第71話「〇九三〇 おとなたち」
前田通は震える膝に手を当てた。
収まらない。
それはそうだ、当てた手も震えているのだから。だが、それとは逆に表情は余裕があった。
必死だったからそういう表情を浮かべていたのかもしれない。
――きっとうまくいく。
――ちゃんとできる。
彼女は自分にそう言い聞かせていた。
思惑通り輸送艦から邪魔な人々は出て行っている。
総員退艦をかけた艦長に少しだけ感謝した。
軍人なんてまともな人間はいない、そう思っていたからだ。
「これでいいかな」
艦長は落ち着いた声でそう言う。
通が艦橋から窓の外を見下ろした。
接岸部分のタラップのまわりに、水兵の服を着た男女が集まっている。
さっきの放送を聞いて大人しく降りていった乗組員達だ。
「賢明な判断です」
通はちらり視線を動かす。
大きな液晶画面に十二分割された監視カメラの映像。
その中で映し出されたモニターには、陸軍の制服を着た男女が後ろ手に縛られていた。
そんな彼らに向けられている拳銃。
「客人を怪我させるのは海軍軍人の恥」
艦長はそう言うと通を睨みつける。
紳士な対応を取っているが、これ以上変な真似はするなという脅しも入った視線。
だが、通は冷静な態度のまま視線を受けてとめている。
脅しなんて効かない。
今はもう、艦長は何もできない。
そんな状態である。
もし身内が人質なら少しの犠牲を払ってでもこの輸送艦の自由を守ろうと抵抗したに違いない。
陸軍の軍人たちも同様で、子供と一緒でなければ抵抗していたに違いない。
彼らの第一義は子供たちの保護者だった。
あの軍人たちが初動で何を優先するのか。
彼女は知っていた。
そして重要なのは過激にしてはいけないということだった。
一人でも傷つければ、特殊部隊でも投入されて、一網打尽。
それも時間の問題かもしれないが、二時間あればいい、その後なら特殊部隊に制圧されてもなんら問題はないのだ。
「次の要件は」
「みなさんを説得します」
彼女は笑顔を作る。
硬く、少し引きつった笑顔。
「港全部に響くスピーカーでこの基地の兵士に、そして私の会社への放送……もちろんすぐに止められると思いますが……そして、ネットでの配信」
「人質をとってまですることなのか?」
通は答えない。
罪悪感は少しあった。
人質といっても相手は軍人。
その理由で決定的な罪悪感は消えている。
「ただ、叫ぶだけでは止めることができませんでした」
番組を制作して世の中に訴えられるかと思った。
だが、世間は戦争というものに見向きもしない。
そもそも対岸、いや数千キロ先の出来事に興味がないのだ。
彼女は既に数社にリークしてある。
数分前に取材中にシージャックにあったことをSNSで流していた。
きっと、もうすぐ注目されるに違いない。
海軍軍艦のシージャック。
しかも港に停泊中の。
間違いなく注目を浴びるだろう。
そのうち十人でもいい、ひとりでもいい。
小さな芽が生まれればいいのだ。
市民運動というのはそういうものだと彼女は思っている。
「無駄だ」
艦長はそう言った。
「無駄かどうかは、あなたが決めることではありません」
「だが、こんな茶番、できれば早く済ませて欲しい……我々も仕事が、任務がある」
「茶番」
彼女は無表情に口を開く。
「……茶番」
もう一度口にした。
「でも、茶番ほど目だつし、誰かが見てるかもしれない」
彼女の傍らに一人の取材クルーが近づいてきた。
「降りたぞ」
彼のその報告に彼女は頷いた。そして、少佐の階級をつけた海軍軍人に視線を向ける。
航海長と書かれた名札を付けた少佐が艦長から目を逸らした。
「……艦長、失礼します」
「どうした、航海長」
その問いに答えることなく、少佐が船内電話で何か指示を出した。
そして大きく揺れる船体。
「何をしている!」
艦長が航海長の肩に手を置く。
「すみません、艦長、申し訳ありません」
彼はただ謝り続けたが止めようとはしない。
輸送艦を停泊させるために縛り付けていたロープが船上の方から外されていく。
「動かすのか」
「邪魔が入らないように」
笑顔で通が答える。
いかりを無理やり引きずるようにして、数十メートル横滑りするように動いた後で艦は止まった。
