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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第4章  文月「夏だ!海だ!訓練だ!」
31/81

第31話「思春期ですっ!」

「ふーこ! ダメ!」

 サーシャが動揺を隠しきれないまま大声を上げた。

「余計な事をするな! 死ぬぞ!」

 仲居が空気をしびれさせるような声を発する。

 風子はびくっと体を震わせた後、その場で固まった。

 石を仲居に投げつけていた。

 自然に。

 サーシャが危ない状況で、彼女はそれがやるべきことだと思ったからだ。

 それは不意をつかれた仲居の肩に当たっていた。

 もちろん、それで状況が好転するようなことはない。

 ただ、仲居の悪意を増幅させただけだった。

 仲居はサーシャから目を離すことなく、投げられた石を左手で拾う。そして手のひらのスナップを効かせて石をお手玉の様に真上に投げた。

「ガキは嫌いだ」

 そうつぶやくと仲居は体を右足を軸にぐるりと勢いよく回す。

 真下に落ちてきた石を掴むと、その回った勢いで風子に投げ返していた。

「次は殺す」

 仲居はすぐにサーシャの方を向き、風子達に背を向けたままそう言った。

 緑の悲鳴。

 幸子が大吉の背中に手をあてる。

 仲居は風子の投げた数倍の速さで石を投げていた。それはとっさに風子を庇った大吉の背中に深くのめり込んだ。

 転がる石。

 呻く大吉。

 呆然とする風子は前から大吉に抱きしめられたまま、地面に座り込んでしまった。

「あ、ああ」

「大丈夫か……中村、馬鹿野郎……無茶しやがって」

「大吉君こそ、そんな、無茶」

 風子は大吉の苦しそうな息遣いを聞いて狼狽する。

「私よりも、サーシャが……」

 風子が声を上げるが、その前に幸子が立った。

「中村さん、いけない……私たちではどうしようも」

 声が聞こえたのだろうか、仲居が一瞬だけ幸子を見る。二人は一瞬目があったが、仲居は特に興味がないような目だった。

「おりゃあ!」

 その隙を突いて、サーシャが低い姿勢のまま滑り込んでいた。

 相手の右ひざ目掛けて横から踏みつける様に蹴りを入れる。

「ふんっ」

 仲居は短く呼吸をすると、ステップを踏んだ。

 着物に触れるぐらいの僅差でそれを除け、ほうきの柄を下から上に回し上げる。そして地面の小石を彼女に飛ばした。

「……!」

 思ってもなかった方法で目つぶし攻撃を受け、サーシャの動きが一瞬止まる。

 仲居はその隙を逃さない。

 必要最小限の動きだった。

 ほうきを手から滑らすようにして、彼女の喉元に向けそれを突き出していた。

「ふんっ」

 ほうきの目標が僅かにずれ、地面に突き刺さる。

 何かが軌道を逸らしていた。

 飛び込んだ次郎。

 彼はふわりとした蹴りをほうきに当て、その軌道を変えていた。だが、仲居は止まらない。突き刺したほうきを軸にして、ぐるりと回るようにして跳ねつつ次郎の顔面に蹴りを入れてきた。

