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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第8章  霜月「演習場へようこそ! 大人だって大変です」
52/81

第52話「斥候訓練」

「あの丘……なんか、暑苦しい」

 山中幸子はため息をつきながらその言葉をつぶやいた。

 仏頂面の彼女。

 目の前にある『あの丘』に視線を向けていた。

 その視線の先に人の気配はない。

 だが、そんな予感がする。

 丘はとげとげした針葉樹林がところどころに見えている。そして、それ以外の場所は黄や茶に色あせた草に覆われていた。

 人の気配はないが、人がいることは確かなのだ。

 あの木々や草の間に隠れていることはわかっていた。

 昨日、彼女たちがあの場所にいたように。

「あんな広い場所をたった四十人でカバーしていたのに、けっこう捕まえたよね」

 幸子の隣にいる(ミドリ)がそう声をかける。

 暑苦しいという幸子の声は彼女には聞こえていない。

 中隊対抗方式の警戒部隊と斥候の訓練。

 昨日はお隣の二中の四十人が斥候となってあの丘に入ってきた。

 それを阻止するために警戒部隊となって網を張っていたのが一中の幸子や緑たちだった。

 彼女が言うように、あの広い場所でも二中の斥候組を半分程度は捕まえたのだ。

 斥候の方は五人一組。

 昨日彼女達がやった警戒は歩哨や斥候狩り部隊で、通りそうなところに張り付いたり、高いところから目を出したりする。そして、斥候を捕まえたり、近づけさせないようにするのだ。  

