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陸軍少年学校物語  作者: 崎ちよ
第4章  文月「夏だ!海だ!訓練だ!」
24/81

第24話「お風呂の花子さんと風子さん」

 仲居の格好をした男は竹箒の様な凶器を振りかざし、サーシャに詰め寄っていた。

 誰よりも冷静で、誰よりも自分を捨てている、そんな男。

 右手にナイフが突き刺さり負傷している手。

 それをまったく気にもしていない動き。

 無表情。

 それに対し、彼女はひるむことなく横にステップを踏んだ。

 だが、男の動きから逃れるほどのスピードは出せない。

 そういう生業(なりわい)のプロフェッショナル。

 彼女はギッと歯を食いしばる。

 それでも怯えることもなく、目を見開き相手の攻撃の軌道を読もうと神経を集中させている。

 ナイフが彼女の鼻先をかすめようとした瞬間、銃声が響いた。

 


■□■□■



 女子学生用の大浴場。

 年季の入った古い建物。

 浴場はところどころタイルが剥げ、シャワーは目詰まりしてる。

 お世辞にも清潔感漂う場所とは言えない。

 それでも、学生たちが入れる大浴場はここしかないので、しかたなく入っている。

 慣れればなんということもない。

 綺麗だろうが汚かろうが、風呂は風呂である。

 それは風子も同じだった。

 彼女は浴場でいつものように、髪を濡らしシャンプーを始める。

 学校に入ったばかりのころは毎日大浴場で裸のお付き合いをすることに対して抵抗があった。

 もちろん今はない。

 おずおずと脱衣所から浴場までタオルで隠していた頃が懐かしいぐらいだ。

 今は足を伸ばして、先輩たちとおバカな話をしながら、ゆったりと入浴できるこの時間はなくてはならないものだった。

 今日も同じ部屋の先輩である純子、そしてユキといっしょに入浴。

 風子はショートカットの髪を泡立て丁寧に撫でていると、いつもの気配を感じていた。

 ――凝りもせず……。

 彼女はぎゅっとぎゅっと髪の毛の端をつまんで、シャンプーの泡が目に入らないようにする。そして、首をぐるんとまわすと同時にクワッと目を見開いて純子の方を振り向く。

「先輩、永遠のシャンプーしようとしましたね」

 永遠のシャンプー。

 髪を洗い流す時、ひたすら上から隣の人がシャンプーをかけることで、いつまでも泡が残ってしまうという技である。

 若い一年生がやるようなイタズラ。

「な、何言ってるの?」

 純子は音を立ててそれがバレないように、わざわざプッシュ式のシャンプーを別の容器に入れ換えるほど周到に準備していた。

 それがまさか、やる前からばれてしまうとは。

 ――いや、まさかそんなはずはない。

 純子は風子の頭に向けていたシャンプーを横に振り出す。

 クラシックコンサートの指揮者の真似らしい。

 有名そうな曲っぽいメロディ、そしてちょっとテンポが違う鼻歌も奏でるから間抜である。

「先輩、ばればれですから」

 そう風子が頭を泡だらけにしながら抗議すると、純子は深いため息をついた。

「最近、ふーこちゃんがツンツンしているのは、先輩としていかがなものかと思うんだな」

 しょうがないから説教モード。

 先輩というものは面倒くさい生き物である。

 そんな純子の言葉に反応したのはユキ。

「でもこの前は、一年のアノ男子とデレデレしていました」

 ユキはそんなことを言いながら、体をゴシゴシ洗っている。

 泡だらけになったその体のたわわな胸が揺れるから、風子は目のやりばに困った。

「そりゃーツンツンふーこちゃんがデレデレしちゃったら、男はコロリでしょ」

 ユキの言葉に被せる純子はなんとなくおっさん臭い。

「いっちゃいません」

 風子は強い口調で否定すると、髪の毛を猛烈な勢いで洗い流し『ぶるるる』と犬のように髪の水気を払った。

 威嚇。

「そんなことよりも、そのユキさんのおっぱいの方がけしからんと思うんですが」

 と、風子が反撃。

「そうかなー、男の人寄ってこないし、なんつーか邪魔?」

 と余裕の返答をするユキ。

 風子は自分の胸と見比べて、むぐぐとほぞを噛んだ。

「ふーこちゃん」

 ふふふと笑いながらユキが手を伸ばして肩から背中にかけて指でなぞってきた。

「うひゃいっ」

「このすべすべした若いお肌はうらやましいわ、ほんと歳なんかとるものじゃ……」

 長崎ユキ、十七歳。

 今の言葉を聞いたら、真田鈴も日之出晶といった教官も怒り狂うような言葉である。

「それよりやばいのはこの二の腕ですよ、嫌でも鍛えられるから、最近ムキムキに」

 そう言いながら力こぶをぐいっと作る。

 確かに毎日の腕立て伏せのお陰で、無駄な肉がだいぶなくなり引き締まっていた。

「ほうほう、どれどれ」

 そう言いながらニヤケつつ風子の二の腕に手を置く純子。

 風子は嫌な予感がしたが、もう時すでに遅しだった。

「うひゃうっ」

 つい、変な声を出してしまった。

 鳥肌総立ち。

「うーん、まだまだ鍛え方だ足らないなあ、クーパー靭帯もっと鍛えて、ふくらませて、もんで、柔らかかくしないと」

「じゅじゅじゅじゅ純子さん、どこ触ってるんですか?!」

「おっぱい」

「二の腕です、二の腕の話です」

「成長するから、うん、大丈夫」

 風子は自分の母親が言っていた言葉を思い出していた。

 ――男には気をつけなさい、いーい、男は童貞もヤリ男も関係なく女がおっぱいは触られると気持ちよくなるもんだって思い込んでる勘違い野郎が大半だから。

 ――ちゃんと「気持ち悪い」っていってやりなさい

 と言っていた。

 風子の母親は男性不信になるような性教育ばかりをしていた。

 よく、あんな母親で対男子恐怖症にならなかったものだと、風子は自分を褒めたくなるぐらいに。

 ――そういう気分とそういうシチュエーションになって初めて気持ちよくなるものなの、男はエッチな本や動画の見すぎで、料理とか、家事とかしているところに現れてはおっぱい触ることがスキンシップだとか、それで感じさせているとか勘違いしているのが多いから、しっかりと「気持ち悪い、触るな、こっちはお前の相手してる暇はない」って言う。

