第54話「笠原先生のカウンセリング」
学生達が宿営していものよりもひとまわり大きいテント。
大人が立って歩けるぐらいの天井。
柱に掲げている時計の針は二十時を回っていた。そして、次郎はそんなテントの中でぽつんと椅子に座り、緊張の表情を浮かべている。
大人の女性とふたりきりという事実がそうさせていた。
その原因であるカウンセラーの笠原梅子は自分の折り畳み式のベットに腰掛けている。
「ごめんね、ちょっと髪の毛だけ乾かしていい?」
部屋の真ん中にある巨大なストーブ。
「なんか恥ずかしいね」
そう言いながら彼女はそのふわふわの栗色の髪を乾かしていた。
彼女が声をかけたのはお風呂帰りだったのだ。
宿営地のテントと浴場がある場所は歩いていける距離だが、少しだけ離れていた。
お風呂上がりの女性を間近で見るのは、そういうお年頃の次郎には少々刺激が強い。
それはともかく、次郎はなんでこんなところにいるんだろうと考える。
学校の中では教官のほとんどが軍人ということもあり、黒髪ばかりだった。
だから梅子のような軍人ではない職員の柔らかい感じのする女性のそばにいるだけで、今までいた空間と今ここ空間のギャップに戸惑う。そして不思議な気分になってしまった。
「上田次郎くん、だよね」
「はい」
彼女は外していた黒ぶち眼鏡をかけて次郎を見た。
ジャージの上着にその苗字が描かれた白い布の名札が縫い付けられているから、それを確認していた。そして、彼女は立ち上がって作業の続きを始めた。
「ごめん、もう少し待って」
そう言うと、折り畳みベットの横に置いてある巨大バックをごそごそとあさり、櫛を取り出した。
彼女はおもむろにそのウェーブのかかった髪の毛をときだす。
「山にくるとドライヤ―も使えないし、大変なんだよね」
彼女はニコッと笑った後に、何か考えるふうな表情、そして生真面目な顔になった。
「男の子だから、わかんないか」
「あ、いえ、姉と妹が実家にいますから」
次郎はそう答えて、先ほど水筒から注いでもらった紅茶のカップを口にした。
安そうなプラスチックのカップの中身にある紅茶をとても甘く感じる。
「ところで」
折り畳みベットの横のバックに櫛をポイッと投げ入れると、彼女はベットにもう一度腰掛けた。
「わたしのこと知ってる?」
「笠原先生ですよね……トイレに『お悩み相談、いつでも』ってカードがありますから」
「ああ、あの写真付きの」
男子トイレ、女子トイレ、それぞれ用をたす場所、ちょうどその目線の先にラミネート加工されたカードが貼ってあるのだ。
カウンセラーに行くことの敷居が高いため、あの手この手で宣伝されていた。
「なんか、あれ微妙よね」
「そ、そうですか」
「トイレしてるときに、自分の顔がいつも見られてると思うと、すっごく微妙」
「……先生がやったんじゃないですか?」
「わたしが男子トイレに入って、ポチポチ貼っているように思っていた?」
ジト目で次郎を見上げる。
そんな表情を見て、次郎は普段の見た目よりも幼い感じがすると思った。
梅子は倍近く次郎と歳の差があるのだが。
ほとんど化粧をしていないからかもしれない。
「甘すぎたかな」
次郎はえっという顔をする。一瞬、何を言っているかわからなかったからだ。
「紅茶」
「あ、いえ」
甘すぎる。
「カウンセリング室って、男の子はあんまりこないんだよね、女の子が多くて」
「はあ」
「ほら、男の子って甘いものが好きだっていうし」
「……」
次郎は甘いものがあまり好きではない。
そもそも、紅茶を味あうとか、そういう状態ではない。
繰り返すが緊張していた。
梅子はこの十一月の夜だというのに薄い水色のTシャツ一枚である。
巨大ストーブのお陰か、外気は一桁の温度にも関わらず、テントの中は二〇度の半ばぐらいの気温だからだ。
お風呂上がりの女性の匂い。
シャツにうっすらと浮かぶ下着のライン。
梅子の感覚からすると、高校一年生は小学六年生ぐらいの男子とそう変わらない。
だから、無防備だった。
むっつりすけべの次郎は目のやり場にこまってしょうがない状態なのだが。
「あのね」
「はい」
ポンポンと梅子は左手で自分の隣を叩いた。
横に座れといっているのだろう。
次郎は、紅茶の入ったカップをこぼさないように慎重に動いて、ベットに腰掛けた。
その折り畳みベットの骨と布がギシっとなる。
梅子が近所のホームセンターで買った安いキャンプ用ベットだ。そんなに丈夫そうな作りではない。
