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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第11章  如月「戦火ノヨカン」
74/81

第74話「ごめんなさい」

「スタングレネード? え? 投げるから隠れろ?」

 日之出晶は携帯電話から聞こえた言葉を復唱した。

 何を言っているんだこいつは、そんな表情である。

『晶姉ちゃん、俺、生きてたら……』

「ちょっと、バカ……って、もう……」

 海軍少尉であり、幼馴染である大川一貫(オオカワイッカン)からの電話。

 彼は外の状況を知らせようと気を効かせるために電話を繋げたままにしていた。

 だが、何か別のことをしているのだろう。

 彼の声は聞こえない。

 カクン。

 うなだれる晶。

 携帯電話を持っているのは彼女だけ。

 学生達は研修であっても課目中は携帯電話禁止なので、学校に置いてきている。

 そして、他の教官達は捕まった時に没収されていた。

 一方、晶はプライベート用と仕事用を二つ持ち歩いていた。そして、異変が起こった時に機転を利かせ、片方をとっさに胸の間に隠してたのだ。

 そうやって没収を免れていた。

「副官、例の彼氏でも乗り込んでくるんですか?」

 口笛を吹いて軽口を叩くのは綾部軍曹だ。

 キッと晶は睨みつけるが、綾部は覗き窓から外を伺っているので気付かない。

「え? 電話の相手って彼氏なんですか? てっきり弟かなんかだと」

 そう興味津々な態度でぐっと寄って来たのは三島緑だ。

 普段の晶からは考えられないような声が聞こえていた。

 しかも暴言も数々吐いているが、何か親し気な感じもする。

 だから緑はそう感じていた。

 それにしても、と彼女は思う。

 外では佐古がひとり奮闘しているのかもしれない。

 大吉は負傷し、けが人もいる。

 そんな中の会話にしては不謹慎にも聞こえる。

 いや、こんな時だからこそ、どうでもいいことでも会話をしたくなる。

 でも、そうするべきだ……と彼女は思うことにした。

「ああ、もう……そんなんじゃないから、知り合い、海軍陸戦隊の小隊長」

 と正直に答えない晶。

「タラップで絡んでいた男の人ですね」

 緑の目がキラキラ輝く。

「やっぱり、じゃあ、最後の『晶姉ちゃん、俺、生きてたら……』は、愛の告白ぅ!」

「なんで聞いてる!」

「プロポーズとか……なに、アニメみたい!」

「だから! なんで聞いてるって」

 晶も緑に対して言い方がきつくなるのは仕方がない。

「こんな静かな場所だから、音ダダ漏れですよ」

 ボソッと別の学生――京――が言った。

 寡黙で真面目な学生長の一言だ。

 珍しくちょっと拗ねた言い方だった。

 それが晶には効いた。

 みるみるうちに彼女は赤面し、そして瞳がクルクル渦を巻いて回った。

 そんな彼女の態度を見て学生達が笑いだす。

 いつものお堅い副官の違う姿を見たからだ。

 それは、バカにするというより、可愛らしい、遠い存在がとっても身近になった気分になったからと言った方がいい。

「……副官って、見かけによらず、あんなダメ人間が好きとか、病んでる」

 ボソっとサーシャ。

 たまにこの子はとどめを刺す言葉を平気で言う。

 まあ、大川一貫に去年の五月に絡まれた被害者だ。

 そう思うのも仕方がない。

「まじで……うわ、俺、今失恋した」

 そう言ったのは次郎。

 学生達の間で、目立たないようにションボリしているのは京だった。

 憧れのお姉さんである。

 学生達の反応を十人十色。

 ただ、こんな状況にも関わらず、学生達はガヤガヤ騒ぎ出して、なんか楽しそうな雰囲気になっていた。

 俺の晶ちゃんを返せ―。

 とか叫んでいる男子達。

