第79話「サーシャ=ゲイデンの思い出」
「露天風呂もあるって……うわ、すっげ! 雪見風呂!」
はしゃぐ次郎。
露天風呂入口と書かれた看板。
彼はその方向へ直進していった。
サーシャのさよなら旅行。
奥飛騨温泉一泊。
サーシャと親しい男女数人。
もちろん、子供達だけでは問題があるので、教官の日之出晶や小山先生、それからゲストで橘桃子が同伴している。
そんな旅行を企画したのは小山だった。
「京、いこう」
次郎は振り返りつつ、後ろからヨタヨタと付いてくる同級生を急かすように言った。
「あのな、まずは屋内で十分温まってだな」
「だって、雪の中の露天風呂とか、すげえし」
すげえ。
それしか言わない次郎。
九州は長崎生まれ長崎育ちの次郎。
しょうがない。
雪が降り積もった町。
そんな雪景色の露天風呂などそうお目にかかれるものではない。
外は氷点下。
しかも雲一つない満点の星空。
絶景を見ながら風呂に入る喜び。
とりあrず露天風呂に向かわない理由はなかった。
「後から」
「じゃあ、俺ひとりでいく」
「風邪ひくなよ」
「京はいつから俺の母ちゃんになったんだよ」
「次郎や大吉がお子様すぎるんだ」
そう言って困った顔をする京。
だが、大吉はいない。
まだ入院中だった。
男子は次郎と京のふたり。
少し寂しいが、昼間は思ったよりもみんなでわいわいしながら、この温泉街の風景を楽しんでいた。
少しでも楽しもうと無理してはしゃいでいるのかもしれない。
「さっぶうう!」
次郎は扉を開けて叫んだ。
容赦なく冷たい空気が全身を包み込む。
それでも覚悟を決めて、冷たくごつごつした石畳の道を歩いた。
凍ってはいないが、それに近い温度であることは間違いない。
少しだけつま先立ちになりながら、露天風呂を目指す次郎。
取っ手の無い岩風呂に近づく。
足を滑らすことに気を付けながら、次郎は恐る恐る入っていった。
思ったよりも湯は浅い。
次郎は振り向く。
本当に京はついてこなかったようだ。
ほんのち寂しいが、しょうがないので絶景ポイントを探す。
絶景が広がっているはずだが、気温とお湯の温度差が激しすぎるため、白い湯気が邪魔してなかなか遠くが見えない。
しかも、安全のためか、薄暗いとはいえ間接照明がいろんなところに置かれていた。
その照明が邪魔をして、空を見上げても星空までは見えないのだ。
せっかくの星空なのにもったいない。
そう思ったので、次郎は奥へと進んだ。
奥へ行けば行くほど、暗さは増し、そしてその目の前にある山全体が見えるとふんでいた。
それに、この露天風呂は右手の壁の奥にも通路らしきものがある。
きっとその方向へ行けば、絶景ポイントがあるはずだ。
彼はそう確信してどんどん進む。
突き当りからL字になった通路。
人ひとりが通れそうな幅。
次郎はその奥へと進む。
少ない照明。
うす暗くなった湯船。
その時、彼の目の前に絶景が広がった。
上空で輝く三日月。
その光に負けずに輝いている冬の星座達。
その星々の光が反射する、真っ白な山並み。
「……すっげー」
語彙力というのは、こういう時には失うものなのだろうか。
素肌に寒風をもろに受けている状態だが、あまり気にならなかった。
それくらい、彼はこの絶景に感動していた。
ちゃぷん。
近くで水が跳ねる音が聞こえたが彼は気にしない。
油断。
次郎の吐く息は白い。
寒さも気にならない。それぐらい、この開放感と景色に彼は浸っていた。
ちゃぷん。
「|すごく素敵な景色《プレクラスニイ、ペイザージ》」
ロシア語。
聞きなれた女子の声。
すぐ近く。
彼はハッと身構える。
「……っ」
次郎はわかっている。
たぶん、死ぬことを。
それでも。
それでも、だ。
頭では わかっていても できません
季語なし。
次郎。
そんな訳で、ついついムッツリスケベ根性でその方向を見てしまう。
ちゃぷん。
「あ」
予想通りの絶景。
月明りに照らされる幻想的な裸体。
健康的な凹凸がくっきり目に入ってしまう。
「あ」
