第41話「大人と子供の距離」
「このクソ無責任野郎が」
そう言ったのは筋肉男。
彼が来ているYシャツのボタンが今にもちぎれそうになっている。
いちいち膨張する筋肉である。
「最低」
知的な大人の女性が軽蔑の念をたっぷり含ませた言葉を吐くと迫力がある。
少年学校の民間人教師である小山巌、そしてジト目の女性は橘桃子。そして、一方的に罵られているのは、坊主頭の中隊長――佐古少佐――だった。
陸軍少年学校同期である三人。いまだに軍人を続けているのは佐古だけだが、こうやって同期のつどいを不定期に開いている。
小さな同期会。
そうは言っても、小山と佐古が仕事帰りに桃子さんのところで一杯いくか……という程度だ。
だからいつも三人。
残念ながら他の同期を呼ぶことはできなかった。
百人以上いた同期で生きて残っているのはこの三人だけだった。
「あの子、けっこうかわいらしい子だったから応援しているのに」
桃子は、ためいきまじりにそう言った。
あの子とは次郎の事だ。
小山と桃子は佐古が中隊長でありながら、中隊内のもめごとを別の中隊の副中隊長に丸投げして解決しようとしていることを責めていた。
ちなみに彼女が部外者にも関わらず、学生達のことを知っている。
学校祭の『冥土喫茶』に協力してから、学生達との付き合いは続いていた。
今は夜なのでBARにしているが、昼間はカフェなのであの時の学生達は休日にちょくちょく遊びに来ていた。
「だから、少しは改善できたんだって」
佐古が言い訳がましく抗議する。
「小山くんの話を聞いた限り、あなたは何もしていないんでしょ、そこに問題があるんじゃない?」
「結果オーライだったから、いいじゃないか」
一連のもめ事は、終息に向かっていた。
次郎がうまく立ち回り、そっぽを向いていた楓も協力的とは言えないまでも、大人しくなってきていた。
楓は次郎と野中の会話を聞いて、相手の本当の気持ちを知ったことで、自分たちがなぜ意見が対立していたかを理解したからだろう。
それに盗み聞きしたという罪悪感も手伝っていた。
もちろん彼女は仲間になったつもりはない。
体育委員も強圧的な態度をとらないから、彼女は静観していた。
「たまたま結果オーライだったかも? それでも中隊長? 指揮官? 管理者? そんなことでリーダーシップ発揮してるとか勘違いしてない?」
佐古に対し詰問するように言葉を並べる桃子は容赦がない。
「まあ、こいつはもともと人間のクズだからしょうがないよ桃子さん」
小山のそのゴツゴツした顔は学校とは違って、少し柔和な感じがした。
というかニヤニヤしている。
佐古をバカにすることほど、楽しいことはない。
そんな小山であった。
「適材適所」
そんな二人にひとことで答える佐古。
「三回言った、このクズ野郎」
「三回聞いたわ」
「……野中さんが出てくれば俺の出る幕なんてないだろう」
「ガッデム……それでも百人を率いる中隊長の言葉か」
わざとらしく頭を抱えて大げさにため息をつく筋肉。
「百三十九人だ……うるせえ、暴力シビリアン」
ふてくされた声で応じる佐古。
とても三十五前後の責任ある大人の会話とは思えないしゃべり方だ。まるで、高校生のじゃれあいのような感覚である。
「中隊長は中隊の全責任を負う」
桃子は棒読みで教範に書かれてそうな言葉を言った。
「負ってる負ってる」
佐古の言い方は軽い。
「その大切な中隊の兵隊を、しかも学生を、ひとさまの中隊の副中隊長に丸投げとかありえなくない? 私たちの中隊長ならそんなことはしなかったと思うけど」
桃子は学生時代の中隊長の顔を浮かべる。
日之出大尉。
優しいおっさんという印象が強い人だった。
