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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
最終章  弥生「それぞれ」
78/81

第78話「上田次郎の願い」

 ドアを開けた。

 いつものように漂ってくる珈琲豆の濃厚かつ甘い香り。

 鼻孔をくすぐる心地よい空気がたまらない。

 落ち着いた明かりの店内で静かに流れるジャズ。

 心地よい空間。

 それらが一気に次郎を包み込む。

 彼はこの瞬間が好きだった。

 別世界に来たような気分になれるから。

「いらっしゃいませ」

 そう言って彼を迎えた女性は、赤い縁の眼鏡をかけていた。

 店の雰囲気をそのまま人の形にしたような、そんな女性。

 一年近く通っている次郎達とは見知った顔だ。

 バイトの女性。

 そう覚えている。

「あの……桃子さんは」

 彼は反射的に聞いていた。

 あの事件以来なんとなく来れなかったお店。

 次郎は知っている。

 店長の橘桃子が佐古と旧知の間柄であったことを。

 小山と佐古、そして桃子。

 三人は同級生だということも聞いていた。

 そしていつもいるはずの彼女がこの店にいない。

 もちろんそれを確認するために来たわけではない。

 別の目的があったが、どうしても気になってしまう。

「え? 店長は奥にいるけど」

 赤い縁の眼鏡の女性は少し首を傾けて答えた。

 だが、次郎の真剣でかつ焦った顔に気付いた彼女は微笑んだ。

 店長の大切な友達が亡くなったことは知っていたから、なんとなく察したのかもしれない。

 そんな心配をよそに、店の奥からあっけらかんとした声が聞こえる。

「なーに? あら、いらっしゃい」

 桃子は腰から下だけのショートエプロンを結びながら、カウンター近くまで出てくる。

 いつもの笑顔。

 いつもの声。

 そんな様子を確認して次郎は安心した顔に戻った。

「ナンパ?」

 大人の余裕というのだろうか。

 桃子はそう言って笑う。

「違います、その、大丈夫かなって」

 次郎は明るい声を出そうとした。

 でも、心配そうな声になってしまった。

「高校生から口説かれちゃった、どうしよう」

 桃子は大げさに顔を抑え、フリフリっと腰を横に振る。

「店長、それ犯罪です」

 眼鏡の女性がそう言って笑った。

「あら、どうして?」

 信じられない。

 両手を広げたジェスチャーをする。

 次郎はそんな桃子の対応に戸惑いつつ、愛想笑いを浮かべた。

「そういう顔をされると、お姉さん傷つく」

 顔を横にふる次郎。

 桃子はそんな彼から目を離さず、更に意地悪な表情をつくって言葉を続けた。

「若い子をたぶらかすのも悪くないかも」

「……あ、いえ」

 少し身を引いた次郎。

 この子は年上の女性にめっぽう弱い。

 あの姉のせいである。

「今日はひとり?」

 彼女はそう言いながら店の奥にあるテーブル席に視線を送る。

 次郎もそれにつられて視線を向けた。

「それとも」

 桃子はなぜ次郎がここに来たのかわかっていた。

 テーブル席に座っている彼の同級生がいたから。

 中村風子。

 次郎は病室を飛び出した風子を追ってはみたものの、病院を出たところで見失っていた。

 もしかしたら、と思い、ここに目星をつけていた。

 でも、見つけたあとのことは考えていたなかった。

 ふと、踏みとどまるもう一歩。

 きっと風子はひとりになりたいから出て行ったと思っていた。そして、今、ひとりになっている。

 そんな彼女の気持ちを邪魔していいのか?

