第5話「先輩、早く済ませて下さいね」
「陸軍少年学校服務規則第二章第五隷『頭髪』『頭髪の脱色、染髪を禁ず』『当該違反がある場合、すみやかに是正させる』に基づき、断髪式を挙行する」
男子棟の夜。
無駄に賑わう廊下。
新入生に対する恒例の儀式が盛大に行われていた。
「やめろ! ちくしょー!」
椅子に縛りつけられた茶髪の松岡大吉が足をばたつかせて抵抗している。
だが、屈強な三年生二人に体を固定され身動きひとつとれない状態になっていた。
「自らを律して髪の処置を行うことを期待し、一週間待っていた……しかしながら、松岡は自らを律することもできず処置をできなかったため、心苦しいが、処置を断行する」
「やめてくれええ」
最後の叫びを大吉はあげたが、彼を固定している先輩がギュッと首を掴むと大人しくなった。
死ぬか髪を切るか。
まあ、髪を切る方を選ぶ。
大吉は観念して首をうな垂れた。
ブルッと震える。
髪に対するこだわりが捨てきれなかった。
他人からみればどうでもいいこだわりではあるが、本人にとっては重大問題。
先ほど声高らかに式を宣言した三年生が年季の入った電動バリカンを振り上げる。
コードレスではない年季の入った銀色のバリカン。
学生の間で、もう三〇年近く申し送られた一品である。
小傷が無数に入って輝きを失っているが、そのバリカンは数々の修羅場を生き残ったものだ。
天井の蛍光灯に照らされ怪しく輝いていた。
いくつもの呪いを刈り取り、そして吸い込んだそのバリカン。
「ヒューーー!」
「うををを!」
男たちが歓声を上げる。
「逆モヒ!逆モヒ!」
逆モヒカンコール。
どこかの部族長のような雄たけびを狩人があげ、大吉の後頭部の生え際にバリカンを当てた。
「ノアの奇跡ぃぃ!」
が叫びながら、後頭部から前髪の生え際まで一気に銀色に輝くバリカンを走らせる。
そして、まさにノアが海の水を二つに割るようにして、髪の毛の海をバリカンは進んだ。
バサッバサッ。
明るい茶色の髪の毛が新聞紙を敷いた床に落ちた。
拍手が起きる。
おめでとう。
誰かがそう言った。
よこうそ陸軍少年学校へ。
また、だれかが言った。
鳴りやまない拍手。そうして、拍手が終わると興味が失せたように、男子寮の住人は部屋の中に入っていった。
「あー、もう終わり?」
「お疲れっしたー」
「今年は断髪したの一人だって」
「少ねーなあ」
「大した抵抗もなく終わったって」
「なんだ、つまんねー」
とり囲んでいたギャラリーもいなくなり、ただ、バリカンの機械音だけが廊下に響いていた。
「ごめ、いや、笑っていないから」
上田次郎はそう言いながら明らかに笑っていた。
そんな彼を見上げるようにして睨む大吉。
口が尖っていた。
ここは次郎の部屋。
大吉がぼやきに来ていた。
学校に来て一週間が経つが、いつの間にかこうして話をする仲になっている。
大吉の部屋には先輩がいるので、彼らがいない隙を狙ってここに来ているのだ。
なにせ、次郎の部屋は入りやすい。大吉の部屋の先輩は二人とも寡黙な人であまり会話できないが、ここの部屋の先輩は気さくに話をしてくれるのだ。
もちろん今はこの部屋の先輩がいない。
いたら、こんな話はできない。
「似合ってる、うん、こっちの方がいいよ」
「野郎に言われたってうれしくねーし」
彼はそう言って、一ミリほどの長さになってしまった髪の毛をザラザラ撫でる。
この手触りや頭皮に直接冷たい空気があたる感覚に慣れていないのだ。
ついつい、無意識のうちに触っている。
もともと大吉はヤンキー的な服装と髪型で童顔をごまかしていた。
この学校に入ってイモジャーを着て、断髪されて坊主頭になってしまったため、ひとめでガキとわかる感じになってしまった。
小柄な体型と年齢以下の童顔。
まあ、お姉さんたちからすれば、可愛い部類である。
大吉にしてみれば、それはコンプレックスであった。
ガチャ。
扉が開いて男が入ってきた。そして大吉に寄っていく。
「可愛くなっちゃって」