「この艦には協力していただいている方がいらっしゃいますので」
航海長に微笑みかけるが、彼は苦虫を潰したような顔で目を伏せた。
その態度に不思議そうな顔をする通。
艦長はそんな二人の状況を読んでため息をついた。
ちぐはぐな敵の態度、それがどうも気持ち悪い。
「はやく、茶番でも演説でもいいからやってくれ、そしてすぐに出て行ってくれ」
彼はそう言うとドサりと艦長の席に腰を据えた。
「大丈夫ですか? 副官」
後ろ手に縛られている日之出中尉――晶――に小声で声をかけるのは綾部軍曹だ。
晶はコクリと頷く。
恐れも不安もない表情。
強い人だ……と、綾部は正直に思った。
そんな綾部も後ろ手にされ両手の親指の根元を、太て黒いタイラップで縛られていた。
二人ともうっ血して指先が紫色になっている。
晶には悪いが、綾部はこの場に真田鈴がいないことにホッとしている。
彼女は別の用事で艦には乗っていなかった。
危険な目に合う人数は少ない方がいい。
それに自分の大切な人がいないことは、それだけでも安堵する材料だった。
学生達という大切な存在がいるとわかっていても、それが本当の気持ち。
それにしても……と彼は思い返す。
あっという間の出来事だった。
留学生達が人質になり、彼らは抵抗することなく会議室に入れられた。
あの瞬間、暴れた方がよかったかもしれないとも思う。
痩せた若い男がふたり、典型的な中年太りをした男がひとり。
だが、今は違う。
暴れなくてよかったと思う。
タイラップで緊縛する手際の良さに、綾部は気持ち悪さを覚えてからは。
――どうするかな。
敵はテレビ取材のクルー三人。
クルーの格好に変装をした何……と言ってもいい。
味方――人質――は、別室に連れていかれた留学生達と自分達大人。
引率していた、中隊長の佐古少佐、林少尉、晶、それから雑用でついてきた綾部軍曹と黒石上等兵。
血気盛んで無口な暴れん坊の黒石。
どうして、そんな男を連れてきてしまったのか、佐古は少し後悔していた。
クロが暴れそうになっていたので、中隊長から目配せされた綾部が彼を抑えていた。
そんなクロは苛立ちから貧乏ゆすりをしていた。
苛立ちマックス。
「落ち着け」
綾部はそう言う。そして中隊長を見た。
彼は目を閉じ、この状況に身を任せているような感じに見えた。
その時だった。
大きく船体が傾き、敵のひとりがバランスを一瞬だけ崩したのは。
「やめろっ!」
綾部がそう叫んだ相手はクロだった。
この好機に見える状況に反応しないわけがない。
重心が低くそして、太い筋肉の塊のようなクロ。
後ろ手に縛られたまま、姿勢を低くし頭を打ち付けるようにして痩せた男――海賊のようにバンダナを被った――に突っ込んでいった。
腹部に思いっきり肩を突き込んで、そのまま壁に抑え付ける。
胃の中身を出すような声を上げた男は白目を剥いた。
それと同時だった。
くぐもった音。
中年太りの男がその体型とは似合わぬ速さで動いていた。
無駄のない左足を使った払い。
態勢を崩したクロの足を浮かせるには十分だった。
中年太りの男は払った足の勢いをかりて、体の中心部を軸に円運動させる。そして、右手の掌底で顔面を横あいに打ち付けた。
クロが体ごと回る。
次の瞬間、顔面を鋼鉄の壁に勢いよく叩きつけられた。
うめき声をあげられないほど、クロは脳ミソが揺れている。
中年太りの男は別にたいした動きをすることとなく、左手で折り畳みナイフを取り出し刃を倒れかけているクロに向けた。
その瞬間綾部が立ち上がろうするが、けっきょく動かなかった。
いや、できなかった。
佐古が体で制したからだ。
目が合う。
冷たく、そしてその奥に怒りを封じ込めた瞳。
綾部は佐古のそれを感じた瞬間、一瞬にして冷めてしまった。
考えろ。
そう佐古は目で言っている。
「そのまま……見せしめに……ひと突きしたら……どうだ」
クロはろれつがまわらないため、途切れ途切れにそう言って挑発する。
男は返事の代わりに顔面を足の裏で打ち付けた。
鈍い音が響く。
綾部は歯を食いしばり衝動を堪える。
目を細めてその光景を見ている佐古。