 蹴り足は届かない。

 仲居はそれでよかった。

 間合いを切る必要があったからだ。

 黒光りするナイフから逃れるために。

 それはサーシャを襲っていた少女が手にしたナイフだった。

「……次郎は助ける」

「君は……」

 学園祭の夜にキスをしてきた女子。

「ミワ」

 少女は自分の名前を名乗ると躊躇することなく敵にナイフを投げつけた。

 着物の裾でまくるようにしてナイフを流す仲居。そして、その血走った眼で少女を睨みつけた。

 標的が変わった。

 ほうきの柄がグンと伸びる錯覚。

 遠間の突き。

 ミワは距離があったため油断していたのか、流せない。

 左腕ではじくように打ち込んで外すのがミワの腕では精いっぱいだった。左腕に感じた苦痛に顔を歪ませる。

 ただの竹ぼうきではなかった。

 硬すぎる棒。

 金属の芯が入ってる棒。

 次の攻撃を避けるため転がるようにしてミワは難を逃れる。

 こうして仲居の間合いに入っているのはサーシャと次郎になった。

 次郎は仲居に地面の小石と土の混じったものを投げつける。

 確かに命中しているが、相手はまったく動じない。

 仲居は無表情のまま、次郎が反応できない速度で動く。

「おえ……」

 膝から崩れる次郎。

 突き刺したほうきの柄がが彼の腹部から離れると、彼は地面にうずくまり嘔吐した。

「うりゃあああ!」

 サーシャが跳んだ。

 竹ぼうきが舞う。

 彼女は華麗にステップを踏み、それを避けた。

 彼女は探している。

 隙を。

 仲居は彼女を追い込むように突きを連続して繰り出すが、皮一枚のところで避けられた。

 ――強い。

 避けながら、サーシャは感嘆の声を上げていた。

 ロシア本国で格闘を教えてくれた教官以上だと思った。

 下段の突き。

 彼女は少しだけ体を動かし、その突き出されたほうきの上に足の裏を滑らせるようにして乗せる。そして、力強く踏み込んだ。

 ほうきの柄が地面に突き刺さった。

「うらああ!」

 気合一閃。

 逆足で彼女はほうきを踏み込む。

 パリパリ。

 竹が割れた。

 正確には竹だけが割れた。

 彼女の足下には黒光りする棒。

 棒が地面から掘り起こされるように振り上げられる。そして大量の土が空中に舞った。

 理不尽な力で振り上げられたサーシャは面食らってしまい、辛うじてバク宙で着地しながらバランスをとる。

 ――やばい、サーシャ。

 次郎は動かない体を引きずるようにして、サーシャを庇おうとするが、数センチしか動けない。

 だが、絶望する中、彼は信じられない光景を目にしてしまった。

 仲居の右手に棒状のものが飛んできて突き刺さっていた。

 ――棒手裏剣!