部屋に戻ってきたのは彼らの先輩にあたる二年生の渡辺潤が早速大吉の頭を撫でていた。
「お疲れ様っす」
「お疲れ様ですっ」
大吉は撫でられた頭を下げた。
次郎も立ち上がり、お辞儀の敬礼をした。
「いいよいいよ、ゆったりしてよ」
潤はそう言うと自分の机の前にある椅子に座る。
「大吉ちゃんのこと、うちの二年の女子がカワイイカワイイ騒いでいたよ、いいねえ、年上の女子にモテるなんてうらやましいなあ」
そんな潤の言葉に大吉は赤面した。
「俺は潤さんみたいに大人っぽくてかっこいい男になりたいんです、カワイイとか嫌っす」
大吉は真面目な顔をして訴えた。
潤はそれがおかしくてついつい笑ってしまう。
潤は一七〇㎝手前の背格好で次郎より少し低いぐらいなのだが、天然茶色の癖毛――本人はそう言っている――をショートにした髪とその整った顔立ちのせいで、ずいぶん大人びた雰囲気を出している。
人懐っこい表情としゃべり口で学校内でも女子にモテているが、決して学校内で彼女は作ったことがない。
噂では月イチで彼女が変わっているという。
一部の女子からは警戒されているが、モテ度は低くない。
実際、次郎が本人に聞いたところによると今の彼女は大学生だと話していた。
――女泣かせとか、ほんと迷惑な噂だよー。
彼は次郎にそう言うと困った顔をしていた。
「そうだ次郎、あの駅で喧嘩した中村って覚えているか?」
「中村……」
次郎はそう考える振りをしてみるが、するまでもなく強烈に覚えていた。
あの馬鹿みたいに気が強い女の子の中村風子の事だ。
もみ合いになり、あの硬い胸を触ってしまった、そんな恥ずかしい思い出が残っている。
「その中村がどうしたんだよ」
すると、大吉がまた口を尖らせて拗ねた声を出す。
「あいつ、今日すれ違った時に、指差して『あれ? ボクちゃん? 可愛くなって』って笑いやがった」
「なんとなく同意」
「あ、次郎、てめー」
「だって、喧嘩した大吉が悪いって……しかも、あんだけ駅で歌舞いていたんだからさ」
駅で現役軍人といざこざがあり、その騒ぎに我慢できなかった風子が「やかましい」という理由で大吉に喧嘩をふっかけてきたのだ。
風子は悪ぶっていきがっている男が目障りでしょうがない性格だった。
「もしかしたらなんだけどさ」
「うん」
大吉は少し恥ずかしそうな顔をする。
「あいつ、俺に気ーあるんじゃねーかな」
――。
沈黙。
「は? あはははははは」
「まじ? えー、そうなるか! ははははははは」
数秒後部屋の中を二人の爆笑が炸裂した。
「大吉ちゃん、ポジティブ、いや、いいよ、そういうのお兄ちゃん好きだから、面白いから、ははは」
目に涙を浮かべてしゃべる潤。
「ない、それはない、ははははは、いや、すごいな、尊敬する、大吉すげえ、ははは」
次郎もたまらず腹を抑えている。
「笑わないで下さいよぉ」
赤面しながら相変わらず口を尖らせる大吉。
「もしかして、その中村さんを好きになったとか」
からかい気味に潤さんがそう言うと、彼は顔を俯かせた。
笑いが止まり、しーんと部屋がなる。
「え、まじ」
次郎の表情が少し引きつる。
こくりと頷く大吉。
「も、もしかしたら、惚れたかもしれない」
「やめとけ、あの中村はやめとけ……駅でいざこざあっただけだけど、あの女相当性格悪い。それにあの強気なところとか……」
目線を逸らす大吉。
「あ、まさか、そういうのが好きなのか」
「強い女は、好みで……」
潤はニヤニヤしながら二人の会話を聞いている。
「胸ないよ、触ったけど、腹筋と同じだった……やめてた方が」
「あ、てめえ、俺の惚れた女のおっぱい触っただとお!」
「いや、あれは事故だから、たまたまそういうことになって、前話したでしょ」
「なんか喧嘩したのは聞いたけど、おっぱい触ったとかは聞いてねーよ」
「あーそうだったけ?」
「くそう! 羨ましい!」
「そっちか」
次郎につかみ掛かる大吉。
「つうか、大吉……昨日まではあの副官の日之出中尉がイイ、イイ、まじイイって言ってたし」