「……だーかーらー、ああいう場面では俺が直接入ったらさ、なんつうか喧嘩両成敗にしてもどちらも『贔屓』されたって思うし、内面で起こっていることだからものすごく繊細で」
口を尖らせえてブーブーいっている佐古。
「だったら、副官の晶ちゃんは?」
カウンターに肘をついて桃子はそう言った。
「あの子は硬いからダメ」
部下を一瞬で切り捨てる。
「小隊長の鈴ちゃんは?」
「学生になめられるからダメ」
瞬殺である。
「林少尉は?」
「無口で話がすすまないからダメ」
「先任」
「顔が怖いからダメ」
「人事の綾部軍曹」
「あいつはバカだからダメ」
桃子は今日一番大きなため息をついた。
「部下を信頼していない上司ってサイテー」
「あの、俺お客さんなんだけど」
「桃子さん、こんなクズ中隊長は客扱いしなくていい」
佐古の肩に肘鉄を入れながら小山は言う。
「馬鹿筋肉野郎の肘はごつごつしてるから……いって、マジ痛えから、この筋肉!」
「やかましいわ、あんなにいい部下をもらっていながら、一人も信頼していないとか……そんなクズはぶん殴る価値もないわ」
「なんだとこの非道シビリアン」
「黙れこのクズ中隊長」
ごん。
ごん。
肩パンチの応酬が始まる。
「このクソ筋肉」
ごん。
「クズ指揮官」
ごん。
……スコン。
嫌な音がしたので、二人は硬直する。
二人の目の前に銀色の棒が突き刺さったからだ。
カウンターにぐっさり刺さるアイスピック。
「はいはい喧嘩はおしまい、いい加減にしなさい、あとそこらへん、あなたたちのせいで穴だらけだから、いつか弁償してね」
彼らの細かい穴がポツポツ開いている。
一度ではない。
毎度ヒートアップするとこんな感じに彼女が止めに入っていた。そして、いつも仲裁に入る。
面倒くさい。
そんな感じでまたため息をつく。
「ま、でも部下をダメダメ言うのはよくないと思うなー」
桃子も小山に同意したので、二対一。
どうも今日は分が悪い佐古である。
彼はジャリジャリと自分の坊主頭を撫でた。
「じゃあさ、綾部に頼むか?」
「……いや」
「……いいえ」
彼がバカであることは、三人の共通認識である。
「じゃあ副官」
「……ないな」
「……合わないかも」
「なら真田中尉」
「鈴ちゃんはちょっと……」
「いや……」
「林」
「不器用そう……」
「あいつは無理、コミュニケーション下手っぴ」
「先任」
「中川さんは、顔が怖いし」
「あの顔でひとを殺せる」
野中はため息をついた。
「だったら野中さんが安心だろ」
「……確かに」
「……そうかも」
彼女がガチガチな指導をすることは目に見えていた。
「だから、ちょうどよかったの、野中さんが入って来てくれたことは……それにあの人も、もう異動間近だから、積極的だったというか……」
ポンと手を叩く佐古。
まあ、これで終わろうという合図であった。
「体育委員、あの子達の中でもひと悶着あってさ、まあまだまだ火種はいっぱいあるから見守らないといけないとは思うが」
佐古はそう言うと、グラスの中にある琥珀色の液体をグイッと煽った。
そんな話にうなずいた小山は口を開いた。
「ああ、取っ組み合いになりかけていたのを俺が止めたよ……まあ大したことはない、俺の一喝で止まったからな……あとは、何が原因かよーく聞いてみると、たいした原因じゃない……目標の優勝を取り下げるとか言ったことに対し、松岡か……あのコヤンキーが上田の考えがぶれたことに対して、いちゃもんつけてたようだ」
見た目では考えられないが、繊細な事象の場合、ちゃんと学生の話を聞くときは聞く小山である。
大吉も次郎も小山に話をしていた。
「松岡もなあ……あいつは中村のことが……ほら、桃子さんところに道具借りに来たおかっぱの女子」