 道場で父親が投げていたのは見たことがある。

 だが、遠距離から投擲してこんなに正確に刺さるものではないことを知っていたから、驚きを隠せなかった。

 ドスンと重たい音を立てて、ほうきだった金属の棒が地面に落ちる。

 大きく間合いをきったミワが投げたものだった。

 仲居は血が噴き出ている自分の右手を顧みることもなく、左手にある白刃を活かそうとサーシャに跳びかかった。

 パンッ。

 花火に比べれば軽い破裂音だった。

「止まれ!」

 鋭く、そして迫力のある大人の声。

 仲居の体が大きく揺れる。

 脇腹に吸い込まれた銃弾。

 だが、敵の踏み込んだ足は止まることなく跳躍した。

 乾いた銃声がもう一度響く。

 銃弾は外れた。

 この二発を撃ったのは綾部だった。

 いつものヘラヘラした表情は隠れ、鋭い目つきで敵を睨みつけている。

 彼はできれば敵を狙おうとしていた。だが威嚇射撃しかできなかった。

 サーシャと仲居の間合いが近かったからだ。

 そこまで精密な射撃ができないことを、自分の拳銃射撃能力が未熟なことを綾部は十分承知していた。

 綾部は初弾をヘッドショットで仕留めなかった甘さを呪ったが、後悔しても仕方がない。

 確実に殺すことになるその一撃を彼は躊躇したのかもしれない。

「離れろ! 撃つぞ!」

 そう綾部は威嚇するが、それが虚しいことだということは本人が承知していた。

 敵は綾部が撃てないことをわかっている。

 細かく切り刻むようにナイフを振るいながらサーシャに肉迫する仲居。

 サーシャはなんとか二、三手をかわす。

 だが、とうとう左手に数か所傷を負い、血がドクドク噴き出している。

 緑と風子が悲鳴を上げた。

 ギリッ。

 サーシャが歯を食いしばる。

 仲居が不意に転がったのはその時だった。

 次郎がやったことだった。

 彼は苦痛に顔を歪ませながら、身体を転がすようにして相手の膝に足を絡め、膝関節を極めながら倒した。

 間髪を入れず、仲居の背中に棒手裏剣を投げ入れるミワ。

 だが敵は突き刺さった痛みを感じることなく次郎ともみ合った。

 敵は次郎が痛めた腹部を容赦なく肘で圧しながら、右手を次郎の顔面に置いた。そうしながらマウントポジションを取り、左手のナイフを振りかざす。

 だめだ。

 彼がゾクッと死の恐怖を真近に感じたのと同時だった。

「次郎は死なせない」

 ぼたぼたと仲居の右手の指があった場所から血が滴る。

 ミワだった。

 跳躍し容赦なく敵の指を切り落としていた。

 表情を変えることなく。

 そしてそのまま、血のりのついたナイフを敵の首に突きこもうとした。だが、その刹那、仲居は指のない手を地面につき、そこを軸として体を大きく回した。

 ()ったと思った少女は油断していた。

 ぐるりと回した仲居の足が少女の首に吸い込まれる。

 辛うじて、彼女の細い腕でそれを受けるが、身体は吹き飛ばされるようにして転がった。

 仲居は止まらない。

 今度は次郎の顔面めがけて右の拳を打ち込もうとしていた。

「止まれ」

 静かでそして迫力のある声だった。

 仲居が声の方を見上げる。

 確実に頭を撃ち抜ける間合いにある銃口。

 綾部はそれでも間合いを詰める。

「次は確実に殺す」

 学生達が聞いたことがない、低く冷たい声。

 次郎はその隙に少女から引っ張り出されるようにしてその場から離れた。

 綾部の指が引き金を圧する。

 すでに遊びの部分は殺していた。

 その彼の微かに震えている指が次郎には見えた。

「全員動くな、そいつを解放しろ」

 学生も綾部も聞いたことがない声だった。

 花火が打ち上げられ、パッとその場が色とりどりの光に包まれる。

