第77話「松岡大吉の後悔」
スルスルスルスル。
風子は手際よくリンゴの皮を剥いていた。
「俺のために……風子さんが枕元でリンゴをむいてくれる日が来るなんてっ」
大吉が感激の声を挙げている。
微笑みを浮かべたままそれに応える風子。
リンゴを皿の上に置く。そして一本に繋がったその皮をそっとビニール袋の中にしまった。
陸軍金澤病院の一室。
ギブスで固定された右手とそこから伸びる透明の管。
彼は術後間もないため、ベットに横たわり、痛み止めの薬を点滴を受けていた。
「ダイキチ! こっちにもお礼は?」
サーシャが胸を張る。
「あーありがとう」
「薄い」
「ありがとーございます」
「邪魔者扱い」
「そんなことはありませーん」
ぶーくれるサーシャだけではない、緑、そして幸子も来ていた。
いつもの四人組である。
「やっぱり、制服じゃだめか……」
緑がぼそっと言った。
「へ? 三島、何?」
「サーシャが松岡くんを喜ばせようって言ったから、みんなできたんだけど、その喜ばせる方法が」
「……」
ガタッと座っていたパイプ椅子を押しのけ立ち上がる緑。
「もっと、こうサーシャの魅力を打ち出せる格好おおおうおうおう」
興奮すると語尾がおかしくなる緑。
ドン引きするサーシャ。
学校祭や夏の記憶が嫌でも蘇った。
「ミドリ……ごめん」
「え、なんで謝るのサーシャちゃん、ほら、今から着替えてもいいんだよ……」
目が据わっている緑。
ぐいっとサーシャに迫っていく。
「その紙袋……ダイキチへのお見舞いじゃなかったんだ」
いつも強気なサーシャも緑には弱い。
夏のホームステイでディープな世界をまざまざと見せつけられたことが、トラウマになっていた。
紙袋をグイッと押し付けられそうになりながら、精いっぱい身を離して抵抗するサーシャ。
そんな二人のやり取りをうまくスルーした風子は、皿の上にのせたリンゴを大吉に勧めた。
「はい、リンゴ」
四等分に切り分けたリンゴ。
微笑みとともに、大吉に差し出した。
「ありがとう、あーでもまだみんなの分がねえから、それからでいいや」
「あ、うん」
その言葉を聞いて、風子は皿をひっこめる。
ぎゃぎゃー言っていた緑が、唐突に振り向く。
サーシャにとびかかろうとしていた状態――両手は肩まで上げて指は全部開いてもぞもぞと動かしている――で何かを思い出したような表情をしている。
不意に緑は緊張を解いた。そして、チラッと幸子を見ると口を開く。
彼女は幸子が大吉に気があることを知っていた。
「幸子ちゃんもむいてみたら?」
緑なりの援護射撃である。
アレ仲間の友情と言ってもいい。
「わ、わたし? 風子ちゃんの方が上手だし」
――松岡くんのために、わたしが……でも、風子ちゃんがやった方が喜ぶはずだし。
緑は顔を伏せた。
「上手かー」
ため息交じりに風子はそう言うと、果物ナイフと袋から取り出したリンゴを幸子に渡す。
「うちのお母さん、ほんと家の事ぜんぜんやらないから、なんかね、器用になっちゃって」
幸子はそれでも受け取らない。
そんなふたりのやり取りに飛び込むようにしてやってくるのは金髪娘。
「わたしがやる」
緑の圧迫を横に流しながら、ぐいっと手を伸ばすサーシャ。
緑から逃げたい一心と負けず嫌い選手権発動ゆえの行動である。
リンゴを受け取る前に、なぜか腕まくりをした。
大吉のために、どうだとかではないことは確かだ。
「やめとけって」
そうツッコミを入れたのは次郎。
気配を消していたが、そんな女子達の喧噪に我慢できなくなったからだろう。
男同士の友情を女子四人に持っていかれたという、苛々も重なっていた。
それに、いつも中心にいた自分が蚊帳の外になっているので、ちょっとした嫉妬もあったのかもしれない。
ちなみに次郎。
先に見舞いに来ていたが、わいわいやってきた女子達に圧倒され、ベットを挟んで反対側で気配を消しつつ様子を伺っていた。
気配を消すというよりも、無視されていたと言ってもいい。
「どういう意味?」
笑顔のサーシャが首を傾げる。
右手には果物ナイフ。
「なんか不味くなりそう」
そう言って大吉を見る。
俺かよ……。
大吉は、次郎のキラーパスに曖昧な表情を浮かべる。
「思い出せ、あのカレーを」
思い出の演習場。
思い出のカレー。
男クラの狂喜。
ボブの断末魔。
「なんだとごらああ!」
ゴン。
果物ナイフを幸子に渡し、そして大吉のベットに両手を勢いよく手をつく。
サーシャはあん馬競技に出ている体操選手のように器用に上半身を横回転させた。
次郎を蹴るために。
ふわり。
制服のスカートが浮かぶ。
伸びた白い足。