 ――とくに先っちょを摘もうとするような奴がいたら、逆に男のアレをぎゅっと摘み返せばいい、そうしたら気持ちがわかってもらえるから。

 だが、今もみもみしている人は女子である。

 さきっちょはない。

「せ、先輩、も、もう、わたし……」

 涙目で抗議する風子

「ごめん、言い過ぎた」

「どちらかと言うと触りすぎですよ純子さん」

 ツッコミをいれるユキ。

 純子はさっきにも増してニタニタしながら胸を張って言った。

「ふーこ……オレのテクがそんなによかったのかい?」

「よくありません」

 風子はやや大きい声で言い返す。

「大丈夫、前に言ったかもしれないけど、何もしなくても大きくなったから」

 ユキはフォローするつもりでそう言った。

 風子にとっては余計なお世話である。

「ちっ、先輩よりも大きくなりやがって、一生肩こりに悩ませられちまえばいいんだよ……ちくせう」

 やさぐれた嫉妬心の赴くままに純子は発言した。

「もう、気づいたときにはこのぐらいだったから、慣れました」

 にっこり笑顔で返すユキである。

「タレちまえっ!」

 純子は怨嗟の言葉を放つが、むなしく水音にかき消されていった。

 体を洗い終わり三人は同じタイミングで湯船に向かった。一応、ユキも風子も先輩である純子のタイミングに合わせているから、自然とそうなるのだ。

 ところどころ青色のタイルがはげている湯船。

 三人は湯船につかって、のびのびとしていた。

「あのね……ふーこちゃんがアレだから言う話じゃないんだけど……『お風呂の花子』さんって知っている」

 そんな話を始めたのは純子、さっそく夏の風物詩である。

 が、その便所に住み込んで居そうな誰かさんの名前を風呂で聞くと、なんとも間が抜けているものである。

「あー、あの、夜誰もいないお風呂で遭遇するアレですよね」

 とユキが頷く。

「ここの話なんだけど……脱衣所に胸パットが片方だけ落ちていて、それを見てしまったら、女の子の幽霊が」

 純子は続ける。

「もう片方の胸パットを探し続けて成仏できない幽霊」

「はい、質問いいですか?」

 手を挙げる風子。

「何、ふーこちゃん、いいわ、なんでもお聞き」

 なぜか女子教師モード――純子の中の女子教師、お風呂の淵に座って足を組んでいる――で返す。

「なんで、幽霊になったんですかね、その子」

「わからない、でもとても無駄な理由だと思う」

「なんで、胸パットを探してさまよう幽霊の話をするんですかね」

「わからない、でもとても些細な理由だと思う」

「なんで、私の胸をさっきからチラチラみるんですかね」

「心配なのよ、先輩として」

「……」

「もし、ふーこちゃんがお風呂で滑って転んで死んじゃって、間違ってお風呂の花子さんみたいな幽霊になって、私たちみたいな『ある』方に恨み持つ子になったらどうしようかと思って……祟っても意味ないよーって伝えたくて」

 と、純子は真剣な顔で言っている。そして、彼女は自分よりも『ある』ユキの胸に手を伸ばした。

「痴女」

 ユキは慣れた手つきで純子の手を、チョップで払う。

 そんな動作でいちいちバイーンとなるものだから、風子は目を細くするしかない。

 まったく嫌味な胸だと、ため息をつきながら思うのである。

 思春期。

 いちいち、身体の事に関しては無い物ねだりである。

 ――ああ、恨みたい、祟りたい。

 風子は頭の中でそんな風に唸っていた。



 次の日、風子はダサジャーにデッキブラシとほうきを肩に担いで、浴場の脱衣所に立っていた。

 浴場清掃。

 入浴時間帯とは対照的に、しーんとした空気。

 扉をギシギシいわせながら押すようにして開き、靴を脱いで、裸足になって脱衣所に入る。

 電気のスイッチを探そうとするが、暗くてどこにあるのかよくわからない。

 非常口を示した緑色の電灯だけが照らす暗い脱衣所。

 彼女はスイッチを探そうと、ぺたぺたと歩いていた。

 ふと、足元にやわらかい感触があることに気づく。

 彼女が屈んでみると片方だけの胸パットが落ちていた。

 ――凝りもせず……。

 彼女は大きなため息をついた。

 きょろきょろと、そこら辺に隠れていると思われる純子とユキの気配を探る。

 ジャバッ……ジャバ、チャプン。

 脱衣所の先、閉じた摺りガラスでできたドア向こうにある浴場から湯をかける音が聞えた。

 よく見ると、浴場内は一箇所だけ電灯がついている。

 ――やけに、準備がいいな。

 永遠のシャンプーでわざわざ容器を入れ替えるぐらいの人である。

 こんなことは朝飯前だろうと風子は思った。

 だいたいいつも一緒に掃除にくる人たちなのに、昨日の今日で「ごめん、一人で掃除行ってきて」である。

 いたずら以外、何があるというのだろうか。

 しかし、風子もオトコギのある女子である。

 ――しょうがない、のってやろうじゃないの! 風子さんはそういうの好きよ。

 という意気込みである。

 浴場のドアはスルスルと開いた。

 湯気が立ち込めている。

 だが、冷たい湯気だと風子は思った。

 ――ドッキリだって、ドッキリだって。

 心臓がバクバクしてきた。

 かぽーん。

 洗面器がタイルにぶつかる音。

 風子は目を凝らして湯気の置くの人影を見る。

 薄暗い蛍光灯の先。

 一瞬、男の子かと思った。

 身体が細い。そして、胸はちょっとだけ膨らんでいるように見えた。もちろん、髪の毛が顔にかかっているため、それが誰かはわからないが。

 ぱちぱちっと薄暗い蛍光灯が瞬いて、消えた。

 人の気配、人が近づく気配を風子は感じた。

 体の芯がゾクゾクっとする。

 ――怖い! 怖いっ!

 声も出さずに彼女は、全力で建物の外まで裸足で逃げ出した。

 さすがに裸足だと、アスファルトは痛い。

 ――何、ドッキリでしょ、まだ出てこないの?