 ジャージ姿の女性が法被を着た背の高い男に抱えられている。

 女性の頭には拳銃のようなものが突きつけられていた。

「どけ」

 仲居と同様に抑揚のない声。

 一言一言が学生達を不安にさせるようなトーン。

「銃を渡せ」

 男は綾部をじろっと見てそう言った。

 敵がふたりに増えてしまった。

 たぶん同じような猛者なのだろう。しかも、人質のジャージ姿の女性は日之出中尉。

 形成が逆転したということを、ここにいる全員がわかってしまった。

 仲居が右手を綾部に差し出す。

 相変わらず無表情だ。

 綾部は仲居を睨みつけたまま、銃をゆっくりと差し出した。

 タンタンッ。

 ダブルタップの銃声。

 背の高い男が頭から血を吹き出して倒れる。それと同時に、仲居は奪い取った拳銃を手にして綾部との間合いを切った。

 ――危ないっ。

 次郎が口を大きく開けて声を出そうとした瞬間。 

 キュルキュル。

 その場にいた者達の視界が、まぶしい光に奪われる。

 一瞬次郎は花火か何かかと思ったが、それは違った。

 甲高いエンジン音。

 綾部が次郎とサーシャを少女の方に引っ張るようにして、避難させる。

 白い軽トラック。

「鈴! 無茶だ!」

 叫ぶ綾部。

 真田中尉――鈴――が運転していた。

 彼女はサイドブレーキを踏んでハンドルを回す。

 軽トラはグルリとスピンして、ボディ敵を弾き飛ばしていた。

 シュンッ。

 風を切る音。

 次郎はふと思い出していた。

 野中大尉だったか、実戦を経験したという教官が銃声が『シュン』の場合はやばいと言っていたことを。

 至近弾だ。

 仲居は軽トラにはじき飛ばされる直前にサーシャを狙って射撃していた。

 距離は五〇メートル近く。

 一般的な軍人でも当てるのは難しい距離だった。

 パラリ。

 金色のおかっぱから、髪の毛が数本抜け落ちるように地面に散らばった。

 彼女は気丈にも、出かかった悲鳴をぐっと噛み殺している。

 視線は車にぶつかり転がる仲居から外すことなく。

 頭の芯がジーンとしびれる感じを味わいながら。

 血の気が引いていた。そして彼女はこれぐらいでそうなってしまうこんな自分が情けないから、必死に歯を食いしばって立っていた。

 仲居の前に立っている男の背中。

 軍服。

「中隊長……」

 加勢に来た敵を撃ったのは彼だった。

 銃を倒れた男に向けたまま、その脇腹に蹴りを入れる。

 生きているか死んでいるのか確かめているのだ。

 次郎はその非日常的な光景を見て、何か夢でも見ているのではないかと思った。



 花火の夜は、仲居の自害で幕を閉じた。

 気絶したふりをしていた彼が綾部に跳びかかり、その拳銃の引き金を自分に向けて引いたのだ。

 女装した男の正体を学生たちは教えてもらえるはずもなく。

 黒服と憲兵が来て、彼らはそのまま医務室に連れていかれ傷の手当てを受けた。

「外国人排外主義者達がサーシャを襲ったが未遂に終わった、命に別状はないが怪我人が出ている、すでに事件は解決し安全に問題はないから大人しく寝ろ」

 中隊長からは、ぶっきらぼうに説明があった。

 なんとも腑に落ちない話。

 遠泳訓練ということもあって、軍医が付いてきていたため、サーシャはすぐに八針を縫う手当てを受けることができた。

 一方次郎は吐血もないし触診だけで肋骨の骨折ぐらいだろうと診断されていた。

「男の子男の子」

 若い軍医はニヤッと笑って、頭をポンポンっと叩いていた。

 興奮、恐怖。

 そんな感情が渦巻いた事件だった。

 落ち着かない学生に対し、女子達には真田中尉がケア係として一緒に寝ることになっていた。

 こんなことがあった夜だ。

 彼女たちの心のケアも必要なのだろう。

