第56話「恋とは」
ドクン。
風子の心臓の音が響く。
手も、足も、どちらの指先も、しびれるぐらいの大きさでなった。
猛吹雪の中でふたりきりになってしまった。
その怖さのせいだと思いたかった。
でも、違う。
彼女はわかってしまった。
違う。
そんなんじゃない。
今。
言ってしまおう。
何もしないまま、後悔するのは二度としたくない。
彼女はゆっくりと腕を動かした。
その先にある、彼の手にそっと触れるために……。
■□■□■
「風子ー、それは恋、甘酸っぱくて、はかない恋ー」
どこにでもありそうなフレーズに風子はげっそりした。
しかも、目の前のふたつ上の先輩――田中純子――はまるで歌劇団のセンターをとっているかのように踊っている。
続く言葉を思いつかないのか、ラララ―を繰り返していた。
「ああ、風子、かわいいぜ、そんな風子にスペシャルラブだぜ!」
純子はグイッと指先で風子の顎を持ち上げた。
「その唇は俺のものー」
そう言って、またラララーが始まる。
狭い三人部屋。
無機質な二段ベットの下――ふたつ上の先輩、長崎ユキのベット――に座った風子は、困った顔しかできない。
「……純子さん、恋なんて、そんな甘ったるいものじゃないです」
黒ぶち眼鏡を人差し指でクイッと上げて、ユキが吐き捨てる様に言った。
目が死んでいる。
「ああ、ユキ、ユキよー、おっぱいは大きいのに肝っ玉は小さいー可哀想な子ー」
純子はクルクルと回りながらユキに近寄ると、そのままその胸をぽよんぽよんと手のひらで弾く。
「先輩じゃなかったらー、グーパン、してますけどー」
怒りつつもリズムに乗って歌うように言い返すユキ。
純子は脇を絞め、両手の平を上に向け、やれやれと言わんばかりのポーズで止まる。
「ユキはあのおっさんにフラれて心が荒んじゃってるから、ああ、純心な風子は近づいちゃだめよ」
近づくもなにも、同じ部屋でベットの上と下の関係なんだから、どうしろって言うんだろうか。
と、風子は思ったが口に出さない。
先輩には遠慮する。
「フラれてなんかいません、ちょっとおっさんをからかっただけです」
ユキは二中隊副中隊長の野中大尉にいろいろと迫ったこともあったが、ことごとくスルーされていた。
「ええ! ユキさんもそんなことが」
風子はそんなことがあったとは知らないのでそこには食いつく。
「野次馬根性が強い子は嫌いだよ!」
鋭い目つきのユキに風子はけん制された。
「今は、もーう、焦ーらしたお子様小娘は放ってモスクワへー」
のりのり純子はラララ―である。
まるで歌劇団のようにステップを踏んでクルクル回っているが、三人ともダサいジャージ姿なので、地味である。
「まさか、野中大尉とそんな関係……」
わなわなと口を震わせる風子。
その脳内には教官と教え子の禁じられた風景が思い浮かんでいた。
確かに、高校二年生にしては発育のいい先輩ではある。
そんな大人の関係をたったひとつ上の人がしているなんて……。
と勝手に妄想しているが、そんなことはない。
ユキは野中にまったく相手にされることなく、そもそも若い女にからかわれたとしか野中は思っていなかった。
眼中に入ってなかった。
「で、風子、お前は覚悟できたの、カ、ク、ゴ」
もう一度純子が風子の顎をクイッと人差し指で上げた。
この動作はお気に入りらしい。
「か、カクゴとか」
赤面する風子。
息がかかるぐらいに顔を近づける純子、その目は真剣だ。
「女は度胸、男は押してなんぼ!」
「お、押し倒すとかっ」
ぶはっ。
その瞬間、風子は目を閉じた。
噴き出した純子の唾がポツポツと顔にかかった気がする。
「もう、純子さん、それセクハラにパワハラですよ」
ユキが静かな声で抗議する。
「だって」
笑いを堪えようとするが、耐え切れなず、ププとか言っている純子。
「だって、だって、風子ちゃんかわいいもん、もう、食べたくなっちゃうぐらい」
じゅるる。
わざとらしく、涎を拭く真似をする。
「い、いえ」
「もう、あんな男の事は放っておいて、俺のところにこないか、レディ」
風子の手をとり、その甲にキスをするふりをする。
次から次へネタを出す純子に風子は主導権をとられたまま、オロオロするばかりである。