 心臓をばくばくいわせながら、風子は浴場の入り口を見ている。

 次の瞬間ガラガラと扉が開き、心臓は更に高鳴る。

「ふえっ」

 風子は変な声を出してしまった。

 首にタオル、水色の長袖Tシャツに青いジャージの女性だった。

「あ」

 彼女は声を出した。

 よく知っている女性だったから。

「あ、ごめんなさい……掃除当番ね、本当はこの時間に入ってはいけない規則なんだけど」

「は、はい」

 副官の日之出中尉()だった。

「更衣室のシャワーが壊れていて」

「え、ええ」

 晶はユキといい勝負のバイーンな体――風子視線――をしている女性である。

「トレーニングの後に、汗が流せなくて」

 風子の頭の中はの映像は、脱衣所に落ちていた胸パットが晶の左右でぷかぷかと浮かんでる。

「ごめんね、学生にこんなこといったらいけないと思うんだけど、お風呂入ってたことは……その……他の人に言わないで……お願い」

 このこと、とは。

 風子の中で疑問符が浮かぶ。

 ――胸パット!

 そして、疑問が消えた。

 ――そうか! そーか! なるほど! だからあんなに大きくて形が綺麗なのか! しかも、ばれないように一人で入っていたのか! 同志よ! お気持ちはわかります!