 ほんとうは大人達も必要だったが、人質になっていた日之出中尉などは気丈に振舞っていた。

 一方、次郎と大吉も大人と一緒の部屋にいることになった。

 同じく心のケアのはずだったのだが、学生達はそんな言葉を信用していない。

 綾部軍曹がケア係という時点で。

「おい、お前ら、何で俺らは真田中尉や副官といっしょじゃないんですかって顔だな」

 ちゃぶ台を前にして、お茶を注ぐ綾部が二人に意地悪そうな声でそう言う。

「だから、副官はやめておけよ、あれはやばい。ドエムに目覚めてしまう」

 副官――日之出中尉――が傷心であることはわかっているから、そんなことを言って誤魔化している。

 三つの湯飲みに均等にお茶を入れた後、彼は袋に入ったお菓子を二人に投げて渡した。

「見た目はいいが、あの女性(ひと)は手ごわいからな」

 ぼりぼりぼり、袋をさっさと開けて彼は中身を一口で食べてしまった。

「あ、あの」

「なんだ?」

 次郎が質問すると、面倒くさそうに彼は答える。

「真田中尉と綾部軍曹は恋人ですか?」

 ブバハッ。

 綾部はお茶を吹き出す。

「は? なんでそんな話になるんだよっ!」

 明らかに動揺している綾部。

「鈴ぅぅぅ! 無茶だあああ!」

 大吉があの時の綾部の声を真似る。

 もちろん、似ても似つかないのだが。

「……」

 ニヤニヤ。

 ニヤケ顔の次郎と大吉。

「帰れ」

「ちょっと待ってください」

「いいから帰れ」

「いや、俺たちの心のケアは」

「やかましい」

 イライラする綾部に不満な声を上げる次郎と大吉。

「大人なんですから、もっと余裕を持って受け止めるべきだと思いまーす」

 次郎が手を挙げて抗議する。

「大人なんですから、もっと余裕を持って俺たちを包みこむべきだと思いまーす」

 と、大吉。

「お前ら、いっぺん三途の川でも渡りたいのか」

 ひくひくと口の端を動かす綾部に余裕はない。

 二九歳。

 一六歳の男子に対して押されっぱなしだった。

 そして大人げなく、プロレス技でふたりをとっちめる綾部。

 汗だくになりながら落ち着いたところで綾部は会話を再開した。

「てめーらこそ、あの女子ちゃんの中で誰が本命なんだ、ん?」

 二人同時にしらばっくれた顔をする次郎と大吉。

「何? 留学生の金髪ちゃんか、それとも留学生に負けないぐらい気の強そうな中村か、いやいや、あの大人しい緑とか、おうおう東の留学生ってのもあったな」

 ぐいぐいっと間合いを詰める綾部。

「お前らのズリネタを教えろって言ってんだ」

 下ネタを躊躇しない大人である。

「お、それともすでに童貞卒業してるっていうのか? 部内恋愛(ナイレン)禁止とかほざいている中隊長には言わねえから正直にいいぞ」

 ぐいっと右脇に次郎、左脇に大吉を抱える。

「あの留学生達はどうなんだ、両方ともけっこういいと思うけどよ」

 ぐいぐい締め付けながら綾部が言う。だが、彼の考えた答えとは百八十度違う反応が学生二人から返ってきた。 

「俺は、守れなかったから」

 次郎がぼそっと漏らした言葉。

 にやけていた顔がスウッと抜け、綾部は、ふぅーうと、ため息をついた。

「ガキが生意気に」

「次郎は戦ったけど、俺こそ、足が動かなくて、怖くて、小便ちびりそうになって」

 大吉も顔を伏せる。

「結局、綾部のおっさんや中隊長に助けられただけで、俺たちは何もできなかったし」

 綾部はおっさんという言葉に、やかましいわっと答えると、二人の頭をゴシゴシと撫でた。

 幸子の事だった。

 黒服と憲兵が来て、真っ先に目をつけたのが幸子である。

 極東共和国からの留学生。

 彼女を取り調べるために連行しようとした黒服に食ってかかったのが中隊長なのだ。

 ――俺の学生に勝手な事をするなっ!