うなずく桃子。
「風子ちゃんね」
よく覚えているといった表情だ。
「その中村を松岡が好きらしいんだが……それで今回の件で彼女がアンチ体育委員になったと思っていてな、そんなこんなであいつは無駄に焦っていたみたいで」
「お前よくその顔で恋愛相談なんて受けてるな」
佐古が茶化すが小山は無視。
「で、あいつは上田が中村の意見を聞いて曲げたんじゃないのかって勘違いしてたようだ……好きな女を取られた気分にでもなったんだろうな……それでついつい松岡も喧嘩腰で上田につっかかったそうだ」
小山はグラスの中の茶色い液体を口に含ませた。
もちろん筋肉に悪いのでアルコールではなくウーロン茶である。
「どうして?」
色恋沙汰でもめた者同士なのに、そんな安易に解決していいのものかと桃子は思ったから、自然と疑問が沸いた。
「上田は中村のことが好きとかそういうものではないと説明していた、あの子は松岡のことを引き続き応援すると言っていたからな……それで、二人は友情を再確認できたんだ」
この筋肉教師。
学生同士の恋話については敏感で、裏でコソコソ調べたり、アドバイスしたりしていた。
「なにそれ、変ね男の子って」
「男の友情ってやつだ」
したり顔の小山である。
「風子ちゃんの気持ちが入っていない」
「あの子の気持ちねえ……上田の事を好きなんじゃないかと思っていたがどうも違う」
「どうして?」
「もしそうなら、もうくっつんこしててもおかしくない距離だからだ」
「……男の子の方がヘタレとか……」
「それもあるかもしれんが、あの留学生のゲイデンもいる」
「あー、サーシャちゃんって、えーあの二人そういう関係」
顔を横に振る小山。
「どうも三竦み状態かどうか知らんが、そういう気も感じない」
「それは面白いわ」
ぐいっと顔をよせる桃子。
「ねえ、あの子達、他に付き合っている子とかいないの?」
ごほん。
大きな咳ばらいをしたのは佐古。
どうも不機嫌な顔になっている。
自分の学生なのに話題に入っていけないからだ。
「クズが恋愛禁止とか喚いているからハブかれるんだよ」
小山は嫌味ったらしくそう言った。
「誰だと思ったらお前か、部内恋愛を推奨している輩は」
佐古は小山の顎の下に拳を入れてぐりぐりしはじめる。
彼は『部内恋愛禁止』を学生に宣言していた。
「ばっかじゃねえの、お前みたいなクズがいるからなあ、青春ってなんだ、恋だろ恋!」
「やかましいわ! 学生の本分は修行だ! そんなことにかまけている隙わない」
「このクズ」
「うるせえバカ」
スコン。
テーブルに突き刺さる銀色の棒。
しゅんと縮こまるふたり。
「はーい」
彼女は授業で質問するかのように手を挙げた。
「はい、橘桃子さん」
「女子といちゃいちゃ付き合っていたのはだれですかー? 学生のころ、わたしとちゅーまでしたのはだれですかー?」
反応したのは小山。
「な! ちゅうだと!」
そんな小山を腕を伸ばして制する佐古。
「ちゅーはしてない! させてもらえなかった」
「そーだっけ、そうだったなあ」
ヘヘヘと意地悪く笑う桃子は言葉を続ける。
「ヘタレだったもんね、佐古君は」
「……」
小山は佐古の腕をはねのけて「ヘタレめ」とバカにする。そして、ニヤニヤしだした。
「学校で色恋していた奴が、偉くなってそんなことをよく言えるわ」
「立場があるの」
また口を尖らせる佐古。
「ほうほう」
「もういい」
ボコッ。
ボコッ。
肩パンチの応酬が始まる。
そんなふたりに冷たい視線がまた刺さった。
ついでにアイスピックもサクッとふたりの目の前に刺る。
コツコツ。
突き刺さったアイスピックの頭の部分を叩く桃子。