「そんなこと言うわけありません、女子ならお気持ちわかります(胸パットが)」

「ありがとう、気持ち(汗をかいたらシャワー浴びたい)をわかってくれて」

 風子はどんっと胸を叩いた。

 緩衝材が少ない分、いい音がした。

 ここにも悩める人がいた。

 風子はなんだかうれしくなってデッキブラシを持って掃除に戻っていった。



 次の日。

 また、三人でお風呂である。

「純子さんばればれです」

 シャンプーを手にもって、今にもかけようとする態勢の純子は笑顔のまま固まった。

「なんだか、私のかわいい可愛いふーこちゃんが、全然可愛くなくなってきた気がする」

 純子はそう言いながらお決まりの二の腕もみもみを始める。

「ああ、この前まで中学生だった子はお肌のすべすべ感が違うー、もう、ぱさぱさしてきちゃった私なんかとは全然違う、ハリ、コシ、うらやましい! 妬ましい!」

 モニモニモニ。

「あれ、副官と真田中尉じゃないですか?」

 ユキはそう言って湯船の方に目をやる。

 確かに視線の先には日之出晶と真田鈴の女性教官ふたりがいる。

「あー、なんか教官達のシャワー壊れているって聞いてますから、お風呂に来たんじゃないで……えっ」

 はっと気づく風子。

 ――副官、いかんでしょう! あのパット胸がばれます……もしかして、か、カミングアウトですか? いや、それだったら……応援しますが。

「ねえ、ユキといい勝負なんじゃない?」

「はあ、まあわたしの方が肩コリは酷そうですが」

「ユキ、大きければいいというわけじゃーないんだよ」

「はい、純子さんみたいな、手のひらサイズがいいと思います、日常生活にもってこい、うらやましいと思います」

 ふふっとユキさんが顔を下げた。

 少し陰のある表情だった。

「もう……アホな男どもがチラチラ人の胸見るのがウザくてキモくて、下手に前かがみだってできないんですよ……うらやましいですよ、見られないっていうのは……」

 何か黒いものを出しているユキ。

「なんかむかつくっ! クーパー切れて早く垂れちまえっ!」

 と、純子は怒りをユキに向けた。

 このくらいの言い合いはいつものパターンである。

「行く?」

 ばしゃーんと、洗面器のお湯を頭からかぶり、純子は立ち上がった。

「ふふふ、三十路女と十代、その格の違いをしっかり見届けてやる、勝負は肌年齢」

 晶も鈴も三十は超えていない。まだほんの少し猶予がある。

 ある程度、二人に近づくと、純子が固まった。

「や、やられた」

 純子は小声でぶつぶ言いながら、卒倒しそうな勢いで膝をガクガク震わしている。慌てて風子とユキが彼女を支えた。

「ど、どうしたんですか、せ、せんぱっぶっ」

 ふきだす風子。

 レディーにあるまじき行為だが、口から体液がぶっとんだ。

 それくらいびっくりした。

 おっぱいがついているのだ。

 あの日見た、小ぶりなものとは違うものだった。

 風子は思考をめぐらす。

 胸パットのことは黙っててねと言われた……間違いない、短期間に成長はしない、ありえない。

 豊胸手術……昨日の今日である、そんなことはありえない。

 いや、人類はどんどん進化している。

 もしかしたら、一日でできる、そんな豊胸手術もあるかもしれない、と彼女は納得することにした。

 そうしないと、あの胸パットの理由が説明できないからだ。

 三分経過。

 ちーん。

「んなわけねーだろ!」

 不意に風子は頭の中のごちゃごちゃしたものを吐き出すように、風呂場で叫び声を上げてしまった。

 慌てて風子の口を塞ぐ、純子とユキ。

「だ、だだだだって、おっぱいがあるんですよ」

 と風子は意味不明な言葉を吐く。

 半狂乱状態とはこのことを言う。

 そんな風子は先輩二人にずるずると引っ張られながら、その場を離脱させられた。

 ショック。

 同志を失った、それは計り知れない心の痛みだった。  


 