 ルールは一キロメートル四方の丘の真ん中に置いてある車の種類を解明したら斥候側の勝ち、解明させなかったら警戒側の勝ち、という単純なもの。

 相手が見つけたら終わり。

 囲まれた場合は大人しく捕まる。

 逃げる時は絶対に走らない。

 錯雑地、遠くから見たらのっぺらした丘だが、茶色い雑草の中には小さな起伏がいっぱいあり、足を滑らせて落ちれば大けがをする可能性があるような谷だってある。

 それを避けるためのルールもあった。

「やっぱ、男クラも同じところに張り付いてるのかな」

 そう言ったのは同じ斥候組の大吉だ。

 昨日は二中が斥候役で潜入してくるのを大吉たち一中が警戒側としてガードしていた。

 今日の敵は三中(男クラ)である。

「道路の交差点は避けないと……かな」

 俊介がそう言うと次郎は頷いた。

 幸子に緑、そして俊介、大吉、次郎の五人組。

「できる限り藪漕(ヤブコ)ぎしていこう」

「でも、時間が……」

 次郎の言葉に、か細い声を出したのは緑だった。

 藪漕ぎはとにかく時間がかかる。

 通常の四、五倍は時間がかかってしまうということを言っているのだ、ちなみにあまりに遅いと、タイムアップ。

「ケモノ道を探して時間を稼ごう」

 大吉が地図を広げる。

 彼は昨日、警戒部隊についた時に見つけたケモノ道を地図に書いていた。

「……待ち伏せしそうなところは避ける様にしていけば」

 幸子は大吉の地図を覗いて、指さした。

 潜入するための作戦をあーでもないこーでもないといいながら話し合う。

「……捕まったら……」

 緑が心細い声を出す。

「大丈夫、捕まらないように頭使って考えるから」

「やっぱり不安」

 大吉が胸を張る姿を見て、ほんとうに不安そうな表情をする幸子。

「……なんだよ」

 はあ、とため息で返す幸子に対し、目を吊り上げる大吉。

 少しショックだったのかもしれない。

「言いたいことがあるなら、言えよ、ちくせうっ」

 そんな大吉に対して、幸子はふっと目をそらす。

 口元は笑っていた。

「ま、相手は男クラだし、あいつらが考えそうなことなんか、だいたいわかるけど……」

 幸子とは違った意味でため息をつく次郎は「吊るしたり、さすがに教官もいるから追剥(オイハギ)みたいなことはしないと思うけど」と付け加えた。

「西の男子って、やっぱり下品」

 また幸子だ。

 彼女の頭の中には、制服をキリッと清潔に着込む故郷にいる男子達の懐かしい姿が目に浮かんでいた。

 近代以降の西洋文化を『退廃的』と断言する極東共和国の日常起居、制服、普段着の着こなしどれひとつとっても清潔な感じがしていた。

 今は少し窮屈な印象に変わってきているが。

 そういう世界に慣れ親しんだ幸子。そんな彼女は『退廃的』な言動や行動をする彼らに対して違和感をいまだに強く感じていた。

 特に、あの男クラという世界の生き物は目を疑うものだった。

「全部いっしょにするな」

 ムッとした大吉が口を尖らせる。

「お上品でないのは、よーくわかっちゃいるけど」

 今は黒髪坊主頭だが、半年前は金髪(退廃的な頭髪)の大吉であった。

「ごめん」

 幸子はその何気ないひとことで気分を害させたことに気付く。

 それでも、『ごめん』と、そう言った言葉が出てくるとは、半年前では考えられないことだ。

 そんな彼女は心から謝罪していた。

「あ、こっちもごめん、男クラ、あいつら変態だってことは俺も認めてるし、女子だわっしょいとか言って、変態なことをしそうだし、本当に吊りそうだし」

 大吉はははっと笑う。

「吊るす……」

 緑が、大吉の言葉に反応したのか、少しかすれた声でつぶやいた。

「大丈夫緑ちゃん、ちゃんと守るから」

 オトコマエな幸子。

 怯える緑の肩に手を置く。

 だが、緑は顔を上げない。

「幸子ちゃんが、吊るされる」

 主語は幸子。

「いや、吊るされないから」

 幸子は否定。

「幸子ちゃんが、し、縛られる」

 きっと、緑の脳内ではいろんな映像が放映されているのかもしれない。

 息がだんだん荒くなる。

 ついでに、声もはっきり大きくなっている。

「ああっ! 幸子ちゃんっ」

 心配する声ではない。

 どちらかと言うと、喜んでいる。

「ちょっ……」

 充血した目で幸子を見る緑。

「大丈夫、怖くないから」

「う、うん、怖くないからね、幸子ちゃん」

 縛られても、という意味なのかもしれない。

 緑ががしっと幸子の手を掴んだ。

 ぞぞぞ。

 幸子の腕に鳥肌が立つ。