金髪おかっぱの少女が、一歩下がった。
引きつる顔。
「……違う」
まあ、違うわけではないのだが。
慌てて後ろを向いた。
そして、背中にくらうであろう衝撃を覚悟する。
いつもなら、ドロップキック。
だが、いつまでたってもそれはこなかった。
次郎は恐る恐る様子を見る。
「……」
湯船に膝をついたまま、上半身を抱え込むようにして次郎を見上げる目。
月明りで反射する、瞳に溜まった涙。
やってしまったと反省するがもう遅い。
「サーシャー?」
彼女を探しているような、そんな呼びかけ。
これもまた聞きなれた大人のハスキーボイス。
「じろー」
そんな京の声と重なる。
嫌な予感。
逃げようと動くがもう遅い。
これは特大やばい。
だが目の前の危機というか幸運というか、そういうものに気付かない京。
「サーシャ……どうし……あ」
サーシャに近づいた女性はびっくりした顔をする。
「ぐはあ」
一方は京は普段クールな素振りからは想像できないような叫び声を。
ボタボタ噴き出た鼻からの鮮血。
慌てて抑えようとするが、それはも収まらない。
彼はお姉さんが大好物。
そんな彼が晶の姿を一瞬だが見てしまったのだ。
だから反応した。
鼻血ブーである。
実際、エロで興奮したから鼻血を出すというのは、架空の世界でリアルではないはずだが。
噴き出していた。
それも長くは続かない。
一秒もたたない間に濡れタオルが顔面を直撃したからだ。
彼はそのまま膝から崩れ落ちる。
哀れである。
「……このウジ虫ども……」
どもには次郎も入ったようだ。
ドボン。
踏み込む足。
「乙女の純情を踏みにじる奴は死刑じゃあ!」
乙女(二十九)が啖呵を切る。
次郎と京が完全に威圧された。
彼らは全身をびくびくさせながら、慌てて回れ右をして走り去る。
ちなみに京は奥の方で足を滑らせこけていた。
風呂で走ることは危険である。
そんな騒ぎの中、サーシャは身を小さくして体操座りをしたまま。
彼女にしては珍しい反応だと思われるかもしれない。
鼻の下までお湯につかって赤面していた。
黙ったまま。
そして、たまに口から気泡をブクブク出しながら。
「小山先生、なんで混浴なんですか」
「ははは」
「いや、そこで笑う意味が」
「温泉旅行だ、どっきりしないといけないだろう」
「見られたらどうするんですか」
すでに見られた後だった。
「私はいつでも、今でもいけるが」
ふんふんといいながら、大胸筋と前腕二頭筋を膨らませる最凶シビリアン教師小山。
見せたい人種である。
「すみません、こんなことをいったら失礼になるともいますが、いえ、だからこそ言わせていただきますこの変態野郎」
「はーはっははは」
外は雪だというのに、大きなダルマストーブの熱で暖かい屋内。
彼女たちは浴衣姿のままそれを囲んで夜を過ごしていた。
テーブルの上には山の幸たっぷりのおつまみと、この付近の地酒と思われるものがのっている。
ジト目で小山を見たままの晶。
「また、何か企んでますね」
小山は日本酒のビンを傾けて、晶のぐい飲みに琥珀色の液体を注いだ。
「ゲイデンの思い出作り、そして、佐古の弔いと……はい、桃子さん」
二人のやりとりを呆れた笑顔で見ていた桃子は、杯を持った右手を伸ばした。
彼は桃子のそれに酒をそそぐと、自分の目の前にあるガラスのコップにもそれを注いだ。
「珍しい、お酒飲めなかったんじゃない?」
「筋肉に悪いから遠慮しているだけだ、飲めないわけじゃない」
「あら、今日はいいんだ」
「弔いだからな」
ここに来た意味はいろいろあった。
桃子と小山。
そして、晶を連れてきた理由も。
「弔いって」
「恋せよ乙女企画だっ!」
ドン。
小山はむだに大胸筋を動かす。
そして、コップの中身を一気に飲み干した。
「弔いどころか、佐古君怒りそう」
彼は『部内恋愛禁止』を叫んでいたことを彼女も知っている。
「それが弔いってもんだ」
「わざわざあの子達を巻き込んで」
コクリと頷く小山。
「この町にはそういうものがそろっている」
