第26話「デレの対象は異性だけとは限りません」
中村風子はプールサイドに立って、悪くないと思っていた。
水着が、である。
彼女が着ているのはセパレーツタイプの水着、上下に分かれているタイプで、トップス袖なしで学年色である黄色。そしてボトムスは太ももの半分が隠れるぐらいの長さで色は黒。
上下に分かれているが、お腹もすっぽり覆っているとともにストッパーがついているため、めくれることもない。
つまり、女子的にとても楽な水着だった。
女性教官も多いことから、こういう水着を選ぶことになったのだろう。
確かに水着は、いい。
だが、七月上旬という季節のくせに、今日はとても寒かった。
野外プールの空は灰色。しかもそこそこ強い風が吹いていた。
冷たい消毒液のプールを浴びてから、一気に体温は下がり、彼女は鳥肌を立てていた。
でも、そんな寒さよりも気になることがある。
――それにしても。
視線を感じてしまうのは、きっと自意識過剰なだけではないと彼女は思っている。
いくら女子的に楽な水着であっても、体のラインがはっきりでているというのは変わりない。
男子の視線が気にならない、とは言えない。
彼女はチラッと上田次郎を見る。そして、後悔した。
慌てて、男子の方に背中を向け顔を俯かせた。そして、念仏の様に円周率を思い出し、赤面しそうになる顔をなんとか抑えようと努力する。
あの学校祭の夜にあんなことをしたため、どうしても次郎を直視できなかった。
――上田君はまったく私を意識していない。
さっき彼女は次郎が京や大吉と談笑している姿をチラッと見た。
よくわからないモヤモヤした感覚を覚えていた。
なぜこんなに自分だけが意識しないといけないのか。
考えるだけで、彼女はとても恥ずかしい気分になってしまった。
「早く並びなさい」
水泳の教官を取りまとめている真田中尉が、ガヤガヤしている学生を集める。
学生は、私語をやめ急いで列を作った。
四列の横隊に整列し、鈴に課目を始める前の敬礼をする。
「本日は泳法の素養試験ね、休め」
鈴は慣れた口調で、課目の説明を始める。
いつもは、怖い教官陣のなかでも一番ほんわかして、癒し系の彼女も、今日はきびきびした教官口調なのである。
ここはしっかり気合を入れる必要があるからだ。
水泳。
一歩間違えば、命の危険だってある課目なのだ。
だが、どうも学生たちは浮き足立ってる。
しょうがない、水遊びの気分であるしそもそも目の前にいる教官も水着なのだ。
鈴は女子達と同様、上半身はノースリーブ、そして下半身は太ももまである。
ただ、色が黒で女子達のよりもピッタリしているタイプだった。
男子たちが水泳どころではないのも、仕方がないのかもしれない。
しかも、教官陣はおそろいの水着を着ている。
鈴の同僚で、更に挑発的な体のラインである副官――日之出中尉――もいるのだ。
本人はそういう自覚がないせいか、隙がありいろいろとやばい。
そういう訳で、男子学生の目は泳いでいた。
目の前の女子よりも、お姉さまたちの方がより彼らの興奮を誘うから性質が悪い。
鈴は左手を頭に当てため息をついた。
彼女は男子たちの視線を自覚しているからだ。
「いーい、水泳は遊びじゃなくて訓練だからね」
チラッと晶の方を見る。
彼女は水泳の担当を男性教官にした方がいいと晶に言っていたが却下されていた。
――ほら、課目にならない。
そう視線で訴えるが、晶は気づかない。
最も男子の視線を集めている彼女だが、こういうところは鈍感なのだ。だから、鈴の意見に対して『健全な高校生が訓練中にそんな猥褻なことを考えるはずがない』と真面目に反論していた。
「子供の水遊びじゃないから、いい、一歩間違えば死んでしまう事故だってあるから」
確かにここの二十五メートルプールは立ち泳ぎの練習ができるように、中央部が二メートルの深さになっていた。
たかだかプールと言っても、安全の確保だけはしっかりするのが軍隊。
教官や支援の現役組等、安全のために、プールサイドに五、六人ほどが待機していた。学生よりも教官陣の方が緊張感があった。
そんな空気の中、風子も大人達の緊張感など微塵ともせず目の前のサーシャに気をとられていた。
風子は学生達と横二列に並んで準備体操をしているが、それどころではない。
