第36話「覚悟」
ドスン。
ドスン。
板ばりの部屋に響く音。
神棚のある道場。
その音が聞こえる度に、天井から吊るされた重くて硬そうなサンドバックが床を擦りながら少しずつ動いていた。
ハイ、ロー、ミドル。
短パン姿の女子が、リズムよく蹴り分けている。
体の体重を下半身にどっしり乗せ、捻り込むような廻し蹴りだ。それを、一発一発丁寧に打ち込んでいる。
「サーシャ」
まだ薄暗い朝。
西の端にある長崎の夜明けは遅い。
次郎の声にも反応することなく、彼女は蹴り続けていた。
――サーシャが変。
昨日の水族館の時から感じていた違和感。
あのはしゃぎっぷり。
――サーシャが変。
風子がぼそり、次郎に言っていた。
水族館で注意深く見ていると、やはり違和感を感じた。
それが今確信に変わっている。
何かあったんじゃないか……いやあったんだと。
「なあ、サーシャ」
彼女は黙々と蹴り続けている。
バチン。バチン。バチン。
音が変わった。
左右にテンポを区切ることなく、速度を増しながら蹴っている。
体重はさほど乗っていないかわりに、だんだんと加速する蹴り。
鞭の様にしなる彼女の白い足。
足の甲の部分が赤くなっていた。
ドスン。
最後の一撃。
鞭の様にしなりながら、最後は骨盤をひねるような形で体重を乗せた。
彼女は打ち込んだ状態で止まる。そして、サンドバックに食い込んだ右足をゆっくりと下ろした。
ギュッとサンドバックを掴み、それを体重をかけて引っ張るようにして元の位置に戻す。
それを吊るしたゴツイ鎖がギリリと唸った。そして、クルリと彼女は回る。
おかっぱ金髪がふわりと浮く。
「おはよう」
彼女は何もなかったかのようないつもの顔で次郎に声をかけた。
「……おはよう」
「えっち」
「……な」
「女子のトレーニングをチラチラ見るなんて、スケベ」
「なんじゃそりゃ」
「汗ばむ金髪美少女を見てハアハアするとかド変態」
「するわけねえっ!」
いつものサーシャだ。こんな理不尽なことを言ってくるなんて、いつもと変わらないじゃないか、そう彼は思った。
心配することなんかない。
――いや……なにか違う。
「昨日、何があった?」
「次郎の家って、道場まであって……ほんと日本的よね」
会話が噛み合っていない。
ちなみに彼女が日本的だというのは、そういう道場のある家に居候たちが転がり込むようなアニメの影響である。
彼女の日本文化に関わる知識はその方向から吸収していた。
男子が水を被ると女子に変わったり、倉庫の魔法陣から英霊が召喚されたり……。
「だーかーらー」
「でも庭に池がない」
「パンダにでもなるつもりかっ」
「……けっこう古い漫画見てるよね」
「姉ちゃんの本棚にあった」
「……う」
あの姉と同じ漫画本を読んでいるという事実に、少しサーシャは戸惑ったようだ。
「悩みってのはさ……」
「悩みってのは、何?」
「あれだよ、あれ、なんというか一人で抱え込まない方がいいっていうか、中村も山中も心配しているというか」
「悩みなんかない」
「でも、おかしい」
「おかしくなんかない、昨日もあんなに楽しんだ」
「……」
「でも」
「でも?」
「ちょっと、拳で語ろうか」
グーを突き出すサーシャ。
「ちょっとまて、女子がそれを言うって」
「あーやだ、女性蔑視発言」
「あ、いや」
「じゃあ、あれね、ルールは寸止め」
「寸止め」
「そう寸止め」
「寸止め」
「ジロウ……なんで、そこを強調する」
顔を伏せる次郎。
まさか、えっちなことを考えてしまったなんて言えなかった。
「だ、だって、ぜったい当ててきそうだから」
「そんなことはしない」
「あの時は……」
「あれは、挨拶代わりだったし」
はじめて二人が会った時のことだ。
次郎がサーシャに襲われたと言ってもいい。
あの理不尽な攻撃に対し、次郎はブラのホックを外すことで意趣返ししていた。
「今日はホックないやつだから」
「そんなことは聞いてない」
「だって、さっきからおっぱいばかり見てるし」
「見てねえー!」