 調子にのって、ちゃん付け。

 この状況でなければ、説教部屋行きだろう。

 私の晶様をっ。

 と、絶句している女子数名。

 カッコいいから、一部の女子の憧れでもある。

「大人気で羨ましいですね」

 ぼそっと林少尉。

「ち、違うから、あの子はほんとダメだし弱いし、泣き虫だし、だから、好きとかそういうのじゃなくて、あの、その、弟よ、弟」

 二十八歳もこじらせると子供相手にこんな状態である。

 寡黙な林もクククと笑う。

「こら! 林少尉、笑わない!」

 学生に怒りをぶつけるわけにもいけないので、とばっちりは先ず身近な後輩に向いていた。

 ちなみに林は格闘の試合で彼をボコボコにしているため、面識はある。

 いつも避雷針になっている無精ひげ――綾部軍曹――は真剣な顔をして扉の向うを見ていたのでさすがに絡めなかった。

 晶は不思議に思う。

 場の緊張がほぐれてきたからだ。

 怪我をしているボブもサーシャも笑っている。

 そして、横たわっている大吉も。

「大吉……副官に彼氏いたって」

 次郎が大吉のそばにいってそう言った。

「……どうでもいい」

「え?」

「もう死んでいい、俺」

「……大吉、お前」

 次郎がギュッと大吉の手を握る。

「だって、風子さんの膝枕……」

 正座した風子。

 その膝に大吉の頭が乗っていた。

「そんなこと、冗談でもやめて」

 大吉が口元を緩めた。

「やっぱ、俺じゃだめ」

「そういうことじゃ……なくて」

 赤面する風子。

「……だって、わたしは撃てなかったから」

 風子は泣きそうな顔になる。

「しょうがない、俺はたまたまやっただけ」

 次郎が横から口を挟む。

「俺は、あんまり覚えてないんだ……ほんと、キレるってあんな感じなんだろうな……なんていうか気持ち悪いっていうか……本当に人を殺そうとしたんだから」

「ごめんな」

 大吉が謝った。

「なんで、お前が」

「ごめん」

 もう一度大吉はそう言って風子を見上げた。

「風子さんが撃たなくてよかった」

「……よくない」

「次郎が殺さなくてよかった」

「よくない……」

 二人の否定に対し、大吉は優しい笑顔をつくった。

「よくなくない」

 ゆっくり、そしてはっきりそう言った。

 そして、いつもの生意気な顔に戻る。

「膝枕ゲットしたんだから、結果オーライじゃね?」

 明るくふるまう大吉。

 だが、固まってしまった。

 風子がブルッと震えて、大粒の涙を落としたからだ。

「ごめんなさい」

 彼女はそう言って、泣き顔にならないまま、涙を落とす。

 もう大吉も次郎も黙ることしかできなかった。

 そんな三人の会話に耳だけを傾けていた幸子。

 サーシャの隣に座り、彼女の顔の傷を消毒している。

「入りずらい」

 ぶーくれた顔のサーシャ。

 あの三人に絡みたいが、そういう雰囲気じゃないので羨望や嫉妬も含めてそんな顔をしたのだろう。

 幸子は何もいわない。

 同じことを思っていたから。

 ただ、彼女にすればサーシャも羨ましかった。

 そうやって声に出せるというのが羨ましい。

 そして、そんな風子に嫉妬してしまっている自分が憎らしい。

 こんな緊張した空間であっても、怪我をした大吉が気になってしょうがないのに、あの場所は自分が居たかった場所なのにと悶々と考える自分だ憎かった。

 そんな様々な想いが交差している空間。

 だが、そこにいる学生も、大人もなんとなくはち切れそうな危険な緊張は解れていた。

 先任者としてここの指揮を任されている晶は正直ほっとしていた。

 学生達が恐怖で泣き叫んでもしょうがない状況だ。

 あの一言でこういう雰囲気を作ってくれた綾部にほんの少しだけ感謝した。

 だが、彼女にはもうひとつの心配がある。

 もちろん、外にいる中隊長とは別に。

 ――で、あのバカは、本当に突入……?