彼にとって、クロは守るべき対象ではあるが、もっと優先順位が高いものがある。
だから、今は自重していた。
一方晶は唇を嚙みしめたまま佐古を見ている。
彼女も今は様子を見るべきだと思っていた。
あまりにも全体の状況がわからないことだらけなのだ。
相手の掌の中にいるということはわかっている。
だから、様子を見た方がいいと考えていた。
「やれよ! くらぁ!」
這いつくばって相手の足にかみつこうとするクロ。
中年太りの男は黒の腹をつま先で突いた。
脇の下。
鍛えようがない場所。
声にならない悲鳴を上げるクロ。
「殺しはしない」
男はそう言った。
余裕の表情。
クロの脇の下のあばら骨を三本とも綺麗に砕いていたから。
激痛に耐え切れずクロは地面を搔きむしる。
だが、声は出ない。
そんな彼の姿を見て、まだ戦機がないと見ている佐古はじっと耐えていた。
今、動いてはいけない。
佐古の目的はひとつ。
そのためには、なんだって耐えるつもりなのだ。
「死んでは困る、だから大人しくしておけばいい、お前たちは殺さない、そしてぜったいに死なせない」
中年太りの男が言った。
敵が吐く言葉ではない。
だが、彼は味方ではない。
あまりに行動が伴っていない発言。
違和感しかない言葉。
捕らわれた彼らには何よりもその言葉がとても薄気味悪いものに聞こえていた。
前田通は演説を続ける。
白けた顔を向ける艦長。
彼女は横目でそれを見ていたが、気にしていない表情だった。
ただ、真剣な眼差しをカメラに向けている。
艦内放送で響く声。
こんな話を聞く人間はいるのだろうか。
艦長はそう思う。
きれいごとを並べたステレオタイプの言葉。
こういう言葉が響くとは思えない。
そんな艦長の顔色が一瞬にして変わる。
会議室のカメラに映し出された金髪の少女が横たわる映像。
黒人の学生も羽交い絞めにされ、数発殴られている。
「話が違うじゃないかっ!」
艦長が非難の声を上げた。
『食堂』という表示のある別のモニターでは、陸軍の制服をきた男が足蹴にされている様子が映る。
演説を止めた通。
モニターに食い入るように見入る。
「……何やってんの」
つぶやくようにもう一度言った。
そして怒りの表情に一変させ、マイクに怒鳴りつけた。
「人質を! やめろ! 子供に手を出すな!」
だが、彼女の声は艦内の拡声器には伝わらない。
艦橋にいる、別の男がスイッチをきったからだ。
「やめろ! やめなさい!」
必死に叫ぶが艦橋に響くだけだ。
しばらくして彼女はそれが拡声器から聞こえる声ではないことに気付く。
モニターには倒れたままの少女。
不穏な空気に包まれ、彼女はたまらず振り向いた。
「誰があんなことをしろと」
艦長は何を言っているんだという視線を向ける。
だが、彼女は艦長に言ったわけではない。
その奥にいるカメラやマイクを持ったクルーに言ったのだ。
先ほどまでとは能面が貼りついたような、喜怒哀楽なんとでも読み取れそうな表情のカメラマン。
ゾッとするような寒気を覚えながら彼女はもうひとりの仲間を探す。
いた。
だが、動いていない。
マイクを持っていた男は地面に倒れていた。
「客人に手を出さないと……」
許さない。
艦長はそう口を動かした。
艦橋の入り口方向に海軍の陸戦服を着た男達を認めたからだ。
彼は頭を下げる。
総員退艦。
彼がその言葉だけを繰り返したことは意味があった。
この艦の内規でその際は必ずサイドパイプで信号を送る決まりなのだ。
それを入れずにやっていた。
つまり信号がないというのは、それだけで艦橋で『異状あり』という信号だったのだ。
もし、何かあれば。
そういう準備をしていた。
こじ開けられる艦橋の入り口。
飛び込む影が二つ。
この輸送艦には海軍特殊部隊である特別陸戦隊の一個班十名が乗り込んでいた。
彼らへの合図だった。
そして、艦長の狙い通り彼らが突入してきた。
海軍の陸戦服を着た男達。
肩には小さく〇に陸と書いたワッペン。
艦長がモニターを確認する。
だが、彼の表情は一瞬にして曇った。
人質の部屋は変化がなかったからだ。
そして、気付く。
彼のいるこの環境も、変わっていないことに。
ズサリ。
柔らかく重いものが床に転がる音。