その瞬間だった。
一瞬にして間合いを詰めたサーシャが次郎の目に指を突き出す。
「はい、おしまい」
固まる次郎。
視界が影のある肌色に覆われた状態だった。
瞬きすれば、彼のまつ毛が彼女の指の先に触れるような距離。
「ねえ」
「な、何?」
「弱っ」
「不意打ちですからっ」
「戦場じゃ、不意打ちなんて言えないし」
「ここは戦場じゃない、道場だから」
「うまいこと言ったつもり?」
「さすが、サーシャさん、いろんな漢字を知っていますね」
「ゲイデン家のスーパーお嬢様って知らなかった?」
お嬢様なら語学堪能とかそういう問題なんだろうかと次郎は思うが、面倒くさいことになりそうなので、何も言わない。
彼女は汗を垂らす次郎に向かって鼻で笑った。
「汗かいたから、シャワーを使う」
そう言って、彼女はクルリと踵を返し道場を後にする。
「人の家なんだから、借してぐらい言えよお」
次郎はぼそりと言ってみた。
やられっぱなしだったから。
「日本語難しいからわかんない」
クルリと振り向いた彼女はそう言って、すたすたと廊下を歩いていった。
ため息をつく次郎。
しばらくして、彼は道場の壁にかけてある黒檀の木刀を手に取る。
ブオンと空気を斬る音。
四つほど居合の型を彼は繰り返す。
汗が噴き出た体。
彼は額を拭うと、もう一度ため息をついた。
どうも、キレが悪い。
そういう表情だった。
「夜景を見に行こう」
次郎が宣言をする。
「あの人が帰ってくる前に」
いつもと雰囲気が違うサーシャ。
変な空気のため、風子や幸子ともぎくしゃくしていた。
サーシャに対して腫物を触るような慎重な態度がいやでも目についた。
綺麗な風景をみせれば、心の内を見せてくれるかもしれない。
女子相手に悶々と悩む次郎。
百戦錬磨どころが一戦もしたことがない次郎である。
気が利く言葉ひとつ思いつく訳がなかった。
そういことで、あの人――聖――に気付かれる前に夜景を見に行くことにした。
「あんま、長く夜遊びしたらいけんよ」
家の前にタクシーが二台。
次郎の母親が送り見送りのために来ていた。
一台目に風子、サーシャ、次郎そして幸子と大吉が二台目に乗ろうとしていた。
風子が左の扉からお尻をずらすようにして奥に行く。そしてサーシャが真ん中、次郎がその横に座る。
「稲佐山公園まで」
「まいど」
タクシーの運転手がそう応えた時だった。
がちゃ。
「うわ」
風子が素っ頓狂な声を出した。
「ちょ、ちょ、ちょっと」
ずりずり、ドアから伸びてきた手に捕まり、そのままひっぱりだされる。
「じーろちゃん」
「ね、姉ちゃん、帰り早かったね」
「途中で切り上げてきたと」
風子が座っていた場所にぐいぐいと乗り込む聖。
「だって、かわいいじーろちゃんが女と夜景を見にいくなんて、いくら興味がないお友達といっしょだっていっても雰囲気であーれー……なんてことになったらと思うと、お姉ちゃんは心配で心配で」
あーれーのところは着物の女中が帯をくるくるされるときに言うお約束の悲鳴である。
「……姉ちゃんちょっ」
「ふ、ふーこー」
サーシャがドアの向こうに押し出された風子に手を伸ばすが、それは届くことなくバタンと扉が閉められた。
「大人のお姉さんがいっしょにいったほうがよかでしょ」
「ふ、ふーこをよくもっ」
「大丈夫、後ろのタクシーに乗ったけん」
「そういう問題じゃなくてうわっ」
サーシャが抗議する言葉を無視し、聖は次郎の横に無理やり座ろうとする。
「ちょ、ちょっと何を」
「ね、姉ちゃん」
「じーろちゃんじーろちゃん、寂しかったとよー」
「話を聞け!」
ぐいっと顎の下に手を当て押しのけようとするサーシャ。
「姉ちゃん、暴れないで」
次郎が抗議するが、聖は言うことを聞かない。
「あー、出発しまーす」
運転手のおじさんが抑揚のない声でそう言うと車は走り出した。
負けず嫌いのサーシャである。
人の都合で席を譲ろうなんて、許せるはずもなく聖ともみ合いになっていた。
そんな騒ぎに見向きもせず、淡々と運転するおじさん。