 会ってどうするんだ、と。

 だから戸惑っていた。

 とりあえず無事にいるというだけで、いいじゃないのか。

 そう思った。

 カウンター席の椅子に手を伸ばそうとする次郎。

 その時だった。

 手をつく前に桃子の上半身がカウンター越しにグイッと次郎に近づいてきたのは。

「行きなさい」

 命令口調だった。

 意地悪な表情。

 でも瞳は優しさが込められている。

 次郎は椅子に触れようとした手をビクンとひっこめた。

「小山くんから聞いてる、佐古くんのことであの子は落ち込んでいるって」

 次郎の心を覗くような視線の桃子。

「……桃子さんは」

 逆に次郎も覗いてしまった。

 彼女の瞳の奥に何かに触れる。

 だから、聞いてしまった。

 この人も苦しんでいると思ったから。

「佐古くんらしい、かな」

「え?」

 意外な返答に、次郎はそんな返事しかできない。

「死に方が……元カレ、元カノの関係だったから、なんとなくそういうのが」

「あ……」

 次郎は余計なことを言ったかもしれないと思って口をつぐむ。

「……ああ、って言っても二十年前だから」

 桃子は彼の表情を読み取っていた、だから優しい口調を続ける。

「君たち男と違って、女ってのはいつまでも引きずらないから、思い出に名前を付けて保存なんてしないわ、どんどん上書き保存だから」

 桃子はめずらしく余計なことを言う。

 佐古の死というものは、そういうものなのかもしれない。

「すみません」

 次郎は自分でもわからないまま謝った。

 嘘を言わせてしまった気がしたからだ。

 彼女の瞳の奥にある悲しさに気付いた。

 掘り出してしまった。

 そして、気を使わせてしまった。

「気にしないで、二回目だから、なんか実感がなくて」

「……二回目?」

「二十年前の戦争で、待ってた時……戦死したって聞いてたから」

 次郎はあの陸軍少年学校を取り上げたドキュメンタリー番組を思い出す。

 そして、佐古がそこに居たことも聞いている。

「ひょっこり帰って来たから、びっくりした」

「……」

「だから、また、来るかもしれないってね」

 桃子はそう言って扉に視線を移した。

 変わらない優しい目。

 次郎は安心した。

「そんなことよりも」

 桃子はバンッと次郎の両肩に手を置く。

 そして、クルッと回れ右をさせた。

「ほら」

 ドン。

 両手で彼を押した。

 一歩二歩。

 そこで次郎は止まる。

 振り返って頷いた。

 彼はそのまま奥のテーブル席に向かっていく。

 そんな彼を見送る女性二人。

「あのふたり、何かあったんですか?」

 バイトの女性が桃子に聞いた。

「知らない」

 無責任な声で答える桃子。

「……てっきり事情を知っていると」

「もじもじしてる男子を見ると、こう、ぶっ倒したくなるから」

 やっぱり意地悪な笑顔の桃子。

 ――ぜんぜん似てないのにね。

 桃子は心の中でつぶやいた。

 二十年前、手を繋ぐだけでもオロオロしていたあの人。

 奥手で、でもムッツリスケベで。

 キス以上のことをしたくてたまんない感じはわかった。

 でも、彼は結局手しか握ろうとしなかった。

 だからあの時は拒んだ。

 一度だけキスをする雰囲気になった時。

 意地悪したくなった。

 ――佐古くん怒るかな。

 部内恋愛は許さん。

 そんなことを言って、ついこの間、ここで三人わいわいやっていたことを思い出す。

「ぐぬぬぬぬ」

 両手を前に突き出し力を入れる。

 次郎の背中に向けて。

「何やってるんですか?」

 眼鏡の女性がそう言うと、彼女は「念力」と言って続けた。

 そして、力を抜いて笑う。 

「二十年前の恨みを込めちゃった」

 にっこり。

 桃子は笑っていた。

 少女のような表情だと、眼鏡の女性は思った。

 


