第35話「素直になれないのはペンギンのせいではありません」
「だから本当に……私たちはただのクラスメートですから……」
正確に言えば同じ中隊の同期という言い方だが、一般的ではない。だから風子はあえてそう言った。
「上田君はサーシャと幸子ちゃんのホームステイ先を提供しただけの間柄ですから」
だけ……ではないが、目の前の面倒くさそうな次郎姉――聖――を説得するためには、それだけ言った方がいい。
「……ほんと?」
聖が念を押すように聞く。
すると風子だけでなく、次郎、幸子、大吉、そしてサーシャまでもがぶるんぶるん首を縦に振った。
この姉を敵にまわすと、せっかくの長崎観光が台無しになることがわかっていた。
粘着質かつ破天荒。
そういう印象だけで十分である。
と、いうことで彼らは長崎のペンギンで有名な水族館に向かう途中の車内である。
九人乗りのワゴン車。
次郎父が運転し、その隣に妹の花、母親、そして後ろのシートに聖を含めた学生達が座っている。
一番後ろの右の窓際に次郎が座り、それをガードするようにして聖が座っていた。
聖にガードされるようにして座っているのは大吉だ。
彼女は男同士がくっつくのも許せないようだ。そして、真ん中のシートには女子三人が座っていた。
「聖姉ちゃん……腕、腕」
次郎がコソコソと小声で拒否している。
あまり女子に聞かれたくない内容だ。
もちろん女子達にその声が聞こえてるから残念であるが。
「なーに?」
聖はそんなことを言いながら、胸の前で拘束している彼の左腕をギュッと抱きしめるようにした。
「いいかげん離してよ」
「やだ」
「……」
当初、女子達は冷たい目で次郎を見ていたが、まんざらでもない表情の彼を何度も見ているうちに、無視することにしていた。
シスコンというものに対して、この女子達の意見は一致している。
嫌だ。
なんかきもい。
ということで。
「弟さんって、ずっと前からむっつりスケベなんですか」
風子がそんな質問をする。
「うん」
即答。
「っちょ、姉ちゃん」
「人がね、着替えているときはよくチラチラ見とったし」
ニコニコしながら答える聖。
「あーそういえば、どさくさに紛れておっぱいば触っとったもんねー」
と母親がかぶせる。
「そ、そんなことしてないって」
ぶるんぶるん顔をふる次郎。
「やっぱり、むっつりなんだ」
と、スマフォをいじりながらサーシャ、先ほどメールでも着信したのか着信音が鳴っていた。
ちなみに幸子は無言。
「……ふーん」
風子はうなずきながら話を続ける。
「学校でも、そんな感じなんですよ」
「そ、そんな感じって」
サーシャが手を挙げる。
「ブラのホック外された」
「ええっ」
「まじで」
「……破廉恥」
風子、大吉、幸子の反応はそれぞれだ。
軽蔑、羨望、軽蔑。
「いてててててててて」
不意の激痛に次郎は襲われる。
ぱしぱしっ。
次郎がタップしているが、悲鳴は収まらない。
「大丈夫? じーろちゃん」
聖の胸に抱きしめられた彼の腕がピーンと伸びている。手首がダメな方向に曲がっていた。
「きまってる、きまってる、シャレにならないからっ」
悲鳴のような声で次郎は訴えるが、聖は笑顔のままである。
彼女も次郎と同様、父親の道場で古武術を習っていた。黒帯はもちろん指導員の資格を持っている。
くいっと次郎の手首関節を返している。
「じーろちゃん、お姉ちゃんは離れていたから寂しくなったとね、ちっちゃいころからおっぱい好きやもんね、だからサーシャちゃんのおっぱいを……」
寂しそうな顔で聖は言っているが、次郎の関節は更にダメな方向へ。
「違う、サーシャが先に暴力振るってきたから腹いせにっ」
「押し倒されて……」
サーシャは苦渋に満ちた声を出しているが、表情は意地悪な顔でニヤリ笑っていた。
目を見開いて驚くその他の男子女子。
「次郎……お前」
「そ、そんなことがあったなんて……」
大吉に続き、風子もかすれた声を出していた。
「次郎もさっそく大人の階段登ったとねえー」
母親が関心している。
「そこっ! 反応がおかしい」
息子がツッコミをいれるが、母は何度かうなずくだけである。
「サーシャちゃん、息子ばどうかよろしくお願いします」
「あ、はい」
サーシャもどう反応していいかわからずうなずいた。