さすが、観光の街の運転手さんである。
百戦錬磨なのであろう。
お客さんの面倒くさい事情には関わらないことが鉄則である。
そんな喧噪の中で稲佐山の山頂についた時はすっかり日も落ちていて、星空が広がっていた。
「逃げよう」
積極的な次郎。
こんな綺麗な夜景を姉と見た日には、貞操の危機まっしぐらだからだ。
「ちょ、ちょっと」
タクシー代を聖が払っている間にサーシャの手を引っ張っていた。
今しかない。
「あー、すみません」
運転手が受け取った小銭を手から落とす。そして、二カッと笑い次郎を見上げた。
思いっきり誤解している顔である。
「あ、ちょっと」
二人の動きを察知した聖が動こうとするが、運転手が止めに入る。
「すみません、お代を確認してからで」
運転手のおじさんがそう言いながら、若い二人に目配せしていた。
おじさんの無駄な心遣いである。
いろいろとかん違いしているのかもしれない。
サーシャは少しだけ、夜風を涼しく感じていた。
山頂なだけはあると思う。
観光客が多くいる中、次郎はサーシャの腕を引っ張り逃げていた。
彼はいったい何から逃げているのだろうかと自問自答して、そしてよくわからない感情に襲われた。
「ジロウ」
彼女の手をひいたまま展望台に駆け足気味に向かう。
「ジロウ」
サーシャが声をかけるが、彼は無視して展望台にある階段をカンカンカンと登って行った。
「ふーことかサチコとか……」
大吉が抜けているが、そこはツッコまない。
「ジロウ……」
展望台で長崎市内が一望できる場所に彼らはたどり着いた。
「うわ……」
この町に住んでいるといっても、そんなに見ているわけではない。
次郎は目の前の光景に息をのむ。
彼は次の瞬間ハッと今の状況に気づき、慌てて手を離した。
「ジロウ、どうした」
「いや……その」
サーシャがそう言いながら顔を上げる。すると目の前に次郎が見ていた風景と同じものが視界に広がった。
「……うわ」
彼女は息を飲んだ。
「狭っ」
素直になれない子である。
「モスクワの夜景の方が壮大なんだけど」
「日本人はこういう箱庭的なものの方が趣味なの」
「みみっちい」
「そういう日本語使わない」
サーシャが次郎の隣に立つ。
「ま、悪くはない」
「褒めているつもり?」
「すっごく褒めているつもりだけど」
「ありがとう」
「ジロウの性格が、みみっちい理由、よくわかった」
そう言うと彼女は展望台の手すりに体を預けた。
「ふーことサチコと合流しないと」
独り言ちに彼女は言った。
「サーシャ」
次郎は夜の街並から視線を動かさずに、彼女の名前を呼ぶ。
「何? 告白?」
「違う……」
「じゃあ、何?」
「朝と同じ質問」
「答えは同じ」
次郎がため息をつく。
「昨日、メール」
「何、メールって」
「何書いてあった?」
「別に」
「家の人からだろう」
「な、何、人のメールを盗み見するとか」
「ロシア語だから何書いているかわかんねーって」
「変態」
「変態じゃない」
「スケベ」
「スケベじゃない、堂々と開くから見えちゃったんだよ」
「まあ、いい」
二人は視線を合わせることなく話を続ける。
「お父様」
サーシャはぼそっと言葉をこぼした。
「……予備役から現役に戻るって」
次郎は最近ニュースで話題になりつつあるロシア情勢を思い浮かべる。
なんだか国境付近に軍隊を集めているとかそんなニュースは聞いていた。
「えっと……偉い人だよね」
「海軍予備役少将」
「え、偉いんだっけ、それ」
次郎にしてみれば身近な階級ぐらいしかわからない。
中隊長の少佐はすごく偉いし、日之出中尉なんかは次に偉い、そして綾部軍曹とかも自分よりは偉いということぐらいである。
「さあ」
サーシャは少し呆れた声で答えた。
「帰ろうと思っている」
「どこに?」
サーシャは目をまるくして次郎を見る。
「ロシアに決まっている」
「なんで」
「祖国が戦争になるかもしれないのに、帰ることに理由なんか」
「だからなんでなんだよ」
「ジロウって思ったよりもバカ?」