 ガタン。

 次郎は何も言わず風子の目の前の椅子をひいた。

 風子は冷めた紅茶の入った白いコップの中身をジッと見つめたままだ。

 気付いているはずだが、反応はなかった。

 ギギ。

 木製の椅子に座る音。

 彼女はやっとその音に反応して視線を上げた。

「上田くん?」

 ぼうっとした瞳の風子。

「三島とかも探してた」

「そう」

 風子は紅茶のカップに視線を落とした。

「心配かけてごめん……」

 ぼそり、彼女は口を開く。

「なんか謝ってばかり」

「ごめん」

 彼女らしくない声。

 抑揚のない言葉。

 沈黙。

 そんな二人の間に伸びる細い指。

 赤と透明の切子ガラスのコップを置く音が静かに響いた。

 眼鏡の女性が軽く会釈して、その場を去る。

「あ……」

「あの」

 二人同時に口を開こうとする。

 まるでお見合いの一場面のような。

 お互いに遠慮して口を閉ざす。

「そっちから」

「上田くんから」

 譲り合い、遠慮する。

「……俺、話すことないから」

 彼女は伏せていた顔を上げる。

 目が赤く、そして唇が渇いていた。

 焦燥。

「……なら、どうして?」

 話すことがないのに来てる次郎。

 いったい何しに来たのか。

 風子は少しだけ考えた。

「値札」

 次郎は首元を指さしてそう言った。

「へ?」

 驚いた顔をする風子。

 首元に手を触れる。

 今は学校の制服を着ているふたり。

 外の高校と違って、少年学校の服装規則は厳しく、制服にマフラーなどは巻いてはいけない。

「もう一年か」

 彼はそう言って笑った。

 初めて会ったあの日。

 金沢行きの電車で、ひどい会話をした。

「……そっか」

 彼女はそう言って冷めた紅茶のカップをまわした。

「ひどいことしちゃった」

 ボソリ。

 電車の中で次郎に。

 さっきの病室で大吉に。

「うん」

 彼は頷く。

 そして、言葉を続けた。

「大吉は心配していた」

「償いができれば、いいなって」

「うん、だから、中村は大吉に付き合っていいと言った」

「でも、それが傷つけることになった」

「うん、大吉はわかっているから」

 風子も気付いていた。

 大吉があんな話をした理由を。

 自分の付き合おうと言った申し出を断った理由を。

自惚(ウヌボ)れ」

 風子が懺悔をするような声を出す。

 次郎は何も言わず切子ガラスのコップに触れた。

「相手の気持ちも考えないで」

 彼女はゆっくりと顔を上げ、しょぼしょぼした目を次郎に向ける。

「でも、わからない……どうすればいいかわからない」

 少し大きな声が出てしまった。

 いや、本当はもっと大きな声で叫びたかった。

 どうすれば正解か。

 一番いい方法は何か。

 教えてほしい。

 助けて欲しい。

 答えが欲しい。

 そんな風子の切実な表情に対し、次郎は冷静な表情のまま答える。

「俺も、わからない」

 ふふ。

 風子が自虐的に笑った。

 次郎は目を伏せる。

 言葉が足りない。

 なんていえばいいんだろうか。

 その時だ。

「はい、これはサービスね」

 桃子の優しい声。

 カップの上にはたっぷりとのった白いホイップクリーム。

「ウィンナコーヒー、二人とも糖分とった方がいいでしょ」

 彼女は笑う。

 そして、すぐに去っていった。

 二人は無言でカップに手を置き。

 口元に運んだ。

 温かく。

 バニラの甘い香り。

 上品な味。

 喉の奥に感じる珈琲の苦みが刺激なる。

 血流が遅くなっている脳の活動が活発になった気がした。

 ふたりはほぼ同時にカップを置く。

 風子は少なくなったホイップに目を移した。

 一方、彼は考えながら、テーブルの木目に視線を移す。

 ゆっくりとその迷路のようなその線を目で追う。

 視線が彼女の手元にある白いカップまで届いた時、彼は顔を上げて話を再開した。

「大吉は、中村の笑顔が見れないって言っていた」

「……」

「無理した中村を見るのが辛いって」

「……」

 風子は奥歯を噛みしめる。

 彼女の唇が震えた。

「何もできない自分が情けないって」

「……あ」

 風子の声が、少し漏れた。

「バカだよな……お互いに自分を責めて、それですれ違って」

 彼は少しだけ息を吐く。

 ――俺もだけど。

 口だけをそう動かした。

「強くなりたい」

 風子の涙声。

「強くなりたい、みんなを守れるようになりたい」

 それが彼女の願いだった。

 ずっと、そう思っている。

 中学生の頃まではよかった。

 いつも男に捨てられる母親を守りたかった。

 強くなって、母親を守りたかった。

 中学生の頃はいじめられている子を見たら、女子でも男子でも助けることができた。

 正義の味方のように、学校で悪い子をとっちめていた。

 その時の風子は強かった。

 あの中学校では。

 でも、今は違う。

 五月にはじめて行軍をした時、足にマメができたときから、自分の弱さがわかってきた。

 六月の学校祭で、暴漢達と戦おうとして何もできず、守ってもらった。

