第6話「スポーツタイプのものだと困ります」
次郎は上級生三人に連れられ、売店のある建物から外に出た。
屋根付きの野外通路を歩き、誰もいない薄暗い倉庫群の建物内に入る。
まったく本当にいかにもな場所があるもんだ、と彼は嘆息した。
体育館裏、屋上に上がる階段……そういったものはどこにでもあるらしい。
「で、先輩……松岡はどこですか?」
感情があまり含まれていない声で次郎は尋ねた。
預かっていると言われた松岡大吉の姿はない。
ギギィ。
頑丈な扉が油の切れた鉄の軋む音を立てながら閉まる。
ドオンと重い音。
扉が閉まった。
オレンジ色の光がガラス窓越しに彼らを照らす。
今日は真っ赤な夕日だった。
「松岡? 誰だそれ」
一番最初にいちゃもんをつけてきた上級生が鼻で笑う。
「……」
次郎はまわりを見渡した。
面倒くさい。
そう思った。
「あほ」
背の高い上級生が口を開いた。
「茶髪なんか、ここにはいない」
なんて単純なことに騙されたんだろう。
次郎はすぐにカーッと熱くなってしまう自分を責める。
だが、よく考えるとアホなのは目の前の上級生達だということに気づいて、すうっと冷静になった。
人質がなければ存分に暴れることができる。
こいつらがもし黙っていれば、嘘を付き通せば、何もできずにやられるだけになっていたかもしれない。
「ああ、友情ごっこのつもりだったのか、ばー……」
次郎は跳んだ。
上下運動のない跳び方。
いちゃもん上級生の顎に右手を置く。そして後頭部の方向に撫でる様に手首をくねらしながら、上級生の顔を真上に上げる。
上級生は抵抗できない角度に首を回されていた。
その首の角度に必死についてくようにして、身体もぐるりと回る。
次郎は上級生の体をそのまま抱えこむ様にして、背中に胸をぴったりとつける。それとと同時に、その首に自分の腕を巻き込んだ。
まるで吸盤がついているような、そんな巻き込み方だった。
次郎の作戦は一人をまず締め落として無力化し、それから残りの二人と戦うものだった。
相手は素人。
彼の道場は対複数の稽古を重視していた。
他の道場と比べてもそういうことはしっかり鍛錬している。
だから、その危険性も承知していた。
複数を相手――いくら相手が素人でも――することはリスクが高すぎるのだ。
――殺せれば楽なんだけど。
などと物騒なことを考えてしまう。
道場では、武器を持っている場合、一人一人動けなくなるように、隙を付いて急所をつくような稽古をしていた。
自分が素手の場合は、相手の足を止めるためにその膝を砕くような蹴りをしたり、関節技で動けなくするようなころをしていた。
あとは受身の取れない投げ技をするとか。
もちろん、道場では寸止めなのだが。
ただこの場合、怪我をさせないことが前提だった。
いくら相手が複数といっても素人だ。
怪我をさせてはいけない。
骨折なんかさせたら、学校の問題になることは間違いない。
中学生の時、そんなリスクを散々思い知ったのだから。
だから、締めることを選んだ。
一瞬で落ちてくれればいい。あと二人だったら、なんとかなるかもしれない。
そう思っていた。
だが、うまくいかなかった。
締めた相手から力が抜けるのを確認した瞬間、背中に固いものを打ち付けられる痛みが走った。
次郎は落ちた上級生が頭を打たないように地面に転がしながら二発目を回避する。
角材を持った上級生は袈裟斬りに二撃目を入れようとしいたからだ。
上級生が振り回した角材は勢いあまって地面を打ちつける。
次郎はその音がするかしないかのタイミングで角材を踏みこんだ。すると、たまらず男は角材を離してしまった。
カラン、カラン。
角材が地面で跳ねる。
じりじりと間合いを確かめる次郎と二人の上級生。
一人は箒の柄のような棒を持っている。
視界に入った、ふたり。
やっぱり、三人でも二人でも複数相手は不利すぎる。
――しゃーない……。
うまく腕を絡み取って、投げ飛ばして背中を地面に打ち付けるか、関節を極めて痛みで悶絶させるしかないと彼は考えた。
だが、彼の期待は外れた。