桃子が呆れた顔でため息をついた。
「ここも戦場だった」
昼間廻った温泉町は、二十年前の戦争で長野方面から侵攻してきた極東共和国軍と、それを阻もうとした帝国陸軍が、この狭い国道を巡る激しい戦闘が行われた地域である。
あの時、昭和の面影が残っていた町は灰塵と化した。
「この町、私が幼い時に両親と旅行で来たことがあるって」
彼女は先任の中川曹長にそのことを聞いていた。
父親が死ぬ間際にそんな話を彼らにしたという。
彼女はそのことを事前に聞いていた。
「何か思い出した?」
桃子が優しい目で晶を見る。
「いいえ、まったく思い出せなくて……でも、あの頃と同じ街並みにしてるんですよね、ここって」
この町は元の姿に戻っていた。
多くの住人は避難して無事だったため、復興の際、古い写真を元に同じような街づくりをしたのだ。
何もなくなった町を、元の姿に戻そうとして。
「不思議です」
晶はそう言った。
「偽物なのに、どうして」
そんな彼女の問いに答えるかのように、桃子は口を開いた。
「思い出」
そう言ってにっこりする桃子。
「そう」
小山が椅子に腰かけふたりの話に入ってきた。
「思い出というのは、良くも悪くも人に影響を与える」
「うん、それ」
小山の言葉にうなずく桃子。
「思い出というのは、頑張って作らないと簡単に消える……人間は忘れる動物だからな」
「だから、形にする……する必要がある」
晶がそう言って少し表情を曇らせた。
「私は覚えていません」
幼い自分がここに両親と来たという事実。
でも、どうやっても思い出せない。
「お父さんとの思い出を作ったらいい」
「今から?」
「ああ、今ここでお父さんのことを考えればいい」
ハッとする晶。
「……なんか、不思議な気分ですね」
「そのために連れてきた」
小山はそう言って目を細める。
「まあ、あとは子供達だ、大人は邪魔しなければいい……いい思い出のために」
そう言って彼はまた日本酒を注いだ。
自分のだけではなく、もうひとつグラスを用意して。
「なあ、兄ちゃん」
ロープでぐるぐる巻きにされたまま床に転がる金髪の男性がひとり。
口のガムテープのせいで声が出せず唸るだけなのだが。
「サーシャを付け回す怪しい影があると思ったら」
ビリビリ。
小山はガムテープをむしり取り、そしてロープを解いた。
「そういうことだ、大人は邪魔しちゃいかん」
「……警察に突き出した方がいいんじゃないですか?」
晶は蔑むような眼差しを金髪青年に向けている。
露天風呂で捕まえたのだからしょうがない。
あの騒ぎがあった後で、まったり湯船に浸ってた後のことだ。
「飲め」
小山がコップを渡す。
「……」
「妹が心配かもしれないが、見守るのも大人のたしなみってやつだ」
小山がそう言うとグイッとコップの中身を飲み干す。
そして、ミハイルに対して目で催促した。
彼はグラスに手を伸ばし、そして一気に飲み干した。
「……まずい……ウオッカのような清らかさがない」
じっとコップを睨みつけるミハイル。
「まあ、そう言いなさんなって」
小山はニンマリ笑ってコップにビンの中身を継ぎ足していった。
「そろそろ妹離れをさせてやるから」
キッと睨んだミハイル。
小山の挑戦に受けるような、そんな挑戦的な表情でまたグイッとそれを飲み干していた。
「……昭和、ね」
旅館のゲームコーナーにひとり佇む次郎。
さっきまで、男子女子混ざってトランプで遊んでいた。
もういい時間なので眠ろうと、解散したばかり。
風子も来ればよかったのに、と次郎はふと思う。
彼女は何か曖昧な理由を言って、参加を断っていた。
せっかくの旅行だ。
気が合う女子と話でもしたいと思うのは男子の本能。
恋愛感情とかそういうのは別にして。
気楽に話しかけられるはずだったサーシャ。
だが、今はそういう状態ではなかった。
あの露天風呂での事故以来、どうもよそよそしい態度をされて居心地が悪い。
ちょっとぶらぶらしようと京を誘ったが、やんわりと断られた。
何かに遠慮しているような素振りだった。