「少し顔色、よくなったかな」
じっと彼女は次郎を見ていた。
「あ、いや」
スケベなことを考えて顔を赤くしたなんて言えない。
「そうだよね、わかんないか、鏡を見てなかったし」
彼女はそう言うとため息をついた。
「薄暗くても、すごく顔色悪かったのがわかったから声をかけたの」
「……そうなんですか」
自覚はない。
ただ、ぐるぐるといろいろ考えて、とにかく今やっていることをすべて投げ出したい衝動にかられていただけだから。
「思いつめた人の顔色って、その風邪とかそういうのと違う色なんだよね」
「思いつめてなんか、ないです」
「ふーん」
彼女はそう言って天井を見上げる。
「嫌になった?」
「……」
「別にいいんじゃないかな、わたしもしょっちゅう人生嫌になるし、この前もフラれちゃったし、もうなーんにもしたくなくなるというか」
「……」
「好きな人が、ちゃんとわたしのことも考えてくれるんだけどね、ちゃんとふってくれたし……頭ではわかってるんだけど、体がついて行かなくて」
梅子は下がってきた眼鏡を右手の人差し指で押し上げる。
「だるいし、もー何もやりたくない! って、部屋の掃除も片付けもしたくないし……もちろん、そう言う時はカウンセラーのわたしがちゃんと出てきて、表には出さないようにしてるんだけど……あれ、なんの話だっけ」
「あ、いや……たぶん僕のカウンセリングを先生が」
なんか一瞬にして立場が逆になっていたような気がする。
なんで先生のぼやきを、自分が聞いているのか。
「どうして、力が抜けちゃったと思う?」
「その、好きな人に対して、一生懸命した努力や時間が、全部だめになったからとかじゃないですか」
梅子は目をまんまるにして、少し笑った。
「ごめんなさい、わたしのことじゃなくて次郎くんのこと」
「……あ」
顔を更に赤くする次郎。
そりゃそうだ、大人の女性が自分のような子供に恋愛相談をするはずがない。
「……俊介」
ぼそり、次郎が言葉を出した。
「徳山俊介くんね、友達の」
「はい……そう思ってました」
「思ってた」
「たぶん、違う」
「そうなんだ、どうして、そう思う?」
「向こうがそう思ってなかったから」
友達って。
「そう聞いた?」
「……友達だったら、出て行く前に相談とか、何か声かけると思うから」
「そうだね、そう思うよね……なんで友達なのにできなかったんだろう」
「友達って思ってなかったから」
「そうなのかな?」
そう言うと梅子は立ち上がった。
水筒の中にある紅茶を自分のカップに注ごうとする。
「友達だからかもしれない」
梅子は静かにそう言った。
ポタ、ポタっと水滴が落ちた。
もうほとんど入っていなかった。
「でも」
「うん」
「友達だったら、言ってほしかった」
「そうだね、でも俊介くんは、友達だったから言いたくなかったのかもしれない」
「わかりません」
「うん、わからないと思う」
そんな梅子の言葉にちょっと間の抜けた顔になる。
「ふふ、どっちだよっ、て顔をしてる」
「……」
次郎は何かを言おうとしたが、ただ口をパクパクさせた。
「どっちもあるんじゃないかな」
「……」
――人ってのは無視しちゃいけないことも無視して物事を単純に見るってことが好きだから。
ふと、野中大尉の言葉が浮かぶ。
――考えろ、悩め、思考停止するな。
今の次郎にはその声が重く。
お腹をググッと掴まれるような痛みを感じてしまった。
「わかってるんです、でも、考えれば考えるほど……力が抜けてきて」
ぽんぽん。
梅子が手のひらを次郎の頭の上に置いた。
「ひとりひとり、一生懸命考えたんだ」
次郎はぐっと歯を食いしばり頭を縦に振った。
「俊介くんだけじゃないよね、同期みんなのことも考えてたんでしょ」
こくり。
次郎はもう一度頭を振った。
「大変だったね」
こくり。
「通じたかった?」
こくり。
ちゃんと向き合おうと思った。
俊介とも。
楓とも。
そして、サーシャとも。
「前、わたしのところに来ていた患者さん」
梅子はストーブの前に立った。
「とても丁寧に、ひとりひとりの人間に向き合う人だったの」
次郎は顔を伏せたままだ。
「好意を寄せる人にはちゃんと向き合って、それだけじゃなく、戦争で死んじゃった人たちとだって、いつまでも向き合っちゃって」
「……」
「壊れちゃっても、向き合おうとするから、いつまでも引きずって」
梅子は眼鏡を外す。
「ペルソナってわかる?」
「仮面……ですか」