「日之出中尉はイイけど、絶対にあんな大人の女性に手が届くはずないし、身近な方が」
「えー、あんだけ『おっぱい触って、やわらかくて』って興奮してたのに」
「してねえよ、エロガキみたいに言うなっ」
ガチャ。
再び部屋の扉が開く。
一八〇㎝はある大柄な体に、筋肉がはみ出る様なタンクトップ姿の男が入っていた。
部屋の中の喧噪が一気に冷める。
一瞬の緊張、そして三人は気を付けの姿勢をしてお辞儀の敬礼をした。
「お疲れ様です!」
そういうと、男は頷きで答えた。
そして、そのままこの部屋唯一のシングルベットに腰掛ける。
この部屋の三年生、落合幸一だ。
口数が少ないというかほとんどしゃべらない。
次郎もここに来て一週間近くが経つが未だ「おう」「飯行くぞ」「電気消せ」しか声を聞いていない。
潤曰く「怒ったところとか見たことない、見た目と違ってすごく優しい人、町の野良猫を撫でているところを見かけたという噂もあるぐらい」らしい。
でも、その感じが怖くて気楽には話せないのだ。
「ごめん、話に横から入って……あのさ、二人ともなんでそんなに女の子のおっぱい触ってるの?」
「人生初めて母親以外のを触っただけですから、そんなにでもないです」
と大吉。
「中村風子のあれは、おっぱいではありませんでした……傍目からは触った様に見られましたが、ないものを触りようがありません」
と次郎。
「いや、なんでそういうことになったかを知りたいんだけど」
「「事故です」」
それから、二人は不可解な表情をする潤に初日の駅での出来事を話した。
「そうか、じゃああれだな、大吉ちゃんはジロー君とライバル関係ってことだな」
「なんで、そーなるんですか」
次郎が抗議するように声を上げる。
「だって、大吉ちゃんは風子ちゃんのことを好きなんでしょ」
コクリと頷く大吉。
とても惚れやすく勘違いしやすいタイプだった。
「あーでも風子ちゃんが大吉ちゃんに気があるというのはどうかなって思うけど」
頭をうな垂れ、落ち込んだ空気に包まれる大吉。
「で、ジロー君は、風子ちゃんのおっぱいをモミモミしたんだよね」
「モミモミはしてません! 事故で触れてしまっただけです」
「まーなんにしても、乙女の胸にタッチしたんだから責任とらなきゃ」
「意味がわかりません」
「ね、だから、ほら、二人は好敵手じゃん」
わざわざ好敵手と日本語で言って、ライバルと言いなおす潤。
そして、雑誌に目を通している落合の方を見た。
すると彼はゆっくりと頷く。
「ほらあ、落合さんもそうだって言っている」
「くそう、次郎、勝負だ! 風子は俺のもんだからな」
頭が単純な大吉。
すぐ乗せられる。
「いや、俺関係ないし、って言うか、何呼び捨てにしてんだ、中村の名前」
潤さんがゲラゲラ笑い出す。
「いやー、面白い、ほんと二人は面白い」
また涙を浮かべながらそう言った。
「もう、勝手にして下さい……それに大吉、もうそっちは好きにやって、俺、中村の事はなんとも思ってないし、どっちかって言うと避けてるぐらいだから」
「次郎、お前! その手には乗らないからな! そうやって俺を油断させてから、風子に手を出すつもりかっ」
大吉は次郎に向かって「フシャー」と子猫のような威嚇をする。
陸軍少年学校の夜。
寝る前の貴重な自由時間は、たいがいこんな感じの他愛もない会話がいろいろな部屋で行われている。
基本、学力優秀な男子がここに集められているが、こういうお馬鹿達もたくさんいる。
そして、卒業した後に残るのは、意外とこういった他愛もない馬鹿な話をしていた記憶なのかもしれない。
いや、まだまだこの男子達には近くて遠い未来の話なのだが。
まだ、思い出になるには早すぎる時期だった。
次の日、次郎は朝の点呼の腕立て伏せも終わり、一年生の朝の仕事である掃除をしていた。
すれ違う上級生に気を付けながら掃き掃除。
こういう掃除をしている時でも、上級生には敬礼――挨拶――をしなければいけないのだ。