素手の奴が何かを叫んで、中途半端な中段回し蹴りをしてきたのだ。
次郎は身体を少し引くようにして勢いを殺し、相手の足を掴み取る。
ぐっと引っ張ると男はケンケンをするような形でバランスを崩す。
次郎は足を振り上げ、そのつま先で無防備な股間を蹴り上げた。
つぶれないような強さ。
なんとも気持ち悪い感触が足に感じると同時に、男は声にならない悲鳴を上げた。
その声があまりにも悲痛な叫びだったから油断してしまったのかもしれない。
後頭部に鈍い痛みを感じた時に、彼は反省した。
――ったく、つめが甘いってお姉ちゃんにいつも怒られるもんな……。
ぐらりと視界が揺れた。
棒を投げ捨てた大柄な上級生。
彼はがむしゃらに次郎に抱きついた。
そしてそのまま押し倒す。
息の荒い男が覆いかぶさる、次郎はなんとか抜け出そうともがきながら引き剥がそうとする。だが、体重の重さと馬鹿力のせいでうまくいかない。
次に次郎は相手の腕の内側を思いっきり抓り上げ、その相手が痛みに反応する隙を付いて関節でも捕ろうとした。
しかし、相手は痛みを我慢して隙を作らない。
そうやっているうちに、影が二つ次郎を見下ろすことに気付く。
やばい。
そう感じて、慌てて脇の下の急所でもあるアバラ三本をかばうようにして後背筋を向けた。
それでも低い声を漏らしてしまうような痛みが走る。
素人は手加減を知らないから性質が悪い。
次郎は痛感した。
上級生の一人が、押さえ込んでいる男の体の隙間にある次郎の体を狙って、ゲームのような感覚で、ボコボコ蹴りだした。
彼はまたぐらりと視界が揺れる。
男の一人が頭を、こめかみあたりを蹴ったからだ。
ちょっとした吐き気に次郎は襲われながら、素人の怖さを感じていた。
――こういう奴らが、間違って人を殺しちゃったりするんだろうな……。
次郎はなぜか、ひとごとの様に考える。
その時だった。
扉とは別の方向から薄暗くなりつつある通路に響く「きゃっ」という女の子の悲鳴が聞こえたのは。
通路の向こう側に、暮れる直前の夕日が逆光になり、一瞬だけ女の子のシルエットを映し出す。
「ちっ、邪魔が入った」
もっとも捨て台詞的な言葉を吐く上級生。
三人は逃げるように扉の方へ走っていく。
男子だったら、脅しかけて黙らせることもできるが、さすがに女子にはそういうこともできないと思ったんだろう。
事がばれれば一発退学になってしまう。
それに彼らは十分目的を果たしたと思っていた。
ただ、挙げた拳を下げるタイミングがなく、だらだら次郎をいたぶっていたのからだ。
潮時というやつなのだろう。
「ふう」
次郎は地面に寝転んだまま息を吐いた。
そして体をさすり、痛めた場所を確認する。
とりあえず、体は殴る蹴られるのは慣れているから、うまく骨の部分は避けた。だから全体的にはたいしたことはないということだ。
だが、頭は少し痛かった。
目を閉じる。
……。
まただ。
また、彼は油断していた。
慎重にしないといけないと思っていたが、つい調子に乗ってしまう。
今日、数回目の反省。
彼は目を開いて日が暮れて薄暗くなった中に立っている少女を見たことに。
黒い革靴、濃い緑のハイソックスにエメラルドグリーンのスカートとブレザー、白いシャツに黒のリボンタイプのネクタイ、そして薄暗い中でも目立つ金色のおかっぱ頭。
この学校の制服ではない。
「つまんない」
彼女は蔑むような眼差しを次郎に向けた。
「なんで殺らないのかな」
ため息。
次郎は彼女が何を言っているのか理解できない。
目をぱちぱちさせて、言葉を理解しようと努力する。
その瞬間だった。
金髪おかっぱが揺れたと同時に、その彼女の足が短くステップを踏んだのは。
見上げた天井が隠れて、視界が瞬間的に暗くなったような感覚を覚える次郎。
彼女が次郎の顔を踏み込もうとしたからだ。
目の前に革靴の裏底が目一杯広がる恐怖を味わう。
寝返りをうつようにして体を素早く回転させ、それを何とか避けた。
反撃とばかりに、そのまま背中を中心にコマのように体を回転させ、金髪おかっぱの足を払おうとしたが、空を切ってしまった。
彼女は素早く避けていた。