「うん、例えば私は今、カウンセリングの先生のペルソナを被っているし、実家に帰ればただのぐーたら娘のペルソナを被る」
――こんな歳で娘っていっても、えっと思うかもしれないけど。
こそっと言って、少しだけ笑う。
「あの人は、ペルソナをうまく使ってごまかしていたけど、とても繊細だからすごく危なっかしくて」
「ペルソナって悪いことなんですか?」
「ううん」
梅子は首を横に振る。
「ストレスコントロールにも使えるから、いいことなんだけど」
「……でも、その人はそれが」
「そう、頑張らくていいのに、ペルソナの力に頼って、限界までいつも追い込むから」
「……」
「ごめん、よくわからない例えだよね」
梅子はそう言うと眼鏡をかけた。
「次郎くんは、一枚だよね」
「……一枚」
「たぶんあなたは……いろいろな人から聞いた感じだと、裏表がないというか、誰でも、どこでも同じというか」
「……僕だって、いろいろ心に思っていることは、あります」
「うん、むっつりスケベで」
「誰が言ったんですか」
「いつも正しいと思うことをしている」
「……そんなことは」
ふうっと梅子は息を吐いた。
「次郎くんは人の評価がみんな同じ」
「……」
佐古少佐に次郎を注意深く見てくれと頼まれていた梅子。
今日一日彼の事を調べるため、何気なく一中の教官や学生達と話しをして感じたこと。
次郎のことを聞くと、みな口を揃えたような評判。
不思議なくらいに同じ印象なのだ。
「それって、すごく疲れることじゃない? 無理して、ない?」
「無理……しては」
「きっちりしようとしすぎてない?」
次郎はふと思う。
サーシャのこと。
なぜ拒絶されたのか、ずっと心の片隅に残っていた。
そして、俊介からの拒絶。
「……僕、重すぎますかね」
「……もしかしたら」
ずーんと落ち込む次郎。
そんな姿を見て慌てる梅子。
ついつい、次郎と話していると、歯にきぬきせず言葉を出してしまうのだ。
仮面を被らない次郎。
相手を正直に、そして本当の想いを引き出してしまう性質があるのかもしれない。
だから、俊介は、楓は、そしてサーシャは、ああいう答えを出してしまった。
「ペルソナ」
ひとこと梅子はそう言った。
「人に対してそこまで真摯に向かい合わなくてもいいんだよ、疲れたら考えるのをやめているのもひとつだし」
――考えろ、悩め、思考停止するな。
梅子という大人が野中大尉と真逆の事を言っている。
同じ大人なのに、二人とも違うことをいうことに対し、次郎は戸惑う。
「ペルソナってそれを助けるものなの、例えば学生長ならそのペルソナを被って、自分を捨てたり、教官だったら、そのペルソナを被ってきちっとした自分を演出したり、その時に自分とのギャップを感じて、それがすごいストレスなんだけど、それを感じさせないようにする……ああ、今はペルソナを被っているからそれでいいんだ、って思えるだけで楽になれる」
「僕は、どんなペルソナを被れるんでしょうか」
「うーん」
明確になにか答えを出してくれるんじゃないかと思ってた次郎は、その反応に落胆した。
「それは、あなたが決めること」
「……それがわからないんです」
「そりゃ、でもペルソナを被ろうとは思ったでしょ」
「それは」
「逃げてもいいって選択肢が増えた」
「逃げようなって思ってません!」
「逃げてもいいんだよ」
梅子はそう言うと、また次郎の横に座った。
「ペルソナに逃げていいんだから、ペルソナのせいにしていいんだから……悔しいなら、苦しいなら泣けばいいし……次郎くんはがんばりすぎ……さっきも、ぐっと堪えていた」
「何も、堪えては」
「わからないこともわからないままでいいし、無理して理解しようなんてしなくてもいい」
「そんなこと……」
「次郎くん、さっき外でずっと泣いていたから声をかけたんだけど」
「泣いてなんか」
「うん、泣いているように見えなかったけど、泣いていることはわかったから」
今日初めて話した他人に何がわかるんだという顔で次郎は梅子を見る。
彼女は優しい顔で、少しだけ笑顔を作った。
「カウンセラーの笠原先生の顔、でも別の私は子供のくせに大人に生意気なんこと言いやがって! と思ってるし、大人のわたしは悩む目の前の男の子をかわいいと感じている」
――単純にしすぎだ単純に。
唐突に、浮かぶあの言葉。
ふと次郎は今まで百八十度違うことを言っているような気がしていた梅子と野中の言動が一致した。
ストンと落ちてきた。
「泣きたいあなたもいれば、逃げずに跳ね返したいあなたもいる」
