第76話「中村風子の涙」
「ひいいっ!」
風子は鳥肌が立つ感触を味わうとともに、悲鳴を上げた。
「このかわいいおっぱいも揉み収めかぁ」
さわさわさわ。
彼女を背後から羽交い絞めにしているのは、ふたつ上の先輩でルームメイトである田中純子だ。
消灯前の自由時間。
恒例行事。
そう言った方がわかりやすいじゃれ合い。
ジャージ姿の三人。
そんな二人を見ている冷ややかね視線。
椅子に座って肩肘をつき、その腕に顎を乗せている黒ぶち眼鏡で黒髪ロング女子の顔は呆れていた。
風子のひとつ上の先輩である長崎ユキ。
「嫌がってるじゃないですか、もうやめましょう、つうかもう飽きました、ツッコミ入れるのも」
彼女は黒ぶち眼鏡をクイッと上げる。
「じゃあ、ユキ、揉ませろ」
純子は風子を羽交い絞めにしたまま離そうとはせず、そのままユキに顔だけをグイッと勢いよく向けた。
「やっぱ嫌」
ユキが何か言おうとするのを制する。そしてすぐに訂正の声を出していた。
開きかけたユキの口は何も言えずもごもごする。
「どっちなんですか!」
やっと出た言葉が、あまりにも普通だったので、ユキは少し不服――自分に対して――そうな表情である。
「だって、ほら、ユキのそのお化けおっぱい揉んだら、なんつうか、敗北感ひきずるから」
「……他人の胸を、そんな雑な言い方しないでください、つうか他に言い方ないんですか」
「巨乳」
「普通すぎ」
「妖怪おっぱい」
「……もう卒業前なんですから大人になってください、先輩もそこの筋肉を脂肪に変えれば大きくなるんじゃないですか?」
純子の服の下にある割れた腹筋を指さす。
「位置が違う」
「寄せて上げて」
「面倒だこのやろー」
そんな先輩後輩のやりとりをしているが、風子は解放されない。
それどころか身動きできず揉まれっぱなしである。
いつものことであるが。
「いいかげんにしてくださいっ!」
すると、純子はにやにやしながら手を離した。
「うん、一番最初よりは大きくなってる」
そんな純子の感想に、うんうんとユキもうなずいて同意する。
「え? どのくらいですか」
キラキラと目を光らせる風子。
「こ、こうかな?」
「こ、これぐらい?」
先輩二人がパッと手を開く。
「「ビフォー」」
そして、二人同時に指の力を抜く。
「「アフタァー」」
「へ?」
あまりに微妙な変化に風子は目が点になる。
「成長してるから」
「うん、しぼまなければ成長で間違いない」
「……その……比べる言葉になんかひっかかるんですけど」
ポンと肩に手を置く純子。
「まあ、なんだ、わたしも小学生のころはそれくらいだったし、ほら今じゃこれぐらいだ」
胸に手をあてがい、突き出すようにしてアピールする純子。
「小学生……」
「先輩っ!」
ユキが純子を叱責する。
「言い過ぎです! ちなみに私は小学生の頃には、もう今の先輩ぐらい」
「……何ですか? 拷問ですか? わたし、泣けばいいんですか」
「女は度胸、胸じゃない」
と純子。
「あっても邪魔、本当はいらないし」
とユキ。
「ちくせう! わけろ! もう先輩後輩関係ないっ! ぶんどってやる!」
風子がユキにとびかかる。
「やめて、えっち、すけべ」
「ええんか、ええんか、ここがええんか」
風子がユキをベットに押し倒し、馬乗りになった。
じゅるるる。
わざとらしく、涎を吸い上げる素振りをする風子。
「堪忍せいやー、ええ乳しとるのおお」
おっさん言葉で風子がもぞもぞとしようとした時、スピーカーに電源が入ったような音がした。
「消灯時間」
純子がそう言って時計を見た。
時計の針はあと一分で二十三時を回ろうとしている。
「やばい、やばい」
寝る前のお肌の手入れをしていなかったことに気付く純子。
慌てて引き出しから液体の入った瓶を取り出す。
「電気消しますよー」
風子が部屋の入り口付近にある電灯のスイッチに手をかける。
「うん、消して」
と容赦ないユキ。