立ち上がった影もマル陸の男。
転がったのもマル陸。
「これで、マル陸も終わりか」
そう言ったのはカメラマンの男。
頷くふたり。
マジックテープが剥がれる時の音――独特のビリッという音――を立て、丸いワッペンをはがす。
そして地面に捨てた。
カメラマンは笑う。
「艦長、静かにしていただきたい……もう、あなたがたの抵抗する道具はなくなりましたから」
彼は転がる特殊部隊の男を見下ろしている。
「こんな暴力的なことを……だれが指示を」
状況を掴めていない通が声を荒げ艦長とカメラマンの間に割って入ろうとする。だが、彼女はそれをができないままカメラマンの男の前で倒れた。
息が一瞬にして詰まる胸の急所をひと突き。
「客寄せパンダもこれにてお役御免……あんたの彼氏さんはモスクワでどんな顔をしているんだろうねえ」
楽しそうな表情をするカメラマン。
「メインは見せれないが、きっと素晴らしい映像が取れる……そうすれば君が望んだ通り、モスクワからこの国は手を引くだろう、彼氏くんも助かるかもしれない」
彼はマル陸のワッペンを外した男達に視線を送る。
そして、艦長に話しかけた。
「大丈夫です、あなた方大人は殺しません、ぜったいに死なせませんし、ここから動くこともできません」
彼はそう言うと、格納庫で身を寄せ合っている学生達が映るモニターを見て笑った。
「大人が生き残らないと、このショーは意味がなくなります」
『艦内の陸軍少年学校の学生に告ぐ、今すぐ格納庫のハッチに集まるように、大丈夫、そのまま出てくればいい、そこにある火器には絶対に触れないように』
佐古は少し指を動かした。
タイラップで締め付けられた親指の感覚がない。そして、その部分はとても冷たく感じた。
『さっきの侵入者は制圧した、大丈夫、君たちはすぐに保護する』
目を閉じたまま。
敵が何をしようとしているのか。
前田通のおきれいな言葉。
沈黙。
そして、今の放送。
いまだ、侵入者といわれる者たちの一部は目の前にいるのだ。
あまりにちぐはぐした行動だったから混乱していた。
だが、今はわかる。
彼らが欲しいのは、子供の犠牲。
ただの子供ではない。
戦場――のような場所――で武器を持って戦う子供。
少年少女兵の犠牲だ。
二十年前、大きな犠牲を出した少年兵の想い出。
子供を犠牲にする大人の姿。
絵になるだろう。
それを実際に生々しく映像で送ろうというのだ。
気に食わない。
佐古にしてみれば、ロシアへの派兵など、どうでもいいことだった。
お涙頂戴で引き揚げろとなっても問題ない。
だが、夏のサーシャ襲撃といい、今回のこれといい弱者である子供達が狙われることだけが許せなかった。
あの夏。
躊躇することなく、敵を撃ったこの手。
あの頃。
二十年前にゲリラをやっていた時は、指がガチガチに固まり、そのせいで震えていた。
引き金の指に力が入らないぐらいに。
――きっと、目の前の工作員さんもそうなんだろう。
彼はそう思う。
守るものがあるというのは、人間を人間じゃなくすることじゃないのか。
と。
人を化け物に変える最高の理由なのだ。
だから、なんとかしなければならない。
彼が晶や林、そして綾部に視線を送り指示をしようとした時だった。
綾部はすでに動いていた。
立ち上がると同時に、近寄っていた痩せた男の顎を石頭で突き上げた。
男が持っていた拳銃が地面を転がっていく。
そして彼は中年太りの男に体を向けた。
男の手にはナイフ。
「動くな……そんな状態で何ができる」
後ろ手になり身動きが不自由な態勢。
ナイフを構えた相手に蹴りのみ。
しかもバランスがとりにくい状態。
対ナイフのセオリーとしては、その武器を無力化するか、一撃で倒すような技を仕掛けるしかない。
こんな狭い空間。
ハイキックで脳ミソを揺らす方法もあるが、そんな大技をナイフ相手にやることこそが自殺行為でもある。
「この野郎……なんだよ動けるデブって反則だろ」
綾部はどうでもいいことを呟く。
「諦めろ」
諦めない。
彼は待っているから。
狭い艦内。
スッと伸びる手。
敵の足首を掴むゴツゴツした手。
その刹那。
綾部が待っていたもの。
クロが唸り声を上げながら左手を伸ばす。