静かなゲームコーナー。
お金を入れて遊ばないと、音もならない。
ただ色とりどりの光が薄暗い部屋を照らしている。
チクタクチクタク。
壁掛けの振り子時計の針は十一時。
レトロ。
不思議な街だと思う。
新しいのに古い町。
ここにあるゲーム機なんかも古びた感じが漂っている。
きっと、いろんな場所にあるゲーム台をかき集めたのだろう。
所々、この旅館とは別の名前が書かれている台があった。
画面のゲームキャラはドット絵ばかり。
それでも、脱衣麻雀とかいうゲーム機は怪しい光を放って次郎を誘う。
男子たるもの興味はあるがチラ見するだけ。
詳細なCGに慣れた次郎からすると、どこがエッチなのかはわからない。
でも、なぜか気になるゲーム。
チクタク。
時計の振り子の音だけが聞こえる。
彼は財布から百円玉を取り出した。
そして、ゲーム機にお金を投入する。
『誰と勝負する?』
髪の毛のボリューム感が半端ない女の子がそう語りかけてきた。
静かだったゲーム部屋が急に騒がしくなったため、次郎は焦った。
ちなみに、麻雀の仕方はよくわかっていない。
なんとなく次郎はショートカットの女子を選んでクリックした。
軽快なゲーム音楽が鳴り響く室内。
画面いっぱいにドットの荒い女の子が映る。
「えっち」
一瞬画面の中からそう言われたんじゃないかと錯覚した。
だが、その声は別の方から聞こえたことに気付く。
彼は振り向いて、その方向を確かめる。
最悪のタイミングだな、と思いながら。
「すけべ」
部屋の入り口に立っている次郎と同じ種類の浴衣を着た金髪おかっぱ。
「べ、別にこんなのは慣れてるし」
変な強がり方をしてしまう。
「ヘンタイ」
「変態じゃないっ」
「ムッツリヘンタイ」
「ムッツリいらない」
「だいたいジロウはおかしい」
「何が」
「いつも、スケベだから」
「意味わかりませーん」
「勝負すればホック外すし」
「あれは仕返し、そこにエロはない」
「下着をいつも見るし」
「見ようとしたわけじゃない、たまたま透けて見えたり」
「いつもおっぱいにぶつかるし」
「いつもじゃない」
「人の裸見るし」
「あれは事故」
「……」
軽快なゲーム音楽が流れる中、ふたりは沈黙する。
「勝負」
そうサーシャは宣言した。
「あの時は逃げられたから、今日はけちょんけちょんに」
浴衣の袖を捲るサーシャ。
「あと、先に言っとくけど、ちゃんとこの下には履いてるから」
「下着?」
「バカ! ジャージ」
「……いや、いちいち言わなくても」
「期待してたから、がっかりした!」
「期待してません!」
と彼が言った瞬間、サーシャは前触れもなくこめかみに向けてハイキックを放っている。
白い足。
その付け根の方は彼女が宣言したように、ハーフパンツを履いていた。
次郎はその攻撃を左腕で受け止めて、直撃を避けたが、バランスを崩す。
「だいたい、ジロウは!」
サーシャは蹴った足を大きく戻すことなく、今度は体の前で回転させ、踵で首を刈るような動きを見せる。
次郎は辛うじて、体を引くようにしてそれを避けた。
そして、ますますバランスを崩す。
「もっと、日本の漫画みたいに、ドラマッチックで、素敵なイベントが」
ローキック、左右の連続突き。
次郎は手と足でなんとかそれを捌こうとするが、下がってばかりで防戦一方だった。
「ぜんぜん、ジロウは来ないし」
「行こうにもハードル高い」
「ハードルが高いほど燃え上がるっ」
「変な本読み過ぎ!」
「いいじゃない、時間がない」
「時間……」
「いいなぁ……ジロウはみんなと別れないでいいから」
右、左、左、そして前蹴りからの左、右フックからの足掛け。
「いいなぁ……自由があって」
次郎はうまく後頭部を守りながらそのまま後ろに倒れた。
「もっといっぱい恋したかった」
馬乗りになるサーシャ。
「何言ってるんだ、お前……いっぱい思い出作っただろう」
「え?」
「少なくとも、俺はサーシャとの思い出はできた」
「……」
「海軍基地での出店巡り」