「待って、ちょっと待ち」
慌てふためく純子がパタパタと液体を顔に塗っている。
「人の胸揉む前にやることやってください」
黒ぶち眼鏡をベットの縁にかけなあがら、いつになく冷たくユキは言った。
「消しちまいなっ! 風子」
そんなユキの言葉に反応してプチンとスイッチを切った風子。
「だああ! お前先輩の言う事が聞けないとかっ! 規則と先輩どっちが大切なんだっ」
ガリガリと頭の掻きむしながら怒りを表現する純子に対し「規則です」と二人ピシャリと言った。
「……私があと少しで卒業するからって……下剋上」
「いいえ、規則です」
とユキ。
「風子……お前もか」
「ええ、まあ」
風子は素っ気なくそう答えると、二段ベットに上がろうと梯子に足をかける。
ギシッと音がした。
「純子さんは……卒業したら、陸軍士官学校ですよね」
年末には合格発表があって、彼女は難関校に受かっていた。
「受かっちゃったからね」
そう言って純子は笑った。
「怖くないですか」
「何が?」
「軍人になること」
純子は少し考える素振りを見せた。
「そういう感覚はなかったな」
そう言って彼女はベットに腰掛ける。そして言葉を続けた。
「合ってるかなって、それに、受かるとも思ってなかったから、受かってラッキーというか」
「……合ってる?」
「そう、それにここって、将校なったらあの馬鹿男子どもをひれ伏せさせれるでしょ、ほら中隊長とか大隊長、いや私は連隊長以上いくけど」
そう言って自分でハハハと笑う純子。
「純子さん、もうひれ伏せさせてますよ」
そんなことをボソッと言うユキ。
「そういうこと言わない」
ユキと純子は笑っているが、風子は表情を硬くしたままだった。
純子はベットから立ち上がる。
そして風子に近づき、その肩に触れた。
「今日はこっち」
純子の優しい声。
さっきとは違い、優しく包み込むような抱きしめ方だった。
「いっしょに寝よう」
「……え」
風子は返答に困った様な声を出す。
でも引っ張られるようにして、三年生の特権であるシングルベットにペタンと座った。
「いいから」
そういうと、純子はもぞもぞと先に毛布の間に入っていった。
風子もそれにならう。
「ねえ」
「……はい」
「二年しか長く生きてないから、たいしたことはいえないけど」
「……はい」
「がんばらなくていいから」
「……」
そう言うと純子は布団の中で風子を抱きしめた。
さっきと同じで、ふわっと包み込むように。
そして、片方の手で手招きをした。
その先にはユキ。
ユキは眼鏡を外していたので、目を細めそれを確認した。
ため息をつきながらシーツを動かし、モゾモゾとユキも狭いベットに入ってきた。
――なんだろう。
風子は不思議な感じだった。
女子三人。
狭いベットに潜っていた。
動けない。
狭いベットに女子三人。
先輩達にサンドイッチされるような格好の風子。
「……暑いです」
正直にそう言った。
「ユキ、その胸についている脂肪をどうにかしろ、姫様が熱いとおっしゃっている」
「……知ってますか? 筋肉の方が発熱量大きいんですよ、純子さんこそ、もっと女性的に」
「……黙れおっぱなんとかお化け」
「……筋肉先輩、静かにしてください」
「……」
風子はそんな二人に挟まれたまま何も言わない。
ただ、力も入れず目を閉じたまま二人の体温を感じていた。
暑いのは確かだ。
ただ、ふたりのゆったりとした心臓の音を聞くだけで、不思議な感覚を味わっていた。
落ち着き、そして恐さを。
風子はそのまま眠りそうな気分になりながら、夢でもなく、現実でもないあの時のことを思い出す。
今日、中隊長の奥さんとの会話を。
『中村さん……ごめんなさい』
あの人は謝ってきた。
『本当は謝るべきじゃないと思う』
彼女はじっと風子を見つめてそう言った。
『怒りの感情を出して、あなたを罵倒するべきだし、それができなくても叱るぐらいはするべきだと思う』