金髪のおかっぱとスカートをふわりとさせて、簡単に彼の足がらみを避けていた。
逆に、そのまま短いステップを踏んで、まだ攻撃しようとしている。
彼は腕を十字させて、なんとかその蹴りをガードした。
彼女はぐっとその腕を踏みつけるような体勢で彼を見下す。
次郎は、踏み込まれる腕の痛みを我慢しながら、その革靴からハイソックス、そしてその先にある白い太ももとその付け根を見上げた。
――白と緑の縞々か……。
こんな理不尽な攻撃を受けた時でも、ついつい見えるものをしっかり見て、確認するのが次郎という人間だった。
むっつりスケベだからしょうがない。
姉の下着姿は何度も見ているから慣れているが、知らない女の子の下着は興味が出て当然である。
そんなことよりも、と彼はパンツの映像を振り払う。
信じられないことだが、彼女は明らかに急所を狙っていた。
急所――胸の中心の下、膻中――。
なんとか腕で押しかえそうとする場所にはそれがあった。
ぐりぐりと踵で次郎のガードを踏み込む。
「弱い」
金髪オカッパ少女――サーシャ――はそんなに癖のない日本語でそう言う。
「ほんとうにつまらない……せっかく、本気で殺し合いをしてくれそうな雰囲気を期待していけど」
次郎を足蹴にしたまま、彼女はため息をつく。
「……すとか」
彼は急所を踵で押さえられていたが、絞り出すようにして声を出した。
「……コロスとか、意味わかんねえ、ぶっそうなことばかりぬかしやがって」
彼女の金髪おかっぱが揺れる。
「ねえ、サムライの国なんでしょ、ここは……私はサムライと勝負したくて来たのよ」
彼女は踵で踏み込む力を強くする。
「……ぐ」
次郎はあまりの痛さに低く唸ってしまった。
「子供の喧嘩なら私の視界の外でやって欲しい……やっと武術をしているような人間を見つけたって思ったのに、期待しちゃって損」
彼を見下ろす冷たい青い瞳。
「中途半端な殺気なんて出さないで欲しいな……すっごくムカつく」
ぐっと踵にもう一度力が入った。
「……なんなんだ、いったい」
「日本の高校生って、学校で誰が一番強いのか、普段から殺し合いしているんでしょう」
「いや、言っている意味がわからん」
「『魁!彼氏塾!』ってマンガに書いていたけど」
「……」
「他にも『戦ロワイヤル』とか『幽霊白書』とか」
「……この物語は架空のって書いてなかった?」
「『竜球』とかも」
「いや、それ、もう高校生じゃないし」
「……」
急にサーシャの表情が曇った。
ロシア帝国からの留学生である彼女。
帝国貴族の軍人家系であるゲイデン家の末娘として生まれ、貴族的な英才教育を受けてきた。
そんな中で各国の言葉や文化も教育を受けているのだ。
将来有望な陸軍軍人になる義務があった。
ただ、残念なことに、彼女は思い込みが激しい性格なのだ。
「日本語や日本の文化を覚えるのに良いって言われて、読んでたんだけど……書いてある通りなんでしょ、日本って……サムライの国だし」
「あの、君……フィクションって言葉知ってる?」
彼女は次郎の言葉を無視して、ぶつぶつ言っている。
次郎としては、早く踏みつけている足をどけて欲しいところだが、彼女の誤解が解けるまでそれは叶いそうに無かった。
しょうがない、時折、チラチラっとパンツ鑑賞するしかなかった。
「ま、まあ……それは良いとして、ここはサムライの国でしょ、あなたサムライでしょ、殺気を持った男はみんなサムライよね」
「えっと、どういう本読んだ?」
「『浪人剣士』」
「いや、それ明治の話、今から百年前」
「……え、そうなの……じゃあ、『銅魄』あれは宇宙人もいるし、現代でしょ」
「現代でも宇宙人はいないから」
「……あ」
「あ、じゃないよ」
「なんてこった」
頭を抱えたまま、彼女は言葉を続ける。
「そうそう、ドラマも見た」
「まだあんの」
「サムライに変身するの」
次郎はジト目で金髪娘を見上げる。
「……ドラマじゃなくて、それ特撮ヒーローものでしょ」
「いいえ、愛と勇気と魑魅魍魎退治のホームドラマ『サキッチョマン』、出てくる妖怪を退治する現代のサムライの話、間違いない」