 普段からは考えられない鬼の形相から吐かれた鋭い声だった。

 それでも、淡々と処置をしようとする黒服が幸子の腕を掴むと、軍刀に手をかけた中隊長が割って入り一触即発の空気になった。

 ふだん、ぼやっとした中隊長の剣幕にまわりの人間は驚いていたが、そのうち、黒服の上司らしい男と先任上級曹長の中川や大隊長が来て場を収拾していた。

 ――学生の事になったら、見境がなくなる、いったい佐古中隊長は日之出中隊長をいつまでも引きずってるんだろう。

 そう先任曹長がその凶悪な顔をニヤッとしながらぼやいていた。

 ――俺もできてねーんだけどよ。

 綾部はその一部始終を思い出しながらそう思う。

 彼もまた、今回のことで自分の不甲斐なさを思い知っていたのかもしれない。

「ガキは、ガキのままでいいんだよ」

 それが綾部の出した答えだった。

「……意味がわかりません」

 口を尖らせて次郎が抗議する。

「あ? 子供が背伸びしすぎるなってことだよ」

 三十手前でも、背伸びしようとしている奴もいるんだから、と彼は思う。

「くよくよしてんじゃねえ」

「で、でも」

 大吉が上目遣いで見上げる。

 こいつら、可愛いなあと綾部は思ったのでぐしゃぐしゃと頭を撫でた。

「ま、いいや、背伸びしろや、くよくよしろや」

「するなと言ったり、しろと言ったり」

 大吉も抗議する。

「はん、俺が慰める言葉なんてねえって、自分で考えて、自分で悩みやがれってことだ」

 綾部はそう言うと。

 ぎゅっと両方の脇の下にある二人の首を絞めつつ言葉を続けた。

「ところでよ、お前ら、本当にしたことはねーのか」

 にやつく綾部。

 辛気臭い話をしてても、前には進めない。

 それが彼の信条である。

「け、経験ぐらいは」

 大吉が強気にでた。

「お、そうか、じゃあわかってるよな、エロビデオとかと違って、女ってあれだって」

「あ、あれですよね」

 ジッと彼は大吉を見て、パチンとデコピンをした後、にやっとした。

「いいって、悪かねえよ童貞ちゃん」

 がしがしっと頭をなでる。

 大吉がもごもごと頭を下げる。

「ところでアレのいい方法を知りてえか?」

 ぐいっと見上げる二人。

「い、いや別に……でも、綾部軍曹が話したいというなら」

 次郎は少し恥ずかしそうに答える。

「お、俺はそんなの、し、知ってるから」

 虚栄を張る大吉は、声が震えている。

 遠泳訓練の夜。

 台無しになった花火。

 死というものを目の前に見た夜。

 震える学生達の膝。

 男子学生達をケアしろと言われた綾部は、不器用なりに必死に出した答えはこれだった。

「まずは、ここ、どうなってるか知りてえか?」

 ニヤニヤする綾部。

 エロ話。

 何もかも忘れさせる、エロ話。

 彼らが興奮しながらも、疲れて眠るまで、綾部による女体講座が開かれていた。

 副官の日之出晶が知ったら、拷問ものである。




 乾いた音が鳴った。

「かかってこいやああ」

 サーシャが平手打ちを入れて叫ぶと、容赦ない蹴りを正面の少女が蹴りを返す。

 ぼこ。

 彼女が前かがみになった。

「やめてやめて」

「やめなさいやめなさい」

 風子がサーシャを、あのセクシーかつ豊満な怪しい母親がミワを、後ろから羽交い絞めにする。

三和(ミワ)! 仲直りしなさいって言ったのに、なんで喧嘩してんの」

 母親は次郎にボヨンとしたり、あの夜に棒手裏剣を投げたりしてる、サーシャのボディーガード――元狙っていた――女性である。

 髪の毛を左右に結びお下げにしているミワはギッとサーシャを睨みつけていた。

「謝ったのに殴った」

 一言ぼそっと言った。

「日本人は拳で分かり合うって聞いたんだけど」

 サーシャが自分がした行為がどうも受け入れられていないことを疑問に思いながら、いぶかしげに顔を傾ける。

「サーシャ、それ『浜の刑事』の世界だけ」

 風子は、サーシャに勧められて読んだ少年漫画、主人公である歌舞伎者の刑事が叔父とか、片目のやくざと殴り合うシーンを思い出す。

 また、少年漫画の世界と現実の日本を混同していた。

 ミワが母親に連れられ、サーシャに詫びを入れに来たところだった。

 八針縫ったぐるぐる巻きの包帯のサーシャと同様、ミワも学校の制服から伸びる手や足には包帯を巻いている。

「お母さん、謝ったからいいよね」

「だめ」

 三和の感情に起伏がない声に対して、母親は感情をがっつり込めて、ダメと言っている。

 雇い主から守れと言われている対象を襲ったのだ。

 解雇されても、懲罰をくらってもしょうがない状況ではあるのだ。

 ぐいっと、頭を抑えられミワはもう一度頭を下げられた。

