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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第6章  長月「体育祭の準備はたいへんですが何か」
40/81

第40話「単純」

「入ります」

 ガチャリという音を立てて扉が開く。

 次郎はソファーにダラッとした雰囲気で座っている男と目が合った。

 制服には大尉の階級章。

 男の方向を向いて気を付けの姿勢をした次郎は、お辞儀の敬礼をしようとしたが止めらてた。

「敬礼省略、ま、そっちに座んなさいよ」

 野中はやる気のなさそうな声と、その仕草――手をひらひらと振ってニヤッとしている――のまま次郎を手招きした。

 次郎は未だ緊張した面持ちで、ソファーの方向へ向かう。

 ソファーは対面ではなくL字型に置かれていた。そのせいか、次郎は少しだけ落ち着いた気分になっている。

 真正面で人と話をするにはどうも気持ちが悪いから、少しでも視線がづれるこの状態は悪くなかった。

 しかも呼び出しをくらった時だからなおさらだ。

 ハリセンを持った野中が次郎達の前に現れた後、野中は「解散解散」と言ってあの場を終わらせた。

 ただ、学生達の首根っこをつかみ、それから「おっちゃんと面接な、時間は別途指示するから、教官指導室に来るように」と告げていた。

 びびる学生達。

 一学年の間で広がっている噂。

 特に女子の間で。

 野中大尉は男性に趣味がある。

 そんな噂だ。

 この学校と似たような境遇の、いわゆるボーイズラブ小説。

 野中大尉のような冴えないおっさんと、美青年学生の禁断の愛。

 もちろんフィクションであるが、夢見がちな少女の間で噂は想像力とともに広がる。

 その後、噂は紆余曲折して男子に伝わり、彼らの間では教官指導室に呼ばれたらやられる。なんて言う話がまことしやかに噂されていた。

 この年頃の男子にとって、知らない世界は怖く、そしてある意味残酷な無意識の差別を生む。

 同性愛イコール襲われる。

 そんなバカげた妄想。

 次郎もまだまだ成長途中、そんなわけでいろんな意味で緊張していた。

 もちろん次郎だって知っている噂だからだ。

「よし、やるか」

 野中のそんな言葉にビクッと体を硬直させる次郎。

「まあ、そう緊張しなさんな、体の力を抜けって」

「……お、俺いや僕は……」

 ムリッす。

 そう言おうとするが、緊張して声が出ない。

 いざとなれば、今まで道場で会得したあらゆる体術を持って相手をねじ伏せようと思っていたが、変な緊張感が漂っているため体がぎくしゃくして動きにくい状態になっていた。

「痛くしねえから」

 ガタン。

 野中がそう言って立ち上がると、ソファーの後ろの壁に何かが当たったのだろうか派手な物音がした。

「君、はじめてか?」

 ぐいっと顔を近づける野中。

 次郎は「ヒイ」っと声をだして顔を仰け反る。

 ――肩に手を置かれたら、その隙をついて……まずは顔面に頭突きを……。

 物騒なことを腹に抱える次郎。

 ポン。

 次郎は、固まった。

 ポン。

 野中は次郎の頭に右手を置いた後、二回軽くそこを叩く。そして踵を返しドサッとソファーに座り大きな声で笑いだした。

「おいおい、噂ってそこまで浸透してるんか」

 笑い終えるとジッと次郎を見る。

「いいか、ホモだゲイだと人をバカにするようにその言葉を使ってるがよーく気を付けた方がいい、生まれてから元々そういう性質の人間だっているんだ、そういうものを隠して、もっというと、気付かないまま生活してる人もいる」