そして、その付け根。
「あ……」
次郎は、やっぱりそっちに目が行っていた。
ゴン。
そんな次郎の惚けた顔を、サーシャの足の甲が容赦なく捉えた。
無言のまま崩れ落ちる次郎。
男子たるもの、危険を顧みずエロを得る……である。
もちろん制服のスカートがめくれたことは自覚あるが、全く気にしていない様子のサーシャ。
いつもだったら、ギャーギャー騒ぐところなのだが。
エッヘン。
そんな感じである。
「サーシャ、スカート」
幸子が心配そうな声を出す。
その間に、ベットの上で一回転して元の位置に着地したサーシャ。
彼女は幸子の心配に応えようと、まずは百聞は一見に如かずという態度で少しだけスカートをめくった。
露わになる太もも。
チラッと視線を向ける大吉もやはり男の子である。
「インナーパンツゥー」
自慢気に、かつドヤ顔でそう言った。
「スケベ対策もばっちり」
「……」
いや、それはどうかな、と思う女性陣。
その前に蹴らなければいいと思うし。
そもそも蹴ることが前提な上で、かつ、そんなものを履いていて準備していたことを不思議に思う。
そんな薄い反応に、少し不安になったサーシャ。
彼女は助けを求めるように大吉に視線を向けた。
彼は慌てて視線を逸らす。
「いや、うん、なんでもねえよ」
少し顔を赤らめて、曖昧な言葉を言った。
「なに恥ずかしがってるんだ、ごらああ!」
バン。
スカートの横側をちょっと上げて、大吉に迫るサーシャ。
耐え切れないと思った大吉は次郎を巻き込もうする。
立ち上がりつつある彼に視線を向けて口を開いた。
「おい、ガン見した奴」
よろよろと立ち上がる次郎は反射的に答える。
「あれはれで……エロい」
と次郎。
「待て! 男ども」
サーシャはスカートをぐいっと上げた状態で次郎に見せた。
決して痴女ではない、そんな清々しい態度。
「これのどこがエロい」
それに対し、やっぱり恥ずかしいのかチラッチラッと見る健康な男子二人。
「……いや、そりゃスカートの下にあるからさ」
と次郎。
「ぴっちりしてるし」
と大吉。
「水着と何が違う!」
サーシャの声が震える。
「そりゃ、なあ、大吉、初めからバーンと出てるのと」
「そちゃ、なあ、次郎、見えないものが出てるのと」
コソコソ話して納得するふたり。
――わかるか?
――わかる。
エロ同盟締結。
互いに握手。
「がっでええええむ!」
頭を抱えたまま、大吉のベットに顔を押し付けるロシア娘。
最近片言英語で唸るのがマイブーム。
一応貴族。
「……だって、お店の人言ったんだよ、見えても大丈夫だって、恥ずかしくないって」
ポンっとサーシャの肩に手が置かれた。
優しい笑顔の緑。
「サーシャ……妄想にはね、限界がないの」
そして、窓の外の風景を見た。
彼女は遠い目をしている。
普段見えないものが見えたりする。
それだけでありがたいと思う気持ち。
緑には痛いほどわかった。
そんなエロティシズム。
緑が浸っているディープな世界をまだまだ理解できていないサーシャは、訝し気な眼差しを向けた。
『テッテテテテッテテーテッテッテー』
チャイコフスキーのくるみ割り人形。
携帯から、吹奏楽バージョンのメロディーが鳴り響いた。
サーシャが慌てて携帯を取り出す。そして、画面に表示された相手の名前を見ると、みるみるうちに表情が曇っていった。
緊張と戸惑い、そして彼女の周りには暗雲が立ち込める。
バン、と立ちあがったかと思うと、何も言わずトトトと走って廊下に出て行った。
「ミハイルお兄様ね……」
と、憐みのこもった視線で風子がサーシャを見送った。
クリスマスの夜に、触れられたことを思い出すと怒りが沸いてくる。
ずっと浮かべている微笑みが外れそうになった。
イケメン無罪とかだれかがほざいたが、いくらそれでも許せることではない、と風子は思う。
次郎は姉、サーシャは兄、そして自分は母親。
身内というのは、ストレスがたまるものという認識だったから、そういう意味で彼女を同情する。
「……っ」
でも、彼女がいつものように悪態をつこうとしたが、理性が思いとどまらせた。
今は松岡大吉のお見舞いに来ているのだ。
自分が怪我を負わせてしまった大吉の……。
そう思うと、彼女は微笑みの表情に戻っていた。
いつものようにしてはいけない。
彼女はそう自分に戒めた。
サーシャが出て行った後、喧騒が消えてしまった病室。
そんな沈黙を破ったのは緑だった。
男子二人に対するクリティカルヒットな質問。
「そういえば、さっき私たちが入って来た時に、慌てて隠してたのは、何?」
電気が走ったように固まる二人。
――気付かれた!