 緑の濡れた瞳は、怪しい光を灯していた。

 あの夏以来の恐怖である。

 そんな幸子たちがわいわいやっている一方で、待ち受ける男クラ四〇人は、よからぬ欲望に目をギラギラさせながら準備をしていた。

 それは緑と同じ光を帯びている。

 想像通りである。

女子(オナゴ)だ」

「女子がくるぞっ」

「捕獲!」

「じっ、尋問!」

「ボディーチェック、ボディーチェック、ちぇえええっく!」

「触らないと、わからないしなっ」

「ホリョだっ!」

「押シハ強クッ! デモ、優シサハ忘レルナヨッ!」

 などなど。

 気合十分である。

 よっしゃこい。

 そんな声が響きそうな雰囲気。

 あながち幸子が感じた暑苦しさは的を得ていたのかもしれない。



「大丈夫、上にはいない」

 偵察から戻ってきた次郎が小声でそう言った。

 うなずく大吉。

「俊介、大丈夫?」

 五人の中で一番体力が低い俊介に気遣いの声をかける大吉。

 次郎が提案した谷間を抜けていくコースを大吉は反対していた。

 体力がない俊介にはきついと思っていたからだ。

 だが、その反対意見を遮ったのは俊介だった。

 ――大丈夫、がんばるから。 がんばりたい。

 そう言っていた。

「うん、ありがとう」

 彼はいつになく気力が充実しているせいもあって、疲れを感じていなかった。

 たまにそういうことがあることを彼は経験上わかっていた。

 少し興奮している時に多い。

 そしてある一定の限界を超えると急に『精神的』に辛くなってしまうのだ。

 彼はあくまでそれは肉体的なことではなく『精神的』なことだと思っている。だからこそ、こういうところでなんとか自分の限界を超えようとしていたのかもしれない。

 彼は脅迫的に、自分を変えなきゃいけないという衝動に背中を押されていた。

 大吉もそんな俊介の表面的な元気に押された。

「よし、行くか」

 大吉の言葉に頷く緑と幸子。

 彼女たちは俊介と違い、男子に負けない体力がある。

 地図を見れば、もうすぐ目的の場所だ。

 この経路は谷沿いの錯雑地をひたすら進んで、一気に目的地の後方を目指していた。

 植生が深いため、上から谷を見下ろすには多くの目が必要で、監視の死角になる経路だった。

 男クラも、十人ほどを谷の上に配置しているが、たくさんあるケモノ道をすべておさえきれていない。

 配置の優先順位は目的への距離が近い順であった。

 大吉達はその裏をかいて、一番離れた場所から出てくる獣道を選んでいる。だから、相手の隙をつくことになったのだ。

 もちろん、別の手当てを男クラ軍団も用意をしているのだが。

 次郎が先頭を行く。

 谷を登る。

 木々に囲われ薄暗い風景から、明るい視界に変わった。

 黄色いススキがサラサラと風にゆれ、優しい秋の太陽光を反射する。

 なんとも場違いの感じがするのどかな風景。

 演習場でなかったら、ぼーっとしたい秋の昼下がりである。

 カサカサ。

 カサカサ。

 俊介がその音のする方向を見て、声を上げそうになるが、そこはがまんしての口を抑えた。

 ぴょんと飛び出ていく生き物。

 次郎が右手の手のひら下にして数回振る。

 頭を下げろと言うことだ。

「うわっ!」

「シカっ! シカッ!」

 遠くで男クラの学生らしい声が聞こえる。

 驚いて大声を上げているのだ。

 親鹿、親鹿、小鹿、小鹿。

 こっちも驚いているが、鹿達も驚いているのだろう。

 男クラの学生達の声を聞いてびっくりしたのだろう。鹿ファミリーは一八〇度方向変換をして、次郎達の方へ向かってくる。

「こっちにくる、下がろう」

 小声で大吉が言った。

「横に、横に」

 俊介がとっさに判断し、鹿の進行方向から垂直に動く。

 彼が先頭になるようにして、鹿の進路からずれた。

 その時だった、甲高い電子音が足もとから放たれたのは。

「うわっ」

 電子音にまたまた驚いた鹿は今度は九〇度回転し、谷の方へと走り去っていく。

 結果オーライ。

 いや、鹿との衝突は避けたが、今度は男クラ達が迫ってくる危機に陥った。

 罠だった。

 電子音の正体は一〇〇円ショップにでも売ってそうな痴漢撃退警報機だ。

 それをちょっと改造して、罠線を引き、斥候の接近を知らせる資材にしていた。

「あっちだ、あっち」

「鹿じゃねえか?」

「違う、鹿がいる方じゃなかった」

「敵だ! 敵」

「女子ー! 女子ー!」

「おい、集まれ!」

 警戒部隊が殺気立つ。

「ご、ごめん」

