第43話「それぞれの進む方向」
次郎は汗をぬぐいながらコップ片手にふらふらと歩いていた。
目標は命の源。
どうでもいいから大量の水分と糖分を本能が欲しがっていた。
無意識の行動。
たどり着いたジャグの前で倒れ込むように片膝をつき、液体をコップに流し込んだ。
なみなみとついだ液体をこぼさないように気を付けながらベンチに座る。そして、クエン酸が多めに入っているドリンクを一気に飲み込んだ。
「酢っぱ!」
そんな次郎の反応を見て大吉が得意顔で笑った。
「大吉スペシャル! うまいだろう」
体育委員は持ち回りでトレーニング後の水分補給に使うドリンクを作っている。今日は大吉がその当番であった。
「……いや、これいつもの粉と違うし、っていうか入れすぎってレベル? それを通り越した酸っぱさじゃね?」
「さすが次郎! 栄養ドリンクマスター!」
「いらんわ! そんな称号」
なんとも栄養バランスの悪そうな称号である。
そんな次郎の反応を無視して大げさに大吉うなずいた。
「水だけじゃなく酢を入れてみた」
説明しながらエッヘンする大吉。
「こんなんドリンクじゃねえっ!」
「良薬口に苦しだっ!」
大吉はそう大見得を切って胸を張った時、体に衝撃が走った。
ゲフンと言って飛び跳ねる。
尻に膝蹴りを食らったからだ。
「バカ」
そう言ったのはサーシャだった。ちなみに彼の尻に蹴りを入れたのも。
「……ない、これはない」
風子が顔を横に振りながら呻く。
大吉は風子を見て目をぱちぱちした。そして、手にもっているカップの中身が目の前で捨てられるのを見て、がっくり首を落とす。
ギャグではなく本気で美味しいものを作ったつもりだったらしい。
大吉は本気で落ち込んでいる。
次郎はそんな大吉に同情しつつも相手はせず、顔を背けた。
顔の汗を手ぬぐいでもう拭きとる。
そんな次郎を見て不思議そうな顔をする風子と目があった。
「……上田君、タオル……?」
「あ、これ?」
広げると赤の記事に白で『乾坤一擲』と書かれた手ぬぐいを広げる。
「見た目よりも汗を吸うし、洗濯した後すぐに乾くから、けっこう使いやすくて」
風子にしてみれば、手ぬぐいは剣道とかで頭に巻くやつ、ぐらいの認識だ。そんな手ぬぐいをタオル代わりに使っている次郎はやっぱり変わっている思った。
「上田君やっぱり変わってる」
そのまま口にでてしまう風子。
「変わってるかな?」
手ぬぐいひとつでそこまで言われるのが不思議だという表情。
次郎は頭をかしげる。そして、少し寂しそうな顔をした。
風子もそんな次郎の態度に不思議そうな顔をする。
「けっきょく何にも変わってない」
彼がそう呟く。
今日の練習のことだった。
楓は来るには来たが、すぐに帰った。
相変わらず、練習で手を抜こうとする学生もいる。
呟いた次郎の表情を見た風子は少しだけ柔らかい笑顔になった。
清々しい顔をしていたから。
「そうかな、少なくとも変な空気はなくなった」
「空気……?」
「嫌ーな空気」
「嫌な空気か……」
次郎が首を振る。
少なくとも、仲間を排斥しようとかそういう空気はなくなった。
それができる立場の、動かす立場である次郎がそんなしょうもないことをやめたからだ。
「確かに嫌ーな空気」
ぐいぐいっと二人の間に金髪娘が物理的に入る。
「空気って意味、今わかった」
日本独特の言い回し、なかなかロシア娘にはわかりにくいものだったらしい。だが、二人の間に流れるなんともいえない雰囲気を感じ、空気という意味を理解したようだ。
「やっぱここは、ビシッと小牧に、むぐぐぐぐ」
元祖過激派的体育委員の大吉も、二人の空気を嗅ぎ取り入り込んできた。
物理的に間に入ろうとするものだから、サーシャと押し合いをしている。
「サーシャ様の体に触れるなんて百万光年早い」
「ばーか、そりゃ時間じゃなくて距離じゃねーか、早いじゃねーよ」
「はんっ! 意味なんてどうでもいい、感じ方が伝われば問題ない」
「てめえ、まともな日本語使える様になってから喧嘩売ってこい、このアマ」
「ロシア人ですから日本語わかりませーん! このクソチビタ、高校デビュー失敗野郎」
ガルルルルル。
狭い空間で顔を突き合わせて威嚇し合う二人。
「はい、松岡くん」