彼らが着ているジャージのストライプの色を見れば上級生と分る。だからそこを注意深く気にしながら掃き掃除をする。
ただ、中には意地悪な上級生もいて、十メートル以上離れたところを通った時に敬礼をしなかったとか言って言いがかりをつけるような輩もいる。
そして、慣れない次郎と大吉はそういう上級生に因縁をつけられてしまった。
「おい、一年。俺に欠礼するなんていい度胸だな」
廊下の大分向こう側からいきなり怒鳴り声をあげる、どっかの先輩。
一応びっくりした二人は声の方を振り向いた。
「あ、えっと、欠礼ですか」
欠礼とは、上級者に対して敬礼をするべきときにしなかったことを言う。
次郎はあっけに取られた顔をしていた。
二人とは間逆の方向、掃除をしている二人の後ろ、十メートルほど離れた場所を通った上級生がそう言ってきたのだ。
「すみません、後ろ向きでしたし、遠くだったので気づきませんでした」
と、大吉が言った瞬間、上級生の平手うちが彼に飛んだ。
パチィン。
音だけが派手な打ち方をされた。
一瞬にして場が凍る。
歩いていた一年は固まり、そしてこの二年生のことを知っている上級生は「またいつものことを」とか「うぜえ」という顔をしたまま歩いている。
「先輩、ケツレイというのは、人を殴るほど失礼なことなんでしょうか?」
次郎が食ってかかった。
「やめろ、謝れって」
大吉が慌てて次郎を諌める。
「質問する前に、自分で考えろ! 生意気な!」
平手打ちが次郎の顔に飛んだ。
彼はにらみつけたままそれをまっすぐに顔で受け止めている。
インパクトの瞬間も微動たりともせず、ただ上級生を睨みつけながら。
「なんだ、てめえ先輩に対してその目は」
男がもう一度手を振り上げ平手打ちをしようとする。
――素人すぎる。振りも大きいし、みえみえの動き。
次郎はほんの少しだけ間合いを詰めた。
上級生は目標を見失うとともに、次郎がいきなり目の前に迫ったように見えた。
そのため怯んでしまい体勢を崩す。
次郎は自分の左手首を相手の平手打ちをしようとしている右手首に引っ掛けて、そのまま自分のお腹の方へ流した。
そして彼は上級生がつんのめるところに軽く足払いをする。
端から見てもまったく分らないぐらい、ちょんっと触れるような足払い。
上級生は面白いぐらいに地面に転がった。
次郎は、相手が頭を打たないように彼の手をぐっと掴み引っ張り上げる。
「先輩、大丈夫ですか?」
次郎は笑顔でそう言った。
明らかに挑発している。
上級生は真っ赤な顔をして立ち上がってしまった。
「貴様ー!」
そう叫びながらめちゃくちゃな殴り方をしてくる。
今度はグーパン。
「人を殴っちゃだめでしょう」
彼は諭すような言葉を上級生に言ってしまい後悔する。
――先輩と名前が付く人に『生意気』と言われる性質は、やっぱり変われないな。
彼は面に対する右パンチを、左手でちょっと軌道を流し、そのまま右の入り身で相手の背中に入り、襟首を掴んだ。
「反撃なら、文句言えませんよね」
彼は笑っていた。
襟首をそのまま引き落とし、地面に叩きつけるつもりだ。
だが、やめた。
「あーだめだめ、ジロー君、そこまでだって」
頭を掻きながら照れくさそうに潤がやってきたからだ。
「一応このアホも先輩なんだし、あんまりいじめちゃだめだって」
上級生の頭を、ぽんぽんっと叩く。
「あと、お前、ついこの間まで俺らといっしょに一年生やってたんだからさ、急に後輩できたからって、息巻くのやめたがいいよ。かっこ悪いたらーありゃしない」
また、ぽんぽんっと叩く。
「そうそう、あんた二中だよな、うちの一中の一年をいじめちゃったら、怒っちゃうよ」
そう言いながら、やっぱりぽんぽんっと叩く、いや、殴った。
鈍い音がした。
「もう、ジロー君も気をつけてよ、一応こんなんでも先輩だからさ、ちゃんと挨拶してやってよ」
絡んできた上級生は、ギャラリーに必死な目で威嚇していた。
「僕達も後輩が欠礼なんてしたら、ちゃんと指導してやるからさー」
なんて楽しげに潤がしゃべる。