 野中はそういうと立ち上がり部屋の角にある小さな冷蔵庫を開ける。そして、缶コーヒーを取り出しそのうちひとつをポイッと次郎に投げた。

「ホモというと、すぐに男を襲うとかそんな馬鹿なことを考える奴もいるが……強姦する話と同性愛の話はまったく別物だってことは……」

 かぽっ。

 缶コーヒーのふたを開けた。

「馬鹿じゃないからわかるよな」

 ぐびっと一口飲む。

「単純すぎるんだ、なーんでも単純にする……人ってのは無視しちゃいけないことも無視して物事を単純に見るってことが好きだから」

 そう言い切ると野中は次郎をじっと見据えた。

「で、少年、感想は」

 次郎は冷たい缶コーヒーを両手で握っていたが、音を立てずにテーブルの上に置く、そして口を開いた。

「野中大尉は同性愛者なんですね」

「そうきたかっ」

「いや、そういう話ですよね」

「違う、そういうことじゃなくて、君ねえ、同期ともめてるんでしょ、そのことで示唆したかったんだけどなあ、ほらキーワードあったでしょ」

「強姦」

「刺激強かったか……まだ高校一年生だもんなあ」

「子供扱いしないでください」

「子供って、まだ童貞だろ、あれだちゅうとかもしたことないだろ、目を見ればわかっちゃうからね、おじさん」

「チューは……したことあります」

「ちゅうしたことあるのね!」

「……正確にはチューされたというか」

「さりげなく、最近の若いのは自慢する」

「いえ、自慢じゃなくて」

「はああー上から目線」

「ま、まさか野中大尉」

「……まて、おじさんにはね、もう子供いるから娘いるから、ちょうど君たちと同じぐらいの」

「じゃあ、娘さんがチューしたとかそういう話を言われたとか」

「チョーっと待て、なんでそんな話知ってる」

「ずぼしかよ」

「誰だ、誰としたかも知っているのか! 教えろ! 大丈夫、落ち着け、お話をしてだな、それから、その薄汚い舌を抜いてくるだけだから、地面に埋めちゃうだけだから」

「ぶっそうすぎるっ! 知るわけないでしょ、だいたい野中大尉の娘さんすら知りません!」

「あ、そっか」

「そうです」

 そう言いあった後、二人で同時に缶コーヒーに口を付ける。

「上田次郎」

「はい」

「面白いね、少年」

「……褒めてます?」

「褒めてます」

 野中はははっと声に出して笑い、ニヤリとした表情を次郎に向ける。

「で、ちゅうの詳細は後から聞くから、まずはなーんであんなことになったのか、おじさんに教えて欲しい」

 そういうと、野中は膝の上で両手を組んだ。

 次郎は一瞬戸惑ったが、一度周りを見渡した後、唾を飲み込んだ。そして話しを始める。

 サーシャや山中が一年でいなくなること。

 留学生たちとは夏休み、水泳訓練、そして学校祭りなどで仲良くなったこと。もちろん、男女の恋とかではなくて友情というのは強調して。

 体育祭のFWB――風船割りバトル――で優勝して彼女たちにいい思い出を作ってあげたいという気持ち。

 小牧楓が反対意見ばかりを出して、団結を乱すこと。それにつられた徳山俊介たちがサボり始めたこと。

 みんな仲良くがんばれば楽しいのになんでそういうことができないのかという疑問。

 自分の強硬な態度に対し、親しい友人の風子や京が苦言をいれてきたこと。

 自分はそれを受け入れて楓に謝ったが、まったく相手にされずサボりは続き、しかも謝ったことに対し、体育委員からも逆に批判が出てしまったこと。

 ブレてしまった自分が情けなくてしょうがなかったという思い。

 そんなことがあった時に、俊介から頭にくることを言われて、もちろん図星だったことを言われ、かーっとなりあんなことをしてしまったことを話した。

 もちろん、相手には申し訳ないし、自分の弱さが情けないというのも含めて。

 そんなことを次郎が話をしている間、野中はその内容をひとつひとつ丁寧に頷きながら聞いていた。