大川一貫と愉快な仲間たち御一行様に絡まれ、トンボ玉を買ってもらって。
「学校祭じゃ、コスプレして」
狐耳の巫女服を緑に無理やり着せられた。
「夏には泳げるようになって」
風子がいっしょに特訓してくれたおかげで泳げるようになった。
「長崎とか、三島の家とかみんなで遊んで」
山の上からみた夜景、そしてお試しでキスをした。
「体育祭で暴れて」
男クラ騎馬軍団を蹴散らし。
「野営で人殺しカレー作って」
「なんだとこのやろうっ!」
マウントポジションのサーシャが次郎の首を絞める。
ものすごい勢いでタップする次郎。
「ふぅ、ふぅ……クリスマスではお前の馬鹿兄貴が暴走して」
そんなこともあった。
「輸送艦では俺にドロップキックしてパンツ見せて」
「パンツはいらない思い出」
また首を絞めようとしたので、彼は絞められる前からタップ。
「……思い出いっぱいだろ」
「……そうだけど」
「幸子は」
「……山中幸子?」
いつの間にか帰国が決まり、さようならだけ言って別れた留学生。
「幸子は最後にちゃんと言えた」
病室に彼女が跳び込んだ時。
大吉と幸子が微妙に近ずいていた雰囲気を思い出す。
あの後、すぐに幸子が帰ると言ったため、サーシャは彼女の後を追うようにして病院を出た。
他愛もない話をふたりでしたことを覚えている。
――うらやましいな。
幸子が寂しそうな顔をしてそう言った。
――みんなには時間があるし、サーシャは積極的だし。
そんなことはない、私も時間がないし、積極的になれてない。
彼女はそう返した。
幸子は首を横に振る。
――でも、わたしも一歩だけ前に進んだ、大吉くんに告白できたから、もう。
寂しそうな声だった。
――サーシャが羨ましくて、サーシャみたいにしようって……そしたら、少しだけできた。
涙目の幸子がそう言いながら彼女に抱きついていた。
――ありがとう。
そうは言って彼女は消えた。
幸子の力になれたかもしれないが、とんだ買い被りだと思う。
そして、今。
ふたりきりの夜。
自分には幸子ほどの勇気はない。
でも。
とサーシャは思う。
一歩だけなのだ。
一歩だけ。
今日が最後。
最後の機会。
「しようか」
優しい微笑を浮かべたサーシャは次郎を見下ろしながらそう言った。
次郎は一瞬なんのことかわかない。
訝し気な目で見上げた。
そして、なんとなく意味を理解し一瞬にして赤面する。
「ちょ、ご、ゴムとかないし、こ、ここじゃ」
ゴム。
ここじゃ。
今度はサーシャが考える。
何を言っているんだこいつはという表情。
そして、一瞬で顔が沸騰した。
「バカ……」
「え? 何?」
「バカ、アホ、間抜け、死ね」
「いや、え? そういうことじゃないの」
「エッチ、スケベ、変態」
「待って、じゃあなんなの」
「バーカ、バーカ」
「ちょっ、ま」
次郎は何か言おうとしたが、口を塞がれたまま黙ってしまった。
顔にかかった金色の髪がこそばゆい。
そして、唇に感じる暖かい余韻。
ほんの数秒だったのかもしれない。
心臓が高鳴った。
「おしまい」
そうサーシャは言った。
「おしまいじゃねえよ」
サーシャを見上げる次郎の顔は不貞腐れていた。
「一方的過ぎる」
「そうかな」
「なんで、俺の気持ちは聞かないんだ」
「だって、ジロウは私を向かないから」
「どうしてだよ」
「これでお別れだから」
「……なんだよ、それ」
「ロシアに帰ったら、もう、おしまい」
次郎はキッとサーシャを睨むようにして見上げた。
「なんで諦めてるんだよ」
「……ジロウにはわからない」
「俺がわかるわからないは関係ねえ」
「何もできなくなる」
屋敷の奥で着飾る毎日。
愛想笑いを振りまくだけ。
「でも、ありがとう、楽しかった」
次郎は頬に水滴が落ちるのを感じた。
もう、何も言わないほうがいい。
そう思った。
もう時間切れで音が鳴らなくなったゲーム機のお陰で、振り子時計の音だけが響く。
静かに涙を流し。
声を出さずに泣く女の子を見上げながら。
次郎はしばらくそのまま床に転がっていた。




