を出すが、罵声役の助教はもっとでかい声でどやしつける。

「聞こえねえ、なんだ声出さず、違うもん出してるんじゃねえか! このクソチェリーどもっ!!」

「「大きい!!」」

 学生もいっしょに走る若手の兵士も必死だった。

 オッケーが出るまで、永遠と走り続けなければならない。

「だったら」

 掛け声役の助教がリズムに合わせてはじめた。

「「だったら」」

「もっとー」

「「もっとー」」

「気合!」

「「気合!!」」

「入れてっ!!」

「「入れて!!」」

「このボケども、入れるのは気合だ! てめえのナニを入れるんじゃねえぞ!」

 よくわからないが罵倒役の助教の下ネタがナチュラルである。

「だああ!」

「「だあああああああああ!!!!」」

「うらあ!!」

「「うらああああああああ!!!!!!」」

 ハイになる。

 ハイというより、学生も現役の若手兵士も狂ったように叫んでいた。

 狂ったから走るのか、走ったから狂ったのか。

 ますます大声上げる。

 ますますハイになる。そして、言ってる内容がどんどん下ネタになっていく。

 女性には聞かせられるような内容ではない。

 しかも、こんな午前九時ごろに叫ぶ内容ではない。

 だが、自然なのだ。

 次郎はなんとも不思議な感覚に襲われた。

 この今にもゲロ吐きそうな顔をした若い男達が大声で叫びながら走る姿は。

 もちろんほとんどの学生はそんなことを考える余裕もなく、ただひたすら走っている。

 やっぱり自然だ。

 少なくとも、次郎や余裕のある学生はそう思っているが、端から見る方はそうは思わない。

 そして残念なことに、そんな汚い野郎共の声が、遠く離れたところにいる女子たちにも聞こえていた。

 ランニングを終え、休憩に入ってたむろしている女子たちに。

「最悪」

 呆れた顔で風子はつぶやいた。

「下品、だよね」

 そう言ってうなずくのは三島緑だ。

 風子は緑の言葉に頷くとともに、引きつった笑顔を汚い声が聞こえる方に向けていた。

「男に生まれなくてよかった、ほんと神様に感謝」

 そう呟く。

「男って、いつまでたっても男の子だからね」

 そう言って風子に笑いかけるのは、教官の真田鈴だった。

「軍隊って、ああいう男ばっかりでうんざりするけど、慣れれば『はい、よしよしいい子いい子』って感じになるから」

 鈴はランニング用の黒いハーフタイツに青色のショートパンツと袖なしのTシャツ姿、ちょうど休憩時間だったため、額の汗をタオルで拭っている。

 一方風子など女子学生達もいつものランニングシャツとランニングパンツである。

 そんな、いつもと変わらない体育服装も手伝っているのかもしれない。

 女子の方は部隊実習と今までの訓練の雰囲気が、今までとあまり変わらなかった。

 独立歩兵大隊、つまり歩兵職種の女性は少ない。

 女性がいるのは整備、通信、衛生ぐらいだから、結局教官陣もいつものメンバーである。

 ちなみに、女性将校の真田鈴や日之出晶、そして伊原真(イハラマコト)は歩兵と同様の第一線戦闘職種である騎兵――装甲車兵――だ。

 騎兵将校だけは女性に解放されていた。

 いつもと違うのは、二十歳前後の若い女性兵士が多めに混ざっているぐらいだろう。

 だから、女子にとっては少し気楽な感じがする訓練環境ではあった。

「サーシャ……ロシアもあんな感じ?」

 風子は隣にいる金髪娘にげっそりした顔を向ける。

「うーん、同じかな」

 サーシャは別に気を悪くするような表情もせず、さらりと答えた。

「軍隊、やだ」

 さらにげっそりした顔の風子。

「慣れればどおってことないよ」

 首を少し傾けるサーシャ。

 彼女はどうして風子がそんなにげっそりした顔をするのか理解できない。

 ロシア帝国は幼年学校制度があり、サーシャのような貴族はもっと幼い時分から軍隊に強制的に入れられる。

 貴族は国の為に身を捧げることを小さいころから叩き込まれる。

 風子はサーシャがそんなこと言っていたことを思い出した。

 しばらくすると、汚い大声と言葉がだんだん彼女たちの方へと近づいてきていた。