「ひどかっ! お姉ちゃんだけだって言ったけん、させてあげたのに……」
「やめて、そんな誤解を生むような話、ほら同級生いるし、お父さんもお母さんもいるしっ」
「別に姉弟だから恥ずかしがることなかとよ」
「だから違うって、お母さんなんか言ってあげて、このままじゃ息子が変態にっ」
「姉弟が仲良かことは、親として嬉しい限りよねえ、お父さん」
「……」
父親は無言で運転。
「不潔」
幸子の一言が重い。
「やっぱり次郎、てめえ俺たち義兄弟の契りを……」
大吉や次郎、そして男子学生数名で共通目的のため義兄弟の契りを結んでいた。
目的は男子学生の生活向上のためである。
一、女性経験がないこと。
一、エロ本は共有し、かつ折り曲げたり、汚したりしないこと。
一、女人と付き合う場合は、自己申告し裁判を受けること。
そんな閉鎖空間でエロ本を共有するために結んだ義兄弟同盟である。
「裏切り者っ」
大吉は顔の前に手を組んで、狭いシートの中でお尻をふりふりしながら上目づかいで次郎を見た。
「違う、違うんだ、大吉」
「このスケベ!」
「スケベじゃない」
「ピュアだと信じていたのに」
「俺はピュアだー」
車内に響く悲痛な次郎の叫び声。
そんな彼の隣に座っている聖は相変わらず腕を握ったままであった。
しばらくそんな喧噪を続けながら車はペンギン水族館を目指して走っている。
『……続いて、ヘッドラインニュースです』
車内はFMラジオの音楽番組の合間のニュースが流れていた。
『東西ロシアの国境問題です』
山間部の道路を抜け、さっと風景が広がった。
『ヴォルガ川の停戦ラインで起きた一連の衝突をめぐり交渉が続けられているところですが、東のソ連……書記長が……』
曇り空のせいで、海も灰色だが学生達は窓の外のその風景に嬉しそうな顔をする。
『ロシア帝国のいかなる挑発に対しても民主主義の正義の下、断固たる対応で臨み、帝国国内の反体制ゲリラに革命準備を促すような声明を出した』
「ソ連はいつも同じような事を言う」
次郎の父親が独り言ちに呟いた。
「ほんと、そんなこと言わんで、はやく仲良くすればよかとに」
次郎母がそんなことを言う。
「お母さん」
次郎が非難するような声を出した。
「なーに、次郎」
天真爛漫な返事をする母親に対して、次郎はため息をついた。
サーシャがいるのにそんな無責任な発言は失礼じゃないかと彼は思ったのだ。
だが、肝心のロシア帝国貴族のサーシャは窓の外の風景を黙って見ている。
「……なんでもない」
彼はむすっとしてシートに深々と座った。東西が分裂したロシアや日本、当事者の女子が二人もいるのに、母親がそんな簡単に物事を言うことが恥ずかしくてたまらないのだ。
母親のこういう軽々しい言葉が嫌いだった。
「ペ、ン、ギ、ンっ!」
サーシャと花が入場早々水槽に向かって走っていく。
小学三年生レベルのはしゃぎっぷりだ。
「ねずみはダメなのに、ペンギンはいいんだ」
次郎はぼそっと呟いた。
そんな言葉も無視するほど、彼女は目の前の生き物に魅了されていた。
「ヒゲペンギンかわいいいいい」
金髪女子が張り付かんばかりに水槽にすり寄ってるものだからいやでも目立つ。
「サーシャお姉ちゃん、ペンギンが驚くからダメ」
そう忠告するのは花だ。
この少女はこの家族では珍しくしっかり者であった。
「だって、だってかわいいんだもん、ああマカロニー」
マカロニペンギンの黄色い羽根飾りに大興奮している。
風子が彼女に近づくと、必死にどのペンギンが何で、このペンギンがあれでと詳しく説明された。
「あ、うん」
説明書きに書いてあるから……と彼女は言い出せず、目をキラキラしたサーシャの説明を延々と聞かされていた。
少し離れたところに幸子と大吉がいる。
幸子はテンションが高いサーシャに近寄り難く、そして大吉はあんなことがあった後なので、風子から距離を置いていた。
「北海道とか、野生のペンギンがいっぱいいそうだけど」
大吉が幸子にぼそっと話しかける。
幸子が眉をひそめてペンギンを見ているのを気にして、軽い冗談のつもりで言った。
「いるわけないでしょう」
冷たい声で返される。
「あ、うん……ペンギンとか嫌い?」
ますます眉をひそめる幸子。
「嫌いじゃない」
「いや、でも……怒ってるし」
「怒ってなんか」