――かわいいなあ。
水泳帽の中に、あの金髪のおかっぱはしまわれているぶん白い首筋が目立つ。
風子はこんなふうに彼女の普段見えない部分を新たに発見し、自然とため息が漏れてしまっていた。
おでこ。
サーシャのおでこがかわいくてしょうがない。
彼女はそれだけで、つい興奮してしまう。
いつもは隠れている白いつやつやしたおでこが、水泳帽のお陰で見えてしまっているのだ。
「イッチ、ニー、サン、シー」
体操係の学生が号令をかけながら体操。
膝屈伸。
風子の目の前で上下に動く引き締まったサーシャのお尻。
――いーなー、私もこんなお尻だったら、もっと積極的に……。
彼女はそう思いながら、視線を向ける。
「伸脚」
右足を真横に伸ばし、左足を折る。
その体勢になると、プリッとしたサーシャの胸が後ろから見えた。
――やばいやばい。
風子もハッとして、不躾に見すぎていたことを反省する。
彼女はニヤニヤしながら同性を見ていることに気づいて自己嫌悪してしまう一方、それはもうしょうがないことじゃないかとも思った。
だって、素直に思ってしまうのだ。
――数ヶ月の付き合いだけど、サーシャはいろいろな面でかわいい。
とにかくかわいいのだ。
仕草も、すぐムキになる性格も。そして、ふと思う。
――自分とサーシャの関係は……なんていったらいいんだろうか。
同期。
友達。
話をして、絡みはする。でも、彼女のことを知っているかと言えば、あまり知らない。
できればもっと近づいて友達になりたい、風子はそう思う。
ただ、なんとなく、その一歩が踏み出せないでいた。
泳力素養テストが始まった。
泳力については自己申告制。
学生たちはそれぞれ泳げる距離申告し、その距離に応じてグループを分けられていた。
平泳ぎが一〇〇メートル以上の者は『黒帽子組』、五〇メートル以上だと『白帽子組』、そして五〇メートル未満は『黄色帽子組』と組の名前どおりの水泳帽子を渡されていた。
黄色は別名『ひよこ組』
泳げないひよこである。
そういう訳で風子とサーシャ、それに次郎や幸子は黒い帽子、緑は白い帽子を被っていた。
ちなみに大吉は黄色帽子である。
「泳げねえもんは泳げねーし」
大吉は開き直ってそんなことを言っている。
「なんで、陸軍なのに泳げねえーといけないんだ」
ぶうくれ大吉。
そんな彼の後ろに影。
「大吉……後ろ」
晶が怖い顔をして立っていた。
次郎が怯えた顔をで忠告するが、もはや時すでに遅しであった。
ぎぎぎぎ。
晶のヘッドロック。
容赦なく彼の頭を絞る。
「血を吐くような特訓で泳げるようにしてあげるから、覚悟しなさい」
そんなことを言って、晶は脅しているつもりだから性質が悪い。
とにかく鈍感である。
その証拠に、ヘッドロックをかけられた大吉は「痛いっす痛いっす」と言いながらも、顔を赤くして前屈みであった。
彼が彼女のあれを頭で感じることはこれで二回目。
大吉、痛いし気持ちいし思春期大爆発であった。
ただ、数人の男子と女子はその光景を見て、冷たい視線を向けていることは言うまでもない。特に、東からの留学生である幸子は極寒の視線を送っていた。
そんな大吉の幸せな時間、その横で、風子は勇気を振り絞ってサーシャに近づこうと声をかけていた。
「さすが、サーシャはなんでもできるね」
と、褒めてみる。
「うん」
返事がそれだけだったサーシャに対し、風子は戸惑いを覚えた。なぜなら、いつもの彼女ならばもっと余計なことを言うのだ。
高飛車に。
――帝国貴族にとっては、こんなものお遊びでしかない。
――水泳なんてゲイデン家では乳幼児からやっている。
そう切り捨てて、最後に興味なさそうな顔をしてこんなことを言う。
――こんなくだらないこと早く終わって、もっとレベルの高いことないのかな。
そういう反応を予想していた風子は、サーシャは具合でも悪いんじゃないかと思った。
サーシャってけっこう重い方だったかも……と、少し心配になる。
彼女はもう一度声をかけようと思ったが、もう話しかける雰囲気ではなかった。
どうも、サーシャは避けている感じがしたからだ。
そうして、彼女は何かサーシャの気に障ることを言ってしまったんじゃないのか、と記憶を探りながら悶々とした。
少し近づこうと思った直後のことだからなおさらである。