 なんだか、お祭りのお神輿が近づいてくるような感覚だと風子は思った。

「童貞ども! そんなゆるゆるの気合じゃー! 週末の休みもエロ本の姉ちゃんとしかシコシコしかできねえぞ! カスどもがぁ!!」

「「うらああああああああああああ!!」」

「気合いれろ童貞どもがああ!!」

「「せいやあああああああああああ!!」」

「てめえら! そんなハナクソみたいな気合じゃ罰として夜中の便所は閉鎖すっぞ!!!」

「「いやあああああああああああああ!!!」」

 学生と二十歳過ぎの若い兵士が半分ずつ、悲壮な叫びを上げている。

 たぶん、内容はよくわかっていない。

 ただひたすら走っていた。

 そしてただひたすら叫ぶ。

 ハイになっていきながら。

「てめえら、ふにゃちんぶらさげてんじゃねえ!!!」

「「おおおおおおおおおおおっす!!!」」

「気合入れておっ立てろっ!!!」

 その時だ、鋭い警笛がなったのは。

 ピッピッピッピッピッ。

 短音の連発。

 風子が振り向くと、颯爽と鈴と同じランニングウェアを着た背の高い女性が警笛を咥えたまま立っていた。

 もう一度激しい警笛。

 今度は長音一回。

 男達が、走りながらその方向を見る。

 次郎は、あこがれのお姉さん――晶――を見て、顔が揺るんだ。

 もう、そのキツイ眼差しがたまらないのだ。

 この少年……重傷である。

 ついでに、大吉もなのだが。

 それに、ランニング用のウェアーは体の線がはっきり見えた。

 そういう魅力もたっぷりな晶だった。

 むっつり次郎。

 むっつりレベルが上がった。

 晶は右足でバンッと音を立てながら踏み込み啖呵を切った。

「やかましい! レディー達を目の前にして、汚い言葉を吐くな!」

 大きな声を出すとハスキーな彼女の声は良く通った。

 男達が一気にしゅんとなる。

 次郎を含め数人の余裕ある若い子たちは「揺れた揺れた」と喜んでいるのを除き。

 ふにゅん。

 屈強な男達が一瞬で小さくなった気がする。

 レディって……ツッコミ満載の目つきで鈴が晶を見ている。もちろんバレないように。

 バレると怒られる。

 しかも怖い。

「わかればよろしい」

 腕を組んで仁王立ちのまま晶はうなずいた。

 男達の一団は静かに、そして逃げるようにして建物の角を曲がり消えていった。

「ガキ……あいつ」

 晶は罵声を浴びせていた助教――綾部軍曹――の後姿を睨む、そして吐き捨てるように言った。

「あーあ、怖い怖い」

 と鈴が言い。

「かっこいい」

 と風子と緑が目をキラキラさせながら見ていた。

「だいたいあの馬鹿、人事の事務仕事放って、なんで現場に居るのよ」

 ぶつぶつと晶の口からぼやきが漏れる。

「ほら、晶に誤字脱字で怒られたでしょ、あれのストレス発散じゃない?」

 鈴がニヤニヤしながら晶の脇をつつく。

「怒ってない、叱っただけ」

「同じだって、怒っても叱っても晶は怖いもん」

 キッと鈴を睨む。

 睨まれた方は、逃げるようにその場から離れる。

 腕を組んだまま、ため息をついた。

 そうやって彼女は感情をコントロールするのだ。

「ほら、次、ダッシュ十本、準備しなさい」

 晶は怒りを飲み込み、いつものクールな声で女子達に指示をテキパキと出した。

 綾部のことになると、ヒステリックになってしまう自分を少し情けなく思いながら。



 屋内訓練場。

 もわっとした湿度の高い空間。

 防具とかグローブとか、畳とか、そういう道場独特の臭い。

 いろんなところに潜んだ雑菌達がせっせとガスを出しているのだ。

 そして、こいつらは柔道やレスリングをやる人の耳に感染して餃子を作る。

 そんなところに、なぜか次郎はグローブと防具をつけて、道場の畳の上にいた。

 しかも、四角い枠の中。

 さっきまで、罵声を飛ばしていた綾部軍曹はいない。

 変わりに、道着を来た男――小谷伍長――が黙って立っていた。

「さっそく、格闘訓練を行う」

 小谷は二十三歳と若い。