「んー、精神的な反省の仕方と、肉体的な反省の仕方といろいろ準備してるしねえー」
ウヒヒと笑う潤。
「もちろん思い出作りになるように面白くやっちゃおうと思ってるんだけどさー」
次郎も大吉もひきつった顔で笑った。
表情を戻した彼は上級生に目を向けた。
一瞬目が合うが、すぐに目をそらされる。
「これからは欠礼しません! ご指導ありがとうございましたっ」
と、次郎は丁寧に頭を下げた。
明らかに喧嘩を売って。
まだまだガキである。
次郎は。
「次郎すげーなー『上級生の指導に対し反抗的な態度をとり、しかも投げとばした不良』って言われてるぞ、すげえ、不良だって不良」
目をまん丸にさせて興奮気味に話すのは大吉だ。
「ほんと、すげーな! 強えんだな、次郎は」
この狭いコミュニティー。
面白い話はあっちゅう間に広がる。
「ジロー君、聞いた? 今日のジロー君はこの学校に来るまでに、九州、中国、近畿地方の六校を締め上げたことになっていたよ」
潤がうれしそうに言いながらその茶髪をいじっている。
次郎は軍隊で茶髪なんて非常識だと思っていたが、初対面の時に「この髪の毛、天然だから、僕は不良さんじゃないからね、敬遠とかしないでね」と説明を受けていた。
――ほんとかなあ。よっぽど『不良』な感じがする人なんですけど。
と、今も思っていた。
「ひやかすのはやめてください、大人気なかったことは反省してます……もうしませんから」
「ひやかしてないよ、そういう噂が流れてるって言っただけだから」
といいつつ口の端が笑っている潤。
「示現流の使い手になってるって、ちぇすとーって」
ニヤニヤしながら言う大吉。
「違います……それは鹿児島の剣術ですから、僕の家は古流の柔術やっていただけです、名前も言ってもしょうがないようなマイナーな流派ですから」
「いやー、有名人が部屋っ子てのもいいなあ」
部屋っ子とは同部屋の後輩のことを指す言葉だ。
「枝葉つけてるのはジュンさんが言いふらしているだけのような気がしてきました」
「ひどいなあ、ジロー君がこの学校で生活し難くならないように情報収集しているだけなのに」
「はあ……」
そういう会話が自由にできることはありがたいんじゃないだろうか。
次郎はそう思う。
いきなり平手打ちをするような、面倒くさい上級生と同じ部屋だった場合を考えるとため息が出てしまう。
たぶん、耐え切れないと彼は思っている。
すぐに、上級生だろうがなんだろうが投げ飛ばしてしまっているだろうと。
だから、面白い先輩方に囲まれた今は、自由はあまりないが悪い生活ではないと思っている。
そして別の日の夕方。
自由時間。
彼は一人で売店に行っていた。
自分用と落合と潤に頼まれた夜食用のパンを買って。
売店の出口を一歩でると、例の上級生が立っていた。
じっと睨んでいる。
次郎は面倒な事は巻き込まれたくなかったので、目を伏せ「お疲れ様です」とできるだけ大きな声で敬礼してそこを通ろうとした。
すると目の前に大きな影が現れたため、歩みを止めた。
――三人か……。
囲むようにしてイモジャーの男が立っている。
その識別色を見ると二年生だ。
「お前か、一中の生意気なガキは」
一番大柄な男がそう言った。
「ちょっと、話があるからついて来いよ」
次郎は大きくため息を吐きたくなった。
一対一でだめなら複数。
なんいて情けない先輩だ。
なにより正義ではない……そして、めんどくさい。
「すみません、部屋の先輩から急いで帰るように言われてて」
「なあ、別にいいけど」
笑うような感じに一人が言った。
「茶髪の坊主のガキが先に待ってるがな」
次郎はその言葉を聞いた瞬間、すうっと表情が消えた。
彼は大好きな祖母からの教えを一つ思い出していた。
――相手が卑怯なこと、汚いことをしてきても、お前は真っ直ぐ真っ向からぶつかりなさい。
真っ向勝負。
卑怯な奴は許すな。
「先輩、早く済ませて下さいね」
彼はにっこり笑顔のままその台詞を棒読みにする。
なにか外れた音がした。