風子がタッパーを開いて、蜂蜜漬けのレモンを大吉に見せる。
大吉は風子が自分のために作ってくれた物だと思って目を輝かせた。そして、一枚を摘み口の中に入れる。
「ああ、甘酸っぱい、風子さま、美味しゅうございます……ほんと、俺の心をつかんで離さない味!」
彼はほんわかした表情で余韻を楽しむ一方、風子は少し顔を引きつらせる。
彼女が作ったものではなかった。
「……これ、楓ちゃんが女子にって」
一瞬にして顔いっぱいに皺が寄る大吉。
「小牧ぃ?」
「うん、みんな練習お疲れ様って」
だいぶ大人になった風子。
まわりの人間がそわそわしているぶん、落ち着いたお姉ちゃんキャラになってしまったとも言える。
ちょっと中学時代の風子姐さんに戻りつつあった。
「なんであいつ」
「……楓ちゃん、同部屋の先輩で学生会副会長している人に気に入られちゃって」
黒ぶち眼鏡をクイッとあげる、胸ボーンな長崎ユキ先輩を思い浮かべる。
ああいう感じも大吉の好みである。
脳内では胸が揺れていた。
そんな妄想でニヤける大吉を不思議そうに見る風子。
「あれ? なんか変なこと言った?」
「い、いや、べつに、あれだよね長崎先輩だよね、ああ、いいひとそう」
楓がつくった蜂蜜入りレモンのことはぶっとんでいた。
「そういう話じゃないんだけど」
「え、ええ? いや、うん、ごめんなさい」
風子の声色がきつくなりかけたため、すぐに謝る大吉。彼と彼女が出会ったその日に喧嘩をしているから、そういう雰囲気は読めるのだ。
彼は風子のそういうところも含め、いやそういうところこそが好きでたまらないツボでありポイントなのだが。
まあ、彼にとってレモンもユキ先輩のこともどうでもよくなっていた。
何気に「風子さま」と下の名前を使っても違和感なく会話ができたからだ。
「楓ちゃん、副会長が気に入って、本部にって決めたから、それからそっちの手伝いが多くなったみたい」
「ふーん」
大吉にとっては「ふーん」である。
あの盗み聞きの頃くらいから、ユキは楓に目を付けたらしい。
一匹オオカミ感溢れる雰囲気。
だが、ちょっとしたところで懐いてくるところがかわいかったようだ。
お姉様的なユキからすると、美味しい女子とも言える。
そういう訳で、楓はレモンだけを置いて中隊の練習を早々に抜けたのだ。
「……ならそうだって体育委員に言ってくれればいいのに」
不満そうに口を尖らせるのは次郎。
「逃げちゃったみたいに見られたくなかったんじゃないかな」
風子はそう答えた。
「だれもそんなこと」
「ほんと?」
風子はジッと次郎を見る。
「……」
――人の思いなんてちょっとやそっと話したって通じるわけがない。
そんな野中の言葉がよみがえる。
彼はじわりとそのことに気付き、頭の中で頷いた。
――あんなことをした俺が、今さらってのもあるのかな。
そんな風に思った。
「確かに、しょうがないな」
彼はそう口に出した。
「言えないでしょ」
「そりゃ、ね」
そう言って頷く次郎。
彼はそのまま考えるようなそぶりをする。
その横に座る大吉。
「だいぶ工夫したけど、まだあいつにはわからないかな」
大吉が次郎に合わせた。
「押しつけがましいから無視されてるのかも、松岡君のは」
風子は笑った。
「でも、確かに、工夫はしていると思う」
練習メニューを考える役の大吉は図書室でトレーニング関係からスポーツ障害の本まで引っ張り出し、必死に読みこんでいるのだ。
積極的に教官室も出入りして、知恵を借りている。
「今日のサーキットトレーニングとか、素人の私でもすっごく管理的だってわかるから」
そんな風子の言葉を聞いて喜ぶ大吉。
実際彼は工夫していた。
『計数的』『個別的』を念頭に置いて練習方法を考えていた。
サーキットトレーニングは、プッシュアップやシットアップといった八種類の全身を鍛える種目を準備して、三〇秒で何回回数ができるかを計る。そして、練習ではその八種目を順番にやっていく。
回数は最大値を二倍したものであり、八種目を三回繰り返す。
その一連の動作はタイムを計測し、三〇(秒)×八(種目)×三(周)=一二(分)の八割をきることを目標に行う。
目標に到達すれば、また最大値の測定をするといった具合だ。