 九月の体育祭の準備で、分裂した学生の間を取り持つことさえできなかった。

 そして、あの時。

 武器を持って守るどころか、守ってくれた人を傷つけた。

「弱くても」

 次郎はそう言った。

「上田くんは、強いから、男子だから……」

 風子の言葉に対し、彼は首を振って否定する。

「弱い、俺は」

 次郎は自虐の笑みを浮かべた。

「あの時、本当に相手をクシャって、理性がぶっとんで、そうしようとした、それしかないと思った、そしてやった」

 結果、綾部軍曹がフォローしたおかげで、敵の頭蓋骨を割り、脳漿を床に散らすようなことはなかったが。

 あの時感じた、どうしようもない恥ずかしさ。

 虚脱感。

 道場で鍛えてきた、自信とか正義とかそう言ったものが消えたと感じた。 

 今でも思い出すと恥ずかしくなる。

 そういう感覚。

「強いってなんだろう」

 父親に言われていた強さとは違う。

 理性がなくなった暴力。

 あの道場でそんなものは教えられていない。

 自分が欲しいものではない。

「……俺も強くなりたい」

 次郎はそう言って顔を伏せた。

 ずっと、そう願っていた。

「上田くん……」

 風子はそれ以外の言葉がでなかった。

 次郎も悩んでいる。

 その悩みは同じものなのか、違うものなのかはわからない。

 でも、強いと思っていた相手は、うらやましいと思っていた男子は、それでも強くなりたいと言っている。

 嫉妬のような。

 同志を得たような。

 よくわからない感情が、風子の胸の中でうずまいた。 

「俺、たぶん中村のことが気になる……いや、好きだと思う」

 風子はその言葉を聞いても驚かない。

 意味を理解していなかった。

 そして、だんだんとその言葉が持つ意味を汲み取って、風子は目を丸くした。

「でも付き合って欲しいとかそういものじゃないし、ごめん、中途半端でごめん、だから返事を求めるものじゃない……ってこれも逃げてるかもしれない……」

 次郎も勢いで言ったものの、自分でも何を言っているのかわからない。

 そのため、だんだんと言葉がしどろもどろになってしまう。

 そんな彼をじっと見つめる風子。

 何かしゃべろうとしたが、かすれた声しか出ない。

 もう一度。

 しっかりとした声を。

「わたしも」

 風子はそう言った後、少し咳き込んだ。

「付き合いたいとか、そういうのはわかんなくて、怖くて……でも上田くんのことは好きかもしれない」

 今度は次郎が固まる。

「だから、キスしたいとかそういうのはないけど、話はしたいし、ごめん、何言ってるかわかんないよね」

 次郎も口を開こうとするが、かすれた声になってしまう。

「友達でいたい」

 やっと絞り出した声で彼はそう言った。

 普通なら、ごめんなさい、付き合えない、フラれたと捉えられる言葉。

 でも意味はぜんぜん違う。

「うん、友達でいたい」

 風子はそう言って、少しだけ笑顔を作った。

 彼女も同じ思いで。

「本当に言い訳とかじゃなくて、ごめん、そういう恋愛とか、そういうのはわかんなくて」

 風子は微笑んだ。

「ごめん、俺も……そういうのわかる」

 安心。

 そんな表情をするふたり。

 人とは違う感覚。

 そんなものに、怯えていた。

「そりゃ、男の人に抱きしめられたい……とか……あ、でもそれは先輩とか女子同士もあるし」

「あ、俺も、そりゃ、えっちしたくてムラムラするときとか、ある」

「え?」

「……あ」

 急に顔を赤くして黙り込むふたり。

「今のは無し」

 次郎が慌てて言ったが、もう遅い。

 拝んでもだめだった。

 時間は戻らない。

「それってセフレ」

「な、なななな」

 そんな言葉を彼女が口にすると思っていなかった次郎はびっくりする。

 彼女は意地悪な顔をした。

「……えっち、すけべ、ケダモノ、ヘンタイ」

「待って、あのさ、自然だから、もう二年生だからね、俺」

「はは」

 風子は笑った。

「セフレはだめだけど」

 繰り返す。

「だれもそんなこと言ってません、女子がそういう言葉使っちゃいけません」

「上田くんって、ほんとバカだよね」

「……バカって」

「カッコいいことを言う時もあるのに、なんか、スケベだから、残念」

「スケベって」

「ばかみたい」

 本当に風子は笑っていた。

 その表情に次郎は安堵する。

「大吉に言うから」

「え?」

「戻ったって」

「……」

「喜ぶと思う」

「あ……」

 風子はその意味がわかったらしく、恥ずかしそうに顔を伏せた。

「あいつが見たいのはそういう中村だと思う、だから、大吉に悪いと思うなら、今から言って笑おう」

 次郎はそう言って立ち上がった。

 風子の手をグッと握って。

 この感情はよくわからない。

 その握った手は、なにか特別な感情とかはない。

 ただ、力強さを共有したい。

 支え合いたい。

 ふたりにあるのは、そういう気持ちだけだった。


ここまでお読みいただき感謝いたします。


残り3話、お付き合いいただければありがたいです。

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