ギュッと膝の上で拳を握る次郎。
「人から拒絶されて、別に他に仲がいい人間がいるからどうでもいいと思うのもあなた、人との関係なんてそんなもんだと諦めているあなたもいれば、寂しくてなんとか繋ぎ止めたいと思うのもあなただし」
サーシャ、俊介。
そして楓。
近づいていたと思っていたのに、ぽっかり空いた穴。
「……先生、僕」
このまましゃべったら泣きそうになる。
次郎は言葉を飲み込む。
「うん」
梅子はそう言って次郎の頭を撫でる。
三回ほど撫でた後だった。
震える次郎。
顔を上げる事なく、しゃっくりを繰り返す。
そして、彼は子供のように、遠慮なく声を上げて泣き崩れた。
「落ち着いた?」
少しバツの悪そうな顔をした梅子。
ついつい可愛くなって、膝枕までしてしまったからだ。
やりすぎたと思っている。
佐古少佐から『どうも危うい学生が出てきたのでケアを』と頼まれて、この男の子に話しかけたのだが。
目の前の学生は男の子だけど、自分とは倍以上年齢が違うとしても、十五歳というのはそこそこ大人である。
でも、彼が吐き出した言葉を聞いてどうしようもなく、つい、よしよしと膝で泣かしてしまった。
彼女も知らないうちに次郎の先天的な姉殺しに引き込まれたのかもしれない。
それも手伝ってか、彼は素直に吐き出していた。
次郎は泣きながら、体育祭を通じて苦労してきたこと。
頑張ってきたこと。
それが俊介や楓に通じていなかったこと。
風子にあの時拒絶されたこと。
とても辛かったこと。
今でも引きずっていること。
サーシャに勇気を出して告白したら、失敗して恥ずかしくて格好悪くていたたまれない気持ちになったこと。
楓にあそこまで嫌われることに耐えきらないこと。
今まで人から拒絶とか嫌われるとかそういう経験がない自分の弱さが情けない。
そんなこと……彼の中にたまっていた弱さを全部吐き出していた。
これじゃ、カウンセラーというよりも、母親じゃないかな……と思う。
笠原梅子。
彼女自身、また別のペルソナがある。
隠れた彼女の特技である妄想力爆発である。
その力が煌めいた瞬間、男性カウンセラーと男子の禁断の恋という物語を頭の中で綴っていた。
――天からの啓示いぃ!
そう彼女は心の中で叫び声をあげながら。
この野営訓練が終わったら新しい連載をBixivで始めようと鼻息が荒くなる。
まあ、そんなことを考えているものだから、バツが悪いのだ。
「ありがとうございます」
赤く目を腫らせた次郎が頭を下げる。
やばい、こっち方面に目覚めたかも、と梅子は思うが、それは大人。
表面は慈愛に満ちた笠原先生である。
子供相手とはいえ、感情を絞り出したあとの人間同士のぶつかり合いだ。
揺さぶられるものがある。
優しい笑顔で。
「少し楽になった?」
動じないようにする大人も大変なのだ。
いっぽう次郎は、すっきりしていた。そして、またもやもやするんだという予感も持っていた。
「大切なのはコントロール」
梅子が口を開く。
「すっきりさせる要領がわかれば、それを使ってもいいし、考え方、見え方を変える努力をしてもいい」
「そんなに便利に……できますかね」
「今はできていた」
「……はい」
「また、来てもいいですか?」
「もちろん」
梅子はそう言って頷いた。
また、天の啓示があるかもしれない。そういう期待をしないわけではない。
「なんかすっきりできました」
次郎は素直にそう言った。
「でも、なにも解決してない」
「不思議です、何も解決していないのに、すっきりしました」
「うん、それはよかったね」
「はい、でも先生のお陰で俊介と話ができそうです」
「何かできそう」
「たぶん、何もできません」
「そっか」
「何もできないけど、話てみたいと思います」
「うん」
「小牧とも」
「うん」
「サーシャとも」
「そうね、話てみたら?」
梅子がそう言うと彼は立ち上がる。
時計の針は二十三時を回っている。
たった一時間。
ほんのひと時が、倍にも数倍に感じる時間だった。
何も解決していない。
でも、前には進めると次郎は思うことができた。
そう思うと、体の脱力感が少しだけ楽になっていた。
拙著『39歳バツイチ子持ちだが……』に出てくる笠原梅子先生、学校専属カウンセラーとして大人や子供の相談を受けています。
長期の野営訓練など、毎年心が折れる学生が出てくるのであらかじめ、軍医とは別に同行していました。
趣味はBL小説の執筆。