そう次郎は思った。
――こいつ、ここでそれもってくるか……。
大吉は汗をだらだら流しはじめた。
――この、小悪魔……何が目的だっ!
二人は恐れながら笑顔の緑を見た。
彼らには、緑の表情が悪魔に見える。
どんな生贄を欲しているというのだ、この悪魔は。
時間を戻す。
まさか女子四人組が見舞いに来るとは思ってなかった二人。
次郎は大吉に頼まれたものを持ってきていた。
誰もいない病室。
そんな二人が雑誌を堪能しているときだった。
彼女達が現れたのは。
ナースモノだったのでさすがに、看護師さんに見せることはできない。
そういう背徳感を味わっていた。
エロ中級者。
それでもエマージェンシープランはたてていた。
つまり、急に人が入って来た時にエロ本を素早く隠す手段を。
したがって、慌てはしたものの、とりあえずスムーズにベットとマットレス間にしまい込むことはできた。
見られていないと思っていた。
……まさか、緑にバレていたとは。
「いや、そんなことしてないよな、大吉ー」
「ああ、そんなことするはずないよな、次郎ー」
男二人。
こういうことに関してだけは、息がぴったりである。
エロで繋がる友情。
友情は計り知れない絆であった。
瞳の奥に怪しい光を混ぜた緑。
キラキラ光る視線を二人にむけている。
――やっぱり、この二人!
感極まって、緑は天井を見上げる。
――どっちなんだろう……。
ぐいっ。
視線を下ろして、二人を交互に見た。
緑は男子二人が危惧している内容とはちょっとズレたことを想像……いや、妄想していた。
「何もやましいことは……なあ、大吉」
「ま、まさか、なあ」
――きたあああ! 大吉×次郎!
好奇心旺盛な女子である。
その二人の会話だけで想像できるのだ。
――さっき私たちが入ってきたものだから、慌てて、二人は離れて、あんなに慌てて……ああ、なんてこと……もう少し、もう少しそろっと入って……いや、もっと観察させてもらえれば。
緑。
妄想に妄想を重ねる女子。
そんな緑がうねうねしているのを見て、二人はエロ本バレの危機を脱出したと判断する。
なぜ、緑がそんなにうねうねしているかは、あまりにもディープな世界だったので、お子様な二人には理解できるはずもない。
とりあえず、大きく安堵のため息をついた。
そんな三人のやり取りの間に、幸子がリンゴをむき終わっていた。
ポツンポツンとちぎれて落ちた皮。
そんなことで競い合う必要はどこにもないことはわかっていても、つい風子と張り合ってしまった。
ちらっと幸子が風子を見る。
彼女は表情を変えてない。
ずっと微笑みを浮かべたままだ。
大吉は風子が切ってくれたリンゴに目が行った。
風子は笑顔をつくったまま、じっと大吉の方を見てる。
大吉はその風子の笑顔に向き合い、そして視線を外した。
――ちくしょう。
大吉は顔を上げる。
そしてもう一度風子の方を向いた。
――なんで、そんな顔をしたままなんだ。
大吉はだんだんと風子の表情に、そして態度に違和感を感じていたが、今確信に近いものが見えてきていた。
風子の手元にあるリンゴ。
「あーん」
大吉はまぬけな声を出して口を開けた。
「……」
その姿に対して、風子は一瞬ためらったが、爪楊枝に刺したリンゴを口元に運ぶ。
本当にしてくれると思っていないかった大吉は驚いた顔をするが、もったいないと思ったのか、そのままリンゴをぱくりと咥えた。
シャク。
爪楊枝の刺さったあたりで、それを嚙み切った。
そして、彼は予想していたことを確信する。
風子はまた、大吉の顔を伺う。そしてリンゴをクルリとまわして、まだ歯形が付いていない方を向けた。
大吉は、風子の表情を見る。そして、視線を落とした。
「優しすぎる」
そう大吉はいった。
「……そうかな?」
風子は、小さな声で返した。
「ありがとう、そしてごめん」
彼は目を伏せた。
「無理してる」
「無理なんか」
「してる」
大吉はそう言うと風子をじっと見た。
怒った顔でもない。
哀しい顔でもない。
真剣な表情だった。