 たまに、考えるような表情で天井を仰ぎ、不明なことがあると質問をしていた。

 感想とか指導とかそういったものは一切言葉を挟んでいない。

「そうか……」

 そう言って頷いていた。そして、ゆっくりと口を開いた。

「質問いいかな」

「はい……」

 次郎はハッとした。

 ここは『教官指導室』であることを思い出したからだ。

 何か余計なことまでべらべらしゃべってしまったんじゃないかと少し焦った。なにせ、あったこと、その時思ったことを洗いざらいしゃべってしまったからだ。

 今度こそ何か指導されるんじゃないかと身構える。

「で、君は風子くんとサーシャくん、どっちにするんだ」

「そうきたかっ」

 次郎はそう返しをいれてすぐ思い直し「そうきましたかっ」と丁寧な口調に言い変えた。

 目の前の人、一応お隣の二中隊副中隊長殿で陸軍大尉なのだ。

「……ですから友達です、どちらも」

「でもさ、サーシャくんにはまず殺されそうになったんでしょ、そして風子くんとはひどい喧嘩をしたんでしょ、それが仲良くなったんだから今は相思相愛、愛だよ愛」

「なんですか、その少年漫画みたいな設定」

「違うの?」

「違います」

「わかった、質問を変えよう、ちゅうしたの誰だっけ、ちゅうしたの」

「……された、です」

「言わないから、誰にも言わないから教えるんだ」

「サーシャです」

 キターと叫びそうになる口を野中は両手で押さえながら天井を見て悶絶する。

「愛だな愛」

「何がですか」

「だから、愛ゆえになんだよ」

「ですからそんなんじゃありません」

「なに、最近の子は好きでもないのにちゅうするの、なに、そんなに性は乱れてるの、どうしよう、うちの娘もそーなったらどうしよう」

 もうすでに、娘から男の子とちゅうをしたという申告を受けている野中であったが、あまりに取り乱したため、そんなことは忘れていた。 

「サーシャは『思い出作り』とか『こんなもんか』って言ってました」

「ほうほう」

 ニヤニヤを通りこした顔で次郎を見ている野中。

「だから、そんなんじゃないんです」

「相手のことはわからん、自分のこともわからん」

 野中はそういうと深々とソファーに体をうずめる様にして背伸びをした。

「わからんことからはじまってるから、そりゃ、目的も目標も見えなくなるな」

 彼は次郎が体育祭の件でサーシャに対する何かから始めたことだったのに、いつのまにか『留学生達』という言葉に置き換わっていることを言っていた。

 次郎は頭を下げる。

「どういうことですか」

「物事ってのは、目的があって目標がある、だからそれにむけて努力を集中する、ほら、寝てたと思うが戦術教育したよな、えーっと異性の口説き方かなんか例に出した……」

「すみません爆睡してました」

「爆いらない、爆いらない、ていうか喧嘩売ってる?」

「あ、すみません」

 それから野中は顎の下に右手を置き、ゆっくりとさすった。

「体育祭の目的って知ってる?」

「目的ですか?」

「学校長のおっちゃんが、ほら夏休み明けの学校朝礼での話、覚えて……?」

「……」

「ひとーつ、各学生の能力向上ー、ひとーつ、盛り上げーる」

「……覚えてません」

「ま、人の話なんて面と向かって話したところで二割だけでも通じりゃいいってもんだからしょうがねえか」

 二カッと野中は笑った。

「今も俺と少年が話してて、二割通じりゃ上等だって思っているがね」

「は、はあ」

「まあいい」

 次郎はもぞもぞっと膝を動かす。

「腐っても軍人……軍人ってのは上司が言ったことをしっかり聞いているものなの、目的を明確に指揮官は言いなさいって決められている、だからああやって学校長も言ったんだ……そして俺たち教官も馬鹿じゃないから、しっかりその目的から外れていないか常に念頭に置きながら仕事をしている、軍人の仕事は目的と任務でできてるからな」

