第7話「でれでれ女子を見るな!」
陸軍少年学校は、関東、東海、北陸、近畿、九州に一ヶ所づつ第一〇七から第一一一までナンバリングがついた学校が存在する。
それぞれの学校は、一般の高校と同じ三学年制であり、学年毎に三クラス、一クラスあたり三〇人程度、計二七〇人の生徒が在籍していた。
また、学校は部隊でもあった。
独立歩兵大隊として学校の下二桁と同じナンバリングとリンクした第七から第一一歩兵大隊が編制されている。
学生は学校と部隊、両方に所属して、兵士としての扱いも受けていた。
独立歩兵大隊には学生ではない現役の兵士と、学生の軍事教育や生活指導の教官を兼ねている将校、下士官が存在し、有事は実戦部隊として行動できるようになっていた。
もちろん学校には軍人だけでなく通常の教科を教える一般の教諭もいる。
高等学校の教育はやはり教職員の免許をもっている民間人――軍属としての身分がある――も必要なのだ。
なかなか理解し難い組織だと思う。
内乱により二つに分裂した国家。
その動乱の名残でもあった。
如何に戦力を確保するかということから生まれた苦渋の編制。
学校という部隊ではない機関として編制すれば、どうしても装備の予算が付かなくなる。だが第一線部隊となれば、予算が入る。
当時、少しでも軍事予算を多く手に入れ、部隊単位を増やすことに必死だった陸軍が知恵を搾り出した結果だった。
現に各少年学校、特に東の国境に近い関東、北陸の学校にはその世代の最新の兵器が装備されいる。
今でも有事になれば、最新の整備技術、装備を持った学生が後方支援に回り、現役組は再編成して、すぐに第一線に投入できるようになっている。
そのため、各陸軍少年学校のトップは教育総監(中将)、次に陸軍少年学校長(少将)の下に各少年学校長兼独立歩兵大隊長(中佐)が存在し、独立歩兵大隊の上位には混成連隊長(大佐)、軍司令(中将)と、二重指揮を受ける状態になっていた。
そういう訳で現役の兵士でさえ混乱するような指揮系統になっていた。
まして組織に関する知識のない学生に理解できるはずもない。
とりあえず、次郎たちは学校の勉強は一〇九少校の学生として受け、軍事訓練は独歩九大隊の兵士として受けているという認識ぐらいしかない。
ちなみに、大隊には本部中隊の他、第一、二、三中隊があり、次郎たちはその一中隊に所属している。
学校のクラス番号も中隊番号にリンクしており、例えば『一年生』で『一中隊』なら『一の一』であった。
彼ら学生の一日は午前が普通の高校生としての教育を受け、そして午後は軍事教育や装備品の整備、軍事知識、戦史、教養といった軍事教育を受ける。それ以外の時間は、少しの自由時間と自習時間を営内――寮のようなもの――で過ごし、これは大隊の軍人達――教官――が生活指導をしている。
部活はない。
部活で学ぶような文化的、体育的なもの、団結、チームワークといったものは午後の軍事の課目に含まれているからだ。
逆に夜は二時間の強制自習の時間がある。
普通の高校に比べ、科目の時間を半分に凝縮している。だが、この学校の偏差値が全国トップクラスの進学校と変わらないという事実もあった。
理由は元々各中学校では成績のいい子達を集めているというのもあるが、メリハリをつけて集中して勉強ができる環境を作っている効果のお陰とも言われている。
強制的にメリハリをつける学校なのだ。
新入生達も四月も末になってくると、そういうメリハリある生活リズムにも慣れてきた。
ただ、誰もがそういう訳にもいかず、不満が溜まる子達もいるのだ。
体を動かせば脳が活性化する人間ばかりではない。
中村風子はそれだった。
その日の夕方。
風子は走っていた。
だるい。
だるすぎた。
なんでこんなに走るのか、理解できなかった。