「気にするなって」
その言葉を聞いても風子は微笑んだままだ。
「でも、松岡くんの右腕が……」
「俺の方が謝る方なんだけど」
「謝るなんて」
「撃たせた原因は俺」
「そんなんじゃない」
「怪我したのは俺が悪いんだし」
「違う」
風子はさっきまであった微笑みも消え、切実な表情で大吉を見ていた。
「そんなに責任とって欲しいなら、俺と付き合えよ」
大吉は勢いでその言葉を吐いてしまう。
しまったと思うが、もう遅かった。
次郎と幸子もギョッとして風子を見る。
「……いいよ」
大吉は目を見開いた。
売り言葉に買い言葉。
――まさかうまくいくとは。
そんなことを自分に、そして「いいよ」の誘惑に彼は流されそうになった。
願いがかなった。
やった。
と。
だが、頭の中では違う答えが浮かびだす。
――ああ、これで終わった。
冷静な大吉。
こんなことで風子を……それでどうするんだという思い。
わざわざこれからあったかもしれないチャンスをこの一言で無駄にしたことがわかっていた。
だから、黙ってしまう。
「わたし、松岡くんと付き合う……ずっと好きだって言ってくれたし、わたしも……」
違う。
こんなのは違う。
大吉の理性がそう言った。
風子は何かを犠牲にしたい。
それだけなんじゃないだろうか。
自分が、風子にそうしたいように。
大吉は助けを求めるような顔で次郎を見る。
彼は大吉の気持ちがなんとなくわかっていた。
だから、奥歯をギュッと噛みしめていた。
――次郎、お前もわかるよな。
大吉は付き合えることに喜んだ自分を殺した。そして、風子を見て、口を開いた。
「だったら、まず、付き合うっていうなら……俺、右手、使えねえから」
大吉は、ひどい顔をして笑った。
「右利きだから、これもやれないし」
左手で輪をつくりそれを上下に振る。
「……っ、大吉」
何を言ってるんだという顔の次郎。
「右手の代わりもやってほしいな」
大吉はそう言って風子を睨みつける。
風子は最初なんのことだかわからなかったが、だんだん理解したんだろう、顔を赤くしていった。
目が泳いでいる。
「中村」
やばいと思った次郎が大吉の次の言葉を遮ろうとする。
「付き合うってことは、そういうことじゃね?」
意地悪なしゃべり方だった。
大吉は精いっぱい、自分の持っている嫌らしさを出していた。
「……なんで、そんなこと」
怒りの色が浮かんでくる瞳。
風子は勢いよく立ち上がった。
「……っ」
何も言わず病室を後にする。
紅潮した顔、瞳に溜まった涙が大吉に見えた。
だが、目を逸らそうとはしない。
慌てて風子を追う緑。
また、急に病室が静まった。
次郎をグイッと左手で引っ張る大吉。
もう限界だった。
泣き笑いの表情。
涙は出ていないが、泣いていた。
「頼むわ、次郎……あんな笑顔見てるの、もう……俺、無理」
「……大吉」
「やっと、いつもの感じにさ」
怒った顔の方がまだましだ。
あんな笑顔は風子の表情ではない。
大吉は、自然体の風子を見たかった。
それは自分のわがままだとも思う。
でも、自分のせいであんな顔をしてるんだったら、それを戻す責任が自分にあると彼は思った。
次郎はその大吉の気持ちを汲み取る。
立ち上がり、そして病室を出ていった。
「バカだな、大吉」
そう言って、風子の後を追った。
病室が静まり帰る。
――ひとり、か。
彼はそう思ったが、ひとの気配を思い出す。
「あ」
大吉が情けない声を出した。
この女子にも全部聞かれたという事実を確認し、苦悩し始めたからだ。
幸子がむき終わったリンゴをテーブルに置く。
何か冷たいことを言われるか、病室を後にすると思っていた。
ただ、黙って傍らに座っている幸子。
彼は少しだけ驚いた表情を彼女に向けた。
「……いいのか? 山中」
こくりと頷く。
「松岡くん、右手、使えない?」
「え?」
「私が、右手の代わりになっても……いいけど」
相変わらず、ボソボソッとしゃべる幸子。
「……え? ええええ!」
三十センチぐらい、大吉は幸子から後ずさった。