「は、はあ」

「で、各人の能力を上げるってのはわかるな」

「はい」

「君たちがやっている練習は、じゅうぶんこの目的に合っている、期待以上にどの中隊も練習しているから教官陣としては安心だ」

「……」

「盛り上げる」

「……盛り上げる」

「まあ、俺もそういうのははじめて聞いたが、あの学校長のおっちゃんはな、お祭りはみんなでわいわい盛り上がらないと意味がないって思っているようだ……そうすると」

「……そうすると?」

「みんなハッピーになるって、学校長は言っていた」

「なんか軽いですね」

「難しく言うと団結、士気高揚ってところだが、まあ盛り上げるの方がわかりやすい」

「で、どう思う?」

「……どう思うって」

「少年たちがやってきたことは」

「盛り上がって……ません」

「まあ、それはしょうがないな、目的を聞いていないから、やろうと思ってなかっただろう」

「いえ、朝礼で言われたことを聞いていなかった……僕たちが悪いので」

 野中はピューと口笛を吹く。

「まじめだなあ」

 そして、彼はぐいっと次郎に顔を近づけた。

「人の話は二割聞いとけば万々歳、ま、それに軍人として云々(ウンヌン)の前に人として、ありゃねーな」

 俊介に対してやってしまったことを言っていた。

 次郎はうつむく。

 一生懸命話した。

 しっかり準備して話をして同期全員に理解させた。

「人の思いなんてちょっとやそっと話したって通じるわけがない、その場その雰囲気、なんかトリガーがないと入らないもんだ」

 次郎は意を決したように顔を上げる。

「あの、僕は、僕はどうすれば」

 真面目な顔をした野中は数秒ほど次郎の目を見る。

「わからん」

「はあ?!」

「はあって、あのね少年」

「あ、いや、指導してくださいよ!」

「わかるはずないだろう」

「あっこまで話させて、あれですか『答えはもう君の中にできているだろ』なんか言うんですよね、うわ、ありきたり」

「あのな、まだ早まるなって言っているんだ、この早漏」

「……早漏って、うわ」

「……」

 ぺこりと頭を下げる野中。

「悪い、失言した」

「あ、いえ」

 素直に謝られたため、次郎は逆に戸惑う。

「人ってのは同じ人間なって一人もいない、いつも同じ時に同じことを考える人間なんていないんだよ……だから今、少年と俺だって全然違う方向むいているのかもしれない、だから早々に答えなんてでないよ」

「は、はあ」

「丁寧にやっていけぐらいしか言えない、最初に話したけど人ってのは単純にしたがる……君たちも同じで『留学生との思い出作り』からいきなり『FWB優勝!』なんて持って行っただろう? 単純にしすぎだ単純に」

「単純……」

 そんなこと聞いたっけと次郎は思うが、頭の中に『二割』という言葉がストンと落ちてきた。

「単純な答えが出た時は気を付けろ、それまでの過程が雑なことが多い、同期ひとりひとりの事を考えたか? その特性、どういう性格でどういう特技があってどういう人間か? ほら小牧楓だっけ、その子の性格から特技、嫌いな食べ物嫌いな動物それからスリーサイズ」

「……いや、それストーカーじゃないですか」

「あのそこ笑ってよ、わかるでしょ冗談って」

「スルーしてもよかったんですか」

「いや、それも困る」

「メンドクサイふりはやめください!」

 次郎はジト目のまま野中の方を見るが、彼はすうっと視線をずらした。

 さすがに間が悪くなったと思ったのだろう。

「とにかくそこまでひとりひとりのことをしっかり考えろということだ」

「そういうことをしたら、まとまるものもまとまらなく……」

 次郎は四十人の頭なんてそろうはずがないと思っている。だから目標をいち早くたてて主導的に物事をすすめればみんなついてくると考えていた。

「動き出したらぐいぐい引っ張ればいい、もちろん丁寧にだが」

「動きだしてます、今」

「スタート?」

「スタート!」

「ゴールが見えてないスタートだ」

「ゴールは見えてます、優勝という」

「そこがさ、みんなばらばらなんだよ」

「……」

「君たちは優勝だろ? 俊介君はなんとか体育祭を終えること、楓君は留学生の思い出作り、風子くんは幸子君やサーシャ君とそれからみんなのいい思い出を作ることがゴールなんだ、同じようでこれは違う……ばらばらだ」