手を伸ばす彼女。
そして、風子の肩に触れた。
『ごめんなさい……わたしはそれができない』
風子を抱きしめる。
『ごめんね……あなたは今、罵倒されたいはず、責められたいはず、叱られたいはずなのに……』
彼女から涙がこぼれた。
『ごめんなさい……わたしが弱いから、わたしはあなたにそんなことは言えない、自分に嘘をつくことができない……あの人の想いをそのまま……そのままでしか、伝えることができない』
そして、彼女の声がだんだん小さくなっていく。
『ごめんね、背負わせてごめんね……』
そう言って、膝を崩し彼女は声を殺して泣いた。
嗚咽ではない。
声を出さずに泣き崩れていた。
「……どうして」
風子は彼女を見下ろして口を開いた。
「悪いのはわたしなのに、奪ったのはわたしなのに、どうして」
彼女は答えない。
いや、今答えたら耐えれなくなるからだった。
声を出して泣き崩れることは避けたかったから、彼女は黙るしかない。
右手で携帯電話を取り出す。
『……あのひとが、理由を……わけを話してた』
戸惑う表情を見せる風子だったが、彼女はそのまま操作を続け、動画を再生した。
病室のベットで半身を起こし、照れくさそうな顔をしている坊主頭のおっさん。
解像度が悪いが、それが中隊長だとわかる。
『あ……あ……入ってる?』
少し皮肉めいた笑顔をつくちそんなどうでもいいことを言った。
その後、スウッと真顔になる。
『えっと、中村風子』
カメラ目線。
『指揮官ってのは責任を取るのが仕事だ』
――まあ、あれだ、普段はこのおっさんなんもやってねえだろうって目で見てるけどな、みんな。
そんな事を付け加えながら。
『あんなことになったのは全部私の責任だ……つまり、気にするな』
そう言って笑った。
『って言っても、気にはするだろう……もっと言うと、私はあれで救われた……つまり、私の自己満足劇場に巻き込んだということで、なんか申し訳ないというか、すまん』
ペコリ。
彼は頭を下げる。
そして顔をあげながら『あ、もう、いいよ』と言うと、動画は止まった。
『ごめん、あの人バカだから、こんなのしかないけど』
彼女はそう言って、風子をギュッと抱きしめた。
その後、風子は何か言葉を出そうと思ったが、何も言えずただ頷くだけだった。
彼女は何かねぎらいの言葉をかけて、その場を後にした。
何て言われたのか、風子は覚えていない。
彼女が言うように、罵倒されることを予期していた。
――あなたが、あんな馬鹿なことをしなければ、あの人は死ななかったのに。
そう言われると思っていた。
いや、そう言って欲しかった。
責任が自分にあると思いたかった。
風子はまだよくわかっていない。
なんで彼女は怒らなかったのか。
なんで中隊長はあんなことを言ったのか。
――悪いのは、わたしなのに。
暗闇のなかで。
感じる両方からの温もり。
「風子ちゃん、眠った?」
「はい」
純子の言葉に風子は返事をする。
「寝てないみたいですね風子ちゃん……純子さん、ほら、この態勢、苦しんじゃないですか?」
そんなユキのツッコミ。
「いいだろう最後ぐらい、俺の風子を抱いて眠りてえ気分なんだよ」
「だったらひとりでやってください……恥ずかしいからって、わたしまで巻き込まないでください」
「……素直になれって、ユキ」
トクン。
トクン。
「はいはい、私も風子ちゃんのそばにいたいです」
「だろ」
「はいはい」
ユキはそういうと風子の頭を撫でた。
純子は肩をポンポンと叩いている。
二人は決して風子に言わない。
苦しくないか。
辛くないか。
大丈夫か。
気にするな。
元気出して。
笑って。
泣いて。
甘えて。
ただ、体温を伝えるだけ。
静かな夜に三人の呼吸と心臓の音だけが聞こえる。
トクン。
トクン。
トクン。
時間はゆっくりと流れていた。
静かな呼吸。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