 ――まったく、あの父親にも文句言わないと、割りに合わないわ。

 ムカムカする母親は、三和が暴走した原因である男に対し、恨み言を頭の中で反芻していた。

 ――でも、けっきょく好きな男をとるとか、誰に似たのかしら。

 母親はトホホと思うが表情に出すことなく、ぐいっとミワの頭を抑えている手に力を入れた。

「ミワとか言ったっけ」

 サーシャが声をかけると、ミワは顔を上げた。

「なに?」

「どうして襲った?」

「あなたが死ねば、ある人がロシアでの戦争に巻き込まれなないかもしれなかったから」

「は? かもしれないって」

「可能性があるならやりたかった」

「あんた、ばっかじゃない」

「お嬢様ほどでは」

 そう言って睨み合うふたり。

 母親からミワの頭上にげんこつが落ちて強制的に落ち着いた。

 咳ばらいをして舌戦を再開するサーシャ。声は少し落ち着いている。

「次郎とどういう関係?」

「別に、仲直りしただけなんだけど」

「に、二回も接吻してたのにっ!」

 なぜか、チューとかキスとか言わないサーシャ。そしてまたヒートアップ。

「子供」

 ぼそっと言うミワ。

「チューぐらいでぎゃぎゃー騒いで」

「チューぐらいって、何この」

「経験ないんだ」

「け、経験なら」

 サーシャの最大の弱点は売り言葉を買ってしまうことなのかもしれない。

「いつ、どこで、地球が何回まわった時?」

「ロ、ロシアで」

「父親とか言わないでね」

「ち、違う」

「あのシスコンお兄様だっけ」

「断じてないっ!」

 フシュ―。

 猫のように威嚇するサーシャ。

 クールな目つきのミワの方が口喧嘩は一歩上なのかもしれない。

「サーシャ落ち着いて落ち着いて」

 風子が背中をよしよしと撫でている。

 パンパン。

 手拍子がなる。

「はいはい、おしまい」

 呆れた顔のミワの母親が手を打った。

「もう仲直りできたみたいね」

 ぐりぐりと娘の頭をなでる。

「ぜんぜん」

「まったく」

 抗議の声を上げるミワとサーシャ。

「サーシャお嬢様、このたびは娘が私怨でこのようなことになったことをお詫びいたします、そして瓜生親子を引き続きご贔屓よろしくお願いいたします、まだまだ狙っている輩はいますので、私たちがお守りいたします」

 ぐいっとミワの頭を母親が手で押して下げさせた。

「でも、色恋話は契約に含まれていいないので、そこは自由にさせますので」

 にやり。

 母親が笑った。

「サーシャお嬢様はあの次郎って子が気になるんだ」

「気になるというか、別に、舎弟ぐらいに思っている」

「ふーん、そっちの風子ちゃんは」

「わ、私は別に」

 正直好きとかどうか、わからなくなっていた。

 なんというか、少し怖かった。

 あの学校祭の日から次郎が気になっていたはずなのに、あの時、自分を庇ってくれた大吉も気になっているからだ。

 ――結局、お母さんと同じ血なのかな。

 実の父親と早々に別れ、いろんな彼氏さんを作っていた母親。

 男は信用するな……そう口酸っぱくいっていた母親。

 ああいう(ヒト)に似ている自分が怖く感じる。

「私もあの子可愛いから好みなんだけど、身を挺して女の子を守ろうとするとか、余計な事をしゃべらないとか、すっごく好みなんだけど、もう可愛すぎるし」

 お尻をふりふりするミワの母親。

「おかーさんっ!」

 娘が声を上げる。

「つまみぐいぐらいしちゃだめ」

 ぼよん。

 瓜生母が体を揺らすと、その豊満な胸が揺れサーシャとミワの顔を圧倒した。

「ミワ、まずはあの人をなんとかしなきゃね」

「……うん」

 部屋を出行く背中を見て、大人の魅力にどうやったら勝てるかサーシャは考えていた。

 風子は気にしていた。

 今まで素直になれなかったことだけではない。

 単に人を好きになるとか恋とかそういうものがわかっていなかっただけなんだということに気付いてしまい。

 そんな自分がとても幼く、そして弱く感じた。

 人を好きになるってことはなんだろう。

 大吉に対する好意と次郎に対する好意。

 違う気もすれば、同じような気もする。

 でも……。

 ――自分に優しい人ならだれでもいいってことなのかな。

 恋というものは一途なものだと風子は思っている。

 一途でなければならないと思っている。

 フラフラしてはいけない。

 でも、私は……。

 風子は一人、自己嫌悪に陥り暗い気持ちになっていた。

 はあ。

 ため息をついても、もやもやした自己嫌悪は消えなかった。

 もう一度ため息をついても。

 

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