そう思いながらのランニング。
みんなで走っているため、前についていくことだけで精一杯だった。
胸が苦しく、肺に力が入らない。
彼女にとってはそんな苦痛の時間。
この体育の時間が嫌いだった。
自習の時間の勉強よりも辛い。
走りながら、どんどん息が荒くなる。
彼女はこんな苦痛から逃れたくて、自らの思考を停止しようとした。
だが逆にいろいろ考えてしまって、ますます苦しくなってしまう。
ランニング。
ここでは『駆け足』と言われる体育。
女子と男子が別々に走っている。
ただひたすら、列を組んで走っていた。
集団から遅れて列を乱すことは許されない。
そんな運動。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
荒く頭の中に響く自分の呼吸音を聞いて、風子はどんどん憂鬱になってしまった。
走り出した時はまだ周りの音が聞こえていた。
鳥の鳴き声、他の学生の声、足音。
でも今は自分の荒い呼吸しか聞こえない。
これが入学当初から続く毎日の日課。
一年生はただひたすら夕方になると走っていた。
まるでハムスターのようだと思う。
回転する車輪の中を走っているわけではないが、駐屯地の中をぐるぐるまわっている自分達を思うと、なんとなく同じようなレベルに感じるのだ。
全員が同じデザインのウェアを着ている。
まるで陸上部みたいな格好。
体のラインがはっきり出てしまう様な袖なしランニングシャツとベリーショートのランニングパンツ、そして色は一年生の黄色。
まだ、四月で肌寒い時期なのに、ランニングシャツとパンツでもどっと汗をかく。
ジャージを着ていても肌寒いはずなのに。
準備体操をして、寒い寒いと言いながらジャージを脱ぎ、水平直角に畳んで水平直角に並べて――初日はこれをするだけで何回もやり直しをさせられ、体育の時間が終わったりしていた――走り出すのだ。
汗をかくが、毎日このお揃いのウェアを着て走らせる。
揃ったものを着て揃って走る。
彼女にとってはすべてが気に食わなかった。
お揃いのウェアを着るため、毎日洗濯。
そして夜乾かして、夕方には着る。
確かに、生地は速乾タイプのものだが、なんとなくいい気分はしない。
つうかメンドクサイ。
人間関係は中学時代に比べてよくなっていると思う。
前向きにできている方だと思うが、こういう軍隊の訓練だけはどうも好きになれない。
後ろ向きまっしぐら。
だいたい、髪が鬱陶しい。
一部の男子みたいに坊主頭にでもしようかなと本気で考えてしまうぐらいに。
後ろ髪を束ねるぐらいに伸ばしている同部屋二年生のユキなんかは、どうやってこれを乗り越えたのだろうかと不思議でしょうがない。
走り出したらどさっと汗をかく。
髪の毛は貼りつく。
気持ち悪い。
彼女は汗の分だけ脂肪が消えていればいいと思う。
だが、走った分、夕食は食べるし、夜も間食をする。
だから体重は減っていない。
やめようと努力した。
やめてみたこともある。
でも間食をやめれたのは、三日坊主どころか一日で終わった。
もう、無理とあきらめている。
運動すればお腹が減る。
お腹が減ってご飯をいっぱい食べる。
学校の夕食は五時半。
馬鹿みたいに早い夕食、寝るまでの時間は長い。
お腹が減るから、お菓子を食べる。
体重はやっぱり減らない。
だが彼女は誤解をしていた。
筋肉は脂肪の二倍の重さである。
脂肪は体重計に現れないが、しっかりと減っていた。
かわりに筋肉が増えただけであった。
だから、突然減ったような実感はない。
体脂肪率計付体重計に乗らない彼女が、ある日、自分の逞しい足と腕に気づいてしまうのは、まだまだ先の時代であった。
――だるっ。
声に出さず、そう思った。
「中村! 遅れるな、前につけ!」