 さっきの言葉を思い出す。

 体の血が引き、そして冷汗が噴き出た。

 嫌な感覚。

 まさかと思う。

 あの子――一貫――がそんなことをできるはずがない。

 あのビビリでチンピラぐらいにしかなれないような者が集まった小隊だ。

 命をかけてまで、彼の指揮に従うはずがない。

 行くぞ、といっても誰もついていかないだろう。

 晶は一貫の率いる海軍陸戦隊の面々を思い出す。

 とてもじゃないが、突入とかそういう訓練に精通しているようには見えなかった。

 少年学校の面々と格闘の試合をして全敗するような連中だ。

 そんな姿を思い出して、そして晶は落ち着いた。

 ありえないとわかったから。

 ――大丈夫、あの子はこない。

 ――できるはずがない。

 彼女はふと携帯電話に目を移す。

 微かに声が聞こえたような気がしたからだ。

 スピーカーの奥からは、ガサガサという音ばかりで何かはわからない。

 動いているのはわかる。

 何をしているのか、と、気になってしょうがない。

 その時だ。

『今か……突入す……ら、それじゃ』

 一貫の声が一瞬入った。

 ハンズフリーで話しているせいか雑音がひどく声が聞き取りにくい。

 だが、彼女にはわかってしまった。

 扉に跳びつくようにして彼女は綾部の横に立つ。

「どうかしま……?」

 あまりの剣幕に驚いたため、綾部は途中で言葉を止めた。

「あの子が……突入するって」

 彼女が覗き穴に顔を近づかせようとした時だった。

『……投げたっ!』

 携帯電話から聞こえた声に反応して、晶と綾部は覗き穴から目を離す。

 その瞬間、覗き窓からカメラのフラッシュを数倍にしたような光、そして艦を揺らすような大音響が鳴り響く。

 スタングレネード。

 強力な音と光で屋内にいる人員を制圧する兵器だ。

 普通の手榴弾とは違い、破片効果は一切ない。

『……進めっ!』

 一貫の気合の入った号令が携帯電話越しに聞こえる。

 彼女は抱きかかえるようにして携帯電話に耳を当てた。

『……あれ? もう一個? ちょっ、まって』

 その声はいつもの一貫だった。

 残念な感じ。

 いつもの一貫。

 そんな間抜けな声がした後、もう一度、光と音が格納庫で踊り狂った。

 誰かがタイミングを外したらしい。

 二つ同時に投げる予定が、時間差で入れたようだ。

 突入の連携動作なんて、周到な訓練をしていなければできるものじゃない。

「林少尉はここを守れ! 綾部軍曹! 外へ出て援護を」

 晶はとっさに判断してそう言った。

 携帯電話からは雑音しか聞こえない。

 先ほどの衝撃で一貫が持っている携帯電話のマイクが壊れていた。

 何にしても状況が変わった。

 そういう時は、前に出る。

 彼女はそういう状況判断をしていた。

 扉を開ける。

 そしてため息をついた。

「ほんと、バカ」

 そうつぶやいていた。 


 スタングレネードの爆発があった瞬間、佐古はその光で目がおかしくなった。

 彼は目を閉じ、そしてそのまま正面に飛び込んでいた。

 迷いのない動作。

 同じく目をやられた対峙していた男は、当たりかまわず乱射していた。

 佐古は気配だけを頼りに軍刀を抜く。

 そして相手の喉を掻き斬っていた。

 狙わない射撃ほど怖いものはない。

 敵が連射をしてきた時点で佐古はそう判断したのだ。だから、飛び込んでいた。

 佐古は返り血を浴びながらも、様子をみるために燃料タンクの裏に隠れることにする。

 ところどころさっきまでの銃撃戦で一か所穴が空いて漏れていた。

 だが、ガソリンの様に爆発する心配はない。

 航空燃料は鈍感で揮発もしにくい。

 それでも、その匂いは強烈で、佐古は耳も、目も鼻もおかしくなっていた。

 ひりひりする耳。

 二発も投げ入れたどっかの馬鹿に対して、何かいってやろうと考える。

 だが、とりあえず目の前のことに専念することにした。

 気配はまだする。

 しばらく様子を見よう。

 彼はそう考えると、息を殺し、気配を消しながら移動した。

 一方、佐古の予想通り、敵はまだ生き残っていた。

 次郎とやり合った相手だ。

 その男は今の状況を把握しようと、チカチカする目と、ヒリヒリしびれている耳をなんとか駆使して探っていた。

 この襲撃についてはこう思っている。

 海軍の特殊部隊にしては出番が早すぎる、と。