「出入り禁止にしてほしい? あなたたちいちいち興奮すると声が大きいの、まったく軍人が声がでかいのはわかるけど、なんで教師まで声がでかいかな」
「静かにします」
「静かにいたします」
そんな桃子もよく通る声である。
軍人一人に元学生軍人の二人。
「あなた達がウザがられる理由がよくわかる」
子供の躾に困った保育士のような、そんな気分で彼女は額に指を当てて頭を抱え込んでいた。
「部下にウザがられるなら本望」
エッヘンという感じで言ってのける佐古。
「ウザイほど熱い指導と言って欲しい」
胸筋をこれでもかと張りながら小山は言った。
第二ボタンがプチンと落ちる。
「違う、あなたたちの奥さんと子供」
ふたりの配偶者はどちらも旦那がウザイと口をそろえて桃子に言っていた。
「……」
「……」
目を見開いた男二人は互いに向き合う。
「またまたー、それは小山の家で」
「ほらほらー、そりゃ佐古んちだろう」
「二人とも」
しばらく沈黙する二人。
「自覚した方がいいわ……あなた達、存在がウザイから、このお店でも私にとっても」
「……ひどい」
テーブルに額をつけるぐらいがっくりする佐古。
「……どいひー」
泣きそうな顔で肩と首をうなだれる小山。
桃子はそんな二人を無視して、グラスを洗い出す。
……。
洗い終えたあと、ちらっと彼女は二人を見るが同じ格好のまま魂が抜けたままだった。
……。
「わかった、わかったから元に戻って、訂正するから、あなたたちのそのウザさがないと寂しいから、ほら、少なくともここではウザイままでいいから、あるがままのウザさで」
面倒くさそうに、彼女ははいはいと言いそうな感じに二人に声をかける。
だが、動かない。
「素敵よ、二人ともウザイぐらいにエネルギー使って学生と向き合ってるんだから、ほんときっとそのウザさも好かれてるわ、学生達に」
まだ、動かない。
うなだれたままの小山が小さな声で「家庭……家庭……」と催促する。
「はいはい、奥さんたちもきっとそういうところが好きなのよ、お子さんたちもなんだかんだで愛情っだって、いつか感じてくれるし気付くと思うわ、あなた達が老衰して死ぬ直前ぐらいには」
むくりと再起動する二人。
「小山、そうだろう、ウザイウザイ連呼されたのは気になるけど、いいんだよ、これで俺たちは」
「佐古、ウザくはないが、いいんだ、これぐらいがいいんだ俺たちは」
そしてまたくだらないことで言い合いをはじめる二人を見ながら、桃子は少し笑っていた。そして、なぜかそんなふたりを見て、暖かい気分になってしまう。
彼女は自分も変な人間だな、と思った。
「で、学生さんたちは大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫、後はなんとかなるんじゃないか? 同期だし」
「ま、こんな馬鹿が中隊長だから、逆に部下は賢く育つっていうし」
「馬鹿は余計だが、こどもの喧嘩に口出しいちいちしすぎるのも良くないし、ま、みんな仲良くなんて、小学生じゃないんだから、小学生じゃ」
「この馬鹿が言う通り、いじめの種さえ、ポツポツ抜くのが俺らの仕事」
「そうそうツボよツボ、そこんとこだけしっかり」
ジト目の桃子。
汗がタラりと落ちる佐古
「人にその芽を抜かせたのはどこのどいつだ」
仏頂面で言った桃子は、佐古の困った顔を見た後に表情を崩した。
目の前にいる無責任な大人達。
学生の頃と同じぐらい責任感がない。
桃子は口元に手を当て、こみ上げる笑いをこらえきれなくなってきた。
二〇年経っても、子供のままの二人。
いや、三人かもしれない。
そう思ったから。
同期は同期のままだからしょうがないけど……と。
じゃれあうおっさん男子二人の姿を見て、彼女はうなずいていた。