それが寝息に変わっていくまでには、多くの時間を必要とはしなかった。
そして、本当に静かな夜の時間が流れていった。
「ごおおらああ!」
小山が教室を揺るがすような迫力で叫び声をあげている。
「そこぉっ!」
ブン。
風を切る音が聞こえるような力強さで、人差し指を突きだ出した。
「中村! 眠いなら立て!」
いつもと変わらぬ日本史の授業。
教壇には筋肉教師がひとり。
風子がうとうとしていたため、彼は注意をしたようだ。
まだ肌寒い春先にも関わらずラガーシャツにハーフパンツのスタイル。
本人は寒がりだが、学生の前では筋肉最強と、筋肉は裏切らないということをアピールするためにやせ我慢をしていた。
鳥肌が立っているため、学生にそのことはバレているのだが。
もちろん、誰もそこは触れない。
怖いから。
しずまる教室。
注意を受けた風子は眠ってはいなかった。
でも、風子は少しゆっくりと、そして少しぼおっとした表情で顔を上げた。
「返事! 反応しろっ!」
「すみません」
ずんっ。
ずんっ。
教壇を降りて、風子の前に立つ小山。
いつもと変わらない。
彼の授業は緊張感に包まれ、そしてやかましい。
いつもと同じ服装。
相変わらずの暑苦しさ。
スウっと右手を頭上に上げた。
これも、いつもと変わらない。
すると学生達がざわざわ始めた。
――でるぞ『シビリアンチョップ』
――脳天破壊されるぞ、中村さん……。
――やばい、半径一メートル以内に入ってるから、俺たちのライフも削り取られる……。
そんな声がちらほら聞こえる。
頭上に掲げた小山の右手は天井の蛍光灯の明かりを受けまるで後光が刺しているかのようだった。
学生達の恐怖を吸い込んで、力を増幅させているかのように。
そして、男子だろうが女子だろうが容赦なく振り下ろされる右手。
風子の脳天を直撃した。
ズドオオン。
激しい衝撃波。
窓ガラスがバタバタと共鳴――実際はそんなことはないのだが、ここにいる学生のほとんどがそう感じている――する。
「中村、文民の一撃を受けたぐらいでは悲鳴を上げることもなくなったか、成長したな」
そう言って小山は目を細めた。
風子は目を閉じていたが、ゆっくりと目を開ける。
そして、目にはいつものように涙が溜まっていた。
だが、違う。
いつもと。
スウッと流れ落ちる透明の液体。
それから、彼女は泣き顔でもなく、苦しそうな顔でもなく、ただ授業を受ける時の表情のまま涙を流した。
「……すみません」
風子はかすれた声でそう言った。
「……」
小山は鬼の形相から少し表情を穏やかに変える。
「無理させて……すみません」
ポタポタと頬を伝わった涙が、机に落ちた。
「中村」
いつもと変わらない小山。
親友が死んだというのに、そんな素振りは一切感じさせない。
いつものように授業を暑苦しく。
激しく指導する小山。
「涙が、すみません……涙がなぜか出てしまって……すみません」
涙は止まらない。
涙声ではない。
声は普通のトーン。
泣いているつもりはないが、ただ涙がこぼれている。
「先生もきついはずなのに」
大きな手のひら。
ポン。
それが風子の頭の上に乗った。
「泣いた」
そう小山は言ったあと、風子の頭をポンポンと叩く。
「もう、泣きやんだ」
小山はそういうと天井を向いた。
「それにあいつは、そういうのを望んでいない」
拳を握る。
ギリギリという音がするぐらいに。
「涙を流すべき人は」
ポン。
風子の頭もう一度優しく叩いた。
「俺以外にいる」
そう言った彼は、風子に背中を向けた。
そして教壇に向って歩き出す。
ガン。
ポキ。
ガン。
黒板に圧力ある字をチョークで書き込んだ。
いつものように暑苦しく、そして厳しい。
そんな小山の授業は変わることなく続けられた。
ぽつりぽつりと流し続ける風子を視界に入れながら。
日常は続いて行った。




