第62話「あけましておめでとうございます」
「野中はドンパチが始まると思うか?」
急な質問だった。
野中はいったん顔を上げたが、すぐに視線を落としダルマストーブの上に手をかざしていた。
彼は濡れてしまった厚手の手袋をストーブを囲んでいる柵に置く。
「無視するなよ」
「……いや、急な質問でしたから、ちょっと考えていました」
分厚い外套に雪を乗せたままの野中はそう言って顔を上げる。
「現場の、それも少佐ごときに、そんなでかい話はわかりません」
「敬語はやめろって」
横尾中佐はため息をついた。
そんな彼は野中の直属の上司にあたる大隊長である。
年が変わる直前にはるばるモスクワまで派遣された遠征旅団。
その旅団の主力とも言える三つの歩兵大隊、そのひとつを率いている指揮官だ。
その横尾中佐の大隊に所属する軽歩中隊の中隊長をしている野中。
ストーブを挟んで話をしているふたりは、統合士官学校の同期であった。
モスクワの冬。
二重窓の向こう側に見える景色はない。
ただ真っ白な世界。
外はひどい吹雪である。
「大隊長にタメ口なんて聞けないだろう」
「……それでいい」
横尾はコーヒーメーカーからプラスチックのカップに茶色の液体を注ぐ。
「飲みすぎじゃないか」
野中がそう言うと横尾が笑った。
「いや、お前にだ」
ぐいっと彼はコーヒーカップを差し出した。
「まずそうだな」
沈殿物が底に沈んでそうな液体を上から覗くようにして、野中はそんなことを言っている。
「おいおい、大隊長が入れてやったものを」
「……タメ口って言ったり、上司面したり」
「はは」
野中はその液体を口にする。そして、少し顔をしかめた。
半日近く煮沸してしまったそのコーヒーは煮立っていて、妙に喉にひっかかる味だった。
「伝令に新しいのを作らせたらどうだ」
「それぐらい濃い方がうまいんだ」
横尾は自分の飲みかけのカップを取り出すと、上から黒い液体を流し込んだ。そして、口に含むと美味いと言わんばかりにうなずく。
「だから、最近、匂うんだよ」
野中がため息交じりにそう言った。
「やかましい、もう四〇だ、口臭だろうが体臭だろうが気にしてられるか」
ふと、数年ぶりにあった自分の娘がそんなことを連呼していたことを思い出す。
――三和は元気にしているだろうか。
野中はそう思いつつ自分のコートを匂ってみた。
確かに、すえた匂いがする。
「ま、そりゃそうだな」
彼はそううと窓の外を見た。だが相変わらず真っ白だったため、しばらくして視線を元に戻した。
「で、動いてるのか……ソヴィエトの奴らは」
「ああ、そういう情報は入ってきている、ロシア帝国からだが」
「我が社は」
日本帝国。
「偵察衛星には映らない、吹雪を利用して動いて、そして晴れたら白いの被せて隠れる」
「そりゃ、わからん……つうか、こんな時によく動けるもんだな、あいつら」
「……それだけ本気なのかもしれないな」
「……」
野中はため息をついた。
「中隊はどうだ?」
「訓練、訓練、訓練、整備、訓練、訓練」
「わかったわかった」
「やってもきりがない」
「少しは休ませろよ」
「ああ、それはやってる」
野中のその言葉に横尾は頷いた。
――目が窪んだな。
横尾の表情を見て、野中はそう感じる。
――こいつはこいつで、責任を背負っているんだろう。
野中はなぜかそんなことを思った。
「……本当に戦があるんだろうか」
野中はひとりごとのように言った。
「我が社は、そうは考えていない」
横尾は笑った。
本国の人間は、まだこの事態に対して楽観な感じを持っている。
現場にいる彼だからこそ、そう感じているのかもしれない。
「脅しで出した部隊だといっても最悪の事態は考えている、だから後詰になっているだろう」
ロシア帝国及び反コミンテルン連合軍。
そんな長い名前の諸国連合軍の隷下部隊に日本帝国の遠征旅団は入っている。そして、政治的配慮も含め、彼らは後詰――予備――であった。
「ま、出番はないと思うが」
横尾はそう言って、椅子に座った。