「謝る前に逃げよう、今のは仕方がない」

 その場に崩れ落ちそうなぐらい落胆した俊介の腕を引っ張る次郎。確かに今のはしょうがない。

 運が悪いとしかいえない。

 それに鹿にぶつかるよりはここでつかまった方がましだ。

「谷に戻ろう」

 大吉が動き出す。

「おい! 止まれっ!」

 戻ろうとした方向からも声。

 どうやら囲まれる寸前のようだ。

「ごめん、僕の、僕のせいで」

「しょうがないって、俊介のせいじゃねえし」

 大吉が俊介の肩を叩く。

 だが、彼らの逃げる方向は崖の様な急な坂しかない。

「……こっち、こっちの道を探してくる」

 そう言って、俊介は追手が迫る逆方向に進もうとする。

 すなわち崖の方だ。

 急ではあるが、うまく行けば降りれそうな感じもする。

「俊介、走るなって、そっちは斜面が急で俺たちじゃ、無理だって」

 彼は次郎の制止も聞かず、左手を崖にして、道を探しながらスタスタと走っていった。

「止まれ!」

 止まれと言って止まるバカはいないが、今回はそういうルールなのだ。

「うわっ」

 俊介は急な谷の方へ無理矢理降りて行こうとした。

「止まれ! 俊介」

 彼の仲間である次郎も同じように叫んだ時だった。

 バキ。

 俊介が谷を降りていくために支えにしていた、一〇センチほどの太さの枯れ木。

 左手は折れた枯れ木の一部を握ったまま。

 彼は谷の方へ吸い込まれていった。

「俊介ーっ!」

 大吉や次郎が叫ぶが、声は届かない。

 あっという間に、谷間の木々や草の下に俊介は消えていく。

「こっちだ! 誰か落ちたぞ!」

 男クラの学生達も集まりつつ、叫んでいる。

「教官! 教官は!」

「俊介!」

「徳山くんっ!」

 緑も幸子も叫んでいる。

 次郎は何か吐き捨てる様に言葉を言ったあと、谷の方に降りようとするが、大吉に腕をつかまれる

 びっくりするほど力強く。

 ぐっと身を乗り出すが、足場っぽい場所は俊介がすべって崩してしまったため、谷に降りれそうな足場はない。

 柔らかい土質のため、少しでも体重をかけ間違えれば、俊介と同じようなことになるだろう。

「どこだ!」

 林少尉の声だ。

「こっちです」

 男クラの誰かが返す。

「徳山くんっ! 徳山くんっ!」

 緑が大きな声で谷に叫ぶ。

「学生は行くな、下がっていろ」

 林はそういいながら、テキパキとリュックからロープを取り出し、あっという間にアンカーを組み確保の態勢を確立した。

 カラビナでロープをつなぐ。

「徳山くーん!」

 幸子も叫ぶ。

「俊介ー!」

 次郎が叫ぶ。

 何もできないくやしさからか、彼自身でもびっくりするぐらい大きな声だった。

 せめて、大声ぐらいは出したかったのかもしれない。

 同期が困っているのに、何もしてあげれない悔しさ。

「俊介!」

 もう一度叫んだ。

 ピー―――。

 警笛の音が谷に響く。

 ピー―――。

「もういい! わかった! 教官たちが今から行く!」

 ロープで安全を確保した林ともう一人が谷に降りていく。

 ――道に迷ったら、警笛を吹きなさい。

 そう言った真田中尉から学生ひとりひとりに渡された警笛。

 俊介がならしたに違いない。

 とりあえず、生きている。

 けがはしているかわからないが、警笛を鳴らすだけの体力はあることがわかって、学生達は少し安堵した。


「林」

「はい」

 天幕の中で中隊長の佐古少佐と対面する林少尉。

「甘かったな」

「はい……」

「大きな怪我はなかったが、それはただ偶然で、骨折以上のことがあってもおかしくない事故だ」

「はい……」

 目を伏せる林。

「……自分が、安全管理を万全にしなかった……」

 ために、と林が言おうとしたが「欲を出し過ぎたな」と佐古が言葉を遮った。

「いい訓練をしようとすれば、それは安全の担保が必要になる、危険と訓練は紙一重だからな」

「……防げた事故です」

「学生に『走るな』と言っただけで安全が担保できると思っていたのは間違えだった」

「……はい」

「ムキになるお年頃だ、無理だったのかもしれない」

「……」

「あとは、危険区域の見積もりが甘かった、谷付近は立ち入り禁止にすべきだった」

「……昼間(チュウカン)の斥候で敵に近づくとなれば、地形を使うしかないということを知ってほしかったので」

「訓練ってのは、一番下のレベルに合わせる必要がある……危険を回避することが第一義、学生達を怪我させたら訓練は台無しだ、いいか、これはこの野営訓練のマストの部分だからな」