 しかも一七〇前後の中肉中背、他の教官、助教に比べれば威厳がないように見える。

 だが、見た目とは裏腹に、師団格闘競技会で優勝するぐらいの腕の持ち主であった。

「初日だからウォーミングアップな」

 肩をぐるぐる回しながら、小谷は説明を続ける。

「ルールは簡単、お前らは、ここで俺らを蹴るか殴るかすればいいだけ、いわゆる組み手だ」

 ニコニコしながら学生を見る。

「とりあえず、元気な奴からかかってこい」

 学生はしーんとする。

 格闘技経験者は少ない。

 経験者であっても、いきなり現役の兵隊と殴りあいをしたいとは思わない。

「大丈夫、こっちの現役はインパクトの瞬間は抜くように言っている。ま、でもついつい入ったことも考えて防具は付けるし、ちゃんとお前らも筋肉をぎゅっとしめるように……ま、それだけしとけば怪我はない」

 ――ちょっと痛いかもしれないけど。

 と、ニコニコ顔のまま小谷はぼそぼそっと呟いた。

「やりたい者」

 しーん。

 空しく、手を上げたのは指導をしている小谷だけである。

 すると、彼は学生の列に近づいて行き、一人一人顔をじっと見る。

「いけそうだな、名前は」

「松岡大吉です」

 小谷が大吉の目を覗き込み、そしてその腕を握った。

「うーん、やめとくか」

 何をもって判断したのかよくわからないため大吉は間抜けな顔をした。

 そして、すぐに安堵の顔に変わる。

 ――せえええーーーふ。

 ぐっと拳を握り小さくガッツポーズ。

 次郎の前で足を止めた小谷が、笑顔を顔に貼り付けたまま言った。

「どうだ? 名前は」

「上田次郎です、格闘技は……」

 次郎の返答が途中で止まる。

 小谷がゼロ距離から左足の上段回し蹴りを入れてきたのを咄嗟に受けたからだ。

「決定」

 後頭部を避け、左肩と右手のひらで流すようにして受けた次郎はそのままの体勢で、つい動いてしまったことを後悔する。

 今の蹴り方は、寸止めするような感じだった。

 わざわざ反応する必要はなかったのだ。

「はい!」

 次郎はげっそりした顔のまま、気を付けをして返事をした。

 こんなことをされてもちゃんと返事をする自分は性格的に優等生だと自褒めしてみるが、まったく気分が乗らない。

「歓迎ってのは体でスキンシップが一番だ、学生も現役も仲良くしないとな」

 その時だった、小谷が次郎の拳を持ち上げて、じっとそれを見てからニヤッとしたのは。

 小谷は次郎の拳を見て安心していた。

 そのタコを見て、とりあえず素人ではないと確信した。

「ドつき合いは初めてです、なんて言わせないからな」

 小谷は慣れた手つきで次郎にプロテクターを装着させ、そしてついでのように彼の胴を平手で打った。

 派手な音が響く。

 小谷は「お約束だ」と言って、もう一度ポンポンと胴を叩いた。

 次郎は一瞬血の気が引いた。

 叩いた瞬間が見えなかったし、そして防具越しとは言え、当たった瞬間は息が詰まるような感覚があったからだ。

「いいか、本気出すなよ、あくまで歓迎会だからな」

 小谷は、次郎と対峙する腕と太ももが異様に太い男――黒石上等兵(クロ)――の肩に腕を回しながら、そう言い聞かせた。

「お前、馬鹿だからすぐムキになるが、いいか絶対にムキになるんじゃねえぞ……あと怪我なんかさせるなよ」

「オス」

 大きな体に不釣合いなぐらい小さな声で答える。

 だが、その声質はなんとも重厚感のあるものだった。

「クロ、楽しくやってやれ」

「オス」

 次郎の父親は道場で、古流の武術、空手、居合い等様々な武術を教えているような人だ。

 幼いころから、その道場で一通りのことを教わった。

 父親の事が嫌いになるぐらい、厳しく稽古させられた。

 だから、腕には自信がある。

 だが、精神はまだ若い。

 次郎は人を馬鹿にしたような大人たちの態度に苛立っていた。

 小谷が咳払いをして、二人を注目させる。

「えーっと、ルールは、若いのは殴る、蹴る、クロは受ける、クロは隙があれば返しを入れてもいい、自分からは絶対に攻めるな、いいな、禁止事項は、キンタマ蹴るな、投げ技、関節技の禁止、オッケー?」