「そう願っているよ」
「でも、最悪の場合は」
「いつでも最悪を考えて準備をしている」
「そういう星の下に生まれているからな、俺らの期は」
数少ない同期。
彼ら以外の多くはあの二〇年前の戦争で死んだ。
「でも、一応生きているからな」
野中が笑った。
多くの同期の死を目の当たりにしていた彼と、多くの同期の死を離れた場所で聞いていた横尾。
「確かに」
横尾がそう言うと、二人は顔を合わせてもう一度笑った。
■□■□■
「あけましておめでとうございます」
年末年始の休暇明け。
少年学校の教場はそんな言葉で賑わっていた。
ほとんどの者が実家に戻り、正月を迎え、そしてまたこの学校に戻ってきていた。
そんな中、大きな紙袋を抱えた緑はサーシャや風子、他には幸子がいる席に近づいていた。
「緑ちゃん」
それに気づいた幸子が手を振った。
「せっかく実家に帰ったから、いいもの持ってきちゃった」
いいもの。
嫌な予感がする三人の女子。
緑の笑顔。
サーシャの口の端がピクピクっと動いた。
緑の瞳に異常な光を見てしまったからだ。
思い出す、夏の沼津……緑の実家でのホームステイ。
「……あ、うん、そのどうだった実家は」
サーシャが仰け反る勢いでびびっているので、風子は助け舟を出していた。
「お母さんとお父さんが、みんなによろしくって」
こんな緑に対して、普通のお母さんとお父さんだったという記憶がある。
いい人だった。
それは三人とも共通している認識だ。
そんな彼女たちの気持ちも知らず、緑はすっと別の紙袋から四角い箱を取り出した。
「この前、うちに来た時、美味しいって食べていたのを思い出したって、お母さんから三人に」
はんぺんと書かれた箱が出た瞬間、風子が喜びの声を上げる。
「黒はんぺんっ!」
「はんぺん」
彼女の反応に対し、緑が間髪を入れず口を挟んだ。
広島のお好み焼き同様、郷土の食べ物に人はうるさい。
当たり前の世界を壊されたくないという想いがあるのかもしれない。
「あとで部屋で食べよう」
サーシャがそう宣言する。
黒はんぺんは日本に来て彼女が美味しいと思った十位内に入っているのだ。
「幸子ちゃんとサーシャちゃんの分も」
そう言って別の箱を緑は差し出す。
もちろん大きな袋の方はまだ保持されていた。
「……まだ、あるんだけど、お土産は……でも、あとのお楽しみ」
にっこり。
緑の笑顔に対し、ビクンと反応する三人。
怖がっていた。
夏のトラウマ再びである。
きっと、緑の年末年始はミシンに向かう日々だったのだろう。
たぶん。
そう三人は思った。
そんな恐ろしい光景を思い浮かべるのを打ち消すように、サーシャが声を出した。
「風子も実家に帰ったよね、どうだった?」
なんとか話を逸らしたい一心だったようだ。
「ん、うん……舞鶴は相変わらずここと同じで天気が悪いというか、ずっと雨か雪というか」
相変わらずネガティブな反応をする風子。
北陸も北近畿といった日本海側の冬は、曇り空と雪、雨、そして雷がセットでやってくる毎日。
「中学生の友達と会ったり」
「どうだった?」
緑が目を光らせる。
怪しい光ではない。
その瞬間、遠くで聞き耳を立てる男子二人がいることは、言うまでもない。
「どうだったって」
風子は警戒した。
きっと、中学の時の男子とか、そういう話を期待しているのだろう。
――言えない! ……同窓会っぽい集まりで『姐さん』って男子も女子も寄ってきたなんて!
不良ではないが、風子は前述したように中学ではいろいろと頼りにされていた、一匹狼的な地位を持っていた。
もちろんそんな女子には悪ぶっている男子も女子も寄ってくる。
「まあ、普通にカラオケ言って、歌って楽しんで」
「成長した同級生と会って、変な雰囲気になったとかっ」
期待した目を向ける緑。
そう言えば、例の男子二人が少しだけ近づいているようにも見える。
――言えない! ……後輩の茶髪にした不良君に土下座して『お、俺を蹴ってくださいっ』て言われたなんて!