「はい……すみません」

「謝る必要はない」

「ですが」

「この訓練の責任者は私だ、お前の作った訓練計画を決裁したのは私だ」

 佐古はふっと笑う。

「もっと言えば、うちの大隊長(オヤジ)が責任者だからな、何かあったらケツはオヤジに拭いてもらう、林のケツを俺が拭くようにな」

「……すみません」

「だから、もういい……・さっきまでの説教は林に対してでもあり、自分に対して言っていることなんだ」

「……」

「計画を読んでこれでいこうと言ったのは俺だ、これでやらせてくださいと言ってオヤジにポチッとハンコ押させたのも私、責任は私にある、だから林の指導もした」

 林は顔を下げたままだ。

「事故処理はよかった、君の立ち位置も良かったから現場にすぐにいけた、ロープを持っていたのもいい、計画の危険見積通りの対処ができている」

「……はい」

「全般的にマルだ」

「……ですが」

「学生を怪我させたのは、私の責任、君の作った訓練計画に対して適切な指導をしていなかった、いや訓練内容はいい、安全管理の部分だけだが」

 そう言うと佐古はポンッと手を叩いた。

 お開きということのようだ。

「待ってください……」

「ま、後は『走るな』という約束を守らなかった学生達を指導するのは君の役目だ」

 彼は立ち上がり、テントを出る際に、林の頭に手を置きポンポンと叩いた。

「さ、がんばれ青年将校、小さい失敗はいっぱいして、大きな失敗をしなければいい……ま、いずれ林も中隊長をしたときにわかると思うが、部下の失敗を飲み込むのが指揮官である私の仕事だってことを」

 佐古少佐はそう言うと軍刀を右手に持ってテントを出て行った。

 そしてしばらくたった後、林は誰もいなくなったテントの中で、絞り出てきそうな声を殺すために奥歯を噛みしめていた。

 力が足りない。

 訓練の企画では、いくら先輩といっても同じ小隊長である真田中尉にかなわないし、ましてや副官の日之出中尉には届きもしない。

 二中の伊原少尉のように厳しく指導もできなければ、頭山少尉のように優秀でもない。

 情けない。

 目にギュッと力を込め、少し溢れ出そうになったものを押し込めるため、蓋をした。

 情けない。

 普段静かな林は表に出さない熱い想い。

 蓋が押し出される。

 ――ちくしょう。

 彼がこのテントから出るにはもう少し時間が必要だった。 



「いや、ほんとびびった」

 次郎が笑った。

 四か所絆創膏を貼られた顔の俊介。

「ごめん、僕のせいで」

「鹿が悪いんだって、あんちくしょーあんなところにいやがって」

 大吉がそんなことを言う。

 夕食。

 今日はパックのごはんだ。

 レトルトのごはんに、レトルトの『牛丼』のもと。

「これ、牛ってよりも『しらたき丼』じゃねえか」

 そう言って大吉が文句を言うが、腹が減って仕方がないので、もりもり食ってはいる。

 確かに有名チェーン店の牛丼は玉ねぎと牛肉だが、このパックの中身はしらたきが七、肉が三の割合と言ってもいいぐらい、大量のこんにゃくである。

 栄養バランスを考えた上でのチョイスかもしれない。

「次会ったら鹿刺にしてやる」

 息まく大吉。

「解体?」

 緑が嫌そうな顔で見る。

 どうしてもあの鶏解体ショーの印象が強いのだ。

「……いや、もうあれは勘弁だな」

 げっそりした大吉。

「食べるってことは、誰かがやんなきゃいけないことだし」

 もっともらしいことを次郎が言う。

 そんなことは百も承知だという表情で大吉が次郎に視線を送り口パクで「面白くねえ」と言った。

 ムスッとする次郎。

「しっかし、林少尉、めっちゃ怒ってたよな」

 そんな次郎を無視して話題を変える大吉。

「うん、怖かった」

 緑がぼそりと言う。

 夕食前に五人は呼ばれ、決められたことを守らない姿勢に対して、説教を受けた。

 説教と言っても長くはない。

「言われたことをやれ」

 ひとこと、それだけだった。

 彼らは連帯責任でも取らされるんじゃないかと思ったが、腕立てをしたのは俊介だけ。

 走ったのは俊介だけじゃないと大吉は言ったが、俊介が「自分だけです」と言ったためだ。

「迷惑をかけるな」

 そうも言っていた。

 言葉は短い、だが迫力のあるその声で十分だったのかもしれない。

 何だかわからないが、とにかく悪いことをしたということはわかった。そして、教官がとても怒っているということも。

「僕、ずっとみんなの足をひっぱっている」

 牛丼を食べ終わった俊介がそう呟いた。

「ひっぱってねえって」

 大吉がそう言う。

「迷惑かけてごめんなさい」

 そんな俊介を次郎がキッと睨みつける。

「もう言うなよ、そんなこと」

「でも……」

「同期なんだ、迷惑だってかける、俺だって俊介に迷惑かけるかもしれない」

「だって、いつも次郎君には手伝ってもらってるし、優しくしてもらってるのに、全然体力ものびてないし」

「……俊介、俺、怒っていいか」

 低い声の次郎。

 大吉がふと体を浮かせる。

 いつでも制止ができるように、反射的に動いたのかもしれない。

「お、怒られて当たり前だと思っているから」

 ますます、頭を下げる俊介。

「……っ」

 言葉を飲み込む次郎。

 ――なんで下手(シタテ)に出るんだ! 俺と俊介は同期なのに! 上も下もないのに! そういう態度をしてるから!