「……そうかもしれません」

「どうして、そうなったと思う?」

「ゴールを目的を単純に……雑にしたから、ですか? みんなの考えていることを無視して、思考停止してしまっていたから……ですか?」

 次郎がそう言うと野中は手をポンと叩く。

「じゃ、おしまい」

「へ?」

「俺の今日の指導の目標は達成」

「目標達成?」

「君に二割ほど私が話したことを理解させる」

「あ、いや」

「もっと教えて欲しい?」

「たいして教えてくれていないじゃないですかっ」

「……いや、それ、きついんだけど」

「嘘です……そのもう一つ」

「おうおう」

「意識……意識が低い人間、やる気がない人間をどうやってモチベーション上げれば」

 ポリポリと野中は頭を掻き、さっきまでとうって変わり挑発的な表情になった。

「意識が低い? それはどの意識と比べてるんだ、それは絶対のものか? 所詮はションベン臭いガキ……君のモノとだろう」

「違います、明らかに、誰が見てもやる気がないというか無気力というか」

「それは何に対して?」

「……練習とか」

「それを選んだのは誰の物差し?」

「……でも、みんなでやろうというのにやらないというのは」

「みんなの物差し、それって絶対?」

「……絶対じゃないです」

 野中はまたどっさりとソファーに体をうずめる。そしてぬるくなった缶コーヒーを飲んだ。

「言いたいことは一つ、独善的な考えを捨てろってことだ」

「独善的……」

「後悔したくなけりゃ」

 野中はそう言いながら、耳の音がキーンとなるあの感覚を味わう。

「誰一人同期だけは見捨てるな、たった三十九人、面倒くさくてもしっかり相手を人間として見ろ、そうすれば意識が低いとかそういう言葉はでなくなる」

「わかりません、意識が低い人間が意識が低く見えなくなるとか……」

 野中は少しだけ優しい表情に戻る。

「考えろ、悩め、思考停止するな」

「……」

「ただ、自分が正しいと思うことは続けろ、一人でな、ただしそれは人に強制なんてするな、人がしたくなるようにするんだ、率先垂範って言葉があるだろう? 背中で語れ背中で」