列から遅れだした風子に対して教官の頭山少尉――二中所属の小隊長で男性の教官――が叱咤する。
彼女は必死に息継ぎをしながら「はいっ」と答えた。
いつのまにか前の人と五メートルぐらい離れていた。
だから慌てて前に近づこうと速度を上げて距離を詰めようとする。
「バカ! お前が妥協をするから距離が開くんだ! お前がサボったせいでお前の後ろの奴はもっときつい思いをしているんだ!」
彼女は後ろを振り向く。
酸素が足りなくて、ぼーっとなった頭で考える。
――ああ、そうか。あたしが遅れて詰めた分、後ろの人たちはもっと長い距離を頑張って詰めないといけないんだ。
アコーデオンの蛇腹のように広がって、縮んでいく。
一番後ろの人は彼女の数倍の距離がいきなり開くような感覚になる。しかも彼女よりも長い距離を一気に詰めなければならない。
「す……すみません!」
彼女は叫ぶように言った。
「すみませんで済むか、バカ! 妥協するな!」
頭山少尉はそう言うと、今度は後ろの方に行って「前から離れるな、前につけ」と一人一人に言ってまわっている。
彼は、息を乱すことなく走り、そしてずっと叫んでいた。
そういう当番なのである。
この『駆け足』の時間は、頭山少尉が叱咤しながら顔色を伺い、一番後ろにいる女性の教官や助教――下士官の教官のこと――が遅れた者、生理とか体調不良の者などの面倒を見るような役割分担になっている。
もちろん学生にとっては、誰もが怖い教官である。
一方、教官たちはこの課目の時間は誰が叱り役で誰がフォロー役というのあらかじめ決めた上で教育をしていた。
だから、若手の少尉クラスが叱り役になり、中尉クラスがフォローにまわることが多くなる。
それで、二十四歳の若くて元気な彼がハッスルしているのだ。
学生には迷惑なことではあるが。
彼女たちにとってみれば、自分が体力あるから好き勝手言っているとしか思えない。
頭山少尉はこれだけゴツイ男達がいる中でも優男の部類に入るような顔つきなのである。
逆にそういう顔をした人が口汚く――軍隊では優しい口調の方――言うと、悪い意味で効果が高い。
――あんだけ体力あれば、妥協も何もないんだろうけど。
風子はそう思う。
だいたい女の子と大人の男の人の体力を比べる方がおかしい。
おかしい。
だんだん彼女は頭がぼーっとしてきて、何度も同じ事を繰り返し考えるようになってきた。
きつい。
止まりたい。
走りたくない。
家に帰りたい。
彼女は列から抜けようと思った。
もうどうでもいい。
とにかく、この列から抜ければすべてから開放される気がした。
その時だった。
「スミマセンで済むよね」
後ろから少し発音が変な声が聞こえた。
「日本人ってこじつけすぎ、なんか、ただ走るだけで熱くなって、変」
風子は声の方に視線を向けた。
太陽に当たってキラキラしている金髪。青色の瞳、一六〇㎝後半で女子にしては背が高い。
そして白く透き通った長い手と足が目に入り、同性の風子でもドキッとしてしまった。
「うん」
結局風子はそう応えることしかできなかった。
しゃべる余裕がないのだ。
サーシャは教官と同様に息は一切乱れていない。
だからさらっとした口調で続けた。
「根性根性言うよりも、もっとフォームとか、走り方とか教えればいいのに、馬鹿みたい」
風子はとても綺麗な顔にに似合わない「馬鹿」という言葉が気になった。そしてとりあえず彼女は頷いて、反応した。
「ふーこちゃんは、せっかく走るにはいい体型しているんだから、息が苦しくても顎を引いて、肩の力抜いて、腕を軽やかに振って、足は足先を前に出すんじゃんくて膝を前に出すようにすれば、もっと楽に走れるよ」
すごくやさしい口調のサーシャ。
風子はこのロシアからの留学生の彼女とは、最近話すようになっていた。