 結局、あのパット何だったのか。

 風子は二人の先輩に事の顛末(テンマツ)を話すことにした。

「これは、ホラーね」

 と、純子が不気味に笑うと、電気を消しローソクに火を灯した。

 夏なのに、毛布を被る三人。

「で、毛布をかぶる意味はあるんですか?」

 ユキが冷静にツッコミを入れる。

「こういうときは雰囲気が大切なの」

「暑すぎます」

「ユキ、あんた脂肪の塊を垂らしているからいけないのよ、減らしたまえ」

 純子はひどいことをさらりと言った。

「で、結局パットの所有者は副官じゃなかった」

 純子が本題に入るので風子はうなずいた。

「お風呂に女の子はいた」

「はい」

「でた」

「え?」

「それは、でたのよ」

「へ?」

「ユキ、ふーこ行くよ」

「えええっ、どこに」

「そりゃ決まってるわ」

 毛布をバサっと取り払い、ベットの上に仁王立ちになる純子。

「いざ、風呂へ!」

 と叫んび腕を組んだまま「悪霊ー退散!」と叫んだ。

 ノリノリである。



 時間は消灯前。

 静かな浴場。

「ごめんね、先輩のくせして申し訳ないけど、あそこ、あそこの浴場は結界が貼られていて、私みたいな霊感の強い人間は、近づけな……い」

 息を荒くしながらそんな雰囲気を演技する純子。

「……私、嫉妬されて殺されるに決まっているから」

 とユキも動こうとしない。

 ひどいと思いながらも、風子は一人で浴場に入ることにした。

 だってしょうがないじゃないか。

「危なくなったら、外に出て、きゃーっていっても中に入らないからね」

 彼女はその場所に入った瞬間、異様な雰囲気をひしひしと感じた。

 靴を脱いで、揃えようと屈んでも背中がぞくぞくしてしまう。

 見られてる感覚がねっとりまとわり付いてくるのだ。

 彼女は脱衣所へ向かった。

 戦闘モード、彼女は気合を入れて、タンクトップに短パンという格好だった。

「あった……」

 一人が心細いのも手伝って、声が出てしまう。

 胸パットが片方だけ。

 彼女はそれを手に取ってみた。

 ひんやりしたそれは、この前のものと同じだと確信した。

 浴場のドアを見る。

 ガラス越しに、あの時と同じ、ほの暗い蛍光灯を確認する。

 彼女は勇気を振り絞り、右手でほうきをぎゅっと握りしめたまま、浴場のドアに手をかける。

 中から水の流れる音が聞こえた。

 確実に人がいることを確信する。

「誰か……います……かー」

 彼女は力強い声を出そうとしたのに、か細いものしかでなかった。

 シャーというシャワーの音。

「入り……ますよー」

 あの影。

 ――あっ。

 振り向いていた。

 おかっぱ頭。

 前髪が顔に貼り付いて、表情が見えない。

 口元がかすかに動いている。

「あ、の、もう、消灯なんで……」

 風子自身も、自分が何を言っているのかわからないぐらい、緊張していた。

 心臓がドックンドックンなって痛い。

「あ……れ、いない」

 風子はさっきまでいた場所を見ていたにも関わらず、いつのまにかおかっぱの女子はいなくなっていた。

 ギギ。

 ドアが軋む音。

 その時だった、蛍光灯が点滅して消えたのは。

 蛍光灯が一本だけ、ぱっ、ぱっと弱々しい点滅を繰り返している。

 彼女は息が苦しくなる。

 目の前に、パンツだけ履いた女の子が立っていたからだ。

 間違いない、目の前の女の子はさっきの子だと風子の直感がそう言った。

 体が動かない。

 濡れた髪の毛が顔面を隠していて、表情は見えなかった。