これが風子の部屋の日常風景であった。
そもそもこんな話になったのは、風子がぼそり、『友達』の男子学生と最近話づらくなったという相談をしたことがきっかけだった。
中学生の頃だったら、こんな話を誰にもすることがない。だが、ここ数カ月の濃すぎる人間関係の中で揉まれた風子は、そういったコミュニケーション能力も成長していた。
いつもなんだかんだ助けてくれる先輩である純子とユキ。
――最近元気がないけど。
と心配そうに言ってきたユキの一言から始まり、今に至る。
「純子さん、悪乗りしすぎ」
「だってー、この風子ちゃんのかわいいおっぱいは私のものなんだもん」
さわさわ。
足の指先から頭のてっぺんまで鳥肌が立つ風子。
「うひっ」
変な声が出てしまう。
「もういい加減にしてくださいっ!」
涙目の風子が怒気を含めた声をだした。
「純子さんやりすぎ」
キッと睨むユキ。
ハハハ。
と笑って誤魔化すが、純子は空気を読んだ。
パッと手を離す。
「……ごめん」
と、ペコリ頭を下げる純子。
「……あ、いえ」
二つ上の先輩にペコリされると、それはそれで戸惑う風子であった。
「土下座土下座」
ユキはサディスティックな笑顔で土下座を連呼する。
「おっぱい魔人には謝ってない」
「えー純子さん、ひどいことを私にもいったのに」
「その倍の暴言を、普段から先輩たるわたくしに言ってるし」
「素直になった方がいいと思いますよ先輩」
「うるせー、性格極悪おっぱい星人」
「うわー、人の身体的特徴を責めてくるとか、最低です先輩」
「なんだとー、人を貧相なおっぱいだおっぱいだって言ったくせに」
「それを人のことを巨乳、巨乳言ってたからじゃないですか」
「巨乳に巨乳と言って何が悪い」
「品がないです」
「品なんて、犬でも食わせちまえ」
「うわ、ひく」
「どんびけ、どんびけ」
ふしゃー。
ふしゃー。
ふたりで動物的なにらみ合いが始まる。
「これだからラブレター女は」
腕を組み見下すような視線で純子が言い放った。
前に匿名で野中大尉にラブレターを出したことを言っているのだ。
ユキはラブレターの件については、純子にバレないよう、隠れて書いているつもりだった。
でもバレていた。
そのため、気勢をそがれ、あわわわわと声が漏らしていた。
「ラブレターなんかじゃなく、そのエッチな体でドーンと押せばよかったのに」
ははん、と鼻で笑う純子。
勝った時にははんと笑う。
「れ、恋愛というのは、体とかそんなものが目的じゃ」
そんなことを言うユキも、夏には水着姿と色仕掛けでおっさんに言い寄ったことはあるのだが。
それは違うらしい。
「結局、恋の先にあるのは子作り!」
どーん。
そんなことを力強く言う十八歳の女子。
「……純子さんは、告白早々それを迫られてぶん殴ったって……」
風子が口を挟んだ。
「あ、あれ? がっつく男は嫌いだもん」
叩き切った。
「あとムッツリスケベとかも、下心ありありで迫ってくる奴とか」
そんな純子の言葉で風子の頭に浮かぶのはやはりあの男子だった。
上田次郎。
下心は確かにありそうだったけど、と思う。
そして、彼だった。
この相談の原因は。
あの体育祭から遠くなった男友達。
ふと、出会いは最悪だったと彼女は思う。
でも、軽歩兵補助服の特訓や、学校祭、そして長崎での日々。
信頼関係。
そんな友人になったと思っていた。
友達としての次郎は好ましい。
そう思っていた。
友達として、あの体育祭でも忠告したつもりだった。
あの瞬間。
次郎と距離ができたと思う。
不思議な距離。
自分からとってしまった気がする距離。
体育祭で、俊介や楓の接し方に苦悩して、足掻いている彼の姿を知っていた。
それを乗り越えた時の彼は何か自分とは違う存在になっていた。
輝いた道を歩いているような人に。
だから野営でも、顔色が悪い時に声をかけようとしたが、一歩が踏み出せなくなっていた。
自分とは違う次元の人間じゃないのか、と今は思っているから。
長崎ではあれだけ近く感じたにも関わらず。
なんだか遠くに感じていた。
「でも……やっぱり恋なんじゃないかな」
いつのまにか風子の隣に座った純子が、落ち着いた声でそう言った。
「憧れちゃったんじゃないかな、ああいうのに」
――憧れ?