当初は彼女自身があまり人を寄せるような雰囲気を持っていないため、とっつきにくいところがあった。
ただ風子も同じような人間だったため、とっつきにくい者同士、話をするようになったのかもしれない。
――肩の力を抜き、膝を前に出すように……。
風子には珍しく、素直にサーシャの言葉通りのことを実行しようとした。それだけ余裕がない証拠でもある。
息苦しさは変わらない。
相変わらず彼女の呼吸は苦しそうなままだ。
今日の駆け足は四十分間走。
つまり四十分走るだけ。ペースは一定を保って、そんなに速くはしない。
課目の冒頭に頭山少尉が説明した。
速くない。
基準にしては速くない。
学年女子の平均的な速さ、それに比べて速くないだけであり、彼女のように走るのが遅い人間には常に速いレベルになる。
だから毎日が必死。毎日がいっぱいいっぱいなのだ。
サーシャは風子の体型が「走るにはいい」と言う。
――確かに、邪魔になるおっぱいもないし、背も低すぎるということはないのだけど……。
そう思う彼女に比べ、サーシャは足が長い。
ベリーショートのランニングパンツから、その白く長い足がスラッと伸びている。そして、体のラインはっきりするランニングシャツは、おっぱいがオッパイという感じで主張している。
――男だったら「たまらん」という体なんだろうなあ、私でもじろじろ見たり触りたくなるけど。
サーシャはいつも余裕で走っている。
そう考えると、走るのにおっぱいは関係ないのかもしれないと彼女は考えた。
ならせめて立派なものを欲しいと思う。
――まあ、あったらあったらで邪魔そうだし、なくてもいいような気がするけど。
どうでもいい。
彼女はそんなことをいろいろ考えていると、なんとなく息が楽になっていることに気づいた。
顎を引き、肩の力を抜き、膝を前に出すように走る。
それだけで、なんかいつもと違う感覚。
そして、駆け足の時間は終わった。
数人がゴールの瞬間立ち止まって、膝に手をついたり、地面に座り込むと、頭山少尉がいつもの言葉を叫ぶ。
「立ち止まるな! 座るな! 痔になるぞ!」
慣れは怖い。
最初、彼女達はその言葉にドン引きし、あの教官はイケメンだけど最低だ、女子に気を使えと口々に言い合っていた。
だが一月近く時間が経過すると、もうどうでもよくなり、それが普通の言葉と認識してしまっている。
「歩け! 歩け!」
羊飼いのように彼女達を芝生のグランドに追いやった。
そして、また列をつくり整理運動――体操とストレッチ――を始める。
「いっち、にー、さん、しー」
男性以上の背の高さと、ベリーショートの黒髪でボーイッシュに見える若い女性の教官――頭山と同じ二中隊所属の将校である伊原少尉――が前に出てきて号令をかけ体操を始める。
まるで、国営放送の『朝のてれび体操』のような、滑らかな動きだった。
伊原は色が黒であること以外は学生と揃いのウェアーを着ているが、一般の女性比べると健康的な小麦色の肌色と引き締まった筋肉質な体のラインが見える。
――私もこうなるのかな……。
風子は伊原のそういう姿を見ると不安になっていた。
でも、同部屋の先輩達は無駄な脂肪は少ない――二年生のユキには無駄な肉が胸についていると三年生の純子は主張――が筋肉はないので、それを思い出しては安心させる。
そうやって、疲れて動きたくない体を無理やり動かしながら体操をしていると、グランドの向こう側から「だー」とか「わー」とか叫んでる声が聞こえてきた。
体操をしながらそっちに視線を送った。
二列になって、馬跳びをしている。
一人が屈んで、それをも一人が飛び越える運動。それで列をつくってどっちが速くゴールできるかを競い合っていた。
そんな姿を見て、多くの女子が「男子って馬鹿」と思っていた。