次郎はため息をついた。
どうやら、彼女は流暢に日本語を話せるものの、パンツを堂々と見せるだけでなく、物語と現実の区別もできないような頭の弱い子のようだ。
ついでに、相当痛い子でもある。
「ということで、その足どかしてくれない?」
次郎が面倒臭そうな口調で言う。
「あなたが、私とちゃんと勝負するならね」
足蹴にしながら腕を組んで挑発するサーシャ。
「だから俺はサムライじゃないって」
「いいえ……あなた、さっきの三人に連れられる前、すごい殺気出してたじゃない」
連れられる前……大吉を人質に捕っているという話を聞いた時だ。
確かにあの時次郎は怒りの感情を押し殺していたが、その腸は煮えくり返っていた。
だが、それを殺気というほどのものじゃない。
「そんなの、出してない」
「嘘つき『殺してやる』って空気が言っていた」
「それは、思い込み」
埒があかない。
ふと時計を見る。
次郎はいい加減、面倒くさいし、部屋の先輩達に頼まれた買い物を早く持って帰らないといけないと焦りだした。
「さっきから人の足をチラチラ見て、変態」
「な、変態じゃない! 足とか見てないし」
「また嘘を付く」
「違う、その縞々のパンツ見てた」
「な!」
彼女は慌ててスカートを押えた。
今更。
――全然気づいてなかったなんて。
と次郎は唸った。
羞恥のために彼女が心を乱して生じた隙を彼は見逃さなかった。
彼女の足を払い退け、風船が一気に膨らむような感じに彼は立ち上がる。
一瞬だけ彼女は驚いた顔をしたが、すぐに凄惨な笑みを浮かべ、待ってましたとばかりにブレザーを脱ぎ捨て、そして構えた。
「あ! 窓の向こうにサキッチョマンだ!」
「え! どこ?!」
次郎は彼女の視線から外れたと分かった瞬間に、一気に間合いを詰め、その右横をすり抜ける。
サーシャに緊張が走った。
――やられ……る?
次郎は彼女の背中に少し触れながら通り抜け、そして全速力で走り出した。
――とったぞお! スポーツブラじゃあなくてよかった。
次郎はニンマリ笑顔だった。
一方サーシャは「ひゃっ」と声を上げ、胸と下着の間に冷たい空気が入ってきたことに驚いていた。
抑えていたものが緩んだ感覚。
気持ちが悪い感触。
「あの野郎!」
サーシャは日本語で恨み事を言った。
そうやって走り去る次郎を睨みつけるが、ブラのホックが外されて動くに動けない状態だった。
次郎の秘儀。
ブラのホック外し。
あの恐ろしい実家の姉に対抗するために、磨きに磨きをかけた技である。
実戦で鍛えた分、物凄い精度で実行できた。
次郎は走りながら、ちょっと顔がニヤける。
やってやったぞという達成感。
いつやっても、これは勝った気しかしない。
あれだけふてぶてしい女が、ブラのホックを外されたぐらいで慌てた姿を晒したのだから。
だが、そのうち興奮が冷めてきて、改めて考えてみた。
あの金髪女子の馬鹿みたいな暴力は一体なんなんだ、と。
どうして一度は自分を助け、そしてその後、襲ってきたのか。
――私はサムライと勝負したくて来たのよ。
何寝ぼけた事を言っているんだろうかと思った。
きっと、少年漫画の中身と現実が混同してしまった痛い子なんだろう。
――美少女って言っていいぐらいの外人さんだったな。
と思う。
――趣味じゃないけど。
と釘を刺した。
彼女の姿を思い出してみる。
かわいいんだけど。
痛々しい。
それが、次郎の評価。
ため息をついた。
できればブラのホック外しは、喧嘩以外で使いたい。
切なる男子の思いだった。
なんだかスケベなことをしたんじゃないかと彼は罪悪感を感じる。
外したホックの後に、あの胸がどうなったか想像したからだ。
妄想を頭から吹き飛ばそうと努力する。
無理だった。
あの白いシャツで強調された胸をついつい思い出してしまうから。
――趣味じゃない、かわいいからって、趣味じゃない!
妄想はなかなか吹き飛ばない。
吹き飛ばせない。
そんなものだと許せるほど、彼は長く生きていない。
しょうがない。
男子高校生というものは。
たいがいそんなものだった。