風子はそう自問する。
「恋って、自分に足りないものを持っている人にしちゃったりというのもあるし」
次郎は成長している。
出会ったあの頃は自分も含めて中学生っぽさが抜けきっていなかったが、今は違う。
筋肉質の腕や足とかは見違えるほどだが、あの表情が違う。
オロオロした感じなのに、時折見せる、精悍な顔。
何かをじっと考えて動く前にああいう顔をするのだ。
体育祭。
俊介や楓との軋轢に対して、丁寧に丁寧に説明をしていた時の顔。
あれから、気軽に声をかけにくくなってしまった。
「……恋ですか」
「恋だよ、風子」
と言いながら肩を叩く純子。
「うん」
と頷くユキ。
「……もし、恋だとしたら……わたし、どうすれば」
「押し倒せ!」
「恋文に思いの丈を!」
純子とユキが同時に叫ぶ。
もう雄叫びと言っていい。
可愛い後輩が恋をしているのだ、これは先輩として、全身全霊を持って応援するしかあるまい。
そう決意したふたりの想いが声にでたら、そうなっただけである。
「押し倒すとか……やっぱり破廉恥ですね、純子さんは」
「まて、純子の純はピュアの純なんだ」
「お母さまやお父さまが泣いていますね」
「違う、純粋というのは、野性的という意味で、そうなると、やっぱり子作りだろう」
「……したことあるんですか?」
「な、なんて破廉恥な質問を、この後輩っ」
三年生と二年生の口喧嘩がまた始まる。
純子は自分で墓穴を掘ったにも関わらず顔が真っ赤だ。
「てっきり、わたしと同じ二年の渡辺潤としているのかなーって」
「ち、違う、あいつとそんなことは」
次郎の部屋の先輩である渡辺潤。
純子が二年生で、彼が一年生の時に逆ナンパされたというのは周知の事実であった。
もちろん、純子は年上のくせにどう返していいかわからず、逃げる様にうやむやにしていたのだが。
噂ではひと月は付き合っていたとなっている。
だからユキはそんなことを言っているのだ。
「そんなことよりも、ラブレターもないと思うな」
「どうしてですか?」
「失敗してるし」
ぶぼっ。
ユキはその場に崩れ落ちる。
精神的ダメージが大きすぎたようだ。
「ははは、風子の恋の悩みはやはり先輩の先輩である私が……」
「……そんなこと言って、男性と付き合ったことあるんですか?」
「お、お」
う。
と言おうとして声が小さくなる。
「……ない」
「ですよねえ」
ため息をつく二人。
「ごめん、わたし風子ちゃんに何も教えてやれない」
一瞬にして情けない声に変わった純子。
「ゴムはつけなさいぐら……」
スパコン。
さすがにユキが実力行使でツッコミを入れる。
「っ……何をする! おっぱいが揺れる後輩!」
「セクハラです」
ぴしゃりと言うユキ。
さすが、学生会副会長である。
「恋に悩む風子が間違えを起こさないように、持っている知識をフルに使って出した言葉なのにっ」
「もう黙っててください、純子さんっ」
またにらみ合うふたり。
風子は困った笑顔で固まっていた。
「だ、だってしたことないから痛いとかそういうのも教えられないし」
「いいから黙れ、このバカ先輩」
確かに大切だ。
世の高校生では大いにありうることである。
まあ、初恋の相談相手に言うことではないが。
「あ、あの」
風子が口を開いた。
「ラブレター書くなら、教えてあげる、失敗した分、ちゃんと内容を分析して、ひとり反省会もしているしっ」
キラキラと目を輝かせるユキ。