彼は彼女に気を遣って声をかけたつもりだった。それに対して不機嫌さを含めてに言い返されたものだから一瞬ムスっとなってしまう。
――いや、気を遣うってこと自体が、なんか、俺、変かもな。
そう思うとムスッとしていた彼の心がスーッと抜ける。
改めて彼女を見ると、どことなくペンギンを見て楽しんでいるように見えてきた。
――けっこう好きだったりな。
大吉はそう思いなおすと、彼女に対してなんとなく気持ちの余裕ができたように思えた。
「ペンギンってかわいいよな」
彼が彼女にそう話しかけるが、不機嫌な態度は少しも変わっていない。
「そうかな」
そんな反応だが、ちょっと大人になった大吉はにっこり笑いかえす。
素直になればいいのにといった表情だ。
「キングペンギンッ!」
二人が微妙うな会話をしているとき、その向こう側でサーシャが歓喜の声を上げた。
彼女の目の前を高速で泳ぎながら、キングペンギンがいったりきたりしているのだ。
涎を垂らさなんばかりに、サーシャは興奮している。
その時だ、大吉が幸子の微妙な表情に気付いたのは。
彼女は一瞬だが、頬を緩ませ、泳いでいるペンギンを目で追っていた。
――やっぱり好きなんだ……素直じゃねえ。
お前もな。
なんて誰かに言われそうだなっ……と、大吉は頭の中で思っていた。
「みんな! ペンギンに餌をやろう」
サーシャはアジが十匹ほど入ったバケツを右手に、左手で次郎の手を引っ張り、イベント会場へと向かう。
後ろを付いて行く風子、そして次郎。
――どんだけ、ペンギンが好きなんだよ。
次郎はそう思うが、何も言わなかった。
幸子と大吉もそれに続く。
そんな中、次郎は気になることがひとつあった。
車の中でチラッと目に入ったサーシャのスマフォ画面に映っていたロシア語のメール。あれが届いてから、サーシャのテンションがおかしいのだ。
二、三度メールのやりとりをしていたのを次郎は見ていた。
何か嫌なことでもあったんじゃないだろうかと思うのだ。
そんなことを思い出しているうちに、同期たちはペンギン達がいる場所に向かっている。
彼女たちが向かった先はすでに先客たちで賑わっていた。
寒くないところに生きている種類のペンギン達に餌を直接渡せるイベント。
そんな中、アジが十匹ほど入ったバケツを手にしたサーシャを先頭に、ぞろぞろと会場に入っていった。
彼女の周りにくちばしを上にしつつ翼をパタパタさせる十羽以上のペンギンが寄ってくる。
「かわいいいっ」
サーシャの顔がみるみるうちに上気する、そして、声が震えてた。
アジを掴みペンギンの前に手をやると、パクッとペンギンがアジを食べる。
「かわいい」
地が出ているのだろう、ロシア語で感嘆している。
「ダイキチ、ほら」
ぽいっと大吉に餌を手渡しし、投げろと催促する。
「お、おう」
ペンギンが全然いない場所にポイッと投げてしまう。
「下手」
ぷぷっと幸子が笑った。
「違う、わざとだ」
大吉がふくれっ面でいい返す。
よちよちとペンギンが餌に向かって歩いている姿を見て「うわ、大吉性格悪っ」と次郎がちゃかす。
「ほれっ」
大吉はもっと遠くに投げると、水槽の中にぽちゃんと落ちた。
「あ、ひどい」
幸子がぼそっと言った瞬間、ペンギンたちがぴょいっと水に飛び込み、地上とは見間違えるほどのスピードで水の中を泳いだ。
そのペンギンは一瞬で餌を咥え、そして飲み込んだ。
「こ、こえええ」
大吉が声を上げる。
「かわいいいい」
歓喜の声を上げるサーシャ。
「すごい」
この光景には、風子も感嘆の声を出した。
「あーあ、餌もこれで終わり」
ほんとうに寂しそうな声を出すサーシャ。
「はい、ハナ」
次郎の妹に餌の入ったバケツをみせる。
「最後はハナがあげて」
「……うん」
恐る恐る花がアジを摘み、バケツの中から取り出す。すると、最後のエサと知ってか、ペンギンたちが突撃してきた。
「うわっ」
その圧力に一歩二歩と少女が後ずさりしてしまう。
「花は怖がりだなあ」
意地悪いことを言う兄。
「違う、怖くなかもん……うわっ」
ぱくり。
花が抗議をしている間に、ぴょんと跳ねたペンギンが餌を咥え、それを飲み込んだのだ。
不意だったため、花がバランスを崩し、後ろに転びそうになったが、兄の次郎がひょいっと抱える。
「まだまだ子供だなあ」
花は不機嫌な表情のまま次郎から顔をプイッとそらす。