 いろいろとおかしいことが多すぎるのだ。

 だから、様子を伺うことにしている。

 目が回復していくうちに、その姿が見えてきた。

 そして、よく見てみると突入してきたのは、ずぶの素人である金澤海軍陸戦隊だったことを確認する。

 男は安心するとともに、驚いていた

 こんな奴らが来るとは夢にも思わなかったからだ。

 まず、彼らにそんな能力がないことを知っていた。

 まさか一貫の小隊が輸送艦に小型高速ボートを接舷し、縄を伝って登ってたなんて想像ができなかった。

 男はヘリで乗り移ってくるであろう、海軍の特殊部隊である特別陸戦隊(マル陸リク)を警戒していた。

 だから、そんな古典的な乗り移り方を堂々としてくる相手を見落としていた。

 ――だが……。

 男は考えた。

 余裕はある。

 小銃の持ち方ひとつで相手の練度は把握できた。

 男からしてみれば、素人と変わらない動き。

 脅威ではない。

 ただ、スタングレネードのやり方は上手かった。

 一発目はすぐに予想できたので対処できた。

 だが、突入と同時に二発目を入れられたことは予想できていなかった。

 味方もろとも巻き込むように爆発させるなんて聞いたことがないからだ。

 真っ先に突入してきた小隊長らしき男はのたうち回っていた。

 だが、やるな、と思ったのもそこまでだ。

 後は理解不能だった。

 彼にしてみれば、そこから陸戦隊は何をしたいのか、さっぱりわからない行動をとっていた。

 すぐに制圧すればいいものの、後続が来ない。

 扉の向うで中の様子を伺うだけなのだ。

 まさか、タイミングを間違えてスタングレネードを投げ入れただけだったなんて、男の常識の範疇を超えていた。

 男はそれでも考える。

 ここからどうすべきか。

 少なくとも仲間は四人。

 なんとかコンタクトして連携しなければならないと思っている。

 だが、残念ながら男の認識と現実はずれていた。

 仲間はもういない。

 すでに佐古が二人を、そして陸戦隊がひとりを戦闘不能にしていた。

 そんな突入した陸戦隊の元に駆け寄る男。

 綾部が叫びながら走っている。

「こっちに向けるんな! 味方だ、味方」

 格納庫の入り口でそわそわしいてい男達に文句を言った。

 彼らは小銃の銃口を綾部に向けたため、そのようにどやされているのだ。

「制服を見ろ! 陸軍だっての! くそ、小隊長はどこに……あ」

 そう言った瞬間、綾部はげっそりする。

「クソ少尉……なんでここに転がってるんだ」

 四つん這いになって立ち上がろうとする陸戦隊の男。

 明らかに目を回している動きだ。

 ヨタヨタしている。

 声に反応しないため、もう一度綾部は大声で叫んだ。

 その声にやっと振り向く一貫。

 耳がバカになっているようだ。

「た、助けに……」

 一貫は、立ち上がろうとするが頭がクラクラして立てないようだ。

「なら、早く助けてみろ!」

 綾部は意地悪を言う。

「お、お……お」

 挑発され、気合で立とうとするがフラフラした後、尻餅をついた。

 頭を抱える綾部。

「……敵は?」

「……わからない、ひとりは仲間が撃った」

 よく見ると腹部から血を流す男が近くに倒れている。

 一貫はそれの光景を見て、体を硬直させる。

 びびっていた。

 綾部は一貫の情けない姿を無視して男に近づくと、その握っている短機関銃を蹴り飛ばした。

 仰向け、そして両手も見えているので手榴弾を隠しているようには見えない。

 それを確認して一安心した。

 そんな彼の元に近づく足音。

 いつまでも綾部が顔を出さないため、様子を見に来たのだろう。

 晶が顔を見せたので、綾部はにっこり笑った。

 彼女は綾部を確認しそれから地面に座り込んでいる一貫を見た。

「一貫!」

 悲鳴に似た声、彼女は慌てたそぶりで地べたの男に駆け寄った。

「バカ、本当にバカ」

 何か怪我をしているんじゃないかと、彼女は心配して気が気ではないのかもしれない。

 人というものは、感情が溢れるとボキャブラリーが貧弱になる。

 そう言えば、さっきの中隊長と自分もそうだったな、と綾部は思った。

「自分に向けて爆発させるバカなんていない、それに、あなたが来なくたって、大丈夫だった、わざわざ危険なところにくるなんて……もし、わたしがいたからなんていったら……殴るから」