だいたい、あんなことで勝負してなんの意味があるのだろうか、と。
体をほぐす様に動かしたあと、ストレッチを始めた。
芝生がちくちくと太ももに当たって気持ちが悪いと風子は思った。
「ふーこちゃん大丈夫?」
緑が、声をかけてきた。彼女も風子と同様汗をびっしょりかいているが、そこまで疲れた顔はしていない。
走るのは得意な方なのだ。
「うん、だいぶ落ち着いた、でも、もう走りたくない」
と風子が応えると、彼女は「ふふ」と笑って、前屈を始める。ここ一月で風子と緑は互いに「風子ちゃん」「緑ちゃん」から「ふーこちゃん」「リョクちゃん」と呼び合う仲になっていた。
足を伸ばしてぺタリ。
ぺタリ。
足を伸ばして座って、緑の膝と顔がくっつくぐらいにぺたりと体が折りたたまれたことに風子はびっくりする。
「うぐぐぐ」
彼女は気合を入れて、緑と同様にしようとするが、やっとつま先に中指が触れるぐらいしか体が曲がらない。
「げ、げんかい」
そうやって、筋肉を伸ばしていく。
ストレッチを始めたばかりの頃は、これに何の意味があるかわからなかったが、ここ最近は疲れが取れやすくなる効果が実感できてきたので、まじめにやっている。
「あ」
風子はその時、ひとつのことに気づいた。なんかさっきから、向こうの馬鹿な男子達からちらっちらっと視線を感じるのだ。
自分ではない。
そう、その答えが目の前にあった。
「リョクちゃん、下着」
「え?」
黄色いランニングシャツに透ける紫色のブラ、しかもひらひらがついている。
――体育の時はできるだけスポーツタイプのものにするか、色の目立たないものにしなさい。
確かに、女性教官から入学当初の注意事項で言われていた。
「変?」
緑は不思議そうな顔で風子を見る。
「ん、変じゃないけど、たぶん、男子が気にすると思う」
「男子?」
緑も状況がわかったらしく、少し慌てた様子だ。
「今日、これしかなかったから……どうしよう」
「あ、そうだよね。洗濯しても追いつかないもんね……」
そう言って、どうしようと顔を上げた時だった。遠くの男子に向かって、伊原が顔と体に似合わない甲高い可愛らしい声で怒鳴っていた。
「でれでれ女子を見るな! 課目に集中しろっ!!」
そそくさと、数人の男子が目を伏せた。
「うわ、最低」
ジト目で男子を風子が睨みつける。そして、男子の視線から緑を庇う様に体の位置を変えた。
茶髪の坊主頭の男子と目が合う。
――あいつ、本当に最低、緑ちゃんをそんな目で見るなんて。
坊主頭の男子――松岡大吉――は慌てて目を逸らした。
その態度を見た風子はますますイライラしてしまった。
可哀想な大吉。
大吉は緑をそういう目で見ていた訳ではない。
誤解。
彼は風子が気になってしょうがないため、目を向けていただけだった。
緑ではない。
大吉は風子を見ていた。
中学時代に『姐御』だった風子は、男子から言い寄られることもなかった。
だから、男子のそういう目にまったく気づかないのだ。
大吉の想いは空振りである。
そのうち、風子は芝生を歩く足音と、バサッという音に気づいた。
風子が顔を上げると背の高い男――頭山少尉――が立っていた。ジャージの上着が緑に掛けられている。
頭山が少し恥ずかしそうに「いいから羽織れ」と言っている。
緑も恥ずかしくなり、少し顔を赤らめ顔を下げた。
頭山はそれだけ言い残すと、そそくさと伊原の近くに戻る。
「優しいじゃないか」
意地悪な顔をしたまま伊原がすれ違いざまに小声で囁く。頭山は足をとめ、振り返った顔は仏頂面だった。
「ああいうので浮き足立つのは嫌いなんだ」
「ふーん」
面白くなさそうに伊原が返事をした。
頭山が元の位置に戻ると、伊原はキッと男子を睨み、ちらちら見ていないかを確かめながら威圧をした。
女子の方を向き、次の指示を出す。