もちろんベットの範囲内だが。
「え? 驚いた?」
「……そんな、だ、だめだって」
「そっか」
「女の子がそんなことを軽々いっちゃいけません」
風子にはいった手前であるが、そんなことは関係ない。
もちろんあっちは断られることが前提だったから言えた。
だが、こっちはしてあげようかと言われたのだ。
大吉は本当に焦った。
そんな大吉の態度を見て、幸子は顔を伏せる。
「……歯磨き、嫌だよね」
「歯磨き」
「やっぱり、手先が器用な、風子ちゃんの方が……いいよね」
男子特有の上下運動。
歯磨きと思ってたらしい。
いや、そもそもそんなことで風子が怒ることを理解できるのかな、と大吉は思う。
だが、人それぞれ受け方は違うと思ったので、幸子のかん違いを無理矢理自分を納得させた。
そう思うと、ぐったり脱力した。
ガクンと力を抜かす大吉。
幸子がそんな大吉を見て切実な表情を向けてきた。
「大丈夫、マザコンとか思わないから」
「あ、うん」
大吉の微妙な答え、そして態度。
どうも、自分は的の外れたことを言っているんじゃないだろうか。
彼女はふと考える。
「え?」
左手の上下運動はどうも歯磨きではないらしい。
あとはなんだ。
そして、考え込んだ。
ポン。
下を向く。
ポン。
窓の外を見る。
ポン。
大吉の顔を見る。
チーン。
股間を見た。
そして、耳まで真っ赤になる。
「……」
「……」
大吉も今更だが、耳まで真っ赤になっていた。
恥ずかしいに決まっている。
自慰行為について女子に面と向かって言っているのだ。
こんなに恥ずかしいことはない。
しかも、かん違いとはいえ、手伝うという申し出も受けてしまっていた。
いや、そのまえに別の女子に「やってくれ」なんて本意ではないものの言ってしまったことなど、大吉がその場でのたうち回って死にたくなる気分にさせていた。
ベットの上で前後左右に腰から上をうねうねさせる大吉。
そんな大吉の姿を見ている幸子は顔を俯かせたまま、右手をベットの上に置いた。
大吉が腰まで書けている布団の上を這わせる。
「いいよ」
「へ?」
情けない声で返事する大吉。
「……してあげて、いいよ」
「はいいっ?」
「だって、出さないといけないんだよね」
さっき見ていたエロ本の中に登場する看護師のセリフと重なった。
次郎と、そんなシチュエーションありえねえ! と叫んでいたばかりなのだ。
「いや、そういう問題じゃ」
幸子の手が布団越しに大吉の太ももに手が置かれる。
その手は震えていた。
「……あ、え? い?」
「うおおおおおお! ふーこ! サチコ! ミドリっ! 春休みは旅行に行っていいって!」
扉から飛び込んでくるサーシャ。
一瞬にして一メートル以上離れる二人。
痛み止めの点滴袋を吊るしたスタンドが倒れそうになるほどの勢いで。
微妙な空気に首を傾げるサーシャ。
「あれ、みんなは?」
キョロキョロと見渡したサーシャに、大吉が説明を始めた。
幸子は、緊張が解けた顔で、安堵。
そして、自虐的に少し笑っていた。
二日後。
終業式を待たずに、山中幸子は学校を去った。
極東共和国が、幸子を召還したからだ。
元々一年だけの留学だったが、あの事件で学校内部の情報を漏らしたのではないかという疑いがかけられたことへの報復処置だった。
急なことで、お別れ会などをする暇もなく、慌ただしく送り出す学生達。
「楽しかった」
彼女はいつものクールな表情のままそう言った。
ただ、緑に抱き着かれ、泣かれた時はその冷静な表情も少しだけ崩していた。
もちろん、入院した大吉と会えずにいた。
極東共和国と日本帝国。
二分された二つの国はここ数年あった雪解けムードも消えた。
ここから数年の間、冷戦状態に戻ることになる。
それは、彼女の消息を知る手段がなくなったことを意味する。
幸子が残したものは、この学校で過ごした思い出と、数枚の写真。
そして、寂しさ。
手紙を送る場所も手段もわからないのだから。
もう二度と会えない。
もう二度と話せない。
そうなることは、みんな理解していた。