「それでは泳力素養を確認する、その前に水慣れをするので、私の統制に従いなさい」
鈴は大きな声でそう指示した。
風子は悶々としたものに包まれたまま、プールサイドに向かう。
「足をつけてー」
全員でプールサイドに座って足を水につけた。
サーシャがビクッと体を震わせたのを風子は見てしまった。
「体に水をしっかりかけて」
ばしゃばしゃ。
子供のように水を胸にかける。
「冷めてー」
「やべー」
大吉がはしゃいでいる。
「やかましいわっ」
綾部がバケツに入れた水をはしゃぐ大吉に頭からぶちまけた。そんな彼は怒声を浴びせているが、どこか楽しそうである。
「お腹までつかってー」
どぼどぼーん。
一斉に学生が水に入った。
「ひゃっほい」
そんな声を出すのは緑。
白い帽子を被った彼女は海のある街で育ったけど、泳ぎはあまり得意ではないということを言っていた。
それにしても、緑。
ずいぶんと印象が変わったと、風子は思うのだ。
だが、そんな声を出す気持ちもわかる。
水が冷たいのだ。
いっしょに入った鈴さえも、鳥肌が立っている。
「はい、肩までー」
ううっとうなりながら風子は肩まで水に入った。
鳥肌が立ち、体のいろんな部位が硬くなるのがわかる。
「顔をつけてー」
風子は水中に頭から潜る。そして顔を上げると、サーシャが一生懸命顔についた水を拭っていた。
彼女のそんな姿に違和感を感じたが、風子は話しかけられずにいた。
風子は泳ぎが得意である。
海が目の前にある舞鶴で育ったというのもある。
そういうことで、もちろん素養テストの結果は合格だった。
「きれいな泳ぎ方だなあ」
と、綾部軍曹は彼女を褒めるぐらいだった。
――この人、褒めるときは真面目な顔をするんだ。
そう、彼女は思った。
そんな風子が、耳に入った水をトントンしながらプールサイドを歩いていると、サーシャがプールに入っていた。
「次、ゲイデン」
晶が紙バサミに挟んだ名簿を見ながら、鋭い口調で指示をする。
「ゲイデン行きます」
その時だった。
サーシャがゴーグル越しに目をつぶったのを風子は見てしまった。
すごく嫌な予感がした。
サーシャが壁を蹴る。
ばちゃん。
ぎくしゃくした水の弾く音。
ばしゃばしゃばしゃ。
彼女は平泳ぎではなかった。
バタ足。
しかも、水しぶきが高いバタ足。
「ゲイデン不合格」
晶はばっさり切り捨てるようにそう宣言した。
だが、彼女はバタ足を続ける。
息継ぎはない。
サーシャは下半身と上半身、それらがまったく連動していない動きで顔を上げた。必死な彼女の表情が見える。
なんとか息継ぎをしているようなので風子は安堵した。
「ゲイデン! 止まれ! それ以上は進むと足がつかない、やめなさい!」
晶がすぐに不合格と宣言したのはこのためだった。
中央部にいくと足が届かないプールなのだ。
「止まれ!」
晶がもう一度大声を出すが彼女は止まらなかった。
制止を無視するような形でサーシャが必死に泳ぐ。そして、ちょうどプールの真ん中にいったころだった。
酸欠と恐怖のせいだろうか左右の手足がばらばらに動きだす。
彼女は顔を上げ、必死に息を吸おうとした。だが、ちょっとした波で顔に水がかかり、ゴホゴホと咳き込んでしまう。
体が完全に立っいた。
浮くのが必死な状態で彼女はもがきはじめる。
「浮き輪!」
綾部軍曹がオレンジ色の浮き輪をプールに投げ入れる。それでも、パニックになったサーシャは掴むことができなかった、いや、しようともしなかった。
その時だ。
紙バサミが地面に落ちる音が響いたのは。
晶だった。
彼女の飛び込みはきれいな曲線だった。
彼女はまるで水面に吸い込まれるようにして水の中に潜り込み、無駄のない動きでサーシャに接近した。
浮き輪を抱え、暴れるサーシャを後ろから羽交い絞めにするようにして抱え込む。そして、そのままプールサイドに押し込んだ。
プールサイド付近には高さ一三〇㎝になるような台がひかれている。
サーシャはそれになんとか足をつけれる場所まで引きづられ、そこに足を乗せることができた。すると、彼女は激しく咳きこみ、それから水を吐き出した。
風子が彼女に駆け寄る。
彼女は肩で息をしながら、水面からプールサイドに這うようにして上半身を上げた。
「サーシャ……」
大丈夫?