つまり、みんなで同じことをやるがそれぞれの実力にあった負荷と目標ができる練習メニューであった。
もちろん、大吉一人で考えついたわけでなく真田中尉や林少尉の知識を拝借したものだが。
「ただ、手を抜こうとしたら手を抜けるんだよなー」
彼が顔を上げてぼやくように言う。
「それは大吉本人の事だろう」
ベンチの後ろから大吉の首に手を回し絞めに入るのは宮城京だ。
「……っ、まった……げほ」
力が入っている腕とは裏腹に、顔はクールなままで話す京。
「ったく、こいつ途中で根を上げて、この前よりもタイム落ちやがった、偉そうなこと言っているくせに」
このサーキットトレーニングは二人一組だ。
酸欠状態で運動していると、その回数や次に何をやるかも忘れるため「次はジャンプスクワット!」と言ったふうにびッたりくっついて必要なことを伝える。
それに大吉のように途中でヘタレる人間もいる。だから延々とそれを煽る存在も必要なのである。
びったりとバディにくっつき「ハイ次、ハイ次」と煽られるのだ。
そして、京が言ったように正しい数値が記録に残る。
前回のタイムなども記録に残るので、比べられる。だからタイムが前回より上がらず落ちた場合は『手抜き』と判断されるのだ。
「……だって、っきっつくて……やばい、まぢ入った、まぢ、まぢ」
『じ』が苦しいのか『ぢ』になる大吉。
「大吉くん、本当にたいしたことないね」
そんな大吉を見て笑う風子。
次郎も京も笑った。
ふと風子の肩に手が置かれた。
風子が振り向くと、目の前には空間しかなかい。だが、目線を下げると腰をかがめたまの幸子がいた。
彼女はやっと風子のところまでたどり着いたと言わんばかりに、顔を伏せたまま肩で息をしている。
「……偉い目にあったんだけど」
げっそりした顔の幸子。
「松岡くんの鬼」
バディを決めたのは大吉である。そのことに対して文句を伝えに来たのだ。
「死んだ……」
そう言った幸子は膝から倒れる。
彼女のバディは緑。
「幸子ちゃんっ」
慌てて抱きかかえようとする風子。
「山中っ……」
そう言って反射的に手を差し伸べようとする次郎の手がパシンと叩かれた。
「触るなっ! このむっつりゲス」
サーシャではなく、幸子のバディである緑だった。
「お、おおう」
その迫力に仰け反る次郎。
「幸子ちゃん、いい、すごくいい、フラフラになるまで私の言うことを聞いて、トレーニングする幸子ちゃんすごくいい」
繰り返す緑の目が怖い。
風子を盾にして隠れようとする幸子。
「もう、幸子ちゃんってほんとがんばり屋さんだから、ちょっと優しく囁いたら倒れそうになるぐらいまでやっちゃうから、ごめん、すごく応援しちゃった」
もぞもぞしながら恥ずかしそうに告白する緑。
独特の恐ろしさを醸し出していた。
いっぽう幸子は風子の太ももにすがりつくようにして風子に哀願する。
「変わって……風子ちゃん……つうか変えろ大吉! ごらあ!」
途中から大吉への脅しへと変わる。
残念ながら首を絞められ白目向いている大吉には聞こえていない。
自分の話を無視していると感じた幸子はスッと立ち上がり大吉の前に行く。そして大吉にしがみついている京を突き飛ばし、スパコンと大吉の頭を叩いた。
白目を向いていた大吉が目をぱちぱちさせるのを見て、次郎が笑いだす。
よくわからないが、大吉もはははと笑いだした。
その笑いは伝染する。
――うまくいっているのかな。
次郎はそう思った。
だが、彼の思い描いているものには五割も満たない。
トレーニングに疲れ、地べたにペタンと座っている汗だくの俊介も大吉を見て笑っている。
悪くない雰囲気であった。
いつの間にか女子達も松岡くんではなく大吉くんになっている。
壁が少し低くなっていた。
そして彼は振り向く。
笑っているサーシャと目が合って気付いてしまった。
いつもと違って少しだけ寂しそうな雰囲気を。
ただそれが次郎の目に焼き付いてしまった。
なんだろう、と。
■□■□■
「知っての通り遠征旅団は、最新鋭の兵器と優れた戦力投射能力……」
学校長が台上の人物を紹介している。
「野中大尉はそこの第三混成大隊の中隊長として……」
不定期異動のため、見送り行事で台上にいるのは一人だけ。
「先の日極戦争では統合士官学校の学生の身でありながら前線で活躍し……」