「えー助けたのに、なんで怒ってんの」
次郎がオロオロしている姿を尻目に大吉が皮肉っぽく笑った。
「あいつ、本当に、馬鹿だな」
「鈍感もあそこまでいけば有害ね」
幸子も被せる。
「もう慣れた」
と風子。
「罪深いジロウにお許しを」
と十字をきるサーシャ。彼女はロシア正教徒である。
こうして、彼らはペンギン餌やりイベントを終え、会場を後にした。
この間、次郎は花の代わりに同級生達から、女心がわからないことに対して詰られていたことは言うまでもない。
「ペンギンっ」
今日はペンギンかかわいいしかしゃべっていないサーシャ。今度は売店のマスコット――巨大ペンギンのぬいぐるみ――に目を奪われていた。
「もふもふしてるっ、リクチャンの百倍かわいい!」
リクチャンとは帝国陸軍公式ゆるキャラである。
古代エジプトの神にシーツを被ったような姿のものがあるが、それを緑色にして軍服着せただけのものである。
目力だけあってあまりかわいくないゆるキャラだ。
それとは正反対にかわいいデカいペンギン。
サーシャはぺたぺた触っていた。
そうしているうちに一番前に並んでいたサーシャと次郎はカキ氷と巨大ペンギンのぬいぐるみを手に入れ、先に土産物売り場に移動していた。
次郎は二人になったことを確認して、気になっていたことをサーシャに話しかけてみることにした。
すこし重い口調で声を出す。
「サーシャ、はしゃぎ過ぎじゃない?」
彼女は屈んでぬいぐるみのお腹を触っている。そして、特に笑顔を崩すことなく口を開いた。
「だって、ペンギン好きだから」
「いつもだったら『そんな子供じみたことっ』なんて言い返すだろう、ずっと変なんだよ、なんか」
――車の中で携帯が鳴ってから。
と言う言葉は飲み込んだ。
「ほら、ジロウもさすって」
巨大ペンギンの腹を指さす。
「……だから、何があったんだって」
「ジロウらしくない」
彼女の声のトーンは変わっていなかった。
「は?」
「なんで、こういうところは鈍感にならないだろう」
「また、鈍感とか……」
彼女が振り向いた時、スーッと表情が一瞬だけ消え、そして笑顔に戻った。
もちろん彼はそれを見逃さない。
「なんにもないんだよ」
「なんにもなくないだろう」
彼女は巨大ペンギンの脇の下に手を入れてさすっている。
「楽しもうよ」
「なんで……」
「楽しまなくちゃ」
「だから、なんでそんなに無理してんだよ」
彼は彼女の近くで中腰になり、顔を近づけるようにして声を出す。その声は自然に荒くなった。
彼女は振り向かない。
次郎はため息をついて、反応のない彼女をじっと見ていた。
彼女は彼女で、うつむきながら、彼の妙な勘ぐりに対ししゃべりたくなる衝動を抑えている。
――本当に、たまーにこうやって人の弱いところに入り込んでくるからたちが悪い。
彼女はそんなことを思っているが、どことなく心が暖かくなる感じも受けていた。
――だから……。
その時だ、むにゅっとした感覚が次郎の後頭部にのしかかったのは。
「じーろちゃん、ずっと会えなかったからお姉ちゃん寂しかったなあー、ねえむぎゅうしようむぎゅう」
「もうされてるしっ」
聖がのしかかるようにして後ろから次郎に抱き着いていた。
前言撤回。
サーシャは冷たく座った目でシスコン野郎を見上げた。
「ちょ、ちょっとこんなところで」
かき氷を抱えた風子が声を上げた。そして、その後ろでは幸子と大吉が大仏のような顔で次郎の方を見ている。
「ち、違う、俺じゃなくて姉ちゃんが」
次郎は中腰だった体をしゃんと伸ばし、聖も足を地面につける。
「じーろちゃん、じーろちゃん、ああよか匂い」
くんくん次郎の首筋を嗅ぐ聖。
異様な光景ではある。
次郎が困った顔のまま顔を上げた。
「上田君、もしかして喜んでいる?」
「喜んでないっ」
げっそりした顔の風子に対し、顔を赤くして否定する次郎。
「ええー、素直になったらよかとにー」
聖が被せる。
「素直です」
「うそつきー」
「うそじゃないっ」
素直になれない。
それぞれの思いが、素直になればこじれることもない。
そんなわかりきったことなのに、できないから彼らは少女であり少年であるのかもしれない。
ムスッとした顔をした父親の横で、母親がニコニコ笑っている。
ああ、青春だなあとでも思っているかのような笑顔だった。