「なんですか、けっきょく教範に出てくる言葉じゃないですか」

「そりゃーそうだ、俺たちの諸先輩方が使ってたありがたーい言葉だ」

「……」

「いいから悩め少年、迷え少年」

「……」

「で、サーシャくん以外ともちゅうしたという話の続きを聞こうか、あれか風子くんか」

 ずるっとソファーの上でこける次郎。

「……違います、知らない子が」

 それから次郎はしどろもどろになりながら、トラブルがあった別の高校の女子が『ごめんなさい』の意味でちゅうをしてきたことを話した。

 野中は最近の子はごめんなさいでちゅうするのが流行っているのか? なんて聞いてきたので、次郎はわかりませんと答えることしかできなかった。

 ちゅう話も落ち着いてところで、野中は時計を見て終わろうかと短く言うとニヤッとして次郎の頭をまた二回ほどポンポンと叩く。

 次郎は叩かれた頭をポリポリと掻いた後、ぺこりとお辞儀の敬礼をして部屋から退出していった。

 部屋に一人残された野中は大きくため息をつく。

 偉そうにしゃべりすぎたな、という思いと、聞かれているのにべらべらしゃべりすぎたことを後悔しているのだ。

 彼はおもむろに靴を脱ぎソファーの上に立った。

「よっこらしょ」

 おっさんがおっさんらしい掛け声とともに、ソファーの後ろの壁に飛び乗る。

 もともと一つの部屋だが教官指導室はロッカーで仕切りを入れ、その向こう側は物置部屋になっている。

 彼はよじ登るようにしてロッカーの上に上がり、そして裏側を見下ろした。

「指導官、こんなところで奇遇ですね」

 黒ぶち眼鏡をクイッと上げ、感情の入らない声であいさつしたのは二年生の長崎ユキだ。

 風子と同部屋の胸が大きめの女子。

「あ」

「し、失礼しています」

 しゃがんだ状態のまま、慌てたそぶりを見せるのは風子と楓だった。

「……なーにが奇遇ですねだ」

 指導官とは野中のことだ。

 学生会指導官という役職もやっていた。

 長崎ユキは風子と同部屋の先輩であるが、学生会副会長でもある。そして野中はその学生会の指導官という間柄でもあった。

「盗み聞きとは趣味が悪い」

 ユキは野中の口調を真似て、彼が言おうとしていることを先に言った。だから、むぐぐと言ったまま野中は口を閉じている。

「倉庫側のカギをしめていないからこんなことになるんです」

「いや、普通はね、気を遣って指導中ってわかったら出ていくでしょ普通」

「指導官、普通とかそういう曖昧な言葉を使って指導をするのはやめいただけませんか、教官ですからちゃん具体的な日本語を使っていただきたいと思います」

 ユキは表情を変えず淡々と指導官である野中に説教をする。

 二人はこういう力関係であった。

 とにかく彼女は彼にとって苦手な相手だ。

「で、そっちが中村風子くんに小牧楓くんというところか」

 コクリとうなずく二人。

 結論から言うと、次郎達が野中に指導されるよう仕組んだのはユキだった。

 ――学生会からのお願いです。

 そう言って面倒くさがる野中を動かしたのだ。そして、その長崎に相談したのは同部屋の後輩である風子、風子にどうしようか助けを求めたのが楓だった。

「しかしまあ、よくここでやるってわかったな」

「何を言っているんですか、指導官の行動なんてすべてお見通しです」

「……なんか怖いんだが」

「いいんですよ、ダメ指導官ならダメ指導官らしくこんなに隙があっても」

 バカにした顔で見上げるユキはなぜか楽しそうだ。

 ため息をつく野中。そして、ふと優しい顔になって楓を見た。

「どうだ、盗み聞き……いや、たまたま聞いてしまったと思うが、あれもあれで悩んでいたんだ」

「……」

「壁に耳を当てて聞くと、集中力も増して、相手が何しゃべっているのか普段よりも数倍理解できるだろう」

 ここは意地悪い声の野中。

「……いえ……そういうことでは」

「ま、理解できなくて当たり前、そりゃそうだ、まず相手を知ろうとしないし、実際に自分でそれに触れないとわからないということが多い」

「……」

 楓はうつむき、そして少しだけ頷いた。

「で、風子くん……忘れた方がいい」

「へ?」

「あの、あれだ接吻の話」

「い、いえ、何か野中大尉はかん違いされているかもしれませんが、そんなんじゃ」

「まあ、男子ってのは恋とかそういうのを人に話すのは恥ずかしくて、ああいう風に『友達です』なんて言ってごまかす時もあるからなあ」

 ははは。

 と笑ってごまかそうとするが、うつむく風子と睨みあげるユキを見て表情が凍る。

「あのな長崎、君が連れてきたから……」

「私の大事な後輩を傷つけて……しかもそれを責任転嫁とか! ほんとうにダメな指導官!」

 ユキは睨んだままそんなことを言った。

「……傷つくとかそんなんじゃありませんっ」

 風子は少しイラッとして大きな声を上げてしまった。

 シーン。

 ニヤ。

 ニヤ。

 ニヤ。

 野中だけでなくユキもそして楓までもがそういう顔になる。

「風子ちゃん、押し、男子なんて押し倒したもん勝ち」

 楓はさらりと恐ろしいことを言った。

 まさに俊介がそう言う状態だったからかもしれない。

「風子ちゃんかわいい」

 彼女の頭をなでなでするユキ。そして彼女はまた見上げてニヤけるダメ人間を睨みつけた。

「で、指導官にもお話が」

「へ?」

「知らないと思いますが、学校祭の夜に金澤中央女子高(カナジョ)の女子も来てたそうです」

 彼の娘である三和(ミワ)はその学校に通っている。

 ちなみに、その三和という女の子は次郎とは面識があり、命のやり取りに近い大立ち回りをしていた。

「へえ」

「上田次郎くんがちゅうした女子は、そこの高校の子です」

「ほうやるなー、娘が通っててなんだが、けっこうなお嬢様学校だからな」

 エッヘンする親バカ。

「切れ長の目に、ツインテール……といってもわかりませんよね、ほらこうやって結ぶ」

 ユキは自分の黒髪の両側を摘み、結んでいるように見せる。そして、わざわざ眼鏡をとった。

 もちろん三和は眼鏡をつけていない。

「……」

「その時母親も同伴していて名前は確か……ミ」

 ガタン。

「おーのーれぇー!」

 ロッカーが揺れた。

「あのクソガキいいいい! よくもその汚らわしい唇でうちの娘をををををっっっ!」

 怒髪天というのだろうか。

 激高した野中はロッカーの上でガバッと立ち上がり、次郎を追おうとした。

 が、できなかった。

 ドゴン。

 鈍い音。

 勢いよく顔を上げた野中は天井で頭を打って、倒れ込むようにソファーにドサリと落下した。

 ロッカーと天井の間は低いのだ。

 天井は柔らかい素材だったが、ちょうど野中の頭上は柱が通っているところだった。

 野中自身がエライことになってしまっているが、おかげでそれを壊さずに済んだのは不幸中の幸いだろう。

 そしてソファーに倒れ込んだ彼は夢にうなされる様に「みわあ、みわあ、みわあ……」と声を漏らしていた。

 そんな野中の声を聞いて、クスクスと笑う女子三人。

 風子はキツい性格に見えた楓の笑顔を見ると、素直に可愛いと思った。

 人のことは言えないが、もっと笑った方がいいのに、と。





【蛇足】

野中大尉は拙作の『39歳バツイチ子持ち……』というお話しの主人公でそちらでもこんな感じのおっさんです。

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