そう風子は言おうとしたが、涙と鼻水でベタベタ、いつもの余裕の表情はなく、代わりにクシャッとなった彼女の顔を見てしまったため何も言えなくなっていた。
それはあまりに、いつもと違う彼女だったからだ。
見てはいけないものを見てしまった気分になってしまった。
その後、サーシャはもう一度テストを受けるために泳ごうとしたが晶に止められた。そして、彼女は厳しく叱られた。
「溺れるということをバカにするな、下手をすれば助けに入った人間も溺れる、ゲイデンの無駄なプライドで危険を冒すことは間違っている」
サーシャは晶を睨むようにして見上げた。
「ゲイデン家の人間は……」
抗議しようと口を開く。
「泳げねえならさっさと黄色にいけよ」
「ばっかじゃねえの、待ってるこっちは寒ーから勘弁してくれよ」
「こんなところでわがままとか意味わかんない」
一部の男女がぶつぶつ言い出した。
意地になっているサーシャ。
そんな彼女の腕を引っ張る手があった。
「サーシャ……」
嫌われるかもしれないと風子は思った。でも、放ってはおけなかった。
誰かが意固地になっているサーシャを解さないといけないと思ったからだ。
彼女は同期の一部からぶつぶつ言う声が聞こえた時、そんなんじゃないと思った。
腕を捕まれ、後ろを振り向いたサーシャは風子と目があう。すると、彼女は目を伏せた。それは、どことなく恥ずかしいような安堵したような表情だった。
誰かが止めてくれるのを待っていたのかもしれない。
――ゲイデン家の子女は、何事も勝っていなければならない。
そう言われ続けてきた彼女は、友達に止めてもらわなければ引けない状況だったのだ。風子に腕を引かれたまましばらく歩き、そしてキッと涙目で見上げた。
「……」
安堵と羞恥が混ざった表情のサーシャ。
申し訳なさそうに瞬きをする風子。
サーシャは目を伏せるようにして頭を下げ、そして黄色帽子が集まっている方向に向かっていった。
――嫌われた、かな。
風子はどこまでも不器用な自分に対してなんとなく諦めたような、情けない気分になった。
――結局、中学生のころと同じ失敗しちゃうんだから……。
また、でしゃばってしまったと思った。
そんな風に、彼女はどっかり凹んでしまった。
その日の夜。
風子は同部屋の先輩である純子に今日の話をしていた。
何かを訴えうるわけではない。
わけのわからない不安感を和らげたかっただけなのだ。
「サーシャちゃんとふーこちゃんはいい友達だね」
純子は話を聞いた後にそう言った。
風子は訝しげな目をする。
「だって、ふーこちゃんは友達だと思っているんでしょ」
「友達……というか、なりたいというか」
「うん、ふーこちゃんが友達になりたいと思ってあの子の腕を握ったんだから二人は友達なんだよ、わたしはね、友達っていうのは片方が歩み寄って、そして、何か心に触れた時点で友達というのが成立するものだと思ってる」
お母さんのような口調でゆっくりと純子は風子に言った。
コンコン。
部屋がノックされる。
「どーぞー」
純子が返事をする。
「サーシャ・ゲイデンです、ふーこはいますか?」
ダサジャー姿のサーシャが、少しだけ開けたドアから顔を覗かせる。
「いるよ、サーシャちゃんだって、ふーこちゃん」
純子がニヤニヤしながら風子を見た。
「えっと……」
風子は言葉がでない。
一瞬だが微妙な空気が流れる。
だが、その空気を壊したのはサーシャだった。
「ちょっと、相談したい」
彼女には珍しく、遠慮がちな口調だった。
「うん」
風子はそう答えた。そして、立ち上がる。
「いってこい、若人」
満面の笑みの純子はそう言って二人に手を振った。
自販機の前にあるベンチに座った二人。
「泳ぎを、教えて」
サーシャは目を伏せたまま、小さな声で話始めた。
「副官に言われた」
晶は叱った後のケアも含めて、サーシャを呼び出して話をしていた。
「友達に頼りなさいって」
風子の目が、驚いたふうに少し開く。
「私は日本人に勝てって言われてここに来た」
「うん」
「うまくできることが勝ちだと思っていた」
サーシャの手が膝の上で少し震えている。
「でも、軽歩は下手だし泳げないし」
「他は何でもできてると思うけど」
「全部じゃないから」
「全部じゃないといけないの?」
「私は兄や弟に全部負けているから、ゲイデン家の落ちこぼれだから」
「だから?」
「だから、ここでは全部勝たないといけない」
「変なの」
「うん」
「……ねえ、だれもサーシャに対して勝った負けたなんて思ってないよ」
サーシャは一息置く。膝の上にある手をぎゅっと握った。
「副官に『サーシャはもっと素直になりなさい、同級生を頼りなさい』って言われた……『自意識過剰』だって」
「うん」
「ねえ、ふーこ」
彼女は顔を上げ、じっと風子を見つめる。
「頼ってもいい?」
純子さんが言った通りだと風子は思った。
歩み寄れば。
心を開いておけば、そこに入っていける。そこに入って来てくれると。
――自意識過剰。
昼間次郎に感じていたもの。
無駄なそれ。
――サーシャは今、さよならできたんだ……でも、私はできていない、副官みたいに大人になれば消えるのか……純子さんみたいに三年生になれば消せるのか。
それこそ自意識過剰の無駄な悩みなのかもしれない、と風子は思う。
「頼ってよ、ふーこさんに任せて」
胸を張ってどんっと左手で叩く。
「ふーこっ」
がしっとサーシャが抱きつく。
照れくさいというかうれしいというか。そして、自分でいいのかなという恥ずかしさと不安。
風子は今自分がどんな表情をしているのか。
鏡を見たいと思った。