 溢れ出す感情を垂れ流すように晶は一貫にぶつけた。

 そこまで言われたら、彼は何も言えない。

 仕方なくこくりこくりと頷いている。

 こんな姿を学生達に見せなくてよかったな、綾部はそう思ったがそうでもないようだ。

 ぞろぞろと学生達が現れていた。

 様子を見に来たようだ。

「林少尉! まだクリアしてないんで、下がって!」

 綾部がそう叫ぶと学生達はビクッとして後ろに下がる。

 のんきに二人がしゃべっているから、もう終わったのかと思ったんだろう。

 仕方ない。

 敵は少なくともあと三人はいると綾部は見積もっていた。

 佐古少佐の姿も見えないので、もしかしたらやられているのかもしれない。

 もしそうだとしたら、一刻も早く探して治療をしたいところだが。

 彼は短機関銃を両手で持ったまま格納庫の死角になる場所を捜索する。

 焦りは禁物だと、頭の中で警鐘が鳴っている。

 相手は強い。

 それがわかっているからだ。

 薄暗い箇所へ向かう、そしてそこの捜索を始めた。

 工具箱が並べられた棚。

 そこに見えか隠れする茶系統の迷彩服が見えた。

 綾部は照準線まで上げて銃を構える。

「動くな……」

 そう言って近づいた。

「くっ」

 反射的に声が出てしまった。そして、引き金を引く。

 単発の射撃。

 迷彩服ではなく、横合いの敵に。

 迷彩服はただの服だった。

 ハンガーにかけられた服。

 そして、刃が二十センチほどあるナイフを持った男が飛び込んできた。

 体のラインがわかるほどにフィットした長袖の黒シャツ。

 男は脱いで、古典的な罠を仕掛けていた。

 射撃は間に合わない。

 男を逸れていた。

 利き腕ではない射撃。

 待ち構えていた男は先手を打つことに成功した。そして、正確に綾部の喉元を狙ってナイフをふるっている。

 男は手ごたえを感じた。

 確実な間合い。

 一撃で仕留める場所。

 だが、綾部がとっさにカバーした右手に受け流されていた。

 包帯でぐるぐる巻きにされた右手。

 応急処置で止血の為に縛っていたプラスチックのシャープペン。

 直に刃物が皮膚に触れるのと、触れないのはプラスチックであっても大きく違った。

 綾部はなんとか態勢を取りなおそうと、左手の銃を離す代わりに棚を掴む。そして、そこを支点にクルリと体を回転させ着地した。

 反撃をしようと拳を握った時には相手はいない。

「敵! そっちだ!」

 格納庫の中心を真っすぐに走っていく男。

 こうなれば子供を人質にするしかないと思ったのだろう。

 学生達の方へ一目散に走っていく。

 格納庫入り口の陸戦隊の隊員が射撃をするが当たらない。

「ばっか野郎! 味方がいるだろう! 安全間隔を考えろ!」

 扉の向こうの陸戦隊を指揮しているゴツイ顔をした二等兵曹が怒鳴っていた。

 射撃は止んだ。

 だが、その射撃音が味方とは知らない教官達は、それに対する防護を優先した。

 このため、座り込んでいる一貫も、晶も走る男への対処ができない。

 それは林少尉も同じだった。

 学生を掌握して指示することを優先していた。

 走る男に対して、もう大人の障害は何もない。

 男は助かろうなどとは思っていない。

 もうすでに自決以外の選択肢はないと覚悟はできている。

 だが、可能性は諦めていない。

 時間を稼ぐ。

 そうすれば何か打開策があるかもしれない。

 今は何もないが、目の前に獲物はぶら下がっている。

 男は直感で動いていた。

 目に写るのは、さっき自分を投げ飛ばした少年、それから撃てなかった少女。

 あと数歩。

 だが、男は足を縺れさせてしまった。

 横合いから、何かに足を刈られたからだ。

 倒れながら男は何者かを見た。

 頬を腫らした金髪の娘。

 制服は血で汚れている少女。

 低い姿勢で滑り込み、右手を支点に体を回し、鎌のよう男の足を刈っていた。

 その刹那、男は彼女の光を帯びた青くそして力強い瞳を見たため、反射的にナイフを投げてしまった。

 サーシャはそれをなんとか避けるため、バランスを崩しながらも地面を転がる。

 男も同様で、前回りで受け身を取った。

 だが、サーシャとは違い、すぐに動ける態勢をとれていた。

 手には足首のポケットから取り出した小型のナイフ。

 そして、男は止まった。

 学生達との距離は十五メートル。

 サーシャは二歩で届く間合い。

 目の前で対峙しているのは、あの撃てなかった少女だ。

 風子はさっきと同様銃を構えている。

 男は無視をしてサーシャを向く。

 どうせ、撃てない。

 撃ったとしても当たらないことを確信していた。

 ――このロシア人を人質に……少し傷つけて動けないようにするか。

 男は躊躇なく動いた。

 だが、それは風子も同じだった。

 大吉を傷つけた原因を作った自分。

 ――もう、二度と、ともだちを傷つけない。

 彼女はそう叫ぶ代わりに、ともだちの名前を読んだ

「サーシャ!」

 だめだ。

 大吉が叫ぶ。

 次郎も手を伸ばす。

 だが、彼女はその引き金を引いた。

 しっかりと男の上半身を照準線に入れたまま。 


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