中学時代は暗黒である。
いじめられている後輩君を助けようと実力行使した時の相手だった。
もう、そんなことはしないと決めていたのだが。
なんか、つい、この間イケメンお兄さんに対してそんなことをしていたような覚えもあるが、風子は記憶を封印した。
彼女達が知らなくてもいいことはあるんだから。
「家の人は元気だった?」
サーシャが風子に質問を続ける。
風子が片親だというのは知っていた。
きっと娘の帰りを待っているんじゃないかと思ったからだ。
夏は自分の世話をするために、実家も帰らず一緒に長崎、そして沼津へとホームステイしてくれたのだ。
それもあったが、彼女の本当の狙いは、別にあった。
とにかくモスクワに帰った自分に話題がまわってこないようしたかった。
好奇心から、貴族のお嬢様がどんな年末年始を送ったか、間違いなく聞かれると思ったからだ。
そんなサーシャの質問に、動揺している風子。
――言えない! ……新しい男ができたって言ってはしゃいでる母親がいたなんて! ……そしてなんか知らないけど顔合わせさせられたとか……。
年始早々、げっそりしてきた風子。
――好きにしてください……お父さんとは思いませんから。
風子はなんとなくありふれた言葉を吐いていた。
他に言える言葉なんてない。
とにかく彼女はさようならと言って家を出て、ここに戻って来ていた。
そんな訳で、あまり実家の話はしたくない風子。
だから話をサーシャにふっていた。
「そ、そう、サーシャは? サーシャとかすごいんでしょ、やっぱり貴族のお嬢様とかは」
「え、あ、うん」
目を逸らすサーシャ。
「あ、もちろんパーティばかりで、疲れたというか、なんかバタバタしたというか」
確かにパーティーは何個もあった。
近くに戦争の影があっても、それとこれとは別である。
だが、サーシャが参加したというのは嘘であった。
「あのカッコいいお兄さんは?」
風子はその質問の枕詞『先日、蹴り入れた』はさすがに抜いている。
「海軍も忙しいって言って、あんまり居なかった」
そんなに軍隊に戻らずにいいのか、と思うほど彼は実家にいた。
――言えない! ……お兄様に『ゲイデン家の名を汚すな』と言われ、社交会は一切出席していないなんて。
サーシャの背中に影が入る。
――お兄様は、本当に私のことが嫌いみたい。
この年末年始、彼女は部屋からほとんど出ることができず、ひたすら愛蔵書を読みふけていた。
少し外に出ようとすると、兄の冷たい視線。
怖くて部屋に戻るサーシャ。
そんなわけでこの兄弟の闇は深かった。
「もしかして、シスコンなのかな、あの人」
この前の言動を間近で見た風子がボソッと言った。
「ぜんぜん」
大げさに目を開いてサーシャが否定する。
「昔からお兄様は私の事が嫌いで、あんまり会話とかもないし」
サーシャは本当にそう思っていた。
小さい頃から、ぶっきらぼうな兄。
会うたびに皮肉しか言わない。
だが。
――言えない! ……お兄様が毎日顔を出して『お前に似合うはずもないが』なんて言って服とか靴とか持って来たなんて!