「二人一組になれ!」
学生達は近くにいる者と自動的に組を作った。
風子には隣にいるサーシャが後ろに立って「私とやろっか」と背中に手を置いてきた。
足を開いて、体を右、左、前に倒すストレッチ。
それを後ろの人間が押して負荷をかける。
風子にとっては拷問以外何者でもなかった。
「少し痛くなるぐらいまで押すように、始めっ!」
伊原が大声で指示を出すと、学生はそれを始めた。
「いたたたたたたたたた、あたたた」
サーシャは容赦なく、風子の背中を押している。
「体を柔らかくしないと、怪我しやすくなるし、それに何かと便利」
そう言いつつ、サーシャは彼女の背中に上半身を密着させて体重を思いっきり掛けて押しているのだ、しかも手は彼女の膝を押さえ、足を曲げて逃げることもできない。
「痛い、痛いスジ、スジ切れちゃう、いででででで」
横で地面の芝生に顔をぺったりとつけている緑が笑っている。
一方風子は、涙を浮かべて苦しんでいた。
「交代!」
伊原がそう指示を出すと、今度はサーシャが地面に座り、風子が立った。
その金髪おかっぱを見下ろし、不適な笑みを浮かべている。
よっぽど痛かったようだ。
「ぬりかべえええ」
風子はサーシャと同様、彼女の背中に上半身を押し付けるようにして体重をかけた。
「さっきのお返しぃ」
「うわっ、ふーこ、優しく、して」
サーシャの弱気な態度に会心の笑みを浮かべていたが、すぐにゲッソリした顔に戻る。
緑と同じだった。
地面にぺタリとサーシャは顔を付けている。
よく見ると、彼女は足の開き方から違う。ほとんど百八十度に近い角度の開き方だった。
武術武道を幼少のころから叩き込まれていたため、彼女はとにかく体が柔らかいのだ。
「甘い、ふーこ」
ふふふふふ。と圧している胸の下からうれしそうに笑う声が聞こえる。
「なんてこった、これがお嬢様パワー」
サーシャがロシア帝国のゲイデン家とかいう由緒正しい貴族だということを風子たちも周知していた。
「ゲイデン家を甘くみないで」
彼女も乗って、ふふんと笑う。
「すごい、貴族ってみんな体柔らかいんだ」
「いや、そういうことじゃないんだけど……」
「あ、そうなんだ、面白くない」
「え、そこ?」
そんな軽い漫才をしていると、風子はまたあの視線を感じた。
彼女がサーシャの背中の上から顔を上げると、男子の目線が女子の方に向いていた。
サーシャを見る。
ぴっちりした黄色いスパッツから伸びる白い足。上半身は屈んでいるため、形のいいおっぱいが強調されている。
――男子って不憫。
ゲッソリした顔で風子はジロジロ見る男子を見返した。
そりゃ、サーシャが美味しそうな体をしているのはわかる。でも、こっちはストレッチをしているのだ。なのにそういうのを見て何が楽しいんだろうか、妄想力ありすぎじゃないか、四六時中発情期じゃないのかと思う。
男子よ。
なんでもエロに結びつけるな、エロ目線で見るな、不健全、最低、と。
「あ」
風子の視線の先にあいつがいた。
次郎はこっちを見ている。
彼女は睨み返してみた。
彼は彼女ではなく、その下にいるサーシャを見ていたのだ。
このチラ見野郎。
風子は頭の中で前言を撤回した。
エロ目線で見る男子の方がまだいいと。
許せる。
なんというかまだ健全だ。
あの、ちらちらと見るような男子はなんかよからぬことを考えてそうで、不健全だ。
むっつりはよくない。
許せない。
そう思う。
「上田次郎めっ、首元か……やっぱりおっぱいか……そりゃ、サーシャはいい形してるんだけど」
頭で考えていたつもりだけど、声が出てしまった。
「ねえ、ふーこ、ウエダジロウって知り合い?」
知り合いでもないと思う。
まあ、でも知らない訳ではない。
「うん、知り合いじゃないけど……」