そして掴んだものだった。
もちろん、握力もなくなっていたので、男が振り払うとすぐにはずれてしうものだったが。
それで十分だった。
綾部は後ろに倒れるように身をかがめ一回転後ろ回りをする。
そして、後ろ手になっていた腕の輪を体の下に向け飛び越えた。
前方に向けられた両手。
「……そんな状態で何ができる」
中年太りの男は同じ言葉を言った。
彼にとっては繋がれた両手が前だろうが後ろだろうがどうでもよかったのかもしれない。
その右手と左手が離れない状態ならよかった。
綾部がモーションを極力入れず飛び込むようにして間合いを詰める。
その速さに男は驚愕したがすぐに持ち直す。
綾部の動きは並みの速さではなかった。
それでも不利なことは変わらない。
手を縛られ、そして相手はナイフを持っている。
ストンと下半身を落とし、手首を返して人間の一番前に出る場所――膝――を狙う。
もちろん綾部はそのことを予想していた。
だから、その場で足を滑らせるようにして皮一枚膝を下げる。
空振り。
いや、その軌道を小さく最小限回転させ、次のターゲットである顔面まで切上げる。
彼は顎を上げるようにして顔面をその軌道から外すようにしたが、間に合わず左の頬の皮膚が切り裂かれた。
綾部は怯んだ表情を浮かべる。
誰もが顔面に刃物を向けられた瞬間、怯むものだ。
一対一の場合、小まめに動かし相手の恐怖を誘う。
指、膝下、顔面。
急所ではないが刺さずにカッターで紙をスッと切るように皮膚をだんだんと傷つけるのだ。
そうすれば相手は焦りとか恐怖と言ったものを見せる。
そしておしまいである。
油断ができたところで、喉、首元、レバー、致命傷部位ならどこでもいい。
ブスリと刺せばそれで終わる。
もちろん、今回は『殺すな』と命令されているので、止血すれば大丈夫なぐらいに体を切り裂こうと思っているが。
そして男は綾部の手首を狙う。
軽くだ。
軽く傷つければ、更に怯む。
男はそう思ってナイフを躍らせた。
怯んだ状態ならば、この程度の攻撃で相手が引くと思ったから。
だが綾部は不敵な笑みを浮かべ突っ込んできた。
芝居か。
男はそう思う。
だが、それにしては、中途半端な間合いだ。
タックルにしては遠い。
やはり破れかぶれになったからかと男は思った。
それでも、一歩間違えば相手にショルダータックルをくらう可能性もある。
男は念のためナイフを手元で返し、痛みを与えようと手首を曲げた。
狙いはその手。
だが、綾部は怯まない。
複雑に動くナイフの刃先に、不自由に繋がれた両手の親指を突き出した。
「狂っている」
男は思わず声が出た。
「狂っちゃーねえ」
ナイフの刃が親指と親指の間に吸い込まれる。
そして、タイラップに当たった。
途中、綾部の左の親指の肉をそぎ落としながら。
凄惨な笑顔を浮かべる綾部。
パツン。
その光景を見ていた佐古達にもそんな音が聞こえた。
「さあ、自由になったこの右手、どう使うか知ってるか?」
綾部はそう言いながらも、すでにその使い方というものをやってみせていた。
握りしめた右手の拳。
血を噴き出しながら、男のナイフを持った手を掴んだ左手。
その手でグイッと引っ張ると同時に顎を突き上げていた。
左手からナイフが落ちて派手な金属音を響く。
綾部はそう言うと打ちぬいた右手の拳をもう一度握りなおした。
ふらついた男の頭のてっぺんを左手で鷲掴みにして前のめりにする。
そして、打ちぬいた腕を返す勢いで肘を後頭部の付け根に打ち落とした。
「工作員ってのも、たいしたことねえな」
彼はそう言って男を見下ろす。
布を食いちぎる音。
彼はボタボタ落ちる指先の血を止めるため、切り裂いた布と胸ポケットに入ってあるシャープペンシルを取り出して冷静に止血を始めた。
「あと一分下さい、すぐにソレ、切りますから」
綾部はそう言いいながら布に通したシャープペンシルをクルクル回す。
慣れた手つきうまく巻き上げ締め付け、止血をする。
「その前に」
彼が向かう先はカメラの目の前。見上げたカメラに向けあっかんべーをした。
少し離れて不敵な笑みを浮かべる。
そして彼はカメラに向けパイプ椅子を思いっきり投げつけ、その機能を停止させた。