 苛々してしまう。

 弾けそうな感情を次郎は抑える。

「……顔を上げろって」

 少しためらって俊介は顔を上げる。

 涙目の俊介。

 次郎は急激に怒りが収まる。だが、サディスティクな黒い感情が急に膨れ上がり渦巻きそうになっていった。

 彼は大きく深呼吸してなんとかそれを止める。

「同期なんだからさ……そういうの……やめよう」

「う、うん」

 頷く俊介。

 大吉は浮かしていた腰を元に戻す。

「で、あっちの方はどうなんだよ」

「あっち?」

 意地悪い目をした大吉。

「小牧楓」

 ブボっとお茶を吹き出す俊介。

 俊介が上に引き上げられた時、幸子が傍にいた。

 それを楓が見ておもむろに嫌な顔をしていたことを言っているのだ。

「……楓ちゃん、誤解しちゃったのかな」

 心配そうな幸子。

 彼女にとっては、なにがどうして誤解されるのかはわからないが、どうも楓は嫉妬が激しいほうであるようだ。

 そういう感情があまりない幸子にはよくわからないが。

「……あ、あれから、大丈夫? 大丈夫って会話ぐらいだけど」

「まじで! 無事だった、ちゅーとかしてんじゃねえか」

「……し、してないよ」

 赤面する俊介。

 その反応でますます意地悪そうな目をする大吉。

「俺も、女子に大丈夫のちゅーしてもらいてえええ」

 わざわざ自分の前で言うんだから、別の女子のことなんだろうと、なんとなく思う幸子は少しだけ眉をひそめた。

 もちろんその女子とは風子さんであった。

「だ、大吉君はもてるから、きっとすぐに、してもらえるんじゃないかな」

 適当な返しをした俊介は後悔する。

 泣きそうな表情に変化した大吉が目に入ったからだ。

「ぐすん」

 わざとらしい。

「はいはい、大吉、サカるのはそこまで」

 ちょっと大人ぶったムッツリスケベの次郎。

 緑と幸子がいるから、ちゃんと紳士なふりをする。

「くそお、いつか見てろ、俊介師匠から女子と付き合えるコツを盗みとってやるんだから」

「し、師匠とかやめてよお」

 情けない声を出しながら笑う俊介。

 緑はジト目で不埒な男子達を軽蔑している。

 そんな話を自分の目の前でするってことは、きっとそういう対象ではないんだろうと幸子は思った。

 幸子はそんな複雑な気持ち抱えて大吉を見る。

 次郎はさっきの嫌な感情を、大吉の笑いのお陰でどこかへ消すことができた。

 だから、彼も笑っていた。

 笑顔は伝染する。

 俊介も笑った。

 夕食も終わり、虫や動物の声で賑やかになる秋の夜。

 演習場の防火水槽のような風呂に入り、小さいだでっかいだで盛り上がる男たち。

 もちろん女子も賑やかだ。

 消灯前に次々に寝袋の中っで静かになっていく学生達。

 体力的に疲れ果てた学生達は消灯の時間にはほとんどの者が寝静まっていた。

 寝息が響くテントの中。

 彼らにとって、睡眠は一瞬の出来事に感じるはずだ。

 熟睡するしかない疲れだ。

 そして、あっという間の朝。

 寝袋から這い出てすぐに、整列。

 寝ぼけた顔のまま点呼を受ける。

 野営も五日目が過ぎると体が慣れるのか、寝坊する学生もいない。

 そんな朝。

 慣れてきた朝。

 いつまでも点呼は終わらなかった。

 集まるべき人間が集まらなかったからだ。

 しばらくして『ごめんなさい』というメモが見つかる。

 それが置かれていた場所は俊介のベットであった。


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