「ちょっと気になる」
「っ?!」
風子は口をあんぐり開ける。
同時にストレッチも終わった。
「あっちも気になってるみたい」
サーシャは立ち上がると同時に風子に振り向いてニコッと笑った。
かわいい。
かわいい、ニコってかわいすぎる。
風子は次郎のことなんてどうでもいいぐらいに、その笑顔にみとれた。
「どうせ見るなら、堂々と見ればいいのに、ね」
同意を求められた風子は「うん、不健全」と答えた。
するとサーシャは何を思ったのかランニングパンツをめくるようにしてお尻の部分のインナーを外側に引っ張ったのだ。
明らかに上田次郎を意識しているというのは風子でもわかった。
次郎が慌てて目を背ける。
それがまた、風子のカンに触った。
そのぐらい下手なチラ見。
「ほら、変」
サーシャは楽しそうにいった。
体育の時間も終わり、それぞれグランドの端に並べて置いていたジャージを羽織に行く。
まだ四月も後半、運動を終わると肌寒い気候。
風子は足の疲労がすごかったので、もう少しストレッチや足のマッサージをするためにその場で座り込んだ。
体を伸ばす。
風子が前かがみになっていると、足音がだんだんと近づいてきた。
サーシャだった。
彼女はジャージを上だけを羽織っている姿。
「ありがと、サーシャ」
サーシャは右手にもった風子のジャージを渡した。
ジャージを貰いながら、サーシャの姿を見上げる。
「えっ」
と声が出た。
ランニングパンツにジャージを羽織っただけの彼女の姿がミニスカートのワンピースを着たような格好に見えたからだ。
「エロっ」と言いそうになったのを飲み込んだ。
ランニングパンツが見えるかどうか。
そのギリギリの線で上着の裾がふわりと動いた。
さぞ男子は喜ぶだろうなと風子は思った。
実際、男子達が、ジロジロサーシャの方を見ていた。
そんな男子の目線を気にすることなくサーシャは風子の耳元に口をやって囁いた。
「ふーこちゃんも気になっているんじゃない? ウエダジロウは、並にかっこいいんだし」
「へ?」
あまりに風子はびっくりしたのだろう。
変な声が出てしまった。
そして、その意味を理解したところで「まったく気にならん!」と言おうとしたが、言葉がでなかった。
いろいろ考えてしまったため。
なんだろうサーシャはあいつが気になるんだろうか?
そもそも、こんな美少女がなんであいつを気にするんだろうか?
するとサーシャはその場でぴょんぴょんと跳ねた。
ジャージの裾がふわふわと浮いた。
ランニングパンツがチラチラと見えた。
さっきまで、女子たちが堂々と見せていたランニングパンツ。
だが、チラリズムがその価値を変えていた。
男子達の視線はサーシャのジャージの裾に釘付けになる。
「どあほ! でれでれ女子を見るな! ドウテイ野郎どもが!」
と男子側の教官が叫んだ。
地面に響き渡るような喝。
男子の何人かがぶっとんでいた。
声だけの注意ではない。
やっぱり軍隊なんだなあと風子は思う。
サーシャは後ろを向いて歩いていった次郎を見て、不服そうな顔をしていた。
――せっかく、サービスしたのに。
彼女は、腕を組み次郎を睨んだ。
次の勝負をするための料金を前払いしたつもりらしい。
これで、不意打ちしても文句は言われない。
そういう一方通行の取引。
次郎にとっては迷惑な話すぎた。
「あんまり効果ないから、次はどんどんエスカレートしていきそう……困ったなあ」
サーシャはまったく困った顔をせずにそう言った。
あの日以来、話しかけても無視をする次郎をなんとかして振り向かせたかった。
なぜなら、この前ご破算になってしまった勝負。
決着を付けたかったからだ。
そんな気持ちを風子にわかるはずがない。
ただ、もしかしてこの留学生はあの上田次郎に好意があるのかな、と思っていた。