二十年前、幸子の国がこの国に侵攻してきた戦争。
次郎はそんな紹介を受けている台上にいるあの人を見つめていた。
ついこの間テーブルを挟んで話した人と同一人物ではないような錯覚受けていた。
あの人は、遠征旅団に行く。
遠征旅団は同盟関係にあるロシア帝国の増援のため、モスクワに派遣されるかもしれないと噂される部隊。
ロシア帝国とソヴィエトが紛争を起こす可能性はほとんどないと、ニュースや新聞のコラムは言っている。
このご時世に本格的な陸上戦闘が起こる、いや起こすメリットがどこにもないからだ。
だが、次郎が軍隊に入った今感じる空気は、決してニュースで言っているものとは違う気がするのだ。
緊張感。
なんとも言えない緊張感と不安感が誰からも感じていた。
次郎はふと思う。
来年の四月にはロシアに戻ると言っていたサーシャはどんな気持ちなんだろう。
すぐに帰りたいんだろうか。
彼女は軍人貴族の家系だ。
家族が戦争に行くかもしれない。
友達や知り合いが巻き込まれるかもしれない。
彼女はどう思っているのだろうか。
そんなことを考えるうちに、見送りのために学校職員や現役軍人、そして学生達が二列に並び、花道を作っていた。
敬礼をしたまま進む野中。
途中で握手をしたり、二中の小隊長や下士官が抱きついたりしている。さすがに、女性でそういうことをする人はいないが、その人数が意外と多いため、彼が花道を進む時間は予定した時間をオーバーしていた。
そのうち野中が一中の学生の列まで進んできた。
現役、三年生、そして二年生の列で長崎ユキが無言で握手する。だが彼女はすぐにそっぽを向いた。
そして一年生の列。
――一中の……。
声が出ないまでも野中の口が動いた。
ポンッと次郎の頭に手を置く。
「悩める少年、また悩んでる顔をしているな」
にやっと笑い、次郎の頭から手を離した。
そう言われた次郎は口を開こうとしたが、とっさの言葉が出なかった。
コクリとうなずいて目を伏せる。
「ま、人にやらせるときのコツは、頭の中の理想から五割引いてみることだな、君は自分ができることを、他人もできるもんだと思っているから」
そういうとゴンっと拳骨を頭に入れた。
「これは三和とのちゅう」
頭を抱える次郎。
何が起こったのかわからない彼は涙目だ。
よくわからないが、ただ「ありがとうございます」と言った。そして野中は通り過ぎていく。
金髪娘が彼を止める様にして前に出た。
野中は立ち止まり、じっと彼女を見下ろす。
「ロシアのために……ありがとう……ございます」
彼女には珍しく、小さな声だった。
それだけでなく少し目をそらし、そして恥ずかしそうに赤面している。
「なんだ、そんなに礼儀正しいと気味が悪い」
課目で散々サーシャにバカにされていた野中はからかうように言った。
「しょうがない、慣れていないから」
そういうと彼女は野中を睨みつけた。
野中はふっと笑うと隣の風子に目を移す。
「仲直りできたか」
曖昧に顔を傾ける風子。
「君も」
野中が楓も見るが、彼女はゆっくりと顔を横に振った。
「ま、そんなもんだ」
はははと笑う。
「後悔しなきゃいい」
野中はそう言って花道を抜けていった。
大切なひとから言われた言葉を、自分に言い聞かせる様に。
野中が転属してから一〇日後に、ロシア帝国増援の大命が下った。それが準備されていたことかのように戦闘序列が発表され遠征旅団の派遣準備命令が出た。
抑止のための派遣。
日本帝国だけではない、米国を含め多くの反共同盟側の派遣が一斉に決まったのだ。
申し合わせた行動は事前に周到に計画されていたのだろう、淡々と先遣隊が派遣され、戦力投射の準備がされていった。
一方、九月末には、ロシア帝国とソ連の領土交渉が活発化しつつあった。
ソヴィエトはこれ以上のエスカレートを望んでいない。
そういう見通しが各国のマスコミも外交当局も占めていた。ただ、サーシャだけは違った。
本国の緊張感をまざまざと感じていた。
父親、兄そして友人達との連絡で伝わってくる緊張感。
彼女は、身の回りの雰囲気と自分の緊張感のギャップにだんだんとその焦りをつのらしていっていた。
なんで自分はこんなところにいるんだろう。
そんなことでいいのかと。