「バカはサーシャだよ」
「は?」
彼女は超絶不機嫌な声を出した。
「子供が戻ってどうするんだよ」
「……ふーん、ミハイルお兄様と同じことを言う」
冷たい声。
その名前を聞いて次郎の頭に浮かぶのは、サーシャに似たあの横顔だった。だが、彼女の数倍は冷たい雰囲気を持った表情のため、まったく異質な感じを受けている。
「あの兄貴さんも……」
「ミハイル兄様は私が何もできないってバカにしていた」
「バカにするもなにも、その通りじゃないか」
「何もできないわけじゃない、私だって戦える」
「でも、俺たちは子供」
「子供子供って」
次郎もサーシャもその兄貴のシスコンっぷりは知らない。
「その兄貴さんが言うことはわかるな」
次郎はじっとサーシャを見る。
「俺が同じ立場だったらそう言うと思うな」
「ミハイル兄様の事を何も知らないくせに」
その言葉を聞くと同時に、妹の笑顔が頭の中に浮かんだ。
「もし、十年後に花がサーシャと同じことを言ったとしたら、絶対に止める」
「……」
彼女は手すりの上にある両手に力を込めた。
「お父様からは、一年間だけ留学したら帰って来てもいいって言われた」
「は? なんで、ここに居れば安全なのに」
「帝国の危機に貴族の子息が外国に逃げる」
サーシャは次郎を睨みつけた。
「そんな不名誉を受けるぐらいだったら死んだ方がマシ」
「……死ぬとか……」
次郎が思わずサーシャの肩に手を置く。
「そんなことを、覚悟もないのに軽々……」
言うなよ。
そう言おうとしたが彼は躊躇した。
サーシャの目は本気だった。
けっして嘘を言っている目ではない。
展望台を照らす薄暗い照明の中でも彼女の青い瞳は語っていた。
「……」
「だから、今をしっかり楽しむことに決めた」
次郎はなぜだかわからないが、その言葉とその彼女の表情にぶるっと震えてしまった。
いつも見ている彼女とは別人に見えたのだ。
次郎の携帯の着信音が鳴る。
「鳴ってる」
サーシャが次郎に催促した。
だが彼は取り出そうとしない。
彼の携帯が静まるとそのうち彼女の携帯も着信音がなった。
バックから取り出し、それを耳にあてる。
「サーシャだけどふーこ?」
『探したんだけど、どこ? 例のお姉さんはすぐ見つかったんだけど』
「ジロウとデートしてた」
『あーお邪魔しましたー』
「……張り合いないなあ」
サーシャがぼそりそう返した。
『そんなことよりも、シスコン野郎に責任とってもらって、こっちでこのお姉さんを面倒を見る……』
ゴボゴボゴボという音が聞こえた。
そして、雑音が消え、明瞭な声が聞こえる。
『じーろちゃんどこ、じーろちゃんどこ』
ぷちん。
サーシャは通話終了ボタンを押しため息をついた。
「シスコン野郎」
「シスコンじゃない」
「あ、そ」
彼女は一歩彼に近づく。
「思い出作り」
グイッと次郎の手を引っ張り自分に引き寄せた。
サーシャは少しだけ背伸びして、彼の顔に近づける。そして行為の後、思ったよりも柔らかいなという感想を持った。
――それほどでもない。
唇に指を触れて彼女はそう確認した。
「な、ななな」
なんとも情けないリアクションにため息をつく。
これでは思い出も何もないではないか。
彼女はそう思うと、無性に笑いがこみ上げてきた。
「国に帰れば淑女しないといけないから」
ゲイデン家である限り、彼氏なんか作れない。
「超絶美少女と接吻したんだから、もう少し喜んだら」
「……も、もっとそういうの大切にした方が」
ダメな男である。
次郎という男の子は。
「とりあえず、こんなもんか」
そうサーシャは言うとあははと笑った。
赤面する次郎。
「こんなもんかとか……」
唇を抑え俯く彼は赤面しながら、そうつぶやいた。
――サーシャは一年で国に帰る。
この学校で三年間をいっしょに過ごす。
そんな当たり前のことを普通に思っていた。
当たり前のこと。
彼は夜景を背にしたサーシャを見上げる。
彼女は屈託のない笑顔を浮かべていた。
覚悟。
そういう笑顔なのかもしれない。