 かすかに動く口元。

 彼女の体がやっと動く、一歩だけ後ずさりした。

 ――うわああ!

 恐怖の叫び声を上げたかったが、声にならなかった。

 ひんやりしたものが風子の肩に乗ったからだ。

 振り返ることもできず固まる。

 小さい手が肩の上にあった。

 すすすと動く。

 その両手は彼女が身につけているブラ一体型のタンクトップと胸の間にすべりこむ。

 抵抗しようにも体が動かない。そして、その胸と下着の間もスカスカの状態だったため、冷たい手が簡単に入ってしまった。

 もぞもぞ。

 冷たい吐息が風子の首にかかった。

 ――……よかった。

「へ?」

 お粗末な声が風子から出た。

 その瞬間、すーっと女の子の気配が消えた。

 ――な、何、今の。

 へなへなと座り込んだ彼女は精一杯考えている。

 ――今日はタンクトップ一体型のブラ……気に入ったものがあったけど、サイズがなかったから、しょうがなく大き目――B――を買った。だから、はたから見ればBカップ。

 ――で、花子さんは私のおっぱいを触る、そして「よかった」といって去った……確かに言った、よかったって言いやがった!

「ちくせう!」

 風子が唸る。

 こめかみに血管が浮いた。

 彼女は腹の底から沸き立つ感情を抑え切れなかった。

 ――わたしより小さい人がいてよかったです、だとおっ!

「花子ー! 貴様ぁー! 同志だと思ってたのに、勝ち逃げで成仏するとはいい度胸だ! ちくせう!」

 怒りまかせに立ち上がり地団駄を踏む。

「もう一回、化けて出てこいやあ! 幽霊だからって、容赦しねーぞゴラァ!」

 彼女は世の中の理不尽に対して、人類の一部を代表して叫んでいた。そして、決意するのだ。

 ――くそー! 化けて出てやる。

 と。

 それから中村風子は除霊師の称号を得ることになった。

 あの世的な事の相談のため、いろいろな人に声をかけられるというおまけつきで。

 まったく迷惑な話であった。






 男子学生用大浴場。

 上田次郎はため息をついていた。

 風呂掃除がだるいのだ。

 ふと、ここに来る前のことを思い出す。

「あのね、ジロー君」

 同部屋の先輩である潤がニヤニヤしながら話しかけていた。

「なんです、ジュンさん」

「ビガーパンツって知ってる?」

「知りません、知る必要もありません」

「お風呂の太郎君って知ってる?」

「知りません、知る必要もありません」

「アレのちっちゃい幽霊が、お風呂でビガーパンツ探して彷徨っているって話だけど」

「へー、怖いですねー」

「ちっちゃい人にでるらしいよ」

 あまりのアホ臭さに、彼は浴場を前にしても緊張も何もなかった。

 脱衣所の非常灯を頼りに電気のスイッチを探す。

 だが、なかなか見つからない。

 早く掃除を終わらせて帰りたい彼は、ため息をついた。

 非常口の明かりだけで照らされた地面に何かが落ちているのを発見する。

 黒いボクサーパンツ。

 とりあえず、人の脱いだ下着であるため――もし使用前なら、その人は今頃ノーパンになるから、忘れるはずがない――それをトングで摘もうと思った。

 トングは道具棚の中である。

 彼はそれを探すために浴場に入ろうとした。

 ふと見ると、パツパツと今にも消えそうに点滅する蛍光灯が、ほのかに明かりを照らしている。

 そして、彼はゆっくりと、ドアを、開いた。

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