どうもあのクリスマスから、さらにぎこちないことをする兄の行動を考えると、あながち嫌われているわけではないような気がする。
どちらかというと、重い何かを注がれているような気もしていた。
気付いているのかもしれない。
なんとなく怖いと思った。
だから話題をふる。
「さ、幸子は、北海道帰ったんでしょ」
少しかみながら、サーシャは幸子へバトンタッチ。
「う、うん」
この年末にロシア帝国とソヴィエトの緊張を受けて、雪解けムードも一気に消えてしまった東――極東共和国。
帝国と共和国の国境は緊張を増し、去年の三月には列車で国境を越えられていた。だが、今は航空機でさえ、直通でいける交通手段がなくなっていた。
中華民国経由の航空機で幸子は実家に戻っている。
久々の北の大地。
「雪とかすごいんだよね」
太平洋側にある沼津は雪が降ることは稀である、まして積もることはほとんどない。
幸子は道東の釧路に実家があった。
「道東って、あんまり降らないんだよね、山じゃないと」
北海道でも他の場所に比べて少ないのだ。
沼津と比べれは、また別だが。
「なんか、冬はこの学校、スキー訓練とかあるみたいだけど、いいなあ私スキーやったことないし」
すでに不安になっている緑。
確かにスキーをしたことない者にしてみれば、あの世界は怖いものとしか思えない。
歩くスキーも滑るスキーも怖い噂しか上級生から聞いていなかった。
「山にいけばスキー場もあるし、学校とかで授業でやってるから」
「そうなの? すごいな、北海道……行ってみたい」
釧路は漁港で栄えているが、極東共和国でも有数の軍都でもある。
極東共和国の精鋭部隊である機甲師団の多くは北海道に配置していた。
そのため、雪解けの時代であっても、西側の人間は北海道に上陸を許されていなかった。
「牧場がいっぱいあって、広くて……何もないところだけど、私は好き」
幸子が、少しうつむいてそう言った。
政治的な雪解けが消えてしまった今。
さらにこの友人たちを自分の生まれた場所に呼ぶことはできないという現実をひしひしと感じてしまったからだ。
「星も、綺麗」
あの雲ひとつない夜空。
落ちてきそうな、そして手に届きそうな星々。
「行ってみたいな」
風子がつぶやくように言う。
冬といえば、灰色の空しか見たことがないからだ。
幸子はただ、言葉は出さずコクリと顔を縦に振った。
「楽しかった?」
「うん」
幸子は笑顔で答えた。
家族と会う前に、軍の取り調べのようなことを受けた。
念入りな荷物の検査と、そしてお決まりの共産党を賛美する言葉を暗唱させられた。
尋問のような取り調べ。
学校内の配置、軍隊の状況、学校の各人のベットの位置まで話して、家族に会うまで三日もかかった。
軽歩兵補助服のことは特に細かいことを聞かれた。
さすがに設計図的なことまでは答えきれなかったが。
「北海道って寒いと思われてるけど、建物の中はすごく暖かくしてるから、そうでもないんだよね、どちらかと言えばこっちの方が寒く感じるかも」
幸子はそんなことを言った。
話題を変えたかったのかもしれない。
――報告は、あの衛星端末で。
ここに戻る前に、空港であった東側の人とすれ違い様に渡された。
今までは、月に一度の暗号化した文書をネット経由で送るだけだったのに。
――何か起こったら、すぐに連絡せよ。
それだけ言われた。
世界で西と東が緊張している。
こんな学校にいる自分に、どんな情報資料が入るというのだ。
――お前は両国の友好のために派遣された留学生でもあり、最前線に入っている斥候でもある。
そんなことを言われたことを思い出す。
「ねえ、もうお腹すいたし、緑ちゃんがもってきてくれたハンペン食べない?」
幸子はそう言った。
もしも頭の中で考えていることが、もしもこの中でわかる人がいれば、すごく怖い。
バカな妄想だと思う。
でも、そんな妄想を抱いてしまったため、とにかく思考を変えたかった。
嘘をついていることは、怖い。
人にバレるんじゃないだろうかと思うと。
妄想だとわかっていても。
でも、ひとり、こんなほんわかした教場の中で、そんなことを考えている自分が後ろめたかった。
「うん、食べよう」
何も知らない緑がうなずく。
「なんか、女子高生がはんぺんをおもむろに食べるとか、絵にならないなあ」
そう言いながらも唾液の分泌が多くなっているサーシャ。
「幸子ちゃん、いい年末年始、よかったね」
風子が何気なく言った言葉に対し、幸子は何も言えない。
ただ、笑顔で答えるだけだった。
両親と会って、ゆったりできた。
それは、間違いなく、いい年末年始だったに違いない。