「はい」

「オス」

 次郎は考えていた。

 この場を「みんな幸せ」にしてつつがなく終わらせる方法を。

 次郎が殴る、蹴る、クロと言われる現役の人が受ける。そして隙を作り、殴られ、ヘタレこむ。

 そういうシナリオを作ること、それが一番だと思った。

 ――さすがにイライラしたけど、僕がムキになっても仕方がない、こういうところで僕を見せる必要はない。

 次郎は、プロテクター越しに構えるクロを見て、そう思った。

「はじめっ!」

 小谷の声。

 クロは、顔面をガードする構え。一方、次郎は開手の中段。

「ほら、若いの、手を出せ」

 小谷の声に反応して、次郎はまず、ローキックを入れて、それがクロの太ももを捕らえる。

 次はオーソドックスに左右のワンツー、そして、ハイに回し蹴りを入れようとしたが、ワンツーを入れた時点でハイを躊躇してしまった。

 嫌な予感。

 すごい圧迫を感じたからだ。

 次郎は、そのまま止まる。

「若いの、言うのを忘れていたが、こいつはうちの大隊代表のうちの一人なんだ、けっこういける口だからな」

 次郎は油断していたことを後悔した。

 小谷が言った通り、次郎が仕掛けない限り相手は攻撃してこないという約束を本気で信じてしまっていたから。

 クロは仕掛けてきた。

 ずんっ。

 彼はフェイントの突きを入れて、次郎がそれを払うことに気を取られている隙に、足をかけて来たのだ。

 次郎は何とかステップを踏んで、その足を避けたが、少しだけバランスを崩し、ほんの一瞬だが無防備になった。

 もちろん、クロはそこを逃さない。

 ぐいっと低い重心で肩から体をもぐりこませ、次郎の腰に手を回そうとする。

 投げるつもりだった。

 さっき、小谷が言い渡したルールはぶっ飛んでいた。

 彼にとっても、ありえなかったのだ。

 あの次郎の何気ないローキック。クロはまったく反応できなかったから。

 だからキレた。

 もともと、キレやすい男であるが、あっさりとそこでスイッチが入ってしまった。

「待てっ!」

 さすがに、クロの行動に気づいたのだろう、小谷の鋭い制止の声が響く。

 だが、小谷が想像していた光景とは違った。

 クロが投げていた。

 次郎はクロが彼の腰に伸ばしていた右手を左手で握ると同時に手首関節を決めた。

 一方右手の平はクロの顎を下から押し上げるように置かれている。

 そして、そのまま顎をこねくりまわすようにして時計回りに体を回転させ地面に倒した。

 次郎の右足が浮く。

 容赦なく踏みつけた。

 クロの顔面めがけて。

 だが、それは実行されずに、地面を踏みつけていた。

 小谷が慌てて次郎に飛び掛り羽交い絞めにする。

 お陰で次郎の蹴り足はクロの顔面から辛うじてはずれていた。

 次郎の踏み込みで道場が揺れるほど強烈なものだった。

「バカヤロウ! 俺の言ったことを無視しやがって」 

 羽交い絞めを解いて、小谷が苦言を言う。

 次郎がすみませんと頭を下げた時、隙ができていた。

 クロが立ち上がると同時に、飛びかってきた。

 地面すれすれを飛んでくる鳥の鳴き声のような、そんな鋭い気合が一閃。

 前蹴りからの右、左、そして、下半身へのタックル。

 捕まった。

 次郎は投げられまいとクロの頭を抑えようとするが力負けしてしまった。

 浮遊感。

 やばい。

 次郎はそう思ったが、もう遅い。

 ぐいっと上に持ち上げられてしまった。

「そこまで!」

 小谷が鋭い声で止めに入るが、熱くなりすぎたクロの耳には一切入っていない。

 彼はただ、本能で抱えている人間を地面に叩きつけることしか考えていなかった。

 学生達は息を飲む。

 次郎は諦めて全身を脱力させた。

 とりあえず、怪我をしないことが優先だ。

 彼は不思議と冷静に、そう考えていた。

 そして、ついムキになってしまう自分の性格に嫌気がさしていた。

 ――またやってしまった。

 そう反省するが、後の祭りでしかなかった。


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