さあ来いと、胸を叩くが、ぼよんと跳ね返される。
「い、いえ、そうじゃなくて」
その返答を聞いて、すぐにショボンと肩を落とすユキ。
「ほーほほ、肩を落とすついでにその胸の垂れてしまえばいいのに」
がっがっ。
右、左。
純子が立ち上がり、風子の正面を向いたか思うと、そのままその肩に手を置いた。
「押し倒そう!」
「違いますっ!」
純子にはさすがに大きな声で拒否する。
「風子……とうとう独り立ちするんだね」
「そーゆーことではありません」
純子はクルリと後ろを向くと、肩を震わせ泣くような声を出す。
「つまり、付き合った経験ゼロの私達に、風子が教わることはないということ……なのね……」
ユキはユキで「恋文ー」とぼそぼそ言っていた。
絶望感丸出しのふたりの先輩。
「ごめんね、風子、もうお姉ちゃんたちは、あなたの力には」
「どーして、そんなに極端なんですか!」
風子がツッコミを入れた。
とうとう、ふたりのリズムに乗ってしまった。
「ならば押し倒す?」
また振り向いた純子の表情がパッと明るくなった。
「その真ん中はないんですか」
「ラブレター」
ユキが言う。
「すみません、ユキさん、わたし字が下手で」
「代筆してあげようか」
きっと恥ずかしい内容になるだろう。
そんなことを同部屋の先輩に書いてもらったら……もう生きてはいけない。
それよりも風子はまだ恋なのかどうか、その段階だ。
書けるわけがない。
「そういう問題じゃないんです」
風子は声が大きくなっていた。
ノックの音も聞こえない。
ガチャリ。
ドアノブが回転する。
「好きって、どういうことかわからないんですっ! ただ私は次郎君が気になって、なんか考えてたら、恥ずかしくなるというかっ! 松岡君が私に告白してきたときも、もう、何がなんだかわかんなかったし」
扉が開いていた。
言い切ったところで人の気配を感じた風子は扉が空間に変わった場所にいる人間と目を合わせた。
夜なのでいつもは結んでいる長い黒髪を下ろしている女子。
彼女は一年生の印の入ったダサいジャージを着ていた。
「あ……あの、ノックは……したんです」
一気に赤面する風子。
つられて入ってきたばかりの幸子も赤面した。
「あ、幸子ちゃん」
純子がいつもの呼び方をするが、彼女もつられて赤面する。
「ちょ、ちょっと座ろうか」
ユキが手招きする。
なぜか彼女も赤面。
赤面女子四人の沈黙。
あまりに純粋な風子に、さっきまで自分が言ってたことがくだらなすぎて、そのことが今さら恥ずかしくなる純子。
もう、風子がたまんなく可愛いと思うユキ。
『大吉に告白された』がリピートされる幸子。
そして、同級生の幸子に聞かれてしまっておどおどする風子。
沈黙。
この場をどう収めようか。
頭をフル回転、考えるだけ考えた。
部屋の中の温度が少し上がる。
幸子が『あ、トイレに戻ります』という発言があるまでの三十分間。
この部屋は沈黙に支配されていた。
その間。
きっとそれは恋だと、風子は仮置きすることに決めた。
それだけ。
さすがに彼女も幸子が大吉のことを気にしていることは知らないのだ。
知っていたら、沈黙どころじゃなかったかもしれない。
なんにしても、今は十二月。
聖夜は近い。
男子も女子もそわそわする季節であった。
長崎ユキと野中の話は拙著『39歳バツイチ子持ちだが……』の方に詳しくあります。




